醒めない夢を見せて「鉄男PIZZAでーす!」
インターホン越しに、『はぁい』とくぐもった声が聞こえ、扉の向こうから色めく足音が幾つも近付いてくる。内側に開かれた扉から、母親とその後ろに纏わりつく子供がいち・にい・3人、蜜璃を出迎えた。
「ピザ来た来た」
「早く早く!」
「ちょっと貴方たち落ち着きなさい」
母親は子供たちをたしなめつつ、蜜璃が差し出したビニール袋を受け取った。Lサイズのピザが三枚に、サイドメニューのポテトフライと唐揚げ。母親は箱の数だけで内容を軽く確かめる。
「寒い中、ありがとうございました」
扉が閉まる直前、三和土に据えられたツリーの電飾が、装飾のベルに反射して光が外まで届いた。その眩しさに蜜璃は思わず目を細める。
今宵は光が満ちるクリスマス。
しかし蜜璃は昨日のイブも、今夜もいつにも増してアルバイトに身を投じていた。鉄珍店長は『年頃やし、どっちか一日くらい休んでくれてええねんで』と言ってくれたが、シフト作りに苦心するその横顔を見たら、言葉に甘えることは出来なかった。出勤を失念するようなことがあっても蜜璃を温かく受け入れてくれる大好きな職場である。こんなときこそ力添えがしたい。
それにしても──
「寒いぃ」
今晩の冷え込みと言ったらない。氷点下の突風が吹いて、建物の隙間をビュウと抜ける音が立つ。
三輪の原付バイクで加速すると寒さもひとしおで、眼球まで冷える心地すら憶えた。夕食どきを迎えた街に出ているのは蜜璃のようなクリスマス商戦に従事する者と、甘いムードの男女だけだ。
身体が暇になると思い出すのは彼のこと。
「伊黒さんは何をしているのかしら……」
寝ても覚めても蜜璃を夢中にしているその人は、母校であるキメツ学園で化学教師をしている。日々、文通をしたり、食事にいったり。ときに贈り物を交換し合ったり。
先日贈られた靴下は、蜜璃が考案した猫の刺繍が施されており、心まで温めてくれる世界でひとつだけのお守りになった。
そんな自他共に認める良い雰囲気の二人だが、当事者である蜜璃すら『アレ? 私たちまだ付き合ってないんだっけ?』と我に返ることがあるくらい、要するに焦ったい関係を続けている。
「ただいま戻りました〜!」
「おっ、蜜璃ちゃんお帰り。間髪入れんで悪いけど、どんどん行ってもらえるか」
先程までロビーはテイクアウトを待つ客で溢れかえっていたが、既にひともまばらとなっていた。今ごろピザを片手に、ホームパーティを楽しんでいることだろう。厨房から焼き上がりの電子音が聞こえ、蜜璃を団欒の妄想から引き剥がした。
宅配待ち伝票が未だ長い列を成して、負債のように掲げられている。こちらが現実だ。
「鉄男ピザです!」
「あ、ハーイ! 今開けまーす!」
オートロックが解除される。通話モニターが切れる直前、応答者の背後で華やいだ声が聞こえた。エレベーターを上がり、部屋番号のインターホンを押すと蜜璃と同じ大学生くらいの男性が出た。頭に乗ったサンタ帽が、強面な顔に似合ってなくて愛らしい。
「お待たせいたしました。こちらが温かい商品、小さい方の袋がサラダとケーキです」
「ありがとうございます」
男性が受け取り、その後ろに控えていた友人たちがバケツリレーみたいにしてピザを運んでいく。みんな意味のある言葉を口にしている筈なのに、一様に遠くで上がる歓声みたいに聞こえるから不思議だった。異国の祭りでも見ている気分だ。
「ご苦労さまー」
パタンと扉が閉まると、静寂が増した。
ふと、伊黒はサンタクロースよりもトナカイの方が似合いそうだ、と思う。仏頂面を貼り付けて、おとぼけた格好をする伊黒を想像し、思わず口元が緩んだ。もしかしたら、そんな彼の隣で笑って過ごす今宵があったのかも、と喉に突っかかる。
つい先日、食事の席で『クリスマスは当日もイブも閉店までバイトなんですよね』と溢した蜜璃に伊黒は『そうか……頑張ってくれ』とひとつ返事をした。
あれはもしかして、クリスマスデートに蜜璃を誘う心づもりがあったのではないか。だって、その後の伊黒は雨に濡れた仔犬みたいに見えた。らしくもなく醤油を溢したり、箸の進みもいつにも増して芳しくなかった──そう思い至ったのは帰宅後、湯船の中だったけれど。
「はちみつはちみつブーーーン!!!」
蜜璃はアクセルグリップを強く回した。
街路樹を飾る青と白の電飾が、目尻でキラキラと輝いては後方へと流れていく。
■
「蜜璃チャン、もう上がって貰ってええよ」
「え、でもまだ片付けも残ってますし……」
「ええよええよ、ラストまでシフト埋めてもらっただけで感謝してるで。僕からのプレゼントや」
鉄珍店長は焼きたてのピザを箱に入れ、デシャップに置いた。ほくほく立ち昇る湯気が蜜璃の視界を遮り、店長の輪郭を曖昧にする。
