溝に落ちる サングラスの向こう側の大きな目をさらに大きく見開いて、悟は傑を凝視した。舐めかけのイチゴ味の飴を片手に握ってそのサングラスをずらしたかと思えば、今度はずいっと傑の方へと迫ってくる。
悟の目線は傑の顔じゃない。腹だった。
「なあ傑、なんともない?」
「は?」
先ほどからの悟の行動に既に訝し気な表情を浮かべていた傑は、今一つはっきりとしない悟からの問いかけに首をかしげる。
なんともないって何が?何について答えるべきなんだ?
「顔色でも悪く見えるかい?別に風邪気味でも何でもないよ」
そうは言いつつも悟が見ているのは傑の顔ではなく腹だ。もしかして悟の目にはこの腹の中に収めた呪霊がよからぬ動きをしているように見えているのだろうか?
だがそうだとしたら悟は傑に言葉で様子を伺う前に、祓うからさっさと呪霊を出せと言ってくるだろう。
「そか…ならまあ、いいんだけど」
「なんだよ、歯に物が詰まったような言い方するな」
「俺それ実際に使ってるやつ初めて見たわ」
「私だって初めて言ったよ」
しかし今の悟はそう表すにふさわしい態度でしかなくて、はっきりと言葉にしない様子は普段の悟からは考えられなかった。
どこか要領を得ない。傑に質問してきた時点で悟もまだ、何かしらの引っ掛かりを自分の中で消化できていないということだろうか?
「ここに何かあるのかい?」
傑は悟の注目を集めていた腹をばふっと自分で叩いて尋ねた。
すると悟は、うーんまあ…とやっぱり語尾を濁すばかり。
悟の様子がおかしい。今悟の目には一体何が映っているっているというのだ?
何だか気味が悪くもなってくる。高専に入ってから不可解な何かにわずかながらにも恐怖を覚えたのはこれが初めてだった。
「君には私のここに何が見えてるんだ」
「…わからん」
「はあ?」
「因みに呪力が絡むものじゃねえよ。だから俺の目にもはっきり映らねえんだけど…なんてのかな、傑になかったものがそこにある気がするっつうか」
「私になかったもの?」
なんだよそれ。と聞けば、だからそれがわからねえの。と悟が答えた。
「どっちかと言えば硝子の専門な気もする」
「…ますますわからない」
悟が見ているものは呪力が絡まないもの。そして傑には今までなかったもの。悟にははっきりと判断できない、硝子の専門が絡むもの。
「つまりそれは、私自身のこの身体になにかあるってことかい?」
「ニュアンスはそれが一番近いな」
「病気とか?」
「そこまではわからねえんだよ、でも病気とも違う気がする」
何かを掴めたようで、やっぱり話はわからないにまた戻ってしまった。
「ちょっと硝子のとこ行ってくるわ、どこいるんだっけ」
「この時間なら部屋じゃないか?私も行くよ」
「え、来んの?」
「当たり前だろ」
何言ってんだ。と傑は言った。
しかし悟は、まあいいけど…と何かを気にかけるような表情を浮かべるばかりだったのである。
悟が気づいた傑の中にある、傑には今までなかった何か。
呪力の絡まない、はたまた病気でもない。
突如現れたくせに、居座ることに違和感を覚えさせなくて判断が出来なかったその存在は、傑の腹の中を実際に覗き込んでみてようやくわかった。
そこには子宮が存在していたのである。
「エコー写真を見せてもまあよくわからないと思うけど、私の腹の中には子宮があるらしい。しかも子宮だけね」
「子宮だけ?」
「そう、だけ。通常ならそこから伸びているはずの膣はどこにも見えなかったみたいだ」
傑は検査した高専直属の医療機関の名称が入った封筒を悟に渡すと、まあ見てみるといいさ。と言った。
「私は正直今も特になんともないんだけれど、悟は前から気づいてたのかい?」
「…最初はなんとなくな」
悟が傑の身体の変化に気づいたのは数週間ほど前のことだった。
腹のあたりに、何か知らないものがある気がするが違和感というほどでもない。気のせいで流せる程度だったから何も言わずに過ごしていたけれども、だんだんその何かあるかもしれない予感が日を追うごとに大きくなっていったのである。
「呪力による何等かではない、私の身体の中で内臓として構築されていたから違和感を覚えなかったってことか」
「結果論になるが多分そうだな。今思うと俺は見てたじゃなくて勘で気づいてたのかもしれねえ」
「なるほどねえ」
そう言って傑は相槌を打ち、自らの腹部に手を乗せた。
