ドイツ編約12時間のフライトを終え、俺たちはフランクフルト空港に降り立った。
「グーテンモルゲン!」
「グーテンモルゲン♡」
そうリョーガが笑いかければ、空港を歩いていた女性たちは、はしゃぐような笑顔でこちらに挨拶を返した。なんだか俺まで恥ずかしくなる。早く行くぞとリョーガの腕を引いて、ひとまずフライトで空いた腹を満たすために空港内のカフェに入った。
「最初は俺が通っていたというテニススクールに行くんですよね?」
「あぁ、でもここまでトラブルなくかなり順調だったから、約束してた時間より早く着いちまうな」
事前に連絡してある時間より早く着くのは迷惑だ。どこかで時間を潰した方がいいだろう。そんなことを考えていると、注文の列が進み俺たちの注文する番になった。リョーガがすぐになにか注文したため、とりあえず俺も同じものを注文する。すると、俺の記憶にあるもので例えれば、フランスパン程の大きさのサンドイッチが2つ、目の前に置かれた。その予想外の大きさに絶句している俺などお構い無しにリョーガは2つともを受け取り席へ歩いていってしまった。
「大きいな……」
「カッカッカッ!だいたいこんなもんだろ」
リョーガは口を大きく開いてサンドイッチを頬張った。真似して同じようにサンドイッチを頬張ったが、どうも上手く食べられない。
「口、ちっちゃいんだな」
「……あまり見ないでください」
羞恥で顔を隠すと、またリョーガはあの特徴的な笑い声を上げた。
***
地下鉄に乗り、人で賑わう駅で降りればそこが中央駅だった。
「こっから20分くらい歩いたところに宿とってある。バスでもいいけど……時間もあるし、観光がてら歩いていくか」
本当は観光が目的では無いが、時間が余っているのだから仕方がないと自分を納得させ、リョーガを先頭にして歩く。中央駅のまわりは俺たちと同じような旅行者も多く賑わっていた。東京とそこまで変わらない町並みかと思えば、少し遠く目をやれば、まるでミニチュアのような可愛らしい建物の群れも見える。おそらくあっちは市街地なのだろう。そして、建物の隙間からときどき川も見える。あれは多分、俺がここに留学していた時にランニングコースとして使っていたところではないか、なんて考えながら歩いていると急にリョーガが立ち止まった。いったいどうしたのかと見ると、リョーガはすぐそばにある建物を見つめていた。
「この建物がどうかしたんですか?」
「いや……ここ、ゲーテの生家だってさ」
ゲーテ?いったいなんなのか尋ねると、彼は有名な作家だと答えた。そして、何か日本語では無い言葉を口走る。
「__ゲーテの言葉、さ」
咄嗟に引用出来るほどの知見と歴史的な文豪に惹かれるような感性があったとは驚きである。そんなこと考えていると、彼は何故か少しだけホッとしたような顔をしてまた歩きだした。
ホテルにスーツケースを預けた俺たちは、約束している時間までフランクフルトの街を散策することにした。
「この川でよく俺はランニングをしていたらしい」
「ここら辺だと美術館とか色々あるのに、ここしか日記に書かれてねーの?」
「そういった余裕は無かったようですね。ドイツに居た時期はまだ日々のレッスンについていくだけで精一杯だったようから」
「流石ドイツだなぁ。スパルタだ」
そんな話をしながらマイン川沿いを歩く。平日の昼過ぎでもランニングや散歩目的と思わしき人々で賑わう川沿い。俺の日記に書かれていたような情景は未だに蘇ってこないが、俺を追い越していくランナーと風は俺の心を掻き乱した。
「走っていいか?」
「は?」
「いや……なんだか走りたいんです」
「好きにすれば?言っとくけど荷物は持ってやらねーぞ」
リョーガは理解出来ないと言うような顔をしていた。日本では家に籠っていたからか、踏み出した一歩は重い。おそらく、アスリートだったときより俺の運動能力は落ちているだろう。それでも、風は俺の頬を撫で、まるでとても早い速度で走れているかのように錯覚させてくれる。あぁ、日課としてここを走っていた俺は、この感覚が好きだったのかもしれない。
マイン川に沿うように伸びる道の単調な視覚情報は、俺の意識をただ走るという行為のみに集中させていった。そのときだった。左肩の方に何か衝撃が走った。転びそうになったところをそばの柵を掴んで持ちこたえた。
「Dieb(泥棒)!」
後方からリョーガの鋭い叫び声が聞こえた。慌てて見れば、2人乗りのバイクが走り去っていく。後ろに乗った男の手には俺が肩に背負っていた荷物があった。
スリだ!