「わぁ! これ、いちばん好きなの!」
一枚でシーフードミックス、マルゲリータ、照り焼きチキン、マヨコーンと蜜璃の大好きを余すことなく堪能できるピザだった。ナチュラルチーズを巻き込んだ耳がふっくらと幸せを囲っていて、思わず口の中に唾液が沸いてしまう。客に提供しているものより具材の使い方も贅沢だ。
「はわわ……! ありがとうございます! 頑張って良かったわ」
「こっちも今晩過ぎたらもう使われへんから、良かったら持って帰り」
それは開封時に音が出るように作られたノンアルコールの炭酸飲料──所謂シャンメリーである。クリスマスカラーの包装紙で包まれているだけで、明日になれば嫁ぎ遅れたと言われるのだから何とも不憫な話である。うちにお嫁に来なさいなと三本頂戴し、蜜璃は同僚と入れ違いで更衣室に入った。
黒のリブニットの上からグレイチェックのジャンパーワンピースを被る。内側に着たニットの襟元がさりげないフリルになっていて、シンプルなワンピースに甘さが映えた。ダウンとショートブーツ、バックは淡いベージュで揃えてある。
「今日は一段とお洒落さんやね。気を付けて帰るんやで」
「お先です。店長も良いクリスマスを」
時刻は二十二時をとうに過ぎ、二十三時に寄っている。蜜璃がめかしこんできたのはバイト終わりに伊黒に会えたら、という乙女心に他ならない。メッセージを打とうとして、一拍。既に別の予定があるかもしれないと二の足を踏む。
結露の張った扉を屋外に向かって開けると、外気が塊になって吹き込んできた。思わずダウンの襟に首を埋める。
『今から最寄駅まで行くので会えませんか?』というメッセージのかたちだけは作った。残り僅かなクリスマスの余白を移動で費やすくらいなら、直帰して焼き立てのピザを食べた方が利口だと頭では理解しながら、送信ボタンに触れかけて──
「甘露寺」
尻尾を踏まれた猫みたいに飛び上がった。メッセージより早い場所に、伊黒本人が立っている。
「い、い、い、伊黒さん!??」
「勝手に待ってしまい、申し訳なかった」
「今から会えませんかって、メッセージ送ろうとしてたところだったの!」
「そうか」
「嘘じゃないのよ、ほら!」
蜜璃はメッセージ画面を高々と提示した。
「ふふっ、別に疑っていないよ」
「すぐ会えるなんて夢みたい」
「それは良かった」
蜜璃の一人暮らしのアパートはここから徒歩圏内にあった。それとなく自宅の方向へ歩きながら、蜜璃はうふうふ笑う。恋する乙女は目敏いので、伊黒が道路側に握っている紙袋にすぐ気付いた。
熱い視線を受け、伊黒は立ち止まる。
「実はだな、これを渡しに来たんだ」
「ケーキ?」
「ああ。以前、気になっていると言っていたから」
それは百貨店の催事場で限定販売されているフルーツ専門店のものであった。旬の果物をふんだんに使用した洋菓子ブランドで、この時期に最初の旬を迎える苺を使用したクリスマスケーキは入手するのがとても難しい。蜜璃とて、ひと月も前にオンラインページにアクセスしたにも関わらず、既に予約分完売となっていたくらいだった。
「……もしかして苺のアラレーヌ?」
「ああ」
アラレーヌとは『王妃様の』を意味するフランスの焼き菓子のことだ。とどのつまりショートケーキである。
この店の看板商品であり、蜜璃の第一希望だ。
「買うの大変だったでしょう!?」
「そんなことはないよ。予約して、受け取っただけだ」
「いつから予約していたの? 私が見たときには全部完売してたわ」
「10月頃かな」
まだ暑さの抜けない季節から、既に伊黒のクリスマスは蜜璃のために空けられていたということ。その事実があんまりに愛おしくて、蜜璃はケーキの箱をぎゅっと抱きしめた。伊黒は『そんなに食べたかったのだな』と表情を緩めたが、そうじゃないのにと蜜璃は唇を尖らせる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……夕食は済ませましたか?」
「そう言えば食べていなかったな」
「もう! いつもちゃんと食べてくださいと言っているのに」
伊黒ときたら、他者には細やかな配慮ができるのに、自身のことはおざなりにしがちだ。
特に食に対する意識は希薄で、三食豆乳で済ませてしまうときもあるから蜜璃は気を揉んでいる。
「今から私のお家で一緒に食べませんか? 美味しいピザとシャンメリーもあります」
「……いや、それは遠慮しておこう」
「この後、予定があるんですか?」
「違う。万が一があってはいけないから」
「万が一? それって、エッチなこと?」
それならそれで良いのだけれど。
そう思えるくらいに、蜜璃は本気なのだ。
「えっ、あ、いや……」
「そういう目では見れない?」
「ち、違う。そういう意味ではなく。そういうことは、て、手順を踏んでだな……」
