ふわりと意識が浮かび上がって目を開く。電気の消された室内。肌に馴染んだシーツ。そこにある熱の名残。
身を起こせばスプリングが軽く軋んで、私はベッドから足を下ろした。
先ほど見ていた夢の中。何かとても大事なものを、忘れてしまった何かを、私はさも当然のように知っていた気がするけれど、それは霞のように溶け消えて既に形をなさなかった。
夢の内容を反芻しながら、先ほどまでいたはずの彼の行く先に考えを巡らせる。
結論は出ないまま足早に廊下へ向かう。角を曲がったところで月の光に照らされた青く輝く冠に惹き付けられた。
「オベロン...!」
振り向いた彼の顔を見て、その明らかに皺の刻まれた眉間を認識して私は足を止めた。飛び跳ねていた心が急速に冷えていく。
「...あー...、あのー...怒ってます...か?」
もしかして、と口にしかけたところで、普段ならば心地よいと思える彼の低音が被さって、私は口を噤む。
「お目付け役のいない旅は楽しめたか?都合よくこき使って、その上的確に足を引っ張る鈍臭さでオトモダチに愛想を尽かされなかった?」
切れ味の鋭い皮肉がぐさぐさと突き刺さる。
やはり、あれはただの夢ではなかったのだ。巨像もメッセンジャーもルナリアも、そしてもう一人いたオベロンも。
それならば彼の怒りも順当だった。オベロンを呼び出せたはいいものの私は彼に碌な指示ができなかったのだから。
「珍しい体験もしたみたいだし、満喫できてよかったねー。蛮勇を奮って手にした勝利は甘美だったかい?」
「ご、ごめんね...?私のせいで色々と、君に負担を…怪我までさせて」
ゆっくりとした足取りで彼はこちらに向かってくる。今すぐ背を向けてベッドまで逃げ帰りたい気分だった。右に左に目を泳がせながら指先だけを忙しなく交差させて、しかし足は一歩も動かない。動けばきっと今よりももっと状況は悪化すると直感していた。
「あのさぁ」
オベロンの左手の、あの甲殻に覆われた虫竜の手が伸ばされる。鋭く尖った爪が私の喉に触れ、思わず生唾を飲み込めば爪の先が僅かに肌へ食い込んだ。
「はっきりして欲しいんだよね。死にたいのか、そうでないのか」
「…う、うん…?死にたくは、ないよ…?」
言葉の意図を解せずに、ただ表面上の意味だけをなぞって返答する。彼の爪は先ほどよりも肌に沈んで赤い雫が浮き上がる。思わず息を止めて目線だけで見上げた彼の瞳はどこまでも凪いでいて温度を感じさせなかった。背筋にひやりとしたものが走る。
「へぇ?ろくな武器も持たず神性を有する怪物に喧嘩を売っておいて死にたくないとは笑える冗談だ。逃げもせず隠れもせず堂々と立ち向かって行く勇気は見習いたいがね」
また彼の指先に力が籠るのを感じて、反射的に身を引きながら小さく反論する。
「ち、違うよ…私を庇って君が捕まっちゃったから、なんとかしたかっただけで…」
「仮にもマスターが前線に出る理由になると?」
「だって、君さえいれば勝てると思ったから…」
「はは、俺一人で倒せってか。会話すらままならない、パスも不安定なあの状況で?当たらない武器を振り回す無謀なマスター様を守りながら?」
失笑。の後に背中と頭へ衝撃が走る。白い星が散って息苦しさを感じた。彼の手が私の首を壁へと押し付けていた。
「本気で言ってる?」
寒々しく響く声音は嘲笑を交えていた。
ごめんなさい、と掠れた声で謝罪を口にすれば、今度こそ声を絞ることもできないほどに力を込められる。
「今ここで終わりにしてやろうか」
彼の気迫に当てられた恐怖からか、不甲斐ないことへの申し訳なさからか、鼻の奥がチリチリと熱くなってくる。込み上げてくるものは瞳を膜で覆い丸い雫となっていくつかが頬を伝っていった。
にわかに拘束が緩む。潤んで滲む視界の中で彼の腕を掴む。
「っ、…ごめんね、もう来てくれないと思ってたから、君に会えて舞い上がっちゃったの」
私の隣にはずっとルナリアがいてくれた。メッセンジャーは怪しかったけれど敵だとは思えなかった。だからオベロンや他のサーヴァントがいなくとも彼女たちと歩みを進めることはできた。それでも不安と緊張は変わらずあって、オベロンとパスが繋がった時は心の底から安心したのだ。これでもう大丈夫だって。
「だから、ちょっと無茶しちゃって…ごめんなさい」
彼は大きく舌打ちして、人の手で私の頬を鷲掴んだ。
「なるほどな。愚か者の尻拭いを人任せにしたわけだ…ふざけるなよ」
「ひはう…!ひみのたふけになりははっはの…!」
「まずは足手纏いの自覚を持とうか?」
「ほえは、ほへんあはい」
はぁーーーーまったく、と彼は深いため息を落として踵を返した。いきなり解放された私はたたらを踏んで、マイルームとは真逆の方向に進んでいく彼の後を追いかける。
「ど、どこ行くの?」
「自分の部屋だけど」
「えっ…えっと、あーー、そのーーー」
私が言い淀んでいる間にも彼の歩みは止まらないで、そのうち目的の場所に辿り着いてしまう。
彼は迷いなく開錠し開かれた扉の中へと入っていって、私は一人取り残される。
「……、〜〜〜〜〜っ」
引き返すべきか押しかけるべきか。刹那の判断の末、いまだ閉じることなく口を開けている扉の内側へ飛び込んだ。
ちょうど外套をベッドの隅に放り投げている彼の背を追いかけて、ブラウスの端を掴む。
「…なに」
「一緒に、いたいんだけど……いてもいい?」
薄暗い部屋の中、彼は無言のまま私を見て
「扉、閉めてくれる」
聞いた瞬間、緩みそうになる口元を引き結びながら私は開閉ボタンに駆けていった。真っ暗になった部屋。彼の気配だけを感じながら、彼がいる寝台へと引き寄せられていった。
*
<後日の話>
召喚部屋の前を通りかかった私はおもむろに歩みを止める。隣を歩いていた彼は胡乱なものでも見るように私に視線を投げてよこした。
「まさかとは思うけど君、あの狂ったゲームマスターを召喚しようってんじゃないよな?」
ぎくりとして目を逸らしながら私は弁解する。
「いやでも多分あの人、来たら面白いと思うし…かなり強そうだったし、ね…?」
彼はとても不愉快そうに眉を寄せるものの、次に放たれた言葉は意外にも好意的なものだった。
「……付き合いきれないね。碌に手綱も握れないまま噛み殺されればいい」
「え、ありがとう!その時は君に助けを求めるね!」
私は驚きつつ、勇んで扉を潜り抜ける。
クソが!!と叫ぶ彼の声は召喚の詠唱に掻き消された。