生きていた伊黒小芭内は言葉を失った。
悲鳴すら恐怖のあまり喉の奥へと落ちていった。
「ここはどこだァ?」
宿題をしていたら勉強机の引き出しから、キャットメイクをした男が出てきたのだ。
首元に巻かれた黄色い鈴は違和感しかなく、リン♪とご機嫌に鳴るから不気味さに拍車がかかる。
「ヨイショ」
現れた全容は人型どころか本当に人の形をした、中国の祭りで歩いていそうなドラえもんだった。タイトな青タイツは筋骨隆々な肉体を隠しきれておらず、バッキバキの腹筋が浮き彫りになっている。その上に乗った白い袋はどう見てもただの布で、みんなみんなみんな叶えてくれる不思議なポッケには到底見えない。
その辺の主婦なら泣き叫んで泡を吹いているが、さすがは前世蛇柱、現実から目を背けることなく青い猫のことをただ茫然と見ていた。
「俺の名はサネえもんだァ」
「サネ、えもん……」
「お前の願いを叶えてやる」
こうしてサネえもんとおば太くんの奇妙な共同生活が幕を開けた。
■
「サネちゃん、お茶加減はどう?」
伊黒の母が襖戸をチラと開け、おはぎを頬張るサネえもんに聞いた。後ろには中学生と高校生の姉たちも控えている。
「丁度良いです。ありがとうございます」
「そう、良かった。ゆっくり噛んで食べるのよ」
パシンと扉が閉まり『サネえもん、顔は狼みたいなのに間の抜けた衣装が最高なんだけど』『ギャップ萌えだよね』と女三人衆はかしましく遠ざかっていく。
彼女達はサネえもんの存在を『可愛い〜』の一言で、あっさりと受け入れてしまった。女性の可愛いの基準が伊黒には未だに理解できないが、歓迎されたサネえもんはすっかり家族の一員だ。
「ねえ、サネえもん。一つ目の願いだけど…」
おもむろにそう切り出した伊黒は、女々しく体育座りをし、畳を凝視する。鏑丸も心配そうに頭をもたげた。
「俺が少しだけいいものになれる道具を出してよ」
「おば太くんにゃ、必要ねェ。今のままで十分いいものだァ」
『こんな美味いおはぎ作れるんだからなァ』と目を細め、サネえもんは取り合おうとしない。因みにおはぎは餡子から全て伊黒の手製である。
「じゃあ、サネえもん」
「今度は何だァ?」
「生まれ変わったら甘露寺に好きだと伝えられる道具を出してよ」
「知るかァ。今世で告れェ」
さて、今世の伊黒は俗にいう普通の青年だった。寧ろ生まれ持った知能や身体能力は並みより頭ひとつくらい高いといってよい。
ジャイアンの如く横暴な者には傘一本あれば見事な剣技で対抗することができたし、テストの点数で親に怒られたこともない。空を自由に飛びたいとも願わない、堅実なこどもであった。
そんな伊黒が唯一欲して止まないもの。それは幼馴染、甘露寺蜜璃の心だ。
一目惚れをしたその日から、伊黒は朗らかな笑顔を見るだけで胸が潰れるような、健気な恋の中にいる。彼にとっての甘露寺とはいっそ光とも遜色しない不可侵の存在に近い。
「お前さんがそこまでご執心たァ、甘露寺って娘はどんな子なんだ?」
伊黒はスマホの写真フォルダを開いた。
『笑顔』『食事中』『自然な表現』などと細かくフォルダ分けまでされており、最後のはどう見てもただの隠し撮りだった。
伊黒は『お気に入り』をタップし、印籠よろしくサネえもんへと突き出す。
「この子だ」
小学校の門扉で伊黒と二人で並んでいるその娘は、その頭上に咲き誇る桜と同じ色合いの髪を持っていた。脇の立て看板には『入学式』とあり、甘露寺の入学式の日に撮ったものらしい。
「髪色派手なのなァ。染めてんのか?」