なのに伊黒ときたら、否定的な言葉ばかりを口にする。まだ学生の蜜璃を大切にしようとしているのだろうが、春頃に赴任してきた伊黒と出逢って今の関係に落ち着き、もうすぐ今年も終わりだ。自分に自信が持てなくなるのも仕方のないこと。蜜璃はもっと触れたり体温を分けあったりしたいのに、今夜も伊黒は『大切にする』の意味を掛け違えたまま、何も変わらない。
残り物のシャンメリーみたいに惨めな気持ちで、蜜璃は歩みを再開した。確かに今夜はもう遅いし一目会えた上に、プレゼントまで貰えたのだから満足すべきなのだろう。そう理性的に考えても、心の隙間風は止まなかった。
「か、甘露寺……!」
伊黒は切迫した声を出し、弾かれたように蜜璃の元に追いついた。どうやら見限られたと勘違いしたらしい。そんなことある訳ないのに、と半ば呆れた気持ちで蜜璃は口を開いた。
「別に怒っていないわ、大丈夫よ。わざわざゴソクロウ? 頂き、感謝しています」
慣れない敬語を使って心を込めたつもりが、他人行儀過ぎたのかもしれない。伊黒はクッと息を詰め、静止してしまった。そのまま難しい顔をして考え込んでいたが、やがて伊黒は凛と居住まいを正した。心をひとつに決めたらしい。
「甘露寺よ」
「……はい」
雑踏が遠のいて、二人の間だけ沈黙が落ちる。
交差点の信号が青になり、発光ダイオードの鋭い光が伊黒の肌を青色に染めた。
■
「アレは寝袋だろうか?」
伊黒は棚の上に置かれた巾着を指差し、蜜璃に問うた。
「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」
「借りても?」
「? ええ」
寝袋を手に、伊黒はスタスタとリビングを出ていった。真意が分からない蜜璃は後を追う。
伊黒は廊下の真ん中で寝袋を広げていた。
「ここで寝るの?」
「ああ、君は普段どおりベットを使ってく…」
「とっても楽しそう!」
既に下半身を収めている伊黒に『失礼します』と断って、蜜璃もその隣へと身体を滑り込ませる。ゆったり仕様の寝袋は、何とか大人二人を包み込んだ。
「え………!??」
「今更だけれど、クリスマスって感じね。二人してギュッと靴下に詰まっているみたい」
「甘露寺はきっと俺とは違うクリスマスを信仰しているのだな……」
シングルベッドでさえ窮屈に思われたが、寝袋だとそれもひとしおで、否応なしに密着できるから蜜璃にとっては好都合だった。片や伊黒は狙いが思わぬ方向に転じ、仰向けになって天井の一点を可笑しいくらい神妙に見つめている。
その腕を取り、蜜璃はぎゅっと抱きついた。
「……センセ、何考えてるの?」
「宇宙の成り立ちについてだ」
「化学教師なのに?」
「ああ、明日の朝には誰も辿り着いたことのない真理を得られるだろうよ」
「寝るつもりがないのかしら」
話していて、自分でも可笑しくなったのだろう。伊黒は小さく吹き出した。
吐息が鼻先を掠めたことに伊黒の生身を感じて、己の行動の大胆さに今更顔が熱をもつ。
そんな蜜璃の心を見透かすように、伊黒は桃色の髪を一束掬う。今度は蜜璃が息を詰める番だった。
「綺麗だな。ずっと触れたかった」
ハートなんて実体がない筈なのに、確かにトスッと撃ち抜かれる音がした。
一緒には眠れないと寝袋まで持ち出したというのに、歯の浮くような台詞だけは衒いなく言ったりするのだから、隅に置けない。
「思っていたより柔いな」
真摯な瞳が真っ直ぐと見つめ返してくる。
伊黒の瞳はまるで魔法だ。青い炎のように見つめられれば遺伝子が揺さぶられるし、優しく身守られるとありふれた食事もご馳走になる。
「触れたいのは髪だけですか?」
「いいや───」
甘い沈黙。
ふたつの唇が一瞬合わさって、臆病に離れた。
「………柔らかかった?」
「何も分からなかった……」
「わたしも一度じゃ、全然」
目の淵で今日の記憶が流れていく。
電飾の眩しさや肌が切れるような空気の冷たさ。大好きなピザの香りに、出入口に佇む伊黒の姿。一粒が大きくてペカペカ光る苺とフリルのように繊細なクリーム。
それらすべてが霞むくらいの──
「『好きだ』」
「ふふっ、さっきも聞きましたよ?」
「どうしてこんな単純なことが、ずっと言えなかったのだろう」
「私もね、両想いだと分かっていた筈なのに涙が出るくらい嬉しくて、今でも夢見心地なの」
「これが夢なら、当分立ち直れそうにないな」
伊黒が薄く微笑んだ。蜜璃は薄く瞼を閉じる。
夢から醒めても伊黒がいれば、クリスマスも霞むくらい幸せだ──そんな思考回路ごと柔い感触に上書きされて、あっという間に正体をなくした。
おしまい
キ学🐍🍡にはシャンメリーみたいな恋をして欲しい…連載誌はりぼんかな。おばみつの付録を組み立てたい…ソワカ.