終夜/祝福のつもり 「――ぐっ、ぅ…!」
のしかかる重みと、直後ドッ!と胸にかかる衝撃。ネロ自身の心臓に突き刺さるはずだった魔物の爪は、ネロを正面から抱きしめたブラッドリーの背中に深々と突き立っていた。
「ブラッド……?」
ズッ、ズッとブラッドリーの身体から爪を引き抜こうとする魔物も、そいつが誰かの魔法で吹き飛ぶのも、何もかも音声のないスローモーションに見えた。ネロの耳にやっと音が戻ってきたころ、ブラッドリーの背に恐る恐る回した両手には――鮮血。
「……っ!《アドノディス・オムニス》!!」
フリーズしかけた心を叱咤するように、ネロは呪文を叫んだ。
ブラッドリーが運び込まれた4階の空き部屋の扉を音もなく開き、身体を滑り込ませるように入る。
《厄災》の明かりが差す静謐な空間。引き攣れた喘鳴が混じる息遣いだけがブラッドリーの生を示していた。
ブラッドリーがネロを庇って重傷を負ったのが今日の昼のこと。ネロが咄嗟にかけた治癒を双子がバックアップすることで何とか止血し、ミスラのアルシムで帰ってきて、フィガロの治療を受けて今に至る。
後から聞くところによれば、敵の攻撃はブラッドリーの心臓を掠めていたらしい。文字通り紙一重で助かったということだ。フィガロは「ほんと悪運だけは強いね、あいつ」とからから笑っていたけれど。
ネロがこの部屋を訪れたのに特に理由はなかった。だから、この男を訪ねる時には珍しく、今日は手ぶらだ。
ただ、こいつが起きたときのためにシュガーでも置いていってやろうと思っただけだ。あとはまあ、庇われた奴の気も知らないで能天気に眠っている顔でも見られれば、さざ波の立つ心が凪いでくれるのではないかとほんの少しだけ期待して。
ベッドサイドの机には瓶詰めのシュガーと緑の液体が入った薬瓶が置いてあった。シュガーはリケ、薬はミチルからだろうか。もうシュガーが贈られているのに自分のものを追加するのも少し気が引けるが、魔力の補給源なんていくらあってもいいし、要らなければ捨ててくれれば済む話だ。
「《アドノディス・オムニス》」
慣れた呪文を口ずさむと、魔力の光が集まって数個の粒になる。凝集した光が消えたとき、手のひらに残ったものを見てネロは愕然とした。
「……なんで」
できたシュガーはそれはもう酷かった。賢者の言う『コンペイトウ』の形すらまともに保てず、ほろほろと崩れてしまうものまであった。あるシュガーはむせ返るほど甘くて、別のやつは味がしない。三者三様に食えたものではない。
「……《アドノディス・オムニス》」
何度やっても変わらない。むしろ変に苦かったり口の中でぱちぱち弾けるような変わり種まで現れて、こういうパーティーグッズみたいだ。―いやそうではなくて。
途方に暮れてベッドの上を見ると、まだ荒い息を吐くブラッドリーがいる。怪我の影響から熱があるようだが、ネロが今までに見たどのときよりも状態はマシだった。
大怪我をしてもしばらくまともな治療が受けられず、医者を求めて箒を走らせたあの頃とは違う。得意でもない治癒魔法を魔力ギリギリまで使っても血が止まってくれなくて、今度こそ助からないんじゃないかと死にそうな思いをすることもない。ブラッドリーは…未だに無茶するけど、いざとなれば双子が手綱を握ってくれる。ミスラやオーエンとやりあったって死にはしない。
今回は大丈夫という確信があるのに。こいつがマグマに落ちて3日間行方不明だったときよりか心は乱れていないはずなのに。どうしようもなく心が泣いているのを、シュガーによって避けられようもなく証明されてしまう。
「――――っ」
ネロはベッドの横、眠るブラッドリーの肩の辺りにへなへなと座り込み、ベッドに額を押し付けた。