「地毛だ、桜餅の食べ過ぎでこの色になったそうだ。春の妖精のように麗しいだろう?」
「はぁ……マァ、俺の好みではないがいいんじゃないか」
「何だと貴様! 甘露寺を侮辱する気か?」
因みにこの問い、可愛いと肯定しても『まさか甘露寺を色目で見ているのではあるまいな…?』となり、どう答えても伊黒の地雷を踏む設計となっている。迷惑千万な話である。
「どこでもドアで甘露寺の部屋に行って、今すぐ告れェ。それで終いだ」
「お前には倫理観というものがないのか? それだと単なる不法侵入だろう」
「便利アイテムに頼ろうって奴が言う台詞じゃねえンだわ」
「ところで、アイテムは全部で幾つあるんだ?」
「1963個だ」
「途方もないな……さすがに全部試すのは厳しそうだ」
伊黒はスマホで『便利アイテム一覧表』を検索し、出てきたサイトを▼人気順で並び替えた。
現代っ子なので。
一位 どこでもドア
二位 もしもボックス
三位 タイムマシン
と続く。そして四位の『人生やり直し機』に焦点が合った。その名の通り、記憶や能力を保持したまま過去に戻って人生をやり直せる機械である。
「あのとき漢字テストで100点を取っていれば、格好がついただろうに……」
遠い目をした伊黒が追憶するは昨日。
恋敵である田中君に漢字テストで2点の差をつけれられ敗北した。まだ血の滴る鮮やかな記憶だ。
田中君はオタク気質のクラスメイトで好きな戦隊ものTシャツを着て頭にバンダナを巻いている、今どき同人即売会でも見ない絶滅危惧種オタクであった。彼は常々『熱血レッドが好きだなんて風情がない』と主張し、ピンクである恋レンジャーを激推ししている。その演者にそっくりな甘露寺が初恋という田中君と伊黒は、日々熱い死闘を繰り広げる間柄であった。
因みにこの田中君、運動神経はからきしであるが頭脳は明晰。故にテストの度に伊黒と点数を開示し合っては、どちらが甘露寺に相応しい男であるか角突き合わせている。
昨日返却された漢字テストで田中君はフルスコア、伊黒は惜しくも98点。
一緒に下校しようと伊黒の教室にやってきた甘露寺を前に、田中君はこれ見よがしに『ふぅん?【行】だなんて、小一で習う漢字が書けなかったんだ? フッ……』と実に愉快げであった。
伊黒は悔しさのあまり口の中に鉄の味が広がり、あわや臓物が捻れる寸前だった。
「飛行機の『飛』ばかり練習していたら『こう』が何であるかを忘れてしまってな……先祖の墓に【行】と、刻んでおこうと思っていたところだ」
「いちいち事が大袈裟な奴だなァ……」
■
「伊黒君、よく頑張ったわね」
満点の解答用紙を受け取る。
飛行機が鬼門だと初めから分かっていれば、何のことはない。人生やり直し機、様々である。
「今回のテストの満点者は、伊黒君と田中君でした。みんなも見習って頑張るように」
その言葉でホームルームを締めくくり、担任は教室を後にした。周りから聞こえてくる会話も何もかも、轍を進むように同じだ。
「小芭内く〜ん!」
きた。甘露寺である。
「どうしたのかね、甘露寺」
聞かなくとも知っているが。
何度だって『一緒に帰ろう?』と言われたいのである。甘露寺のおねだりは伊黒の生きる源だ。
「一緒に帰ろう?」
「ああ、もちろん」
予定通り、甘露寺はテストの解答用紙を認めた。そして自分ごとのように誇らしげに胸を張る。
「満点なのね!? 凄いわ凄いわ! 小芭内君はやっぱり天才ね!」
心の奥が少し痛んだのを見ないようにして、伊黒はランドセルに答案用紙を手早く片付けた。