この腹の内側には子宮が存在しているらしい。
さんざん検査して、それを指し示す画像もこの目で見たがやっぱりまだ信じ切れていなかった。
「なあ傑、聞くけどさ」
「ああ」
「女って生理来るじゃん?子宮から血でるやつ」
「聞くにしてももっと言い方があるだろ」
「いやでもそうじゃん。それってさ、お前もくんの?」
「私?」
言われてみればそうだ。
腹の中に出来ていた子宮がその臓器として生きているのならば排卵が行われる可能性はゼロではないだろう。
「それは…どうなんだろ」
「そんでもし来てもさ、その血ってどっからでんの?」
「どこから…?」
悟の疑問はもっともだった。
傑の中にあるのは子宮だけ。だから今の状態だと、もし生理が来たとしても血を輩出する通路がないのである。
「これは検査の時に聞いておくべきだったな…」
「まあ検査中はそういうの考える余裕ないよな」
「施設の中をあちこち行かされたしね」
「しょうがねえよ。硝子もこの結果知ってるんだっけ?」
「知ってるはず」
「じゃあ先に硝子に聞いてみるか。硝子の方が身近な生理現象だし医者に聞いてるかもしんねえ」
「…確かに」
この時傑は自身が思っていたよりも動揺していたことに気が付いた。
そして悟が思いがけずこの事態を真剣に受け止めていて、あれこれ考えていることにも驚いたのである。
呪力の影響でもなく突然内臓が作り替わったことを気味悪がることもまして揶揄うこともせず、傑の側に立とうとしてくれている。
どうしてそんなに?と思う気持ちもあったが、そうして寄り添ってくれる悟の存在が今の傑にとっては何よりも心強かった。
突然陥った得体のしれない状況に、自分一人ではないと思わせてくれるのだから。
そんな悟に手を引かれながら硝子を尋ねると、悟が考えた通り硝子もその疑問にたどり着いていたようだった。
「先天的にそういう身体の作りで生まれたという事例はある。だから対応しようと思えばできなくもないと思うけど…夏油のその子宮は突然現れたわけじゃないんだよな?」
硝子はそう言って火をつけようとしていた煙草をぱっと口から外して指先でくるりと回した。
「たぶんそうだと思う」
「だったら通路もこれから出来てくるって可能性はない?」
「え?」
「君のそいつはまだ未完成かもしれない」
傑は目を丸くするが、悟は「それはあるな…」と納得したように頷いていた。
じんわりと傑の腹の中で育っていった子宮はこれから外へ繋がる通路を作ろうと今でも成長を続けている。違和感を帯びない傑の中の微量な変化を見つめ続けてきた悟には特に有力だと思える仮説だったのだ。
「逆にその可能性があるから下手なことはしない方がいいってこと…?」
傑がそう言えば、硝子はたぶんな。と言った。
「でも飽くまで仮説だ。そうなるとも限らないし、ましてそこにある子宮が子宮として機能するかも定かじゃない」
要ははっきりとしたことはなにもわからない。ということなのだ。
当人の気持ちを考えればそれでは困ることもわかっている。だが今までに例がないこの現象は、どう説明しようにもはっきりしないし、逆に言えばこじつけようと思えばいくらでもこじつけられてしまうのである。
「今は、経過を見るしかないみたいだね」
傑はそっと自分の下腹部に手を乗せてシャツの上からその場所をさすった。
誰よりも不安だろう。だが今の時点でどうすることもできないのは傑本人が一番よくわかっている。
目の前の硝子も、ずっと傍にいてくれている悟も、何も悪くないのに二人して俯いてしまっているから逆に申し訳ない気持ちにもなってきてしまうのだった。
「硝子ありがとう、悟も。よくわからないことだらけだけど、私なら大丈夫だから」
そう言って緩く笑った。少し無理をした自覚はあるものの、気持ちは比較的落ち着いている。
「傑、なんかあったらすぐ言えよ」
「わかってるって」
傑よりも不安そうな表情を浮かべながら悟は傑が腹の上にのせている手の甲に手のひらを重ねた。あたたかなその感触に思わず泣きたくなりながらも、傑は笑顔をまま頷くのである。
何事は急に訪れる。
ほんの少し前までは何ともなかった腹がずしりと鈍く重くなり、よじれるような痛みがあっという間に広がっていった。
その場に立っていられないほどの鈍痛に傑は思わずしゃがみ込むと、途端に胸の奥のむかつきに支配される。
