会いに行く 今月末もしかしたら連休取れるかもしれない、と電話口で流川に伝えると、何のためらいもなく『オレもいけます』と言われた。とっくに梅雨も明けてすっかり夏らしくなった七月の中頃のことだ。
「え、流川も休めんの」
『うす』
「まじか、もう二週間後とかの話だけど」
急すぎない? と訊ねると、そうすかね、と淡々と続ける。
「もしかして元々休みだった?」
『いえ』
「そうなの、練習とか大丈夫?」
『まあこの時期だったらなんとか。てか今月末ですよね』
「え、うん、そうだけど」
『だったら絶対大丈夫っす』
絶対いけるんで、と念を押すように言われてしまい、ちょっと照れた。というのも、今月末、という条件が流川の判断の指針になっているのは明白だったからだ。言う間でもなくリョータの誕生日。七月最後の日。流川が忘れるはずがない。
それに流川は、嘘を吐いたり冗談を言ったりしない。妙におもねったり、相手に合わせて自分の考えを簡単に曲げたりしない。いつだって悠然と構えて、清々しいほどに一本芯が通っている。
だけど、今日みたいにこうして、リョータの気持ちに自然と寄り添うことがあった。こういう場面に出くわすたびリョータは思うのだ。自分の望みと希望の先に、流川の理想とする選択があるのかもしれないって。互いに無理をすることなく、見据える未来が交わっているのかもしれない。そんな風に自惚れてしまうし、流川と一緒に生きていく道を選び取ることは必然だったんだろうと思えた。
もちろん、バスケのことで互いに譲ったり遠慮したりしたことはないし、自分の気持ちと生活を優先しながら一緒に成長してきた。そんななか、遠距離になって、ますます相手を思いやる気持ちが強まった。
「――…そっか、だったら会えそうだな」
ぽつりと呟くと、流川が『オレはそのつもりですけど』と言った。
『先輩違うんすか』
「え? ふは、んなわけねえだろ、オレもそのつもりだわ」
笑いながら言い返すと、良かったです、と安堵の声が聞こえた。電話越しの吐息で耳朶が火照っていくのを感じながら、流川に会えるまでの日数を頭のなかで逆算した。あと十一日。すでに浮かれてしまっている。オレもしかして無意識に誕生日会いたいアピールしてたかな。それだったら恥ずかしすぎんだけど。
「あ、どっか行きたいとこ考えといて」
『行きたいとこすか?』
「したいこととか」
『したいこと…』
べつに先輩がいれば良いけど、と流川が独り言のように呟く。いままでは当たり前のように隣で生活していたから、だから会えるだけで良い、という気持ちは、リョータもなんとなく分かる。
アメリカ留学から帰国して、互いのキャリアの関係で遠距離になった。流川は関東のチーム、リョータは故郷のチームでプレーしている。渡米中にルームシェアをしていた流川といつの間にか付き合うようになり、それからというもの数年にわたって同棲をしていたので、一人暮らしはまだまだ慣れない。流川のいない家は、やっぱりさみしい。
『先輩』
黙っていると、流川に呼びかけられた。
「なに?」
『会いたいっす』
「…あー、うん、オレも会いたいよ」
『うす。あの先輩』
なんだよ、と聞き返すと、無理だったら無理ってオレはっきり言います、みたいなことを言われた。
「え、んなの知ってるけど」
「そうすか」
そういう流川だから好きになった。そういう流川でいて欲しい。そう笑って跳ね返してやったが、電話だから流川がどんな顔をしているか分からない。誤魔化すように咳払いする。
「…どうしよ、どこで会う? オレがそっち行こうか?」