背中にねっとりした視線を感じ、振り返ると田中君が立っている。
「何か伊黒の様子がおかしいんだよな」
「なっ……」
伊黒と数多の激戦を交わした男の嗅覚は敏感だった。直ちに違和感を嗅ぎつけ、痛いところを突いてくる。強く言い返すこともできず、伊黒は曖昧な態度をとるより他なかった。
そこに加勢する者が現る。甘露寺だ。
「どうしてそんな酷いことを言うの?」
「だって今の伊黒は、漢字テストの話題から不自然に話題を逸らそうとしていた! ズルをしたに違いない!」
「小芭内君はそんなひとじゃないわ! 一生懸命お勉強をした結果よ!」
伊黒の心臓が不整脈を起こした。
細胞が死んでいく音がする。
「か、かんろじ、もうその辺で……」
「いいや! コイツは理不尽には即刻、言い返してくるタイプだ。何も言えない時点で黒だね」
「何の証拠もないのに酷い! 小芭内君はね、とっても努力家で、真面目で、」
「か、か、んろじ、止めてくれ……」
「ほら、オドオドしてるだろ? カンニングでもしたんじゃないか?」
「小芭内君がズルをするような最低な人間だと言いたいの? それこそサイッテー!」
ズルは最低=伊黒は最低
絶望的な関係式が成り立ってしまった。
「止めてくれ…………!!!!」
「小芭内君、ここは蜜璃に任せておいて」
「甘露寺、待て。そいつはもう死んでいる」
「………え?」
伊黒はゴボッと血反吐を吐いた。
最低なのはこの俺だ、と言いながら。
死因は良心の呵責であり、墓に刻むは行ではなく己の名という結果になってしまった。
■
「次はどォすんだ?」
「ややこしく考えるからいけない。もう、ただ単純に甘露寺からカッコいいと言われたい。それだけで俺の魂は成仏する」
男子とは女子に「カッコいい!」と言われれば、「ヨッシャ! 生きる!」となるシンプルな生物なのだ。
「今度は打って変わって欲望剥き出しだな……それを実現するには嬢ちゃんが何を格好いいと思うか、知っておかねェとな」
「そんなものは言わずと自明だ。甘露寺は常々、強い殿方といっしょになりたいと言っているからな。戦闘能力が発揮できる世界線にいけば問題なかろう」
「ならアイテムは【もしもボックス】だなァ」
説明しよう!
『もしもボックス』とは、ボックス内の電話をかけて「○○○な世界だったら」と話すと、その通りの世界になるひみつ道具である。
「今日はもう遅いから、決行は明日にする」
サネえもんは押し入れに敷かれた布団に横になると、おやすみィと襖戸を閉めた。
スパンと音が鳴って、眠りが降りて来た。
■
伊黒は白いプラグスーツを来て、無機質なリノリウムの床に立っていた。
「こんな時どんな顔していいか分からなくて、俺は頭痛がしてくるんだが」
眠りながら夢を見ているのではない。
もしもボックスを使用したのだ。
「……小芭内、君にはエヴァに乗ってもらう」
お館様は1/fの揺らぎボイスで穏やかに、それでいて有無を言わさぬ口調で言った。
「しかし、お館様。俺はエヴァに乗ったことがありません」
「無問題だよ。ATフィールドを展開するだけだからね。初陣が幸先の良いことを願っているよ」
視界が暗転すると、中央作戦司令室の中にいた。
そこに見知った人物はひとりとておらず、新世紀エヴァンゲリオンのキャラクターたちが今まさに来んとする危機に立ち向かっている。
「未確認飛行物体を確認! 使徒と認定」
「………第5の使徒だな」
碇ゲンドウが重厚に言った。
「目標物質に高エネルギー反応!」
シュキーーーーーン!!!!!
