「**を**から***たなら」「目を閉じて、D」
「……ん」
言われるままに目を閉じると、手袋をしたままの指が俺を褒めるように頬を撫でる。
次いでしっとりと重なってくる、あたたかい唇。
触れあわせているだけなのに、なぜか甘やかされているような心地好さを感じる。
キス一つで人を甘やかせる男なんて、少なくとも俺は一人しか知らない。
ちゅっ、と小さな音を立て、唇が離れる。甘さの余韻にほぅ、と息をついた俺の顎を軽くくすぐってから、ロジェールはゆっくりと顔を離した。
「甘いね」
「はちみつ、みたいだ」
まだ息がかかるくらいの距離で囁くから、俺も負けじと囁き返してやる。
ロジェールはふふっと笑って、「それは光栄だな」と呟いた。
……狭間の地では、蜂蜜は貴重品だ。蜂を育てて蜜を取る、などという気長な商売をやる奴は絶えて久しい。ほんの一部の行商人が旅の合間に巣箱を設置している程度で、甘味が欲しいなら野に咲く花を摘んで舐めた方が早いくらい。
そして、そもそも、俺と弟には甘味を欲する余裕などなかった。
俺たちは、日々を生きていくだけで精一杯だったから。口にするのは塩を振らずに焼いた肉、食べても腹を壊さないと学んだ一部の植物。味のしない乾いたパンはご馳走だった。
そんな俺……俺たちの食事の事情を知ってから、ロジェールは俺にさまざまな嗜好品を与えるようになった。
甘いワインやスパイスを効かせた干し肉。どこから手に入れたのかわからない、砂糖と麦を固めて作った菓子。
こんなものは初めて食べたと笑って見せたその夜、ロジェールは一人で静かに泣いていた。あまいジャムも型抜きされたクッキーも知らない子供が居たことを、君と旅をして初めてちゃんと知ることができたんだ、と。彼ははらはらと涙を溢しながら、そう語ってくれた。
俺はただ「そうか」と呟いて、泣き続けるロジェールの頭を抱き締めていた。
あまい菓子を食べたことのない子供、恵まれぬこども。それがロジェールのあの崇高な理想とやらに反するものであることは、おそらく間違いなかった。
ロジェールは恵まれぬ者全てを救いたいと願っているが、それは不可能だと俺は確信している。
……俺が蜂蜜の甘さを知ったのは、褪せ人として正しく死ぬために毒を煽ったときだった。
手のひらにおさまる綺麗な硝子の瓶、満たされたのは紅い毒。神のもとへと至るための神聖なる雫。
皆の祈りに背中を押され、褪せた瞳で飲み干した。
蜂蜜と毒を混ぜた紅い葡萄酒。驚くほど甘くて、甘さの奥に苦味を孕んでいる。
ロジェールのキスは、どこかそれを思い出させる味がした。
だからこそ、俺は囁いたのだ。はちみつみたいだ、と。
「……僕はね、D」
俺を抱き寄せながらロジェールは微笑み、耳朶を甘く噛みながら呟いた。
「褪せ人として生まれ直すために、僕は毒を飲んだんだ。赤ワインに蜂蜜と致死毒を混ぜた毒を……文献を漁って見付けた儀式に倣った、あまい毒の雫を」
それは、君が飲んだのと同じ毒なのかもしれないね。
ロジェールはうっとりとした表情で語り、俺を強く抱き締める。
「それが君との繋がりになるなら、どんなに……幸せだったか」
「神のために死に、神のために褪せ人として起き上がるための毒だ。それが幸せかどうかなど、関係ない……と、思う」
……普段なら、そろそろ議論を投げ出しているところだ。
ただ俺を包む腕の温かさに溺れ、何も言わずにそこでたゆたうことを選んでいた。
けれど、今日の彼は……いつもと様子が違いすぎて、俺はよくわからないまま不安を掻き立てられていた。
「そうだね……ああ、そうだ。神のための死に僕が介入する隙なんてない」
「ロジェール?」
「それでも僕は、君との繋がりが欲しい。たとえ道を違えたとしても、気持ちのどこかを繋いでおけるように」
ロジェールは俺を抱き締め、肩口に顔を埋めたままでぼそぼそと呟き続けている。
それはとても聞き取りにくく、半分ほどしか意味を拾い上げることができない。
わかるのは彼が何かを抱え込み、一人で抱えきれない不安と諦念をつらつらと吐きつらねているのだということだけ。
俺はただ彼の背に腕を回し、抱擁に応え続ける。ほんの僅かでもロジェールの苦悩を軽くしてやれたらと思い、またきっとそんなことは出来ないのだろうと諦めながら。
ああ、とロジェールがため息をついた。
「君を……神から、黄金律から奪えたなら」
それが叶うなら、ぼくは。
ロジェールは吐息のような声で呟くと、そのまま口を噤んでしまった。
叶わないだろう願いと俺の身体をまとめて抱き締め、せめて甘やかそうというのか優しく頬擦りをしてくれる。
無理なんてしなくていいから、ただもう一度キスをしてほしいと俺は思った。
あの蜂蜜みたいなキスは、ロジェールにしかできないもので……そして一時、俺を黄金律から切り離す甘い毒のようなものだから。
ロジェール。そういう意味では、お前は俺を神から奪い去ることが叶っている。
お前が思っている以上に、致命的なほどに。