未投函の懺悔 しとしと、ぽつぽつ、と書斎の窓ガラスを打ちつける雨音が醸し出す湿った空気が、まるで時間の流れさえ鈍らす錯覚をもたらすような。そんな雨の日のことだった。
一鶴さんから頼まれて書斎で探し物をしていた時、彼がいつも座っているデスクの引き出しの奥の方に、紙の角が覗いているのが目に入った。
何の気なしに引き出してみると、それは封蝋のなされた手紙のようで、封筒の隅に遠慮がちに書かれた「天之橋一鶴より」の文字を見れば、一鶴さんが誰かに送り損ねたものだと気づくには容易かった。
「見つかったかい?」
見つけたことを秘密にするか思案する間もなく聞こえてきた一鶴の声に、美奈子はハッとして振り返る。
「あっいや、そうじゃないんですけど。これ、たまたま見つけちゃって……」
そう言って差し出す手元に視線を下ろした彼は少しだけ目を見開き、「ああ、それは」と懐かしむような声で呟いた。
「ここにしまっていたことも忘れていたくらい遠い昔にしたためたものだ。……こんなに傍にあったのか。」
手紙を手に取った一鶴のあたたかな瞳が優しく細められていく様には、彼しか知らない綺麗な思い出の煌めきが見えるようで、胸がちくりと痛むような心地になる。
『もう偽物の恋はいらない……私もそろそろ、本当の姫に出会いたいものだよ……。』
時折リフレインしては泡のように消えていくあの言葉が、また美奈子の柔らかな心臓を掠めていく。
いつもこうだ。わたしは、人生を生きた年数が彼より20年も少ないせいで、この人が積み上げてきたものに近付けない。この人の核に、触れられない。彼の綺麗なのにどこか傷ましさを含む微笑みを見つめていると、嫉妬なのか劣等感なのかもわからない感情で胸がざわめき、もどかしさが募る感覚に陥っていく。
「あの、聞かせてくれませんか?」
「うん?」
「どんな人に宛てた手紙だったのか」
衝動のままにそんなことを言った瞬間、「聞かなきゃよかった」と思った。彼は、愛しい恋人のお願いを断らない男だと、わたしは知っていたから。もしこれが、彼の治りかけの瘡蓋に爪を立てる行為だとしたら__
雨音だけが響く静寂の部屋の中、視線をどこでもない場所に落としていた彼が私を見つめて、諦めたように淡く微笑んだ。
「……あれは、私がまだあの学園に通っていた頃だ。私は……美しい女性に出会った。」
一鶴の長い睫毛の奥に眠り続けた孤独が、ようやくこちらを向いた。
「そのひとは、少し影がある人だったけれど、多感な時期を生きていたあの頃の私には、その影すら綺麗な物に思えて。」
言いながら、一鶴は手紙の古びた白色を親指でなぞる。視線は遠く、今ここに居ない誰かを追っている。
「その人と話す度、自分の輪郭が彼女の前でだけ確かな物になると、そう信じて疑わなかった。……相手にとっても、そんな存在になれたらいいと、願っていた。」
「……その人に、手紙を?」
「……渡すつもりだった。でも、渡しようがなかったんだ。__
……私がこの手紙に封をする頃には彼女はもう、私の手の届かない場所へと永遠に飛び立ってしまっていたから。」
降り止まない雨に滲んで消えてしまいそうなほどにわずかな震えも、わたしは息を止めて聞いていた。だからこそ、その言葉が表す事実を悟ってしまえた。
♢ ♢ ♢
__今言葉にした事は、ほんの些細な過去の一幕のつもりだった。でも、彼女はただ黙って私を見つめていた。
君はあまりにも、「天之橋一鶴」という一人の男に真剣だ。真剣なあまり、言葉の奥の奥にあるものまで、見てくれようとする。私の知らない私の顔さえも見つめられている気すらして、無意識のうちに息が詰まる。
「……すまなかった。君の前で過去の恋を語ってしまうなんて、紳士として恥ずべきことだ。……本当に、馬鹿げている。」
この歳になってなんでも知ったような気で生きていたのに、君に出会うまで己がこんなに臆病な人間だったことすら知らなかった。
君という陽だまりを失ってしまうことが怖くて、今更君に全てを曝すことを恐れてしまう。手にした希望は、求め過ぎればいつか必ず私の手のひらからこぼれ落ちる__そんな予感が、私の中に根を張っている。
そんな弱さも優しく認めて受け止めるかのように、彼女は華奢な手を手紙を持つ私の手にそっと重ねた。己の手より一回りも小さい手から、自分で自分にかけてきた呪いを打ち消すほどのあたたかさが伝わって。
「……馬鹿げてなんかいないです。どんな過去も今のあなたの一部だから。……月並みな言葉だけど、ほんとうに、そう思うんです。」
恐る恐る、細く伸びた枝先のひとつひとつに手を伸ばしていくように言葉を選ぶ君の気遣いがほんのり痛くて、でも、それ以上にたまらなく愛おしい。
愛した人をくだらない恋心で搾取した罪を、君は赦してくれるというのか。
「……君は、優しいね。」
雨は今も止まないけれど、時間は進んでいく。赦しによって、この世にたったひとつの愛によるあたたかさによって。
自らで被ったいばらの冠を下ろすことはまだ出来ないけれど、これからも君と生きていけるならどんな痛みも受け止めていけるよ。
だから、そんな風に泣きそうな顔をしないで。