慌てて後を追うが、人間の足とバイクでは勝敗は火を見るより明らかだった。どんどん距離を離されていく。もうダメかと思ったそのとき、バイクに向かって何かが飛んでいった。それはよく見ればそれはボストンバックだった。唐突な攻撃を受けたバイクはバランスを崩してそばに置いてあったプラッチックのゴミ箱に突っ込む。突然、そこにまるで猛獣かと見紛うような獰猛な雰囲気をたたえた金髪の青年が飛びかかり、スリが握っていた俺の荷物を掴んでひっぺがした。
バイクの男たちは金髪の男を振り払い逃げていく。そこでやっと追いつけた俺に、青年は顔を背け黙って荷物を突き出した。
「ありがとうございます」
そう礼を言った途端、急に青年はこちらを見て驚いたように目を見開いた。すると、目の前の青年の後ろから声がした。見れば後ろから短髪の男が近づいてき くるところだった。青年の反応からして、彼の連れなのだろう。
そのとき、息を弾ませ追いついてきたリョーガの声がした。
「エルマー・ジークフリート!ミハエル・ビスマルク!」
目の前の二人は反応してリョーガの方を見ると、顔を見合わせた。
***
あの後、警察が駆けつけてきて俺たちも事情を聞かれるはめになってしまった。やっと解放されてすぐ、俺たちはすぐに約束していたテニススクールに向かった。
「タネガシマから話しは聞いてるぜ。記憶喪失にスリなんて、お前もツイてないな」
「スリはこいつがボーッとしてたせいだろ」
リョーガの言葉に言い返すことも出来ず黙っていると、ビスマルクは笑った。
「しかし、せっかく来てくれたのにこっちの集まりが悪くて申し訳ないな。お前と顔合わせたことある奴らはまだ居るんだが、ボルクは月の環境に耐えるための訓練中だし(嘘)、Q,Pはマッシュポテトを極める修行中(嘘)。シュナイダーとベルティはフードファイトの旅に出ちまったし(嘘)フランケンシュタイナーは人間サイボーグとして世界中のサーカスに引っ張りだこ(嘘)。クニミツはエベレストとカンチェンジュンガ連続登頂に挑戦中だ(嘘)」
「そうなんですか……多忙な方々なんですね」
「記憶喪失の奴にそんな嘘言ったってわかんねーだろ、ビスマルク」
「え?嘘なんですか?」
「ハッハッハッ!」
ネットを張るためにハンドルを回していたジークフリートは呆れたように肩を竦めた。
「アイツらは今プロテニスプレイヤーとしてちょっと忙しいんだ」
「皆プロの方なんですね」
「一応俺らもプロ入りしてるんだぜ?ただ、今は事情があって公式戦は控えてるけどな」
「怪我ですか?」
「あ〜そういう訳ではなくてな……」
「ビスマルクの嫁さんの出産予定日が近いんだよ。ついでにダブルスパートナーの俺も調整中だ」
リョーガと俺が祝いの言葉を述べると、ビスマルクは少し気恥しげに頭をかいた。ちょうどそこでジークフリートがネットを張り終えた。
「よし、じゃあお前ら早くラケット持ってコート入れよ」
「え?」
リョーガも同じように困惑の声を上げた。
「あんたらのプレーを見せてくれとは言ったが、試合をしてくれなんて頼んだつもりはなかったんだけど」
「チッチッチッ、トクガワの印象に残ってるのは俺たちのダブルスのはずだ。試合は相手が居ないと出来ないぜ?」
「そりゃそーだけど」
「それに、お前らちゃんとラケット持ってきてるじゃねーか」
「え……」
