ターナーさんの散々な1日放課後、午後4時。
ネロは階段の横でうずくまって動けなくなっていた。
本当に今日1日散々だ。
身体――特に腰の辺りの重だるさと、下腹部のきゅうっと締めつけるような痛み。毎月憎たらしいほど律儀に訪れるそれは、今月も例に漏れずネロを苦しめている。
にも関わらず、成績があまりよろしくない分出席は欠かさずしておきたいネロは、この日も普段どおりに高校へ登校していた。
時間が経てば経つほど痛みと熱がじわじわと広がり、ぼうっと熱くなって何も考えられなくなっていく。
ネロは午前の授業は軽くうずくまる体勢になりながら痛みと気分の悪さと闘っていたが、授業が終わって昼休みに入ると、開放感も相まって少しは気分の悪さが薄れた気がしていた。
「ネロさん、今日顔色悪くないっすか?」
ブラッドリーのチームの面子と屋上で昼食を摂っていると、子分の1人がそう話しかけてきた。リーダーであるブラッドリーはションベンだとか言って席を外している。
「…そうか?」
授業中よりはマシになったとはいえ、不調がモロに顔に出ているようだ。
要らぬ心配をかけないように普段どおりを装ったが、子分のその一声で周りにいた奴らもわらわらと集まり、ほんとだ、ちょっと青白い顔してますよ、などと口々に述べる。
やがて頭をつきあわせて何やら話し合っていた子分たちは、お互い顔を見合わせてからネロに向き直った。
「保健室行きましょう、ネロさん! 俺らもお供しますから!」
やっぱりそうきたか。ネロは密かに唇を噛む。
「あー…ほ、ほら、ここ日陰だし? 暗かったから顔色悪く見えてただけかもしれないぜ?」
自分に逃げ道を作りつつ、子分たちに気負わせない最善の立ち回りを考える。
ここ1日か2日ほど耐えれば少しは楽になる。そうわかっているからこそ、ネロはあまり周囲に気を遣わせたくなかった。
ここにいてはどんどん話が大きくなって、終いに保健室まで担がれかねない。ネロは撤退が吉と見なし、食欲がなくてほとんど減っていない弁当をそそくさと片付けた。階段へ続く扉の前で子分たちの方を振り返る。
「まあでも、ありがとな。本気でしんどくなったら自分で保健室行くからさ」
それで勘弁してくれよ、とへらりと笑ったところで、
「何を勘弁するって?」
ネロは向こうから開いた扉、そこから伸びてきた腕にあっさりと引き込まれてしまった。
「何を勘弁するって?」
いつもより低い声に顔を上げると、不機嫌そうな顔をしたブラッドリーがいた。
「……、行くぞ」
ネロの顔を見るなりため息をひとつ落として、ブラッドリーはネロを引っ張っていく。
「ちょ、ブラッド! どこ行くんだよ!?」
ネロは渾身の力でブラッドリーを振り払おうとするが、力の差と体調のせいで上手くいかない。何も言わないブラッドリーはひたすら階段を降り、やっと速度を緩めたのは――保健室が位置する1階。
「ブラッド離せよ! さっきのは、どこから聞いてたんだか知らねーけど俺は何ともねえから! あいつらが勝手に騒いでただけで…!」
ネロは必死に言い訳したものの、結局全く聞き入れられずに保健室に押し込まれてしまった。それどころか保健室に入ってからもブラッドリーにぐいぐいと肩を押されて、ネロの身体は今やベッドの中だ。
ベッド勝手に使って良いのか…? とか、そもそも無人の保健室に勝手に入るのは如何なものか、とか色々と思うところであるが、一旦横になってしまうともう起き上がれそうになかった。正直限界だったのだと今更ながら気づく。
ネロは自身の身体の重さから改めて体調の悪さを認識させられたが、
「もう授業始まる…。戻らないと」
それでもやはりブラッドリーの気遣いを受け入れることに抵抗していた。
「授業1回サボったくらいどうってことねえよ。いーから寝ちまえ」
ブラッドリーはその大きな手でネロの目を塞いだ。視界が暗く閉ざされたのをとどめに意識が保てなくなってくる。下腹が痛いし、頭痛と微熱もある。それに、ブラッドリーに看破されて捕まってしまったんだから仕方ない。ネロは確かに1回サボりくらいなら、と思い直してブラッドリーの体温を受け入れた。
ネロが寝息をたて始めたのを見てとり、ブラッドリーは小さく息をつく。
朝からあんな血の気の引いた顔しておいて何が何ともねえだ。ネロの分際でこのブラッドリー様の目が欺けるとでも思っているのか。
こいつは本当に昔から変わらない。こいつ自身が仕方ない、と諦めがつく条件が揃うまで抱え込んで耐え続けるのだ。
逆に言えば、条件さえ整えてやれば普段は頑固なこいつも丸め込める。今回で言えば、捕まえて保健室のベッドに押し込んでやるといった具合だ。
今月もそろそろなのではないかと思っていた。女の生理周期を把握するなどという気味の悪い趣味なんざ持ち合わせていないが、四六時中一緒にいれば何となく把握できてしまう。ネロは目に見えて体調を崩すから余計に。
ネロの寝顔を眺めている間に保健医が戻ってきたので、ブラッドリーは手早く事情を説明してその場を去った。
ややあってしばし保健室に世話になることになったネロだったが、1時間半ほどで目が覚めてしまっていた。
最後の授業だけでも出席しようか迷ったが、保険医に止められた。曰く、
「ブラッドリーに授業終わるまではベッドに縛りつけとけって『お願い』されててね。あぁ、縛り付けるっていうのは比喩だよ? 先生優しいからそんなことしないしない。まー彼なりの優しさだと思って、放課後まではここにいたら? どうしてもって言うなら止めないけど」
放課後になったら迎えに来るって言ってたよ、とも言い添える。
保険医は一見人当たりのよい優しい医者だが、ブラッドリーをして只者ではないと言わしめるくらいには曲者だ。ネロはブラッドリーほどの拒否感はないものの、彼と接していると背筋がぞわぞわとするような感覚があるのであまり関わり合いになりたくないところではある。
ネロはじっくりと考えて、最後の授業のチャイムが鳴ったら保健室を去ることにした。
授業終わりと終礼の間の喧騒に紛れて教室に戻る。クラスの人間にはネロが保健室にいたことが知れ渡っているので、たまに話す程度の間柄のクラスメイトには心配された。
終礼まで保健室にいても良かったのに敢えてそうしなかったのは、ブラッドリーに捕まらずに自力で家まで帰るためだ。ブラッドリーとは家が隣同士とはいえ、毎月の体調不良のたびにブラッドリー父の車で連れて帰ってもらっていては立つ瀬がない。
終礼はものの10分ほどで終わり、その間に荷物の整理もできた。後はこの教科書とノートが詰まったカバンを持って帰れるかにかかっている。
とりあえず椅子から立ち上がった。軽い立ちくらみはあるがなんとか大丈夫。
よし、帰れる、帰れる。言い聞かせながらネロは歩を進めた。
若干ふらついてはいるが、なんとか1階までたどり着いた、そのとき。
急に締め上げるような下腹の痛みが襲って、ネロはその場で動けなくなった。心臓に氷を入れられたようにサッと血の気が引いて、冷や汗が止まらない。
緩慢な動きで身体を丸め、階段の壁際へもたれかかる。
やっと落ち着いて熱い息を長く吐き出したとき、薄く膜が張った視界に見慣れた薄紅色が見えた。