時任の誕生日話(リハビリ) 20XX年、夏の終わり。午後6時。東京都某所某ビル。
家から職場に出勤してくる時間ですら汗をかくほどにはまだまだ気温が高い。データを集めるためなら、ガジェット開発のためならいくらでも外へ出ていくけれど、基本的にはどこまでもインドア派の湧にとっては地獄のような季節である。
それでも季節は確実に進んでいる。 その証拠に、大葉が俺の生誕祭だなんだと豪語していた頃にはしつこいほどにいつまでも明るく、ギラギラと照り付け部屋の温度を上げていた西日は、すっかり影を潜めていた。
時任の努力でゴーストスナイパーズはプレハブ小屋などではなく、ビルの一角に事務所を据えることこそできているものの、周りはさらに高いビルに囲まれている区域だ。窓から見える空は狭い。冷房が必要以上に効いた部屋、窓の外ではビルが黒く染まりつつあった。
今日は快晴だった。刻一刻と色を変えていく空を見上げる。
「……おかしくないですかね」
そんな中にあって、湧和久は不機嫌さを隠そうともせず呟いた。
プリントアウトした設計図、適当に書き殴った計算式。机の上には散らかったビスやナット。そして工具の数々。静かで、誰も邪魔してこない。自分のやりたいことだけをやれるいい日だった。
エースで、ムードメーカーといえば聞こえはいいが、とにかく賑やかでやかましい大葉は不在。双子たちも少し遅い夏休みを取っていた。
ゴースト出没の緊急通報があれば勿論飛び出していくけれど、そんな連絡もない。珍しいほどに静かな日だった。
机の上に工具や部品を好きなように置いていても、机上のスペースが足りなくなって、書き散らしたメモや打ち出した書類たちをとりあえず床の上に置いておいても。チクチクネチネチと小言を言ってこられることもない。
ああ、なんて珍しく、なんて静かでいい日なのだろうか。
小言を言ってくる人間はいな……いやまあ、すぐそこには、いるんだけど。
はああと間延びした長い長い溜息をつきながら、湧は午前中から閉じられたままのドアに視線をやった。少し肩は凝るだろうけれど、あとは美味しい夕食が食べられれば、いい一日の締めになるはずなんだけど、などと考えながら。
ところで。
プロフェッサールーム──時任樹の研究室はゴーストスナイパーズの事務所の中でも独立したつくりになっている。一つの部屋の中にシャワー・トイレと仮眠用ベッド、おまけに簡易キッチンまで備え付けられていた。至れり尽くせり、といったところだ。
時任樹が自分だけを特別扱いしているというわけでは決してない。オタク、ギーク、普段そういった言葉で人となりを表されがちなのは湧和久の方であるが、時任もまた、湧に負けず劣らずの研究者気質である。一度集中モードに入ってしまうと寝食そっちのけになってしまう悪癖は湧と同じ。湧がそのモードに入ったのならば時任が止められるが、時任がそうなってしまったら最後、止められる者はいないというわけだ。
だから、そうなった時任が最低限死なない程度に、人の形を保っていられるようにと、このタイプの部屋が出来上がった。
湧はプロフェッサールームとだけアルファベットで印字された、無機質なドアを睨む。
昼過ぎに湧が重たい足を引きずって重役出勤をしてきた時にはすでにそこは閉じられていた。水が配管を流れていく音は数時間起きにしているから、まあ生きてはいるのだろうけれど。ここに来てから約半日、あの眼鏡の髭面を湧はただの一度も見てはいない。
「……」
ぐう、と腹の虫が鳴った。
時計を見る。先ほど確認したときから時間は流れて、もう七時を過ぎていた。とっくの昔に外は真っ暗闇だ。デスクライトだけが室内を照らしていていることに気づいて、湧はようやく部屋の電気をつけた。
「何時に予約してるんだろ」
眩しさに顔をしかめる。
面倒だったのと、夕飯に期待していたせいで、朝は抜いたし、昼はゼリーと栄養バーで済ませてしまった。意識すれば最後、頭はもう夕飯のことしか考えられず、胃も急に限界だと悲鳴をあげ始める。
「……」
ああもうまだるっこしい、と湧は立ち上がり、件の部屋の前まで行くとやけっぱちでドアを殴りつけるように二度叩く。
「入りますよ」
どうせ鍵なんてかかっていない。そっけなく言い放つと、返事より早くドアを開けた。