ベンチに置いていた俺の荷物に視線をうつす。確かに俺はラケットを持ってきていた。テニスプレイヤーとしての記憶は無いのに、なぜか手放すことも預けることすら出来なかったラケット。
「やんねーのか?」
「……わかりました」
「しゃーねーな。どっちもブランクがあること、忘れないでくれよ?」
お互いラケットを持ち軽く体を動かしてからコートに入る。とは言ってもどこに立てば良いかすらわからない俺はリョーガに言われたところに立ち、見よう見まねでラケットを構えた。
ネットの向こう側で、ビスマルクがボールを宙に放った。
ドシュッ
気がつけばボールが俺の足元で跳ね、そのまま抜けていった。彼が持っていたカバンの重みを思い出す。悠々と近づいてきた彼に投擲されたカバンを手渡そうとしたときそれは予想以上に重く驚いた。あのカバンをあの速度と精度で投擲出来る彼の強肩から放たれる打球に生半可な気持ちで対応出来るはずが無かったのだ。
「15-0」
「__アンタはそれでいいさ。ひとまず怪我しないようにだけ気をつけとけ」
そう言ってリョーガは俺に端に立っているよう指示してからまたラケットを構えた。
再びビスマルクがサーブを放つ。傍から見たそれは、やはり凄まじい威力だ。
しかし、リョーガはそれを打ち返した。ラリーが始まる。2人から次々と放たれる打球にリョーガが食らいつく。目まぐるしいラリーの応酬にどうすれば良いかわからず立ちすくんでいると、俺の方にも打球が飛んできた。
思わず身がすくみ縮こまる。すると、俺とボールの間にリョーガが飛び出してきた。なんとか返球するも、相当無理な体勢だったためリョーガはそこでコートに膝をついた。
その隙をジークフリートは見逃してはくれない。
「っしゃあ!」
「30-0」
慌ててリョーガのそばに駆け寄る。彼は額に流れる大粒の汗を手で拭った。
「さっすがスパルタドイツ様だ。容赦ねーな」
「すみません。何も出来なくて……」
「気にすんなよ。仕方ねーさ」
「でも__」
このままやられっぱなしは癪に障る。
そう言うと、リョーガは少し驚いたような顔をしてから笑い声をあげた。
「俺も同じこと考えてたぜ。このままじゃあ終われねー。ちょっと耳貸せよ、いいこと教えてやる」
俺の耳に口を寄せてから、リョーガは離れていった。再びラケットを構え、ビスマルクのサーブに備える。
何がなんでもラケットにボールを当てる。それだけでいいのさ。
リョーガのアドバイス通り、それだけに集中する。跳ねたボールの軌道に無理やりラケットを差し入れば、ラケットに弾かれたボールは山なりの軌道を描き相手コートに落ちていった。
ラリーの始まりだ。ジークフリートは注意すべきはリョーガだけというように、俺に構うことなく彼を左右に走らせる。
「攻めなきゃ勝てないぜ?ジャパニーズ!」
「くっそ!」
俺の方に飛んでくるボールにも飛びつきリョーガは返球している。2人で連携し攻撃してくるドイツの2人に対して、リョーガは己の身一つ広いダブルスコートで防戦一方。圧倒的に不利だ。
「チッチッチッ、涙ぐましい献身だな?それをやってたのはトクガワの方だった気がするが……」
「結局はボルクに潰されてたよなぁ?敗北の味を思い出させてやるよ!」
ジークフリートのショットが飛ぶ。なんとかリョーガのラケットがそれを捉えるも、そのままバランスを崩してしまった。それをジークフリートは見逃さず、容赦なくリョーガと逆サイドに狙いを定めた。
くる!