まさか誕生日に流川に会えるとは思っていなかったので、夢見心地のような不思議な感覚だ。どうしたって誕生日を祝われたいわけではないけれど、生まれた日に好きな人に会えること自体は喜ばしい。流川がリョータの誕生日を祝ってくれることがくすぐったい。
そんな嬉しい気持ちを悟られないように努めて平静を装い、手元にあったタブレットで飛行機を調べてみた。夏休みに突入しているからか、どこの航空会社も笑っちゃうくらいに高い。まあ、値段はべつに良いんだ。ちょっとくらい高くても、流川に会えるなら。
「直前だからか飛行機けっこうすんな」
『探してんすか』
「うん、いま見てるけど、LCCでもまあまあすっかも、どうしよっかな」
遠距離になってからというもの、リョータが流川に会いに行くことの方が多かった。だから自然と今回も、そういう流れになると思い込んでいた。流川が口を開くまでは。
『オレがそっち、行って良いすか』
「えっ」
『だめすか』
「いや、だめとかじゃないけど。むしろ良いの、移動とか大変じゃね」
『んなの先輩だって一緒でしょ』
オレが会いに行きたい。有無を言わさない声音だったので、咄嗟に口をつぐんだ。
『前、先輩が来てくれたんで』
「そうだっけ」
『はい、その前も』
「あー、そっか…」
『だから次はオレが先輩に会いに行きたい』
「えっ」
『会いに行きたいっす』
思わず言い淀むと、そこが押しどころと捉えたのか、流川がたたみかけるように続けた。
『じゃあ決まりで、飛行機取るんで』
「えっ、ちょっと待って、分かったけど交通費半額出させて」
『いらないですけど』
「そういうわけにはいかねえだろ」
『じゃあ今度からオレの半分ももらってください』
「えー、それとこれとは別じゃね?」
『どこがすか』
「どこがって」
ひとつも違わねえ、と流川が冷静に言う。むかつくくらいに正論だ。漢気がなんだって、なんだかんだと誤魔化し続けてきた遠距離カップルの金銭負担のあれやこれやを本気で考えるべきときが来たらしい。とはいえ流川の態度にはむかっときたので、「生意気なやつ」と小言を言うと、電話口で流川が小さく笑った。
『でも好きなんですよね』
「は?」
『オレのこと』
先輩が好きなこと知ってるんで、という熱っぽい台詞とともに、おやすみなさい、とあっけなく電話を切られた。会ったら抱きたい、と切る直前に流川が言う。電話が途絶えてもスマホを耳に押し当てたまま、どきどきと心臓の高鳴りを感じていた。
日々粛々と生活を過ごしていたら、あっという間に月末がやってきた。からっと晴れ渡った誕生日前日。流川を出迎えるために空港へ行き、到着口で時間を潰していると、観光客っぽい団体のあとに流川がひょっこりと顔を出した。リュックひとつという軽装備で、相変わらず眠そうな顔をしている。白いTシャツに黒のスラックスというシンプルな服装がスタイルの良さを際立たせていた。
「流川!」
「うす」
「おつかれ、良かった、スムーズに会えて…ってうお」
手を挙げて居場所をアピールし、近付いてきた流川の二の腕をぽんぽんと叩くと、間髪入れずにハグされたのでびびった。幸いにも流川とリョータの抱擁に気付いている人間はいないようだったが、こんな公共の場で目立つ行為は控えてもらいたい。
「ちょっとなにすんだよ、アメリカじゃねえんだぞ」
「アメリカだったら良いんすか」
「は? 揚げ足取んなし」
とんと胸を押し返して流川からするすると逃げた。そのタイミングでつけていたキャップを流川に被らせる。乱れてしまったヘアセットを整えつつ、歩くスピードを上げた。
「陽射し強いから被っとけ」
「…うす」
自分から距離を取ったくせに、離れていく流川の体温がすでに恋しいなんて、わがままにもほどがあるな。車の鍵をちゃりちゃりと揺らしながら、駐車場あっちだし、と流川を先導した。