「……どうした、湧」
ドアを開けた先には、普段通りの時任樹の姿があった。拍子抜けするほど普段通りの姿でパソコンの前に座っている。いや、少しばかりクマが濃く、髪もぴょこぴょこと跳ねているだろうか。洒落たネクタイも普段の湧ほどではないが、緩められている。
「いや、その……」
「?」
「お腹、空いたなー、って……」
勢いよく飛び込んだものの、なけなしの威勢はそこまでだった。レストランはどうした、などといきなり口にするのは流石に憚られ、湧はもごもごと口ごもる。そんな湧の姿に、時任は無意識に顎髭に触れつつ、首を傾げた。
「出前くらい自分で取れるだろう。給料日はしばらく先だが、十分……」
「なんか、予約とか……してるかもしれないじゃないですか。そしたらもったいないし……」
「……予約?」
「……」
「いつも行くじゃないですか、レストランとか。……今日、っていうか、ええと、毎年、ほら……いつも……」
ああもう、なんでオレからわざわざこんなこと言わないといけないんだろう。樹サンのことなのに。
湧の脳裏に、去年、一昨年の9月1日が蘇る。毎年毎年飽きもせず、仕事を途中で切り上げ、湧を小洒落たレストランへと連行していく時任の姿、そしてそこで彼のバースデーをともに祝う自分の姿が。正しくは強制的に祝わされていた、ではあるのだが。
だからきっと今年もそうなのだろう、と思い込んでいて。いや、正直なところなにかがおかしいとは感じていたけれど。その日に予定を入れるな、ともなにも、なかったから。でもそれすらも関係値の変化の一つなのかなとも、考えたりもしていて。
「あ」
時任のレンズの奥の目がまるく見開かれた。
「そうか、そういえば今日は……」
私としたことが忘れていたな、と小さく呟いて、時任は後ろ髪に手をやった。その様子に湧は拍子抜けした様子で肩を落とす。
「そのー……で、予約とかは?」
「だからそれ自体忘れていた」
「え?!じゃあ今日はオレ、夕飯なしってことですかあ?!」
思わず湧の口からは情けない悲鳴が飛び出した。
「すまない。……おいちょっと待て、どうして私が謝らねばならんのだ。そもそも夕飯なしは話が飛躍しすぎだ」
「……そうです、けどぉ」
でも去年も一昨年もそういうもんだったじゃないですか。
ぶぅ、と頬を膨らます。時任は呆れ気味に、けれど慣れたことだとあしらうように軽くため息をついた。
「……ここ最近のゴーストの動きと、我々とゴーストとの戦闘データを解析していてな。少し面白い傾向が出ているのが見えてきた。あともう少し進められれば、また論文としてまとめて……」
「へえ……」
「大葉のイレギュラーな動きには困らされるが、通常の退治方法では得られないデータを生み出してくれる。まあ、私の力があればこそ、だがな」
「わー、天才ですね」
「当然だ」
「……というわけで、最近は解析にかかりきりで、自分の誕生日のことはすっかり忘れていたと……」
「天才なのに?」
「あーうるさいうるさい」
湧による遠慮のない指摘を、時任はしっしと手を振って跳ね除ける。同レベルの子供じみた言い争いは、アカデミックな場、あるいは商談の場でしか時任を知らない人間が見れば目を丸くし、それから呆れただろう。そうしてしばらくふたりでふざけあったあと、湧はそろりと時任の機嫌も伺いつつ、彼のデスクの上を指差した。
「ところであのぉ……。それ。見てもいいですか」
「ん?ああ、勿論だ」
時任は時任で、誰かに見せたかったのだろう。ディスプレイを指差す湧に、時任はもちろんだと頷いて、タブレットを引き寄せ手渡した。PCと同期されたディスプレイにはなにやら面白そうなデータが連なっている。湧は仮眠用ベッドに腰掛けると、タブレットに食らいつくかのように顔を近づけた。時任もまた、彼の隣に腰を下ろす。
身長だけでいえば大柄といっていい2人で画面を覗き込むから自然と肩が触れ合うものの、画面の中の情報に夢中ゆえ『そういった』雰囲気になることはない。
「ほんとだ、おもしろいですね」
「まあ実戦で活かすにはまだまだデータが足りないがな。だが、これが固まればより強力な──巨大ゴーストにも対抗できるガジェット製作も可能だろうな。……面白そうだろう?」
「はい。へへ……、楽しみだなあ」
