うつろの花嫁 思ったより早く目が覚めたので、どうせだからとシャワーを浴びる。
昨晩のあれこれを身に纏ったまま脱ぎ散らかした法衣や袈裟を着込んでも良かったが、温かい湯にすっかり流して排水溝へと見送ってしまう。
別にそんなしおらしい気持ちになる必要は無いのだ。
いちいちそんなことを考えても不毛だし、きりがない。
慣れた振りをしていればいつかちゃんと諦めきれると考え続けてもう何年経ったかわからないけれども、傑はそう慌てずに緩やかな手つきで着物の紐を結びながらカーテンの隙間から外を覗いた。
さっきまで日の出前だったが、そろそろ朝日が頭を出して街を明るみにしようとしている。
ちょうど良い時間だった。
今日の予定は何があったかなとぼんやりと考えながら、法衣の上に袈裟を纏おうとすると、ぼすんっと背中に重たい何かがのし掛かったのである。
持ち上げようとしていた腕が後ろからぎゅっと抱きすくめられ、肩にのしっと顎が乗った。
「帰んの?」
ちらりとこちらを見上げた悟と目が合う。
寝起きに違いないのに、相変わらずの造形美だった。
「帰るよ、今日も忙しいんでね」
「じゃあ僕も帰るよ、シャワー浴びてくるから待ってて」
「いや先に帰るさ」
傑がそう言って「ほら離しな」と悟の腕を振り払おうとするが、その拘束は易々と解かれてはくれない。
「仕事と僕との時間はどっちが大事なわけ?」
「仕事だろ」
「ちょっとは悩んでよ」
ちぇーっと悟は眉間に皺を寄せながらのそのそと今度こそ傑に巻き付けていた腕を引っ込めたが、やっぱり納得した様子はない。
めんどくさい彼女か。と傑は言いかけ、なんとなく口をつぐんだ。
「良いから待っててってば!まじで秒でシャワー浴びて着替えるからさ」
「待つったって部屋出るだけだろ」
「そこの駅でモーニングしようよ」
「はあ?」
そこまで?と傑は思ったが、それを尻目に悟は「絶対帰るなよ!」と言って裸のままばたばたと寝室を出て行った。
パンツくらい履けよ。と思ったが今からシャワーを浴びるので関係はないだろう。
実際、先ほどの傑もベッドから抜け出して前を隠すこともなくシャワーへと向かったのだから。
「しょうがないな……」
しんとした部屋にぽつんと残された傑は呟き、やれやれと窓際の椅子に腰掛けた。
カーテンをもう少し開けば先ほどよりも朝日は大分昇ってきている。
確か今日は雨の予報だったはずだが、雲一つ無い空の様子からこのまま晴れるんじゃないだろうか?
まあどうでもいいか。とガラス窓越しに空を見上げ、傑は大人しく悟を待った。
普段は高専の寮で寝泊まりしている癖に、悟は都内に立つ高層マンションに部屋を持っている。
そこがここだった。
大体は傑と夜に会うための部屋として使われているようだった。
誰かと密会するための部屋を持っているなんて、流石天下の五条家のご当主様だなと思うも、この部屋で自分以外の誰かとも会っている可能性がゼロでもないためそこは少しモヤりともする。
まあそういうこともないだろう。
多分、恐らく、きっと……
考え出せば少しどころではなくモヤモヤし始め、傑は椅子の手すりに突っ伏すように寄りかかって眉を顰めた。
昨晩もこの部屋で悟と待ち合わせ、そこのベッドで散々抱き合った。
いつもつけるなと言っているのに腰回りや脇腹当たりにキスマークがいくつもつけられているのをシャワーの最中に発見し、呆れながらもむず痒い気持ちを味わうこともしばしば。
悟とは別に付き合ってはいない。
学生の頃からの親友であることは変わらず、一緒に出掛けることは少なくなったが、会って食事もするし、映画を見ることもある。
それに加えてセックスもするようになった。それだけの話なのだ。
あまり一般的ではないだろうけれども、別にただ親友同士であってもセックスする場合だってあるだろう。
実際、自分たちの間には身体を繋げたとて親友以上の感情はないし、子どもから大人になったこと以外に特に関係に変化があったわけでもない。
元々身体の距離感が近かったのもあり、それに粘膜同士の触れ合いが増えただけ。と捉えるのがより自然だろう。
と、傑はいつだって自分に言い聞かせるように悟との関係について考えていたのだった。
いつしか悟とこうして抱き合うようになる前から、学生時代に悟とただ部屋に集まって遊んだり夜更かしをしたりしていた頃から傑は悟だけを見つめていた。
悟の事が好きだった。
端的に言うと、恋をしていたのである。
今でもその気持ちはふつふつと傑の胸の内で熱を持ち、悟の指先が触れる度に身を焦がすような心地を覚える。
現在の自分の立ち位置が悟との関係の最高値なのだろう。
悪くはないことはわかっている。
だがもうどんなに頑張ってもその先以上の関係は望めず、はたまたあとは後退していくだけなのだ。
好きな男に抱かれることはこんなに虚しいことなのか。と十年前の自分だったらば考えもしなかったことを傑は常に胸の真ん中に置き、いじけた感情をただひとり慰めていたのである。
今更だが、悟に好きだと伝えてしまったらどうなるだろうか?