第5の使徒ラミエルが破壊光線を繰り出し、耳をつん裂く高音が響き渡る。
司令室ではシンジ君が乗った初号機が巨大スクリーンに映し出され、まさにATフィールドを展開してラミエルの猛攻に耐え忍んでいた。手に汗握る攻防の末、押し負けたのは初号機だった。
アラーム音が鳴り響き、スクリーンに「警告」の赤文字が踊り咲く。
伊黒はぼんやりと『主人公じゃなかったんだ』とひとつ思う。そう、彼はエヴァを履修していなかったため知らなかった。
着ている白のプラグスーツは零号機、綾波レイのものであることを。
「作戦要項を破棄! 機体強制回収! 爆砕ボルトに点火して!」
地上の砲撃地点から無数のミサイルが発射する。しかしラミエルが蛍光ピンクのレーザーを解き放つと、その射程内にあった全てのミサイルは一掃されてしまった。そのまま丸腰で反撃を受け、方々で爆発音が上がり、地面が激しく振動する。
「第8砲台被曝!」「第4VLS蒸発!」
危機的な台詞が飛び交う中、伊黒はひとり取り残されたように『俺はどこで登場するのかな…』と考えている。
そんな間にもシンジ君は苦悶の声を上げ、非常に辛そうであった。
「ヤシマ作戦を決行!」
オタクなら泣いて喜ぶ、かの有名な『日本中の電力を収束して放つ高威力電子砲』である。そんな最終兵器があるなら初めから使えよ、と伊黒は思ったし、私も思った。
シンジ君を乗せた初号機がどこぞの屋上で腹這いとなり、巨大な電子砲を構えた。格好いい! 紫と黄緑の初号機デザインも最高だし、メカニックな武器装備から行き交う台詞に至るまで、オタクの心を揺さぶって止まない名シーンだ。
※読まなくていい
「最終安全装置解除!」
「射撃は目標を自動追跡中」
「発射点まであと0.2、0.1、」
「最終補正パルス正常」
突如、伊黒の脳内で声がした。
(人類を守る? 実感も湧かない大事なことを、何故僕がするんだ? もう家へ帰りたいよ…)
シンジ君の心中である。彼は日本のアニメ史上、最も自己肯定感の低い主人公であった。
説明しよう!
新世紀エヴァンゲリオンは使徒と人類との、存続を賭けた戦いの物語だ。
耳慣れない難解な単語と人々の思惑が複雑に交錯するストーリーが、観ているだけで高尚な気持ちにさせてくれるオタクのバイブルである!!!
雑に概要をまとめると、碇シンジはある日突然、人類の命運を背負って使徒と闘うこととなる。
その父ゲンドウは『目的遂行のためなら、息子の命さえ惜しくはない』というとんでもない毒親であった。当然シンジは『僕のことを見てよ!』と反発する。とどのつまり、エヴァンゲリオンとは壮絶な親子喧嘩の話である。どれくらい壮絶かというと心が通じ合わないばかりに、インパクトと呼ばれる地球規模の大災害が起こって人類が三回も滅亡しかけるレベルだ。彼らの親子喧嘩で最も割を食うのは、いつも名もないモブ人類である。(個人の見解です)
話を戻そう。
シンジ君がトリガーを引き、高威力電子砲が発射された。電子砲は地面を抉りながら直進し、ラミエルに接触して炸裂した。血飛沫が噴き上がり、森も街も大量の血の下に飲み込まれていく。
「やったか!??」
この台詞が出るとほぼ100%不成功と、古今東西相場は決まっている。ミサトさんがそんなフラグを張ったばかりに二秒でそのフラグは回収され、硬質なボディーにヒビが入ったラミエルは時間を巻き戻すように傷ひとつない完全体へと修復されてしまった。
まかり間違っても言ってはいけない台詞だった。
「………外した」
当然、ラミエルは怒り狂った。
「目標に高エネルギー反応です!」
「まさかこのタイミングでッ」
「総動員、直撃に備えて!」
破壊光線がビルを薙ぎ倒し、山の麓をブッ飛ばしながら一直線に爆進してくる。
隊員が伏せったり頭を防護したりするなか、伊黒の肩を叩く者があった。
お館様である。
「………小芭内、搭乗だよ」
「………え? いま?」
・
・
・
「綾波!??」
シンジ君はそう声を震わせたが、電子砲二発目を発射するにあたり初号機擁護のため最前面にいるのは伊黒である。
🐍「うおーーーーー!!!!!」
「綾波………ッ!」
キュッと唇を固く結び、シンジ君は心をひとつに決める。
ニコ動の画面も『綾波』が席巻するシーンであるが、何度も言うようにお館様の言いつけを守ってATフィールドを全開にし、盾となっているのは伊黒である。
司令室(※読まなくていい)
「ヒューズ交換、冷却完了!」
「送電システム最大出力を維持します」
「射撃要所で再入力完了! 以降の誤差修正はパイロットの手動操作に任せます」
「目標に再び高エネルギー反応!!!」
「二発目発射まであと20秒」
「まだなの!!!!」
🐍(それは俺の台詞だが!??)