そう思った瞬間にはもう、走り出していた。ジークフリートが吠える。
「__!テメェのヘボショットじゃあどんなにコースを読もうが無駄なんだよ!!」
ジークフリートは先回りしていた俺に少しだけ驚いたようだったが、構わずショットを放った。思った通りの位置で弾みこちらに向かってくるボール。
腕力だけに頼るんじゃない。回転を意識しろ。手は握らず力みすぎないように。体を沈ませ浮かぶ力を利用して回転をかけろ。体は開きすぎず閉じすぎず、力を逃さないように。
俺の声のような、誰かの声が混ざったような指示が頭の中に響く。
線が見えた。それをなぞるようにラケットを振れば、自然とラケットはボールをスイートスポットで捉えていた。
心地良い負荷。それが離れていき、気がつけば打球はジークフリートの真横を抜けコートを突き刺すように跳ねて後ろの壁に当たった。
「____」
「おい!トクガワ今の、思い出したのか!?」
信じられないと言うように棒立ちになったジークフリートを押し除けビスマルクがネットに駆け寄ってきた。
「い、いえ……今のは無意識で。記憶は……まだ駄目みたいです」
「そうか。そりゃ残念だ」
「でも……今までで1番しっくりきたというか……なんと言えばいいか」
「まぁ、これでわざわざ駆けつけて試合した甲斐があったか」
「はい。ビスマルクさん、ジークフリートさん、本当にありがとうございます」
「礼なんて別に」
「おい」
声がした方に顔を向けた。その揺らめきが見えてしまいそうな程の怒りを宿した瞳がこちらを突き刺した。
「まだ30-15だ。ゲームは終わってねぇぞ」
「……俺の相棒はこうなっちまうと制御が効かなくてな。もう少し付き合って貰えるか?」
__それから後の試合の記憶は眩い光だけだ。父親と向かいあったときの威圧感は息苦しさを感じるものだったが、コートの向こう側の青年が放つそれは目を逸らしたくなるような眩い威圧感。まるで彼自身が光り輝いているように錯覚するほどの圧。リョーガすら追いつけない程鋭い瞬きのようなショット。
それはタチの悪い白昼夢のようだった。
***
「じゃあ、プロスト!」
「プロ……?」
「日本語って乾杯って意味」
そう言って向かいに座ったリョーガは無理やり自分のグラスと俺とのを合わせた。
結局あのゲームで俺たちが取れたポイントは、ジークフリートの虚をついた俺のあの一打だけだった。彼らとの別れ際に、俺たちはビスマルクのおすすめするレストランを教えて貰った。観光のつもりで来たわけではないが、リョーガがいきたいとせがむので夕食はそこでとることにしたのだ。
「適当に頼んでくれと言いましたが、せめて酒を頼むなら一言了解を取るべきじゃないですか?しかも自分の飲み物はそれ、普通のオレンジジュースでしょう」
「俺酒苦手だし。いーじゃねーか。フランクフルトと言えばアップルワインだろ?」
「自分は飲めないくせによく言う……」
「ほらほらー、グィッと!」
なんだかジジ臭い物言いのリョーガに促され、重いジョッキを口に運んだ。芳醇な香りの割には後に引かない甘みで飲みやすく、油断すると気づかずかなりの量を飲んでしまいそうだ。
それに加えてどんどん運ばれてくる酒を進ませる塩辛いフランクフルトソーセージやマッシュポテト。飲み進めるごとにその輪郭を失っていく焦燥感と無力感。目の前でまたちょうどいいタイミングで杯を傾けるリョーガにもつられて、気がつけば6杯もグラスを空けていた。
そしてついには酔いで体を支える腕の力の入れ方も恥の感じ方すら忘れてしまった。酔いすぎだな、と笑い声がした。何やら日本語ではない会話が聞こえたかと思えば、少しすると腕を引き外に連れ出された。
途中足元がおぼつかない俺に肩を貸すのが億劫になったのか、リョーガは俺を半ば背負うように腕を体の前に回させた。リョーガのフードの中に顔を突っ込む形になる。
「外国の香りだ」
「何?」
俺の言葉にリョーガが立ち止まって、辺りを見回す気配がした。
「別に何も匂わないけど」
おかしな奴、とリョーガはまた進み始めた。
別に外国の香りと言ったって間違いではない。だってこの香りは日本を出たときからずっと隣にあったのだから。もうこれは外国の風の香りだ。きっとこれからリョーガの肌に顔を寄せる度に思うだろう。記憶をなくして拠り所を無くした枯葉の様な俺をどこまで運んでいってくれる風。そして俺はゆるゆると、とってある部屋のあるホテルへ運ばれていったのだった。