別に何も変わらない気もする。
重要なのは、だからどうしたいか?ということなのだから。
傑がこのままの関係を続けたいと言えば悟も気にせず続けてくれるだろうし、精算したいと言えばそれに応じてくれる。
良くも悪くも悟に取ってはどちらでも良い話なのだろう。
もちろん実際にそういうことを吹っかけたことはない。
ただ傑は、自分のこの恋ひとつで悟の感情を動かせるとは思っていなかったのだ。
最早振られることも出来ないのだ。
なんだかそれは少し寂しくもあるが、振って欲しいと思う気持ちも自分の我儘に過ぎないことを傑はわかっているつもりである。
だからこのまま何も言わずに自然の流れに身を任せるのが一番だろう。
なるようになってくれた方が悟だって良いに決まっているのだから。
「傑、お待たせ」
ふっと背後に気配を感じてぱっと振り返れば、さっきまで寝起きの全裸だったはずの悟がすっかりと身支度を調えてそこに立っていた。
この頃よく見るようになった白い装束にぱきっと明るい青い眼が朝日のようにきらきらと輝いて見える。
この薄暗い部屋でも眩しい男だな。と思いながら傑はゆっくりとソファーから立ち上がった。
「モーニングってこの格好で行くのかい?目立つだろう」
傑は自分の袈裟と、悟の白い和装を見比べながら言った。
「今の世の中色んな格好の人がいるから大丈夫でしょ」
「それはまあ、そうか」
悟の言うことになんとなく頷きながら、傑は自分の袈裟の裾をちょいと見つめた。
駅前の喫茶店に入ったは良いものの、自分たち以外に客はいないし後から入ってくる様子もない。
傑が注文した和定食が運ばれてきた頃に悟に尋ねてみれば、どういうわけか開店から一時間ほど店を貸し切っていたと言うのだ。
「何やってんだよ君は」
「目立つの気にするかなーって」
悟は次に運ばれて来たトーストをシロップたっぷりのパンケーキに変更したモーニングプレートを前に「ていうのは冗談で」と続ける。
「傑に話そうと思ってたことあったの忘れててさ、ちょっと頼みがあるんだ」
「頼み?」
何だよ改まって。と傑はじっと悟を見つめる。
少し緊張した。
「僕の花嫁の役をやって欲しいんだ」
「……はあ?」
目をぱちくりとさせる傑の反応を見ながら、悟はてきぱきとパンケーキを切り分けて続けた。
「今度僕の結婚に関する行事があってね?それがちょーっと厄介でさ、傑に協力して欲しいってわけ」
「ちょ、ちょっと待て!君結婚するのかい?」
「うん」
一息考える余裕もなく返ってきた悟の返事に傑は目を白黒とさせた。
心拍数が一気に上がり、身体中に血が巡っているはずなのになんだか指先から冷たさを感じる。
一瞬呼吸の仕方を忘れたが、すっと吐いてどうにか喉を震わせた。
「君は、いつも突然だな……そういうことはもっと早く教えてくれよ」
「ごめんってば、昨日は忘れれてさ?」
「そもそも花嫁の役ってなんなんだよ」
「そう、それなんだけど」
ひょいひょいとパンケーキを次々口に運びながら悟は言った。
五条家には古くに確立されたある婚姻に関する行事が存在する。
それはとても危険でかつ一歩間違えば花嫁が命を落とす結果にもなりかねないため、五条家の中でもほんの一握りしか知らない儀式だったのだ。
「うちで昔から飼ってた婚姻用の呪霊がいたらしくてね?そいつに花嫁を食われないように代打を立てておくんだってさ」
「呪霊を飼ってる?五条家がかい?」
「そうらしいよ?まーじ悪趣味」
僕もまさかとは思ったけどねーと悟は言う。
「ま、でも僕も当主だし?知っちゃった以上は無視するのもなんか違うじゃん。だからやってみようかなと思ってさ」
「まあ状況はだいたいわかった。でもなんで私なんだい?」
花嫁どころか、私は男だぞ。と傑はじとっと悟を見る。
「だってオマエ強いし」
「そうだけどさ」
「僕が考えた中で傑以上の適任はいないよ。呪霊相手に絶対死なないだろ」
フォークを置いた悟がじっと傑を見つめ返した。
その青い眼に込められている思いは間違いなく自分に対する信頼だろう。
「死なないさ。そんなにヤワじゃない」
「だろ?」
「でもこんな大男が花嫁なんて呪霊でも信じるかい?」
「そこは関係ないから大丈夫!別に性別なんてどっちでも良いし、うまく立ち回れればそれで良い」
重要な場面で対応できる力の方が求められる。
要は必要なタイミングまで偽の花嫁を演じ、本物の花嫁に危害が加わらないように入れ替われれば良いと言うことなのだろう。
「わかったよ。その儀式の最中まで君の花嫁の役でいれば良いってことだね?」
「そういうこと。頼むわ」
「しょうがないから引き受けてあげるよ。親友が結婚するんだからね」
そう言って傑がにこりと微笑んだ。
了承するほかないだろう。
もはや何が何だかわからなくなっているのが正直な所。
しかし、悟が結婚するという事実が本当であると言うことだけはいやにはっきりと理解できたのだった。
「結婚おめでとう、悟」
「うん、ありがとう」
その言葉に悟ははにかみ、再びフォークを持ってパンケーキの残りひとかけらをぱくりを口に放り込んだ。
後日、件の儀式の件は高専経由で傑の元へ正式に任務の依頼として申請が届いた。
特級扱いであるらしく、高専のバックアップが思ったよりも手厚くて救護に硝子まで駆り出されると聞いた時は確かに並の呪術師では到底扱えない案件だな。と妙に腹落ちしたものだった。
死なないとは思うが、恐らく無傷では済まないのだろう。
とはいえこれまでも数多の死線をくぐり抜けてきたのだ。
やれることを全力でやって、しっかり責務を全うすれば良い。
多少自分が怪我をしたとしても、肝心の本物の花嫁が安全に儀式に参加出来れば良いのだ。
しかも側には悟がいるのだから、任務としてそれ以上に心強いことはないだろう。
任務としては何も問題ない。
そんな傑の胸に引っかかるのは、やはり悟の結婚そのものに違いない。
いつか頼まれるかもしれないという結婚式の友人代表スピーチどころか、婚約者の身代わりをすることになるなんて夢にも思わないだろう。
こんなので万が一死んだとしてもきっと死にきれない……まあ死なないだろうとは思うものの、何をどう踏み外せば好きな男の婚約者の身代わりなんて任されることになるのだろうか?
