父の日三歩進んで二歩戻り、十歩進んでは九歩戻る。このままではいけないと、意を決して五十歩進み。百歩戻ろうとして、何をしているのかと立ち止まり。
そういう親子関係だった。しかもぐるぐるしてるのは親ばかりで、気がつけば子は育つ。そういうものさ、と。在りし日の母は言っていたが、それを成程と、分かったフリをして飲み込むには、水木はまだ若かったし、幼かった。
幼い親だったと思う。
若いと呼ぶにも未熟で、半端で。いつも目玉が居なければ立ち行かなかった。親子にとって、確かに『親』は必要だっただろうが、それは果たして水木じゃなくても良かったのだと、今でも思う。
親子が、今日この家を出て行くと話を聞いた今でさえ。
「そうか」
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