「9、8、7、6…」
🐍「◎△$♪×¥●&%#?!」
「3、2、1」
「「「発射」」」
次の瞬間、伊黒の視界は白く弾けた。
キイイイイイイン!!!というラミエルの断末魔の叫びが、脳の外側から聞こえる。
それが最後の記憶となった。
・
・
・
身体中から白煙を立ち上げ、伊黒は自室に突っ伏していた。
「………………甘露寺は?」
サネえもんはしゃがみ込み、伊黒を見下ろす。
「さあ…? 第一おば太君は勝ってねェしな」
そう言って、興味なさげに耳を穿る。
ドラえもんはねずみに耳を齧られているが、サネえもんには普通に耳がある。
「『貴方は死なないわ。私が守るもの』で有名なやつだよな? 死んだんだが?」
「それ言うの、お前だからなァ……マジでミリしらだったんだな。ご愁傷様ァ」
※綾波は人造人間だから何度でも再生します
「連れ去られた甘露寺のために草原を駆け抜け、道中人助けをし、刀一本で魔王を倒すような世界線を所望していたんだが?」
「それはにゅ🐰こらに言ェ……そんなドラゴンでクエストな絵は一枚もなかったんだ、仕方ねえ」
伊黒は脱力した。
しばらくの小休止が必要であろう。
■
「もう直球で好きと言えばよくねェ? にしてもおば太君最近また腕上げたなァ」
おはぎを頬張るサネえもんは、嬉しい驚きに目を眇めた。甘露寺との距離は一向に縮まらないが、伊黒のおはぎ作りの腕は日増しに上達していた。
サネえもんが来て早三週間、その品質はすでに老舗和菓子屋のおはぎとしてガラスケースに並んでも違和感ないほど練り上げられていた。格付けではGacktさえ欺くことができよう。
「そんなこと出来る筈もあるまい。もうこの恋心は来世に託そうと思う」
「そんなに来世に執着があンなら、お前さんら二人には前世から関わりがあったんじゃねェの? どうせ進退極まってんだ。タイムマシンに乗って見て来りゃいいだろ」
背後の勉強机を指差し、サネえもんは大きな口でおはぎにかぶり付いた。
一寸考えた伊黒は妙案だと思い、着の身着のまま早速タイムマシンへ乗り込んだ。
「甘露寺との前世へ」
【1900年代初頭へマイリマス。手すりにお捕まりクダサイ】
タイムマシンの返答からして、やはり伊黒と甘露寺の間には前世なるものがあったらしい。
1900年代初頭といえば大正時代だ。年号を三つも遡る。どのような世界へ飛ばされるのかと、伊黒は僅かに身構えた。
「気を付けてなァ」
引き出しからサネえもんがこちらを伺っていた。
そのとき伊黒は初めて、この友人に得も言われぬ懐かしさを感じた。
「ああ、行ってくる」
時空が歪み、空間に埋められた時計の秒針が一斉に左回転し始める。
突風に髪を膨らませ、伊黒は時を遡っていった。
・
・
・
薄暗く湿気た座敷牢。
生まれてこの方、世界とはこの一畳間であった。
友と呼べる者は迷い込んできた白蛇の鏑丸だけ。
山と盛られた膳は脂のすえた匂いがして食は忌まわしく、骨と臓物が薄い肉に覆われて何とか命を保っているような有り様。
丑三つの刻。天井裏の命を刈り取る気配に震え、小さな身体を一層小さくして眠ること幾夜。
生かされる理由を知ったその日、僅かばかりの延命を図る代償として口元を裂かれた。滴る血を盃に受け、満悦するは蛇鬼。
一族の首魁は鬼だったのだ。
決死の脱獄により、蛇鬼の不興を買った親族の女五十人がその腹に収まった。その事実が真に重みを持ち始めたのはいつの頃からだったか。
こどもが他人と自分を比較するのは、十歳くらいからだという。比較対象がなければ自分の不幸や業の深さに気付かずにおれるのだから、いっそあのとき死んでいた方が楽だったのかもしれない。
生きることは即ち、己の業を思い知ること。
出口のない自責から目を背けるよう夜に生きた。
鬼殺隊とは負の感情を抱え、生死の淵に生きる者の集まりであった。
■
『道に迷ってしまいまして』
雪景色に咲く椿が如く、鮮烈な恋だった。