どう考えてもわからない。
ただ強くて、そして悟の親友だっただけなのに……なんて冗談も笑えなかった。
それ以前に結婚を間近に控えた婚約者がいたことさえ初耳なのだ。
そんな素振りなんて見せなかったくせにいつの間に?
婚約者がいて親友と寝ていたのか?
なんて、自分の方こそ面倒くさい彼女のようなことを考えてしまう。
否、付き合ってもいないので面倒くさいセフレだろう。
こちらの方がより最悪に違いない。
考えてみれば悟は五条家の当主なので寧ろそういう存在がいてもおかしくない意識でこちらがいるべきだったのだ。
しかしその前提を心得ていても、いざ現実として突きつけられることは率直に辛いに違いない。
私は君のこと好きなんだけど?
なんてことを思えば思うほど、自分自身がいたたまれなかった。
親友として悟の力になれるのならばそれも良いと思う気持ちだってもちろんある。
そもそもどのみちどうしようもない恋なのだ。
ひとときでも悟の婚約者になれるだけで十分だと思いたい。
悟の人生を左右する出来事の、恐らく重要な役どころとして自分を選んでくれたことにもう少しちゃんと喜ぼうじゃないか。
傑は自宅のソファーに身体を沈み込ませ、高専から届いたメールをタブレットでまた頭から目を通す。
そしてふっと自分の脇腹を覗きこんで眉を顰めた。
悟に付けられたキスマークがまだうっすらとそこに残っていたのだ。
学生時代にも何度か悟に連れられて京都にある五条家の本家を訪ねたことはあったが、こうして任務を請け負う呪術師として呼ばれたことはもちろんない。
現行の当主が悟である限り、他所の呪術師が必要になるタイミングなんてそうそうないのだろう。
もちろん歓迎なんてされないだろうし、しかし何らか危害が加わることもまずはないだろうと思いながら傑は五条家の玄関の敷居を跨いだのだった。
何せ今は自分の手に五条家当主の花嫁の命が懸かっているようなものである。
傑がいなければ婚姻の儀式において花嫁が危険に遭う可能性がぐんと高まるのだ。
とりあえずは寝首を掻かれるようなこともないと考えて良いだろう。
「傑がうち来るのっていつ以来だっけ?」
「学生の頃が最後だね。たぶん二年の春とかその辺りだ」
「わあそんなに?でも僕もしばらく帰ってないしそんなもんか」
「君は当主じゃないか、ちゃんと実家には帰りな」
全く。とため息をつきながら、傑は少ない荷物を持って悟の後をついて長い長い廊下を歩く。
儀式は十日後に執り行われる。
てっきり当日に招集されるとばかり思っていたので前日に京都入りするくらいのスケジュールを立てていたのだが、どういうわけか一週間以上も早く五条家に呼ばれていたのだ。
傑にも教祖業やその他諸々の仕事があるため、十日も拘束されるのは流石に無理だと一度は断ったもののいつの間にか先手を打たれていたのか、しばらくの傑のスケジュールは悟の手によって抑えられてしまっていたのである。
「そもそも私がこんなに早く来る必要あったのかい?張り込みが必要なわけでもないだろう」
「それもそうなんだけどさ、今回は婚姻も兼ねてるからね……まあ、色々準備がいるんだよ」
「それはわかるけど、だったらなんで私まで?」
「だって傑の白無垢とか作んなきゃいけないし」
「は?」
シロムク?と傑は目を丸くする。
「シロムクって、花嫁が着る白無垢のことかい?」
「そうだけど」
「いや、なんで私が!」
「だって傑は僕の花嫁の役だし」
いるでしょ?とさも当然のことのように悟は言った。
まるで、傑の方こそ何を今更?とでも言いたげな顔ではないか。
「確かに身代わりだけど白無垢まで用意する必要はないだろ!」
「傑、これは儀式なんだってば」
「そ、それは……わかってるけど」
悟に言われ、ぐっと傑は口をつぐんだ。
儀式なのだから必要な様式に従ってこそ初めて効力を発揮する。
花嫁の役柄に白無垢が必要になるというのも理にかなっているだろう。
「だから傑は荷物置いたらまずは採寸ね。反物は僕が選んでおいたからあとは超特急で職人が仕立ててくれるよ」
「まさか法衣の次に仕立てるのが白無垢になるとは思わなかったよ……」
「今度僕とお揃いで一着仕立てようか?」
「なんでお揃いなんだよ」
はーあと傑はため息をつき、通された座敷に荷物を置いた。
離れではあるが、中庭の見える日当たりの良いこの座敷が、傑が暫く寝泊まりする部屋である。
こんなところで十日間もなにをするのか?