挑発するように時任はにやりと笑う。湧が対ゴースト用の武器として開発したガジェットを、実際に戦闘時にメインで使うのは双子と大葉健とはいえ、エンジニアの湧が全く使わないと言うわけではない。強くて新しい『おもちゃ』を作り出せる喜びと期待感に丸眼鏡の奥の瞳を輝かせる湧に、時任はそっと目を細めた。
「攻撃に使えそうなのは勿論なんですけど、なんかもうちょっと別方向でも使えそうというか……」
「ほう?」
「いやまだ全然ふわーっとしたやつですけど、ええっとですね」
タブレットのディスプレイ上に並んだデータたちを眺める湧の口調が早くなり始めたところで、ぐう、と再び腹の虫がなく。
「あ」
「あ」
散々お腹が空いたと不満を口にしていたくせに、ゴースト研究のことになると食事は二の次、三の次になってしまう、お互いに、昔から。
一度顔を見合わせたあとで、2人揃って卓上の時計を見れば、更に時間は過ぎ、20時半を過ぎようとしていた。
「ああ〜……」
思わず情けない声が漏れる。時任の部屋に入ってからすぐに移動していれば。けれど、そんな身体の訴えを無視していたからこそ出会えたデータがあって。湧はタブレットを大事に抱えたままごろりと後ろに転がり、無機質な天井を見上げた。眠りすぎてしまわないようにと、あえて選ばれた安物の薄いマットレスが軋むような音を立てる。
「まだ開いている店はいくらでもあるだろう。居酒屋でも、ファミリーレストランでも」
時任は一度眼鏡を外して傍らに置くと、ヘアゴムを取った。すぐさま、重たい前髪がばさりと額にかかる。それを再び両手でぐっと持ち上げ、後頭部へと流すと、再びヘアゴムで結び、ハーフアップに整えた。
「え、それでいいんですか」
「何がだ?」
「樹サンのことだから、プライドが許さないかと思って」
「それは、まあ。私としたことが、というような感情は確かにあるが……、結局はどこでも構いはしないんだ」
もう服はこのままでいいか、と時任は小さくひとりごちて、申し訳程度に襟元を直し、ネクタイを結び直した。立ち上がる時任の広い背中を見やりながら、湧はゴーストスナイパーズの立ち上げよりも更に昔を思い出す。
研究が認められない、悔しい、ふざけるな、そうやって管を巻いていた場所は。組織化とは、資金調達の方法は、帳簿は、誰がつけるんだ。学問の場から一歩飛び出した先で、未知の分野に3人揃って頭を悩ませていた場所は。
「……昔は牛丼かハンバーガー、ファミレスばっかりでしたしね。樹サンも」
「ふん。……結局は一緒に食べる人間だろう。重要なのは」
「……わー」
思いがけず気障な台詞が打ち返される。
「俺のこと忘れてたくせに」
「……言ってこない人間のほうが悪い。誘え」
「誘ったでしょ、今。……じゃあファミレスがいいです。なんでもあるし……」
最寄りのファミレスは24時間営業だ。湧の提案に、時任は眼鏡をかけつつ、頷いた。話が決着したタイミングで、湧も一旦身を起こしてから、のそりと立ち上がる。時任に倣うように胸元から爪先までを一応眺めてはみたが、特に服装を整えることはしなかった。見かねた時任が、大きな手のひらで湧の髪に触れる。寝そべったことで乱れた後ろ髪を、時任は一度ゆったりと、愛おしむようにもとれる手つきで撫でつけた。
「そうだな。私も今日はコーヒーしか飲んでいなかったからな……。では、行くとしよう」
「はあい」
プロフェッサールームのドアを開ける。揃って部屋の外へと一歩踏み出そうとしたところで、時任はおもむろに足を止めた。隣に立つ湧へと、意味ありげな視線を向ける。
「湧」
「はい?」
「……なにか一言あっても良いのでは?ほら、あるだろう。ほら」
「……後で言いますって。いつもそうでしょ、樹サン家で……」
「……そこまで、いいのか?」
驚きの表情の後、嬉しさを隠せないといった様子で時任はにやりと笑う。生来のタレ目が更に下がったようにも感じられた。
「そりゃあ、まあ……そうでしょうよ……」
その表情と熱視線がうざったいと突きつけるように、湧はちょうどいい位置にある時任の脇腹を軽くはたいた。視線をわざと外して、普段より口早に、言う。
「さっさと行きましょ」
「ああ、そうだな」
ふ、と笑う髭面を置き去りにするように、湧は夜の街に向かって大げさに一歩、足を大きく踏み出した。