「車で来たんすか」
「うん、こっちで買ったって言ったろ」
「あー、これが」
車のトランクに流川の荷物を運び込んで、助手席に乗るように伝えた。
「暑くない? 大丈夫?」
「うす、向こうの方が蒸し暑いっていうか」
「あー、分かるかも」
エンジンをかけてからクーラーの空調を調節し、アクセルペダルを踏み込んだ。夏の地元の空は爽快なほどに青くて、大きな入道雲がもこもこと夏の存在感を放っている。
「晴れてるけど急に雨降ることあんだよね」
「そうなんすか」
「うん、スコールみたいな。あ、あれモノレール」
窓の外を顎でしゃくると、興味があるのかないのか流川が「へえ」と言った。
法定速度を守りながら高速を進み、夏の空を流川と眺め見る。生まれ育った地元の空を、大人になった流川と共有している。なんとも不思議な気分だ。
「そういや明日何時の飛行機で帰んの?」
「夕方っす」
「夕方か、思ったより滞在できんだな」
「はい」
少しでも長く一緒にいたいんで、と助手席から痺れるような甘い声がする。流川がいまどんな顔をしているか直接瞳に焼き付けたかったが、なにぶん運転中なので思うようにいかない。ルームミラーで流川の顔を確認したが、涼やかな視線はすでに窓の外へと向いていた。
しばらくの間、空を眺めていた流川だったが、ほどなくして飽きたのか、リョータのほうをちらりと見たのが空気で伝わってくる。
「眠い? 寝てて良いぞ、移動疲れただろ」
「大丈夫っす」
「ほんとに?」
「うす」
運転しながら手を繋いだり、ふとももに触れたり脇腹を突いたり、視線を交わしたりして、それなりに甘ったるい時間を過ごした。ドライブデートって感じだ。
「流川、こっち来んの初めて?」
「はい」
「へえ、そっか。どう?」
どんな印象、と聞くと、うれしいです、と返ってきた。
「うれしい? それが感想?」
「はい」
ずっと来たかったんで、と流川が言う。なんて答えるのが正解なのか分からなかったので、行きたいとこあるなら連れていくけど、とだけ伝えた。流川は、先輩がいればどこでも良い、と言い逃げてあっさり寝やがった。目をつぶって三秒で夢のなかだ。眠くないって言ったのはどこのどいつだよ。
「…ふてぶてしい顔で寝てら」
苦笑を落としてハンドルを握り、流川を乗せた車を前へ前へと走らせた。
リョータが住むマンションに到着すると、時刻は昼前だった。車を駐車場に停めてからエレベーターに乗り込む。以前会ったときに交換した合鍵を、流川は律儀に持ってきていた。妙なところで用意周到な節がある。
「これで開けて良いすか」
「え、鍵持って来てたんだ、開けんのはぜんぜん良いけど」
「うす。………なに笑ってんすか」
「いや、お前可愛いとこあるなーって思って」
「は?」
「そんなに合鍵使いたかったの?」
「…だめすか」
てかいつも持ってる、と流川が言う。
「え、なんで」
「急に会いに行けるかもしれないから」
「えっ、そういう理由?」
「そうですけど」
急に会いに行けるようになったとき、家に鍵を取りに帰るロスを減らしたいから。流川がきっぱりと言い放つ。べつに合鍵がなくても来たら良いのに、とは思ったが、流川のなかで交換した合鍵の順位が大事なものリストのなかで上位に君臨しているらしいことが分かった。だから素直に感動した。
「そっか、なんかごめん。てか使ってもらうために渡したから、普通に使えよ」
「うす」
にやける口元を手で隠しつつ、普段は一人で暮らす部屋の扉が流川の手によって開けられるのを眺めた。
部屋に入りエアコンをつける。荷物適当にそのへん置いといて、と声をかけて、軽く伸びをした。リョータの家に流川がいる。その事実がリョータをどきどきさせた。