まだ悟からその儀式の詳細などは聞いていなかったが、もしかしたら前準備に数日掛ける必要なんかがあるのかもしれない。
婚姻も伴っている儀式なのだからその可能性は大いにある。
だったら最初からそう言ってくれれば良いのだが、悟の事だからいざ尋ねてみても「言ってなかったけ?」と笑って誤魔化されるかもしれない。
それは少し腹が立つが、まあやることがあるならばそれはそれで問題は無い。
白無垢の採寸もその一つというのならば、自分はそれに倣うべきなのだろう。
「すぐ採寸の係が来るからちょっと待ってて。まあでもすぐ終わると思うよ」
「ああ」
「というか傑腹減ってるでしょ?朝一で東京出てきたしさ。店予約してあるから昼行こうよ」
「なんだ、気が利くじゃないか」
何の店だい?と傑が尋ねると、とんとんと廊下の向こうから微かに足音が聞こえてくる。
きっと採寸に訪れた職人だろう。
「もちろん蕎麦屋だよ。京野菜の天ざるがおすすめ」
「いいね、楽しみだ」
襖の向こうから人の気配がし、悟に呼びかけるような声が聞こえる。
「いいよ入って。僕らこの後出るからちゃっちゃと測ってね」
「承知しました」
悟や傑よりも頭一つ分小さな男性がしずしずと襖を開けて座敷に足を踏み入れ、傑に向かって深々と頭を下げたかと思えば早速採寸が始まる。
きっとこの職人も、こんな大男の白無垢を仕立てることになるなんて考えもしなかっただろう。
腕の長さや胸や腰周り、膝上膝下など順に測っていき、何故だがその様子をじっと見ている悟の視線を受けながら採寸は滞りなく進んでいく。
自分は別に良いが、こうして仕事ぶりを当主直々に監視される職人はたまったものではないだろうと気の毒にも思えてくるが、流石に職人は顔色一つ変えずに傑の身体を性格に測っていった。
あちこち測ったが、ものの十分程度で採寸は終わっただろう。
長い巻き尺を懐にしまった職人が先に座敷を退出し、座敷は再び悟と二人きりになる。
「じゃあ傑、行こっか」
「ああ、さっさと行って食べてしまおう。この後もやることは山積みなんだろ?」
「いや?別に?」
なんで?と悟は首を傾げる。
「なんでって、そのために十日も前に私が呼ばれたんじゃないのか?」
「うーん、まあやることはあるっちゃあるけど、飯くらいはゆっくり行こうってば」
何かを誤魔化すような悟の物言いに傑は眉をへの字に曲げる。
もしかして特に何も無いのにこんなに早く呼び出したのか?
だとしたら一体何のために?
「君、私に言ってないことあとどれくらいあるんだ」
「思い出したら言うって!ほら行こう!予約の時間来ちゃうからさ」
急かすよう悟はそう言いながら、傑の肩をぱっと抱いた。
本当はこの場で悟を問いただしたかったが、予約時間に遅刻して蕎麦屋に迷惑を掛けるわけにもいかない。
話は蕎麦を啜りながらでも出来るだろう。
京野菜の天ざるは楽しみだったが、まずは悟に喋らせることが先だなと、座敷から出た長い廊下を再び歩きながら傑は思うのだった。
京都の五条家に傑が呼ばれてから早五日。
悟に借りた書斎の鍵を使って普段は当主しか入室を許可されていない部屋に入り、興味をそそる背表紙の本を次々選び取っていく。
本当は端から端まで目を通してみたかったが、さすがにそこまでの時間は無い。
儀式まで漸くあと五日と折り返し地点に来たものの、まだまだ傑は十分な情報を手にできていなかったのだった。
大まかな儀式の内容は悟に聞いていたが、頼まれた当時に受けた説明以上の情報は今ひとつ得られていない。
それに最後に婚礼に伴ってこの儀式が行われたのはもう百年以上も前らしかったため、悟を含め現在の五条家で実際に儀式を経験した人間はいないのだ。
であればもう、五条家に残る記録をあたっていくしかないだろう。
そう思った傑は、儀式までの有限ながらそれでも何もせずに過ごすには有り余る時間を使って儀式について調べ始めていたのだった。
五日前に儀式までまさか何もしないわけがない。と思っていたもののそのまさかであり、傑は白無垢の採寸以降特に用事のない日々をこの五条家で過ごしていたのである。
休暇だと思ってゆっくり過ごしてよ。と悟は言うが、ここ十年毎日慌ただしく働いていたため余暇の過ごし方なんてわからないのだ。
それに加えて傑は悟と一緒でなければこの屋敷を出て周辺を散歩しに行くことすらできないのである。
所謂軟禁状態ではあるものの、その分五条家の屋敷の中ならば母屋も離れも自由に行き来して良いと言われ鍵まで預かっていたので退屈はしていなかったのだった。
悟に武器庫を案内して貰ったり、当主だけが入れる中庭なんかを見せて貰ったり。
この前まで時間を合わせて夜中にマンションで会うだけで精一杯だったのに、どういうわけか悟は毎日屋敷に戻って傑と同じ座敷に布団を敷いて寝ているのだ。
傑と違って悟はいつも通りのスケジュールを多忙にこなしており、東京の高専で生徒を指導したり地方へと任務にも向かっている。
いくら座標を付けて早く戻れる手段があるとはいえ、毎日わざわざ帰るのは大変なのではないだろうか?
