みずふぉびあ 絞首恐怖症 ネクタイが、怖い。
というより、首を絞め付けられるのが怖い。ワイシャツはまだ良いのだが、さらに何か身につけようとすると、なぜか抵抗感が出るのだ。脂汗を流し、勝手に体が震えて呼吸が荒くなる。
以前はそんな事はなかったが……いつからなのかもはっきりしない。もしかしたら、あの村に行ってからかもしれないが、あの時の事はよく覚えていないのだ。
俺はあれから家に戻ってくる事ができたが、前はバリバリこなしていた仕事が手につかなくなっていた。書類に目を通したり営業に行ったりしても、いつの間にかぼんやりする事が多くなっている。
ふと自分の机を見ると、お茶がなかった。両側の同僚達の前には置いてあるのに。
「あの、」
事務の女の子に声をかけても、知らんぷりしている。仕方がないので自分でお茶を入れた。
やれやれとため息をつく。前は率先(そっせん)して出してくれていたのに、今の俺はそんなに不甲斐(ふがい)なく見えるんだろうか。
気分が落ちそうになったので、一気に飲み干して
「外回りに行ってきます」
と会社を出た。
が、得意先を回る気にもなれず、街を彷徨(さまよ)い歩く。あてどもなく歩きまわっていたら、いつの間にか知らない場所に来ていた。
埃(ほこり)っぽい道で強い風が吹き、くしゃみをする。ハンカチを出して手を拭(ふ)いていると、黒と黄の縞々のちゃんちゃんこを着た少年がこちらをじっと見ていた。
さっきまでいなかった気がするが、気のせいだろうか。少年は何か言いたげだが、知り合いではない。やがて彼は口を開いた。
「あなたは此処(ここ)にいるべきじゃない」
「──は?」
意味が分からない。
「もう地獄へ行きなさい。道が分からないなら、僕が連れて行ってあげます」
「何を言っているのか分からんが、誰かと間違えていないか」
「いえ、あなたです」
話が噛み合わない。
「俺の何を知っている」
「知っているのは、あなたがこの世の人じゃない事ぐらい」
「俺は生きている!」カッとなって声を荒らげる。「この通りちゃんと息をしている‼︎」
「本当に?」
彼は大きな丸い目で、こちらをじっと見つめてきた。
「あなたはいつ家に帰りましたか」
「は? 毎日帰っ…」
言いかけて、そうではないと気づく。
俺はいつ帰宅した?
いや、最後に飯を食べたのはいつだ? 混乱している俺を、彼はじっと見ている。
「あなたは首を絞めて殺され、浮遊霊になってこの世をさまよっていたんです。もう死んでいる事に気づかずに」
「なんでお前に分かるんだ」
「首に跡がありますよ。あなたには見えないかもだけど、くっきりと」
と言って指を指した。思わず喉元に手をやる。
「息をするのが苦しかったりしませんでしたか」
「…それはないが、首を圧迫するものがなぜか怖かった」
「そうですか」
無表情にうなずいた。
いや、しかしいつ殺されたんだ…記憶を手繰り寄せると、次第に過去を思い出した。
「そう言えば、哭倉村で沙代さんに首を絞められてから怖くなったような」
「その時に多分殺されたのでしょう」
少年は淡々と返す。
「そうか…村はどうなったのだろう。沙代さんは──」
「さあ、分かりません。でも、あなたを手にかけたなら地獄にいるかもしれませんね」
「そう、か。そうだな…… もうこの世にいられないなら、会いに行ってみるか」
「その気になりましたか。──では」
彼がそう言うと、にわかに辺りが霞がかり、気がつくと目の前に蒸気汽関車が停まっていた。シュウーッ、と白い煙を上げている。
「乗ってください」
俺はその声に吸い込まれるように、汽車の階段に足をかけ、それを見ていた第三者の視界は全てが闇に溶け、暗黒の世界と化す。
やがて、列車が ボーーと発車の汽笛を鳴らした。
了