鬼に大切なひとを奪われたでもなし命を賭す理由などひとつもないというのに、ただ生まれもった力を役立てたいと鬼殺に身を投じる。
花を花だと、空を空だと、季節を季節だと。
食事の団欒を、文を待つ時間を、心は贈り物に。
そのすべてを教えてくれたひと。
『自分より強い殿方を探しているの』
入隊理由を聞かされて尚、文を出し、食事に誘い贈り物をした。責任もとれない癖に。
それでも甘露寺蜜璃を愛さずにはおれなかった。
共に過ごす時間は平凡な青年になれる反面、相対して己の業の深さが浮き彫りになった。鬼殺で救う命があっても消えた五十人の死がなかったことにはならない。淡い恋心を抱いては、血濡れた手が爪を立て思い知らせる。
【相応しくない】
鬼舞辻無惨を葬るという大義名分を掲げ、身を引けばよい。甘露寺がそれを望まぬことは想像に難くなかったが、柱であれば首を横に振れないことをも見越していた。優しい面を被った、その実、狡猾で心の弱い男のすることだ。
例え痣者の宿命として期限ある余生であっても、甘露寺の笑顔には鬼のいない世界が良く似合う。
明るい市井で生きて欲しい。その隣に立つのは、自分でなくていい。
そんな身勝手を最後まで貫き、甘露寺を戦線から離脱させて死ぬ為に戦った。
蔑まれても構わない。いっそ罵り、遠ざけてくれたならどんなに楽か。
なのに。
「伊黒さんが好きっ」
どうしてそこまでして寄り添ってくれるのか。
何故、それを嬉しいと思ってしまうのだろう。
「もし生まれ変わったら、」
瞼の裏を生まれたての陽光が淡く照らす。
伊黒が生きながらえる所以となった忌まわしい瞳はすでに像を結ばなくなっていた。しかし、少しも惜しくはないのは、確信があるからだ。
甘露寺、君は今も美しい。初めて出会った日から一等美しいものであり続けた。
傷が付いても髪が乱れても、身体の一部を失おうとも。その美しさは揺らがないし、何者にも踏みにじれない。
「わたしのことお嫁さんにしてくれる?」
呼吸が弱くなっていく。
最愛のひとは間もなく逝ってしまう。
「君が俺でいいと言ってくれるなら──」
甘露寺蜜璃という女性を見誤っていた。
全て見越した上で添い遂げる覚悟があったのだ、彼女の方が上手(うわて)だった。
その懐の深さは測り知れず、またそれに救われる人生でもあった。
■
伊黒は見慣れた天井を見て、緩い涙を流していた。心に温もりを抱えて。
カーテンは閉め切られ、人の営みの気配がない。
夜も深いのだろう。
「………どうだったァ?」
押し入れの襖戸が顔一つ分、開いた。
サネえもんである。
「きちんと好きだと伝えるよ」
「ああ、それがイイ」
暗闇の中でサネえもんの表情は分からなかった。でも多分、優しい顔をしていたんだろう。
友達だから分かる──大正時代からの。
・
・
・
「……甘露寺。渡したいものがあるんだ」
「ん?」
「これ………」
伊黒は折り紙でつくった花を差し出した。
『お花も生きているから千切ったら可哀想』という甘露寺に配慮して、生花は避けた。
今世でも心根の優しい女の子なのだ。
「甘露寺のことがすきだ。今はまだ無理だけど、大人になったら恋人になって欲しい」
「わたし小芭内君のお嫁さんになれるの!?」
「え、そこまでは言っていないが……寧ろ、結婚してくれるのか?」
「うん! 大歓迎! 蜜璃ね、小芭内君のお嫁さんになるために生まれてきたんだよ!」
普段であれば、また夢見がちなことを言っているなぁと微笑ましく思うところであったが。
「俺もだよ」
伊黒は心からそう返した。
キャア! と甲高い声を上げ、甘露寺が胸に飛び込んでくる。
こんなに単純なことだったなんて。
伊黒は高い空を見上げつつ、拍子抜けする思いでその背中に腕を回した。
・
・
・
「本当に未来へ帰ってしまうのか?」
タイムマシンに乗ったサネえもんに縋るように、伊黒はもう何度目か知れない質問をした。
「ああ。おば太君にゃ、もう俺は必要ねェ」