傑自身、監視をされているような意識はない。
どちらかといえば悟が自分の元へ律儀に帰ってきているとすら思えるのである。
それは思い込みである事を傑も自覚しているが、どんなに遅くなっても「ただいま」と言って座敷に現われる悟を見ると錯覚してしまいそうにもなるのだった。
なんだか本当に自分が悟と結婚するような勘違いを起こしてしまいそうになる。
学生時代振りに悟と長い時間を二人きりで過ごしていると、このままあともう少しと欲張ってしまう気持ちがふつふつと湧いてくる。
もちろん任務のことを忘れているわけではない。
あと十日もすれば自分は仕立てて貰った白無垢を着て、偽物の花嫁を演じることになる。
でもそれはどうたち振る舞うことが正解なんだっけ?
書斎から持ち出した古い文献を漁りつつ、傑ははたと墨書きの細い文字に目を留めた。
いくらか崩した書体ではあったものの、「呪霊」と「婚姻」の単語はしっかりと読み取れたのである。
ああこれかもしれないとぱりぱりと乾いた紙の音を聞きながら次のページをめくると、そこには祭壇の前に立つ二人との人間と丸い板のような物から出てくる呪霊、それから腹を裂かれたて苦悶の表情を浮かべる女の姿が見取り図として描かれていたのだった。
当たりだろう。
祭壇の前に立つのは呪術師である当時の五条家の当主とその花嫁、そして腹を割かれて生きているのか死んでいるのかわからない女は代役の女。
つまり自分はこれなんだと傑は思った。
呪霊は花嫁の生き血を吸っていると書かれているため、まだこの女は生きているのだろう。
なるほど、悟の言う通りこれは並の呪術師では務まらない。
本物の花嫁の存在を気付かれないように気を引きながら、儀式の終わりまで身を挺して呪霊を一手に引き受ける。
人死にを出さない方法として、悟と同じ特級である自分にお鉢が回ってくるのは当然だろう。
この呪霊は年季も入っている上に脅威であることに違いないが、なんとか出来ないわけではない。
だが、好きな男がどこかの誰かと一緒になる様子を呪霊の猛攻を受けながら見届ける気持ちは最悪に違いないだろう。
傑が守るべき本物の花嫁は、こんな邪法まで使ってまで悟が結ばれたかった相手なのだ。
どういう事情があるかはわからない。
だが悟の信頼を裏切らないためにも、自分はこの見取り図にあるような腹を裂かれて絶命しかけている偽の花嫁を演じきらなければならないのだ。
その時目に映るであろう悟の後ろ姿を、傑はいつまでも夢に見るかもしれない。
悟は自分の方を見るだろうか?
だとしたらどんな目で?
想像するとなんだか怖かった。
寧ろ儀式の最中だから一瞥もくれないかもしれない。
否、そうあるべきなのだ。
瀕死にはなるかもしれないが、なんだかんだ自分は死にやしないので安心して欲しい。
だから余所見せずに花嫁とちゃんと結ばれて欲しい。
傑は暫く眺めていたページを閉じ、本をそっと元の棚に戻した。
書斎の空気が埃っぽかったのか、緩やかな頭痛がする気がする。
本当は何冊か座敷に持っていくつもりだったが今日はやめておこう。
手に取っていた他の本も同じように棚へと返すと、傑は書斎から出て鍵を閉め、よろよろと座敷まで戻っていった。
儀式まであと五日。
あと五日で悟は結婚してしまう。
その相手はもしかしたらもうこの屋敷のどこかにいるのかもしれない。
傑はまだ顔を合わせたことはなかったが、日取りも近くなってきている頃だしそろそろ挨拶に行くタイミングが訪れるだろうか。
率直に会いたくはなかった。
出来れば顔も見たくないのだが、そういうわけにもいかないだろう。
それにこんなことを言ったってしょうがないのである。
その相手は悟の本物の花嫁で、これからは悟の妻となる人なのだ。
この先悟と親友として付き合っていく中でその妻の存在を無視し続けることなんて出来るはずがない。
だとすれば第一印象は良いに越したことはなかったが、だんだん酷くなっていく頭痛の最中ではうまく思考もまとまらず、ただただ「会いたくないなあ」と取り繕わない気持ちばかりが傑の中でぐだぐだと管を巻いていたのであった。
ぴったりとくっつけて敷かれた布団をわざわざ離す恥じらいなんて今更無い。
傑の布団の枕から頭三つ分ほど先に置かれた枕には悟の頭が置かれており、聞こえてくるのは規則正しい寝息ばかり。
おやすみ。と言ってそれぞれ布団に潜り込んでから一時間ほど経った頃だったが、傑は目を瞑っては開けてを繰り返し、向こうを向いて眠る悟のうなじの刈り上げをじっと見つめていた。
今夜は特に寝付きが悪い。
多分明日も、明後日もうまく眠れないだろう。
だって眠ってしまった今日が終わって明日が来てしまうのだ。
時間が進んでいくごとに、悟の結婚の日が近づいてくる。
止める事は出来ない。
ただそれを待って、受け入れるしかないのだ。
悟の後ろ頭を眺めながら、胸の奥が張り裂けそうな心地を覚える。
やっぱり好きだった、どうしようもなく。
出来る事ならばこの手を伸ばして悟のさりさりとしたうなじに触れたい。
背中から抱きついてその温かさを感じたい。
でも自分と悟にはそんなことをする理由がないのだ。
セックスの延長であれば人恋しいからと触れにいくことが出来たかもしれない。
それかもう少し若ければじゃれ合いの延長でもう少し枕を近づけられたかもしれない。
毛布にくるまりながら傑は布団の端に身体を寄せて少しだけ悟の方へと近づいてみたが、見つめるうなじが少し大きくなっただけで大して変わらない。
寝入っているであろう悟のすーっすーっと心地よさそうな寝息を聞きながら、傑は小さく口を開いた。
「ねえ、悟」
返事のない背中を見つめ、そのままぽつぽつと話しかける。
「儀式が終わって君の婚姻が成立したらさ……私も君の二番目くらいの花嫁になれないかな」
吐く息と、言葉の語尾が震えていた。
鼻の奥がつんとなり、尻すぼみになる最後の言葉はぽとんと布団に落ちて消えていく。
眠っている悟にこの声が届く事は無い。
傑は自分が放った言葉を自分の耳で聞いて、改めてはっとした。
何を馬鹿なことを口走ったものだろうか?