「これからどうする?」
「どうするって?」
「まだ昼だし、いまからだったら色々観光地回れそうだけど」
「それより、したいっす」
「え、したいってなに、いくらなんでもあけすけに言い過ぎだろ」
求められるのは吝かじゃないが、品がないっていうか、欲望的すぎるっていうか。
「欲望的じゃだめなんですか」
「は?」
「先輩に会ったらたまんなくなった。まだ満たされない部分がこんなにあるんだって初めて知った。オレの不足を満たせるのは先輩だけだ」
そんな熱烈な台詞をよくもまあ真顔で言えるもんだ。距離を縮められ、先輩はしたくないんですか、と耳元で囁かれる。
「したいけど…それよりまずは他にあるだろ」
「他って?」
「えー、分かんねえの?」
立ち尽くしたままの流川に背中から抱き付いて、シャツの上から肩甲骨に口づけを落とした。布越しでも伝わる体温の熱さにどきどきして、流川の匂いにくらくらした。オレたち何か月ぶりに会うんだっけ。結局このあと流れでしちゃうんだろうな。だってしたいし、気持ちよくなりたいし、気持ち良くしてあげたいし。結局何回すんのかな。前会ったとき、何回やったっけ。最近うしろ触ってないけどオレのちゃんと機能するかな。流川のこと受け入れられるかな。それより今はキスのほうがしたい気がすんだけど、キスしてくれないかな。
「…流川ってするためにオレに会いに来たの?」
いろいろと考えた結果、空気の読めない発言をしてしまう。
「それもありますけど」
「あるんかい」
「つか普通に、先輩に会いたかったから」
「あ、そう」
「誕生日おめでとうございます、って直接言いたかったから」
「………あ、そう」
誕生日あしただけど、と可愛げなく口を挟んだら、それこそ品がないし無神経かな。優しく抱き締められたので、観念して「来てくれてありがとう」と礼を伝えた。
「会えてすげえうれしいぜ」
「オレもっす」
背伸びをしてそっと流川に口づけた。一度触れ合えばもう歯止めは効かない。何度も重ねられる唇に息が続かなくなって、とんと流川の胸を押し返したが、すぐに腰を引き寄せられる。甘い口唇に全身の力が抜けていき、気付けば流川に抱きかかえられていた。
ソファーで一回、ベッドで一回、バスルームで一回すると、ようやくからだの欲求が満たされた。どんだけ不足してたんだか。
ほとんど裸の状態で流川とベッドに横になり、乱れた髪の毛を撫でたり梳いたり、さらさらの指を絡めたり、素肌に口をつけたりしていちゃついた。
「なあ、ほんとにどこにも行かなくて良いの」
鍛えられた逞しい流川の腕に抱き付きながら訊ねると、流川が眠そうに目を瞬かせる。
「じゃあ、ケーキ」
「え」
「ケーキ、買いに行きたいです」
「えっ、ケーキ?」
なんで、という疑問と、オレのためか、という答えが同時に思い浮かんで「あ、ああ、うん、分かった」と口を濁すしかなく、素っ気ない態度を取ってしまったことを秒で悔やむ。付き合って結構経つし互いの誕生日を何度も祝い合っているので、手の込んだサプライズを必要としない関係性を築けてはいる。とはいえ、好きな人からの手放しの祝福は、普通に嬉しい。
「毎年食べてましたよね」
「食べてたけど」
「だったらケーキ、買いに行きたいっす」
鼓膜にキスをされながらねだられる。ん、ん、と甘ったるい吐息を我慢できない。
「ん、ん、もうしつこいってば… んー、このへんケーキ屋あったかなあ」
頭のなかで周辺の地図を思い浮かべる。確か歩いて行けるところに小さなパティスリーがあった気がする。
「改めて思うけど、大人になっても誕生日ケーキ食べるってのもあれだな」