その怖い人相からは凡そ想像もつかない穏やかな表情を浮かべ、サネえもんは答えた。
「……そんなことない。ずっと友達だろう?」
伊黒は年齢相応に、ぐしぐしと泣いた。
「ああ、俺とおば太君はズッ友だ。だから来たんだからなァ」
最終決戦では甘露寺を助ける援護をしてくれた。
そうして生まれ変わっても、二人の恋路を後押しするため未来からやって来るだなんて、何というお人好しなのか。
伊黒は言葉にこそしなかったが、胸を熱くした。多分、サネえもんにも伝わっている。
「じゃあなァ。元気で暮らせェ」
それだけ言い残すと、風のように去っていった。
サネえもん…………………
サネえもん…………………
サネえもん…………………
サネえもん…………………
サネえもん…………………
伊黒の慟哭が部屋中に渦巻く。
■
「………サネえも………ん?」
伊黒は自分の声で目が覚めた。頭が重い。
部屋はアルコールの匂いが充満していた。傍らのローテーブルには鍋を食べた残骸と、今にも崩れそうな空き缶の山。床に転がる野郎共。
ごぉっと掃除機みたいな、一際大きないびきの主は煉獄であろう。サネえもんこと、不死川実弥はすぐ隣で猫よろしく丸まって眠っていた。
よく分からぬ夢を見たものだと、今更ながら可笑しくなってくる。
伊黒は手元にあったスマホに触れた。3:05とデジタル時計が表示され、背景画像にしている恋人と目が合った。揃いのコーディネートをして音楽フェスに行ったときのものだ。ポニーテールにしている甘露寺も可愛くて、思わず口角が緩む。
目も冴えたことだしと、伊黒は部屋を片付けることに決めた。いくら家主が何かにつけて飲み会を催したいお祭男であっても、朝日と共にこの惨状を見るのはあまりに不憫だった。
伊黒は音を立てぬよう、落ちていたビニール袋に空き缶類をまとてめいく。凡そ集め終わった頃、不死川が目を覚ました。
「…………ン、伊黒かァ? 何してんだ?」
「すまない起こしてしまったな。ついさっき目が覚めたので、片付けをしていた」
「そうかよ。いや、喉が痛くて起きちまっただけだァ」
「ああ、確かに。加湿器の水もなくなっていそうだな。まだ寝てていいぞ、やっておくから」
「いいや、俺も手伝うわー」
伊黒が食器類を運び、不死川が洗い物をする。
加湿器タンクに水を注ぐオオカミみたいな横顔に笑い話を提供してやった。
「さっき奇妙な夢を見てな」
「どんなだ?」
「お前はドラえもんになっていたぞ」
「くだらねェ……」
「俺はエヴァに乗っていた」
「クソくだらねェ………」
そう言いながら、可笑しくて堪らなくなってきた二人は声を顰めて笑った。騒ぎ立ててはいけないと思うほど面白く感じてしまうのは何故なのか。
二人の笑いは尾を引いたが、やっとのことで治めて再び横になった。着てきたコートを布団代わりに肩に掛ける。
「んじゃ、もいっちょ寝るわァ」
「ああ、おやすみ」
「……………伊黒」
「ん?」
「改めて、結婚おめでとう」
「……ありがとう」
不死川は鼻先だけで小さく笑って、今度こそ寝る体勢に入った。
静寂が深まり、伊黒は体内で小さな拍動を聞く。
ト、ト、ト、ト
メトロノームみたいに規則正しく心臓が脈打つ。
生きていた。
未来が眩しい世界に、伊黒は今。
─完─
きっと最初で最後になるであろう大正軸を書いたので、三次創作ですることでもないが(逆に三次創作でなければ書かなかっただろうから、にゅこらさんありがとう🐰💞)オタクの叫びという名のあとがきを置いておく※読まなくて良い
いち女性として、伊黒さんってちょっと狡くないですか!??責任を取れないのに、年頃の乙女の心を奪うだなんて!!!
しかし自他に厳しい彼が理性に負けた恋愛だったからこそ、その愛の大きさを裏打ちするという側面があり、その人間臭さこそ伊黒さんの魅力だと密かに思っていたりする…(早口)
相手の希望と合致せずとも自分を貫く点において風と蛇は似通っており、そりゃあズッ友だ!