だが思い詰める胸の内は当に感情の許容量を超えており、こんなことを口に出さずにはいられなかったのである。
一番優先される存在でなくてもいい。
二番目、三番目でも良いから、いっそ悟に全部貰って欲しかったのだ。
しかし、差し出したところで受け取っては貰えない。
所詮自分は偽の花嫁なのだ。
きっと今度の儀式は滞り無く終わり、自分はまたどこにやることも出来ない悟への恋を燻らせる日常へと戻っていくことになる。
役目を終えたとき、果たして自分はどんな気持ちで白無垢を脱ぐのだろうか?
そしてその白無垢は呪霊を引きつけることにより赤くも黒くも汚れるだろうから、最後は処分されてしまうのだろう。と傑は思うのだった。
初日に採寸した傑の白無垢が仕立て上がったのは儀式当日の朝であり、ぎりぎりの時間に持ち込まれたそれを傑はたくさんの使用人に囲まれながらばたばたと着付けられていく。
普段着ている法衣や袈裟よりもずっとパーツが多くて重たい。
まさか自分が花嫁衣装なんかを着るなんて思わなかったな。と大きな姿見を前に軽く化粧までされながら傑は初めて見る白無垢姿の自分を眺めた。
女装とは少し違う。
飽くまで白無垢を着た傑だ。
こんななりでも白無垢を着れば一丁前に花嫁に見えるもんだなと他人事のように考える。
それから悟はこんな姿の自分を見て果たして何を言うだろうか?
我ながら存外似合ってはいると思う。
こんななりでも、儀式の最中に入れ替わる前までは自分が悟の花嫁でいられるのだ。
それは嬉しくて、虚しい。
この鏡に映る偽の花嫁は、もうあと僅かの命なのだ。
「夏油様、座敷の準備が整いました」
開いた襖の向こうから顔を出した使用人の一人が傑を呼ぶ。
「ああ、はい。では向かいます」
そう言って傑が姿見の前から一歩踏み出すと、白無垢の裾を持っていた使用人も一緒に歩き始めた。
儀式は奥座敷で執り行われる。
普段はぴしゃりと雨戸を閉められており、日の光ひとすじ入らない薄暗くてじめじめとした座敷だった。
婚姻の場所として相応しいとは決して思えなかったが、禍々しい儀式を行う上ではうってつけなのだろう。
傑が奥座敷へ入ろうとしたとき、ちらりと視界の端に白いものが映る。
思わず頭を向けたが綿帽子を被っていた所為でよく見えなかった。
しかし正体はなんとなくわかる。
傑と同じ白無垢を着た本物の花嫁がもう近くにいるのだろう。
今から自分が身代わりをして守るべき、悟の一生に一度の人。
傷一つ付けてはいけないと思う。
呪霊に生き血を啜らせるつもりなんて傑はなかったが、だとすればどう引きつければ良いのだろうか。
いっそその呪霊を取り込んでしまうのはどうだろう?
だがそれだと儀式が台無しになってしまうのかもしれない。
それでは本末転倒で、悟は結婚できなくなってしまう。
こんな邪法を実戦してまで結ばれたかった相手との結婚が駄目になってしまったら悟はどう思うだろうか?
そもそも五条家の当主の結婚にこんな危ない儀式は必要ないのだ。
実戦すれば当主のみならず花嫁にも危害が及ぶ危険性が発生するので本当はやらなくても良い。
でも悟がやると決めたから、これは成功させなければならないのだ。
何か思惑があるのだろう。
それが何かなんて傑にはわからなかったが最早それはもうどうでも良い。
難しい挑戦をするための手助けとして悟が傑の手を借りようとしてくれているのだ。
その信頼を裏切ることなんて絶対にできない。
なにより傑は悟の喜ぶ顔を見たかったから、託された期待には応えたかったのである。
本物の花嫁の姿を直接見ることは叶わなかったが、奥座敷に入ると物々しく設けられた祭壇の程近くに御簾を掛けられた区域がある事に気軽く。
向こうにある人影こそ、先ほどの本物の花嫁なのだろう。
すぐ入れ替われるぎりぎりの近さがそこなのかもしれないが、そう言っても距離があるので果たしてどう立ち回るべきかと傑は奥座敷を見渡して一通り考える。
「傑」
こっち。と祭壇の前に立っていた悟が傑を手招いていた。
普段着ている白い装束に似た、しかしもっと白くて仰々しい身なりは恐らく当主の正装なのだろう。
「似合ってんじゃん」
「どーも。男の白無垢なんてもうこの先見る機会なんてないよ」
「照れてんの?綺麗だよ」
「はは、ありがとう」
悟の言葉を軽く受け流しながら、傑は綿帽子の中で緩く顔を伏せる。
白無垢姿を笑い飛ばされるとは思っていなかったが、ここまでストレートに褒められるとどうしても嬉しくなってしまう。
いまだけ。
この瞬間だけは悟の花嫁は自分だ。
ほんの数十秒のことかもしれない。
しかしそのほんの数十秒をこれから先もずっと胸に抱いて生きていく。
それから言うまでもなく、いつまでもそうやって感傷にばかり浸っている場合ではないのだ。
儀式が始まると同時に傑が受けた任務も始まる。
気を抜かず、しゃんとしなければならない。
なんとか出来ると思っているが、これから出てくるのは特級相当の呪霊なのだ。
長い間五条家で飼われ、何人の女の生き血を啜ったのかもわからない。
書斎の資料でも見てはいたが、さて実際にはどんな姿の呪霊が現われるのか。
薄暗い部屋の蝋燭が全て灯り、充満した香のにおいにまだ鼻が慣れないうちに隣で悟が口を開く。
術の詠唱とは違う、祝詞と呪詛の混じった言葉の羅列は初めて聞くものだったが、なんだかそういうことが文献にも書いてあった気がするなあと記憶を掘り起こしながら考える。
ともすればさっそく祭壇の中央に置かれていた漆塗りの箱がガタガタと動き始め、箱を包むように巻かれていた札が焼け落ちるように灰になっていく。
悟の呪力にびりびりと傑の肌の表面が痺れ、一気に場が緊張する。
そして完全に崩壊した箱の中から禍々しい呪力の塊が出てきたかと思えばそれは一瞬で残穢となり、次の瞬間には祭壇の頂点の鏡からどろどろと鶏と豚を一緒くたにしたような呪霊が蛇のように長い舌を垂らして二人の前に現われたのである。
目が覚めるような呪力量は流石に特級であるらしい。
手持ちにも欲しいところだったが、今日は手を出すわけにはいかないのだ。
さてこれをどう引きつけるか。
そもそも入れ替わるタイミングはいつなんだ?