一晩中シュガーを作り続けて、気づいたら窓の外が白みだしていた。朝飯作りに行かないと。部屋に溢れてしまったシュガーを魔法で雑に片付けて、急いでキッチンへ降りる。
朝食を大方作り終えた頃、ファウストがキッチンに顔を出した。いつもより少し早い。
「ファウスト。おはよ」
「おはよう、ネ、ロ――」
ファウストはネロの顔を見るなり固まった。そして次には、はぁ、とため息を吐かれる。
「あとで僕の部屋に来なさい。それを作り終えて、君も朝食を摂ってからでいいから」
「…………」
なんとなく言われる気はしていた。無意識に逸らしていた視線をファウストに向けると、嫌というほど真っすぐに見つめ返される。あぁこれ拒否権無いやつだわ。断るだけの気力も、シュガー作りで使い切ってしまった。仕方がない。
「………わかったよ」
ネロはファウストに朝食を渡すと、逃げるようにフライパンの柄を握り直した。
◇
目を覚ますと、見慣れない天井だった。
ここが魔法舎であることくらいは検討がつくが、だとしたら今いるのは空き部屋か。
あいつ――ネロを守ったところまでは憶えている。あの時、爪の軌跡はネロの心臓を的確に捉えていた。俺なら何とかなるが、ネロは駄目だ。だから庇った。
「ふっ……、」
呼吸に合わせて身体に力を入れ、ベッドの上で起き上がる。動けはするし、痛み止めを効かされているんだろうが、それでも背中と胸の辺りがちくちく痛む。わざと治しきらずに置かれているのにフィガロの治療の跡を感じ、はらわたが煮えかえりそうだ。
「――いてっ、」
裸足のままベッドの下に足をついたとき、何かトゲトゲしたものを踏んだ。誰かのシュガーだ。よく見ると、床にいくつか転がっている。机の上にちいせえのどものシュガーが置かれているのは見えていたが、床に転がってるやつらはそれとは様子が異なっていた。床のシュガーを1つ取り上げると、弱々しいがネロの気配を感じた。そのままぽいっと口に放り込む。
「……………」
甘みと苦みと酸味が混じった、なんとも言えない味がした。普段のネロのシュガーはもっと繊細で優しい甘みをしている。
シュガーの生成は魔法使いの多くが一番最初に習得する、最もシンプルな魔法だ。故に誤魔化しがきかず、シュガーが上手く作れないということはその者が何らかの不調をきたしているということだ。
そのとき、ドアが開いて南の兄弟が入ってきた。「まだ寝てないと!」と迫ってくる2人をぐいっと押しのけ、服とちいせえのどもが用意したシュガーやら薬やらを魔法で引き寄せながら部屋の外へ出る。
傷が開くだの痛み止めの効果が切れるだの、知らねえ。それで困るとしても自力で何とかする。
そんなことより、ネロを探しに行かねえと。
◇
「マナエリアに行って休んできなさい」
賢者や各国の先生には既に話を通したから、と。あの後、ファウストの部屋に入るなり言われたのはそんなことだった。ネロは普段どおり料理がしたいと一応主張はしたが、
「ネロ、シュガーを作ってみなさい」
ファウストのひと言で口をつぐむことになった。作ったシュガーは相変わらずぼろぼろだった。
そんなことがあって、ネロは賢者や他の魔法使いたちに見送られながらマナエリアである麦畑へと出発したのだった。
目的の麦畑にたどり着き、農夫に話を通す。麦畑の中心に身を落ち着けたときにはもう夕方だった。
肺いっぱいに空気を吸い込む。確かに呼吸しやすい場所、ではあるのだが。ふとした時に頭を過ぎるのは庇われた瞬間の光景だった。
やっぱり落ち着かない。ここで数日療養する予定だったが、今日のうちに帰ってしまおうか。
そう思ったときだ。見上げた空に憶えのあるシルエットが重なった。