「いらないんですか」
「いや、いらないことはないけど…」
これからケーキを買いに行く、という恋人に対して無神経な発言だったが、正直にわかんねえ、と答えた。我が家では、誕生日にいちごのケーキでお祝いするのが恒例だったから、誰かの生まれた日には大きなホールケーキを家族で分け合って食べた。一般的な家庭と同様、誕生日にケーキを食べる価値観は備わっている。だけど、リョータにとって誕生日のケーキには少なからずさみしさが伴う。兄がいないことを、どうしたって実感するからだ。毎年、毎年、兄と一緒に祝ってもらっていたから。
「…でも、流川の誕生日には、ケーキ買ってやりたいとは思う。てか自分の誕生日よりも流川の誕生日のほうが会いたいかも」
「オレもそうですけど」
「そうなの?」
「はい。あと、ケーキですけど」
いらないってなら買わないけど、前からあったものが急になくなるって、先輩さみしくないですか。そんなようなことを流川に言われて、はっとした。それから兄のことを思い出した。いくら大好きでも、血がつながっていても、兄の記憶はどんどんと薄れてしまうから、だから忘れないために甘いケーキで記憶を繋ぐのだ。これは、懺悔でも弔いでも空虚でもなんでもない、純粋な祝福だ。
「…そうかも。…なあ、やっぱ食べたいかも、ケーキ」
「うす」
「それに大人になると、ケーキ食べる機会って誕生日くらいだよな」
それは、職業柄かもしれない。食事のバランスやカロリーはそれなりに気にするし。
「じゃあますます今日くらい食べた方が良いんじゃないすか」
抱き寄せられて肩口に唇を押し当てられる。熱い舌が皮膚を刺激し、んっと思わず上擦った声が漏れた。さんざん喘がされたおかげで声も掠れてるし。
「本当は食べたいんじゃないすか」
ふっと口角を上げた流川にキスされた。それってどっちの話? ケーキ? それとも――。
「…なあ、もうしねえぞ」
「いまはしないっす」
「いまはってなんだよ」
「あとでもっかいします」
「はは、元気すぎ」
オレのからだもたねえよ、と軽口を言いつつ、いまなら言っても良いかな、と唐突に思った。兄のことだ。
「…オレの兄貴も同じ誕生日なんだよね」
脈略なく呟くと、流川が「へえ」と相槌を打った。いつもと変わらない声色と表情でごろんと寝返りを打ってリョータの首筋に鼻を埋める。
「兄弟で同じ誕生日」
「そうなんすか」
「うん。一月一日生まれの流川のほうが凄いかもだけど」
「んなことないですけど」
先輩の方が凄いんじゃないですか、二人分だし。そう言われて、一瞬にして瞳が潤んだ。ぐっと唇を噛んで涙がこぼれるのを我慢する。喘いでおいて良かったなんて初めて思った。だって声、誤魔化せるから。
スマホを眺めるふりをして黙っていると、流川が天井を見上げながら唐突に呟く。
「どんな人すか」
主語はなかったが、兄のことを聞かれているのだと分かった。
「どんな、か。…うーん、自慢の存在かも」
「自慢」
「うん、あんま答えになってないかもだけど」
かっこよくて、強くて、逞しくて、優しくて、それからなによりバスケがうまくて。ソータを称える形容詞は山のように出てくるが、いかんせん兄の面影は十代のころで止まっている。一生成長しないけど、兄は兄。どんどん年の差は広がるけど、兄弟で同じ誕生日。
リョータの記憶にあるソータはずっと幼いままなのに、リョータはいまも成長を続けているのがずっと不思議だった。兄の死を乗り越え、いまを懸命に生き、大好きなバスケに挑戦し続け、大切な人の隣で眠ることが出来る幸せを感じながらも、そのもどかしさはいつまで経っても拭うことが出来ない。もういっそ、一生胸に抱えて生きていこうと思っている。孤独も後悔もぜんぶ、兄の分も背負って生きていく。