ぱっと傑が御簾の方を見ればそこにはあると思っていた人影がいない。
あれ?と思ったと同時に、傑の前に赤黒い刃の様なものが飛んで来ようとしていた。
恐らくさっきの呪霊の舌だろう。
しまった!と向かってくる刃が切り裂きそうな臍の辺りに呪力を込めようにも上手くいかない。
そして気付く。
それもそうなのだ。
文献で見た腹を引き裂かれた偽物の花嫁と同じように、きっとこの一手は受けないと何も始まらない。
やっぱりああやって生き血を食らわれている襤褸雑巾のような人影は自分だったのだ。
傑はせめて身構え、自分の身体が畳の上に叩きつけられるイメージをする。
受け身を取ろうにも無駄な足掻きかもしれない。
ふっと息を止めてそれでも呪力を練ろうと試みると刃が目前まで迫っていた。
バチッ!と座敷に轟音が響き渡る。
かと思えば赤黒い刃は傑に触れることなく跳ね返り、呪霊は祭壇を突き抜けてがらがらどしゃんっと地面にひっくり返っていったではないか。
軽々と呪霊を跳ね飛ばした赫い閃光は奥座敷の畳や壁も吹き飛ばし、瓦礫の山になった裏庭が覗いている。
一体何が?と思ったが、傑はこの時ようやく悟が自分の手を握っていたことに気がついた。
どうやら自分は悟の無限の中にいて、あの呪霊は赫に吹き飛ばされたらしい。
それっていいんだっけ?
瓦礫の中でもがき苦しむ呪霊は致命傷こそ負ってはいるものの、がさごそとまだ蠢くことは出来るらしい。
恐らく悟はわざと急所を外したのだろう。
「傑、こいついる?」
「は?いらな……いや、一旦貰っておこうかな」
「おっけー」
じゃあいいよ。と悟が綿帽子の中を覗きこんでにこりとするので、傑は遠慮無く手持ちの呪霊を数体繰り出して瓦礫の中の呪霊を押さえつけると、しゅるしゅると手の中に収めていってしまったのだった。
しんと静まり帰った崩壊した奥座敷には、腰を抜かして部屋の隅に這って逃げようとする五条家の老人が目を見張っている。
「一体何人の女の生き血を吸ったんだろうね」
「やっぱり知ってた?」
「調べたんだよ。君が何にも教えてくれないからね」
すぐに取り込むのは憚られたのか、傑はちっと舌打ちをしながら呪霊玉を懐にしまう。
今日まで五条家の奥の奥で厳重に封印されていた呪霊も傑の手に掛かればこんなものかと少しおかしくもなってくる。
「実家なのに派手に壊したもんだね」
「良いよ別に。こんなカビ臭い座敷あってもしょうがないし」
もう使わないしね。と悟は言った。
そもそもこの邪法を編み出したのは数百年前の五条家の当主であり、結ばれない相手との婚姻を家に認めさせるために呪霊を引っ張り込んだのが始まりである。
その当時は結果として当主の花嫁は呪霊に取り殺されてしまったが、根を張った呪霊とこの儀式が長い時を経て方法がだんだんと確立されていき、こうした花嫁の代役を立てるやり方に最終的に落ち着いたのだった。
この儀式は五条家でも限られた人間にしか伝えられず悟も幼い頃からなんとなく知っていたものの、存在をちゃんと明かされたのは高専を卒業した後だったのだ。
おおよそ百年ごとにこの邪法を試そうとする当主が現われ、呪霊は順繰りと新鮮な生き血を啜って着実に力を付けていく。
一時期はこの儀式を突破すれば次の代に六眼が生まれると信じられた時期もあったらしいが、無論そんな実績は無いのだ。
呪術師の元で育てられていった呪霊は顕現する度に今日悪人って息、そろそろ娘の生き血一つでは収まってくれなくなってきていることには儀式の秘密を知る老人達も勘付いていた。
しかし、呪術師が何人寄ってたかってもどうにも出来ない状況がこれまた百年近く続き、こうして悟の代まで受け継がれてしまっていたのである。
もちろん悟はこの邪法を知ったときから自分の手で呪霊を祓う気満々だった。
花嫁の生き血を食らう呪霊なんて悪趣味なもの家にいつまでも置いておきたくはないし、とはいえ特級レベルまで育っているようだから実戦で使いたければそれなりに戦力になってくれるはずだ。
それに呪霊を呼び出す条件として必須になる儀式に家の人間も集めて傑と目の前で退治してしまえば、傑の事をまだ一般出の呪術師と軽く見ている老人達の度肝を抜くことも出来るだろう。
これは一石二鳥に違いない。
もちろん儀式に伴って傑には傷一つ付けさせないつもりだったが、万が一もあるので硝子に話を付けてすぐそこで待機してもらい、何かあったら根こそぎ祓ってしまうつもりだったのだ。