部屋のトイレに這うように転がり込んで漸く胃の中のものを吐くも、すっきりするどころか余計に気分が悪くなっていく一方で、ぼろぼろと涙がこぼれ、絞り出された胃液に喉をぎゅっと狭めたかと思えばぶわっと脂汗が噴き出て手足に緩い痙攣が生まれた。
腰も重く熱っぽい。自分の身体であるはずなのに何が一気に押し寄せているのかもわからなくて頭の中はどんどん真っ白になっていく。
そのうちにぬるりと股間に液体が這うような違和感を覚える。
まさかと思った。
だが今の傑にはもうそれを覗き込む気力はなかった。
「傑!」
すると、背後でばたんっどたどたと大きな音がしたではないか。
自分を呼ぶのはきっと悟の声。
しかし床に座り込み、項垂れたままの傑は悟を振り返ることもできない。
「傑!おい傑!」
物音を聞きつけ、慌てて傑の部屋に飛び込んできた悟が、苦し気に背中を丸めたままぐったりとしている傑に呼びかけながらその身体を抱きしめた。
そしてすんっと嗅ぎ慣れない生々しい臭いが微かに鼻を掠めた事に気が付く。
これはもしかして、と悟は思った。
一連の出来事を聞いた硝子は出かけていた外部研修から高専へ戻ると、まっすぐに医務室へと向かっていった。
人通りのない廊下の真ん中を歩き、がらりと引き戸を開けると、医務室のソファーの上に人影の姿を認める。
聞いていた通りそこには悟と、それから毛布を頭から被った恐らく傑の姿があったのである。そして唯一毛布から見えている傑の片手は、悟の手としっかりと結ばれていた。
「お、硝子おつかれ」
「…五条もな」
ぼんやりとそこに座っていた悟と目が合い、硝子は引きつった笑みを浮かべた。
「間に合ったみたいだわ」
「間に合った?」
「通路、出来たっぽい」
悟の言葉に硝子は、そういうことかと頷いた。
傑に生理が来た。ひどく出血したらしいが、すぐに駆け付けた悟がどうにか対応したおかげでなんとか事態は一時的に収拾がついたようである。
研修先でこの騒動を知った硝子は急いで帰ってきたが、その必要はなかったみたいだとまずは胸をなでおろした。
万が一生理が来た時の対応を、傑だけではなく悟にもこっそりと教えておいた機転が功を奏したのだ。こういう事態で一番冷静に対応できるのはどちらかといえば悟の方だろうと考えた硝子の判断は間違っていなかったのである。
「夏油は寝てるのか?」
「たぶん」
「大丈夫そう?」
「わかんね」
悟はそう言いながら、毛布に覆われた傑の頭をちらりと見た。
「わかんねえけど、俺がいるから」
ぽつりと返ってきた悟からの返事に、硝子はやっぱり小さな声で「そうだな…」と相槌を打つ。
大丈夫かなんてこの状況で聞くべきではないのだ。それは答えのない質問なのである。
大丈夫かなんて判断できるわけがない。でも悟は自分が傍にいると言った。間違いなく「はい」よりも「いいえ」よりも相応しい、この場に必要な答えなのだろう。
「なんかあったら呼べ、何時でもいい。今夜はどうせ起きてるから」
「ん、わかった」
ありがと。と悟はひらりと医務室を出ていこうとする硝子に手を振った。
傑は相変わらず毛布の中で動かなかったので、硝子はもうそいつは寝ているということにしてあえて声をかけなかったのである。
がらがら、と引き戸が締まり、しんとあたりが静まり返るともぞりと毛布が動き出す。
「悟…」
かすれた声が悟を呼んだ。やっぱり傑は起きていたらしい。
「傑、まだ腹痛い?」
「重くて、痛い…」
「痛み止め飲むか?」
「いまは何も口に入れたくない…」
「わかった」
傑の頭から毛布がめくれ、すっかりとぼさぼさになった髪が傑の顔を隠している。跳ねた髪がくすぐったいだろうと悟が傑の視界を遮る髪を指先で分けてやると、自分を見上げる傑の目と視線が真っすぐに交わった。
「ごめん、悟…」
「いいって」
悟が傑を部屋から引っ張り上げ、一通り手をまわして医務室に落ち着いた時から傑は繰り返し悟の名前を呼び、「ごめん」とばかり言うのだ。
「悟」
「うん」
「…悟」
ごめん、とまた小さく呟いて傑は悟にしがみつくようにしながら悟の胸に額をこすりつけた。
「気にすんなって」
「…うん」
「なあ傑」
指を絡めて握った手に悟の方から力を籠める。
「俺がいるからさ」
そう言って悟は傑の頭を支えるように繋いでいるのとは反対側の手を伸ばし、そのまま背中を丸めて毛布ごと抱きしめた。