あれだけ大きかった兄の背に追いついたし、筋肉や胸板やスピードでは負けない自信がある。でも、どれだけ大人になっても自分はソータの弟だ。それが誇らしいのに、やっぱりちょっとさみしい。でも、ソータとの思い出があるから、リョータは強くなれた。
押し黙っていると、もぞもぞと寝返りを打った流川が抱きついてきて、耳を甘噛みしながら「オレより?」と聞かれた。
「え?」
「オレより自慢すか?」
「えっ? ふは、ちょ、なにそれ」
兄貴に嫉妬すんなよ、と盛大に笑ってやると、流川があからさまにふてくされる。自慢の度合いでいうと、いい勝負かもしれない。
「比べらんねえよ、そんなの。どっちも自慢」
てか流川とソータを比べたくない。比べる存在じゃない。そういうんじゃない。そう伝えると、流川が悔しそうな顔をした。
「もしかして納得いかない?」
「いや別に、先輩らしいって思っただけ」
「そう?」
「はい」
会ってみたいっす、と流川が言う。ありがと、と短く礼を言い、会わせてやりてえよ、と心のなかだけで呟いた。
「今日ケーキ、三つ買いますか?」
「え、なんで三つ?」
「オニイサンの分」
「えー、いいよ。渡しに行けるわけじゃないし」
やんわりと断ると、流川が「代わりに食べたら良いんじゃないすか」と言った。兄はどこにいるのかと流川はいっさい聞かなかった。
「先輩とオレで代わりに食べたら良いんじゃないすか」
「え、兄ちゃんの分勝手に買って勝手に食べんの? なにそれ、どんな祝い方?」
「だって誕生日なんでしょ」
「うん、まあ、そうだけど」
一緒に祝いたいんで。流川がなんでもないことみたいに平然とつぶやく。世界で一番かっこいい生意気な恋人は、どうしてこうもリョータを喜ばせる天才なのか。
キスをしてから抱き合って、服を着てから二人で家を出た。西に傾き始めた太陽が燦々と街を熱く照らしている。目当てのケーキ屋でショートケーキを三つ買った。ぜんぶ同じ味なのもなんだかな、と思ったが、同じ味のケーキを流川と共有したかった。
海沿いを歩くとさざなみが聞こえてきた。日が暮れかけてもまだまだ夏真っ盛りという感じだ。光線みたいな激しい陽光が容赦なく降り注いでくる。この陽射しがいつか和らぎ、風に冷たさを帯びて秋や冬に移ろいでいく。そうして季節は回っていく。
波の音に導かれるように海を目指した。海見ながらケーキ食べたいな、と不意に思うと、海で食べますか、と聞かれてびびった。
「流川ってエスパー?」
「なにがすか」
「いや、こっちの話。オレもいま全く同じこと思ったから」
海見ながら食べよう、と流川のシャツの袖を引っ張った。海が見える公園のベンチに座り、風を受ける。視界がひらけるよう、キャップを逆向きにかぶり直した。ふわっと漂う潮風の香りが郷愁を誘う。ぎゅっと胸が締め付けられる。
「誕生日あしたですけど良いんすか」
「うん、なんか今食べたいかも。フライングでも良いよな」
「先輩が良いなら」
ちょっとお行儀は悪いが、手づかみでショートケーキを頬張る。ためらいなく一番最初にいちごを食べた。うまい、と一言感想を言って食べ進める。口の端っこについた生クリームを舐め取った。
「先輩」
「なに」
「誕生日おめでとうございます」
「うん、ありがと。つか明日だけど」
「明日も言います」
ケーキとおめでとうはセットなんでしょ。その口ぶりだと、以前リョータがそんなことを言ったのかもしれない。リョータは忘れてしまった取るに足らない一言を、流川はけっして忘れない。ちゃんと大事に胸のなかに取っておいてくれる。今日みたいに流川からのたしかな愛を垣間見るとき、リョータは嬉しさを感じる。