「東の飯屋は客にあんな不味いもん食わせんのか?」
「―――!」
箒に乗ったブラッドリーはネロの隣に降り立つと、そのままごろんと寝転んだ。そよぐ風が金色の海と白黒の髪を揺らしていく。ネロは気まずくなって瞳を逸らした。
「…食ったのか、あのシュガー」
「おう」
ブラッドリーは寝転んだ状態のまま、おもむろにネロを抱き寄せた。間近になったブラッドリーの胸からは彼の匂いと――、
「……血の匂いがする」
ネロは思わずブラッドリーの上着を掴んだ。焦ったようなその手を、ブラッドリーは宥めるように撫でる。
「気のせいだろ」
「…絶対ちがう」
「気のせいだって」
「嘘だ。あんたまだ絶対安静のくせに…」
「ンなもんこの俺が従うかよ」
言葉を継ぐことができずに瞳を揺らしたネロを、ブラッドリーは抱きしめる。逃れようと身をよじるネロを押さえ、灰青の髪に顔を埋めながら呪文を唱えた。
「《アドノポテンスム》」
「――!」
触れ合った場所からブラッドリーの魔力が広がり、ネロの身体に染み渡る。微かに感じていた血の匂いがすっと遠ざかっていった。
祝福の魔法によく似ているが、今となっては違う魔法だ。これがブラッドリー自身の不調をネロに悟られないための魔法であることくらい、ずっと前からわかっている。――こういうときは決まって、傷が痛むのを我慢していることも。
ブラッドリーの無茶な行動についてネロが声を荒らげて怒ることも増えてきた頃から、ネロを落ち着かせて話を終わらせるためにちょくちょく使われだした手口だ。初めの方は本当に祝福の魔法だったが、ネロが盗賊団を抜ける頃には祝福に似せた別の魔法になっていた。効果もその時によって様々で、今回のやつみたいに感覚を鈍らせてくることもあれば、そのまま眠らされてしまうこともあった。
――俺さえ何も言わなければ、こいつは無茶でも何でもできる。
ブラッドリーの生き方を奪いたかった。それでブラッドリーという魔法使いの全てが損なわれるとしても。―結局、それをする勇気も気力も傲慢さも、ネロは何ひとつ持ち合わせなかったわけだが。この魔法を受けるたび、それをまざまざと思い知らされる。
この魔法は、ブラッドリーの中では今でも祝福のつもりなのだとしても、ネロにとってはまるで呪いのようだった。
ネロはブラッドリーのちょうど心臓のあたりに額を押しつけて瞳を閉じる。シャツ越しにブラッドリーの身体に触れると、ほんの少し汗ばんでいた。魔法で治しすぎると自然治癒力や免疫が下がるから、今は完全には治さないでしばらく安静にしてもらう、とフィガロが言っていた。魔法舎を抜け出してここまで来たのだとしたら、傷口が開いたか、痛み止めが切れかけているのかもしれない。
「《アドノディス・オムニス》」
ネロは呪文を唱えた。
あの魔法がブラッドリーからの祝福なら、これは祈りだ。ネロがブラッドリーに贈る、祝福のつもり。
何故だか、今ならできるという確信があった。祝福の魔法に上から色を重ねるように、別の魔法を絡める。治癒魔法と、痛みをほんの少し和らげる魔法。――それから、催眠魔法も。
「――! ネ、ロ…」
何かに気がついたらしいブラッドリーは驚いたように目をまんまるにし、それから眠気に誘われるようにゆっくりと瞼を閉じた。ブラッドリーは襲い来る睡魔に耐えていたが、やがてネロを抱きしめる腕から力が抜け、はたりと落ちる。
ネロはブラッドリーの腕の中で少し身動ぎ、先程まで心配の種だった男の頬に手を伸ばした。あの夜よりもあどけない顔でよく眠っているブラッドリーを見てやっと、満足に息が吸えた気がした。
安堵したせいか、次の瞬間どっと眠気がくる。心が満たされる感覚と共に、ネロも意識を手放した。