結果的に難なく収まったため、硝子はこのまま母屋の座敷でもてなされて美味い酒をたらふく飲んで帰ることになるだろう。
「呪霊の発生条件に儀式が必要なのはわかる。でも私が花嫁になる必要って本当にあったか?」
傑は綿帽子をずらしながら悟を見上げ、白無垢に少し被った埃をぱっぱと払った。
「あるよ、大アリ。傑の白無垢見たかったから」
「はあ?」
傑は目を見開いて、ぽかんとした表情を浮かべた。
なんだって?と傑が問いかけようにも言葉を見失っている最中、そんな二人の側にすっと白い装束の人間が現われた。
綿帽子を取って傑と同じように化粧をしている。
御簾の向こうにいた本物の花嫁だろう。
「旦那様、お怪我は」
「僕も傑もなんともないよ。もうこの座敷全部片して良いから」
「承知致しました。」
白無垢の女は悟と傑に頭を下げると、わらわらと集まって片付けを始めていた使用人に交じっていってしまったではないか。
「あの人は……?」
「分家から出張して貰ったんだ。流石にうちの年寄りも分家の勤め人の顔までは知らないからね」
「勤め人って……」
格好は目立つものの他の使用人と同じように働き始めるその人を見て傑はぱちぱちと幾度も瞬きをする。
あの女性も特に花嫁なんかではない?
分家の人で、本家の老いぼれも顔を知らない方が良い?
それは何のために?
「どういうつもりだ悟。そもそも君は結婚しないのかい?」
「うーん、そこにいる花嫁が結婚してくれるならするかも」
「え?」
「傑、このまま本当に僕の花嫁になってくれない?」
すっと悟の手が綿帽子の中へと滑り込み、向き合った傑の頬を撫でる。
いまだ傑は目をぱちくりとさせていたが、やがてはっとすると頬に触れていた悟の手をぱっと取った。
「な、に言ってんだ君は!花嫁も何も、私たち別に付き合ってもないだろ」
「でも僕ら好き同士じゃん?それに傑は僕の花嫁になりたいみたいは話してたし、じゃあありなのかなーって」
「いつだよそれ!」
「夜中言ってたじゃん」
「だから夜中っていつ……」
そう言いかけ、「あ」と傑は口をつぐんだ。
心当たりはある。
寝ていると思っていた悟の背中にぼそぼそと呼びかけていたあの言葉は、その実しっかりと届いてしまっていたらしい。
今思うと顔が真っ赤になるくらいに恥ずかしくって、くらりと軽く目眩すら覚えてしまう。
「あれ、は……聞こえてないと思ってて」
「聞こえてたよ傑の声は。寝てても聞き逃さないしね」
「はあ?なに、意味がわからん」
もう、君は。とどんな顔をすれば良いのかわからないまま傑はその場で腰を抜かしてしまいそうになる。
なんだか色々なことが恥ずかしい。
こんな座敷のど真ん中で、周りが働いているのを尻目に痴話喧嘩のようなものをしているのも恥ずかしい。
しかし同時にひどく安心して、どっと疲れが肩や背中に押し寄せてくる様だった。
「とりあえず、白無垢は脱がせてくれ」
「え、それ花嫁にはならないって……」
「そうじゃない!重いんだよこれは!」
君も着てみればわかるさ!と傑はじとっと悟を見上げて軽く睨む
「でも、良いのかい?君こそ。こんなでかい花嫁なんだぞ?」
「でかくて綺麗で最高じゃん」
抱き締めて良い?と悟が尋ねる。
すると傑はそれには答えず、すいっと悟の懐に入って胸に頭を預けた。
「そういうことは聞かなくて良いんだよ」
「はは、その通りかも」
懐に収まる傑を緩く抱き締め、かと思えば悟はまた綿帽子の中を覗きこんで傑の唇を掠め取ったではないか。
相変わらず周りに人が忙しく行き来している。
綿帽子の中であるとはいえ、何をしてるかなんて一目瞭然だろ
「今のは聞きな」
「良いって言うでしょ?」
「言うけどさ」
傑は口を尖らせながらついっと悟の鼻先を自分の鼻先で擦ると、今度は少しだけかかとを上げて傑の方から口付けた。
分厚い草履を履かされたと思っていたが悟もそうだったらしく身長差はいつもと変わらない。
なんだか悔しいが、やっぱりこの腕に抱きすくめられるのは悪くなかった。
慣れない白無垢は重くて肩や腰に着ているが、どうにも悟の腕の中からは離れがたい。
綿帽子の内側で、忙しく働く五条家の人々の物音を聞きながら、傑は悟の柔らかな体温に頬を傾けるのだった。
<了>