「一生一緒にいます」
「うん、分かった。お前も一生一緒にいたいって言ったこと、一生忘れんなよ」
「うす」
「オレも一生忘れねえからな、一生いてやるからな」
「はい」
なんだか機嫌良さそうにケーキを食べきった流川が、親指で口元をぬぐった。それからリョータを真っ直ぐ見つめ、「いつでも会いに来ますよ」と言った。
「うん、いつでも来て良いけど」
「いや、そういうんじゃなくて」
「じゃあどういうのだよ」
「誕生日とか関係なく、会いに来るんで」
急でも良い。突然でも良い。思いつきでも良い。夜中でも早朝でも良い。会いたいと望んで良い。求めて良い。言葉にして良い。声に出して良い。
「オレは先輩の願いを叶えるだけなんで」
「なんだよそれ、もしかして流川ってスーパーヒーロー?」
「なに言ってんすか」
「いや、だって」
「オレが叶えるのは先輩のだけですけど」
「はあ? ちょっと、はは、もうさーお前ってば」
泣きそうなくらい嬉しかったが、実のところリョータは笑ってしまっていた。なんか面白くて、可笑しくて、わけわかんないくらいしあわせで。
「そっか」
「はい」
「突然会いたいっつっても鍵持ってすぐ来てくれるんだよな」
「はい、絶対」
「まじかよ、はは、分かった」
じゃあ今度言ってみよ、とからかうように言って、ソータの分のいちごを頬張った。ソーちゃん誕生日おめでと、と心のなかで特大の祝福を捧げながら。
「どうぞ」
「ほんと?」
「すぐ来ます、明後日でも」
「はは、まじかよ、おまえどんだけ暇なの? てかオレのこと好きすぎじゃない?」
「はい、好きなんで」
「ふは、真顔やめろって」
リョータだって本気にしていない。流川がすぐにリョータのもとへやって来ることが、物理的に難しいってもちろん分かっている。それにたぶん、どれだけ精神的に追い込まれたとしても、流川に会いに来てなんて告げる選択肢を、たぶんリョータは選ばない。それはとても、ポジティブな意味で、互いのことを尊重しているからだ。でも、それでも、実際に起こり得る可能性は限りなくゼロに近いけれど、流川と未来の約束を結べることが嬉しい。流川の気持ちがなにより嬉しい。遠く離れているからこその、言葉のおまもりだ。
汗ばんだ流川の額に視線を向け、人差し指の背で軽く掻き分けてやった。その肩越しに綺麗な飛行機雲が見えた。細いちりぢりの白い筋がぐんぐんと青い空に伸びていく。ひどく晴れやかな気分だ。
「…最後のケーキ、はんぶんこしようぜ」
いちご不在のケーキを手に取ると、おめでとうございます、と流川にキスされた。それはどっちに対して? 意地悪く訊ねれば、先輩以外にキスするわけないでしょ、と普通に怒られた。ああ、それは、大変失礼しました。照れる。にやける。嬉しい。嬉しい、嬉しい、嬉しい。好きだ、流川が。
ちゅっと触れるだけのキス。甘いキス。人がいないとはいえ白昼堂々する行為ではないので、唇は一瞬で離れていった。ああ、たまんない。あんだけしたのに、まだ満たされない。
「んな顔すんの反則ですけど」
「なにが」
「物足りないって顔してる」
だって足りないもん、と思いながら「楓」と名前を呼んだ。
「なんすか」
「もっかいだけ、ここでして」
唇を突き出すと、流川が観念したように笑った。そのまま大きな手のひらで口もとを隠された。好きです、と熱っぽい声に、オレのほうが好きだし、と熱っぽい声で返した。
ぺろりと、熱い舌がリョータの唇を掠め取る。生まれてきて良かった、と思った。流川に出会えて良かった、と思った。唇の端っこを舐めてみると、流川と海と甘いケーキの味がした。