君はよいこ 遠い遠い親戚だという男児を預かることになったのは、諸星家にとっても寝耳に水、かなり急な話だった。
地球人の訪問者なんて、あまりにも普通すぎて、ちょっとびっくり。
その幼児との初対面は、学校から帰宅したタイミングだった。
「――あたる、お帰り」
珍しく玄関まで出迎えに来た母の背中に隠れるようにして、利発そうな幼児がいる。年は三歳くらいか。目が合うと、照れくさそうにさっと視線を外して、母の足にしがみついている。ご丁寧にも子ども用の礼服を身に付けていて、首元の蝶ネクタイが苦しそうだった。
「なんだい、この坊主」
遠慮も愛想もない台詞を投げながら靴を脱いだ。上がり框に右足を掛けると床が軋む。
「遠い親戚なのよ。父さん方の。母さんも初めて会ったんだけどね」
「ほう、そうかね」
台所の方から食欲をそそる甘辛い匂いがした。鼻孔が刺激されると空腹も増長される。たまには誰にも邪魔をされずに食事を楽しみたいなあ、などと考えているところに、母が予想だにしないことを言った。
「この子、預かることになったの」
「へ?」
「今夜一晩だけね。悪いんだけどあんた、一緒に寝てやってくれない?」
あまりにも淡々を物事が決められていく。母が案外優しい手つきで、幼児の髪の毛を梳いていた。あたるの剣呑な声に幼児が驚き、びくっと肩を震わせるのが視界に端に映った。
「なんで俺がガキと一緒に寝なならんのじゃ」
「だってしょうがないじゃない、我が家には寝る場所がないのよ。それにね――」
周りを窺うような顔付きで手招きされたので顔を近付けると、お礼はすき焼き用のお肉よ、と耳打ちされた。なるほどそういうことか。すでに見返りはいただいているということか。あたるも全てを理解して、母に倣うように声をひそめた。
「…そんな気前の良い親戚がいたのか? にわかには信じられない」
「…母さんだってびっくりよ」
災難とは切っても切れない縁だからか、こういう日に限ってどこからともなく邪魔者が現れ、諸星家の食卓を荒らしていくのだ。何もかも経験済みの親子の結託は強い。
「お肉は死守、絶対に死守よ。守りきるわ」
有無を言わさぬ声色で続ける。やはり母は強しである。
夕飯を作っている間は子守りをして欲しいと母に頼まれ、しぶしぶ幼児の手を引いて自室のある二階へ向かった。
「――あ、ダーリンお帰り」
「なんだラム、帰ってたのか」
「いま帰ったっちゃ」
里帰りをしていたラムが帰って来ていたのは朗報だった。子守りはラムに押し付けて、自分は夕飯が出来るまで悠々自適に過ごしてやろう。
「あれ、その子は?」
「遠い親戚だそうだ。今日はうちに泊まるんだとよ」
「へえ、そうなの。うちラムだっちゃ。よろしくね」
突然目の前に現れた空を飛ぶ宇宙人に、幼児は完全に委縮してしまっているようだった。ちいさな体をよりいっそうちいさくさせる姿はさすがに幼気で、あたるの背に隠れるようにして、ラムを見上げている。
「なんだかダーリンに懐いてるみたいだっちゃ」
「なんでだ、さっき会ったばかりだぞ」
「でも、ダーリンの後ろから出てこないっちゃ」
ほうら、とラムが男児を指差す。あたるの太ももにぎゅっとしがみつく指先や爪は、それはそれは小さかった。この小さな両の手が、あたると同じように動き機能しているというのは、瞠目すら感じるほどの健気さがある。
「なんだかいじらしいっちゃね」
「そうかね」
とはいえ、やけに大人しいガキだな、というのが第一印象ではあった。はしゃいだり喚いたり怒ったり泣いたり火を吹いたりしないところはかなり好感が持てる。どこぞのガキとは違うらしい。
微動だにしない男児の頭をつつき、挨拶したらどうだ、といつもの癖で頭をわしゃわしゃと乱暴にかき撫ぜてやると、小さな頭が控えめに上下に動いた。
「おいこら、もっとちゃんとせんか」
「ああ、もういいっちゃ、ダーリン。ちゃんと挨拶出来てえらいっちゃね」
「ったく、お前はガキに甘いんだから。…ということで、子守り頼める?」
「何が、ということ、なんだか」
呆れたようにラムが肩を竦め、夕飯のお手伝いしてくるっちゃ、とあっさりと部屋を出て行ってしまう。あーあ、俺の悠々自適生活が…。
夕暮れに染まる部屋に取り残されたのは、あたると引っ込み思案な男の子、それから――。
「――ただいまぁ、って、あたる帰っとったんかい。…って、なんやねん、そのガキ」
「お前もじゅうぶんガキだろ」
見計らったように窓から帰ってきたテン、の三人。
なんだ、子守りの数が増えただけじゃ。
黄昏が深まる頃は、空が藍色と桃色が混ざり合う。夜と夕方のちょうど中間くらいの色に染まる空を見るのが、あたるはけっこう好きだった。
制服から部屋着に着替えている間も、幼児はあたるのそばを離れなかった。
「お兄ちゃん着替えてんだけど。あそこにも似たようなガキがいるから一緒に遊んだらどうかね」
「おれはそんなガキとは一緒に遊ばへんど」
「こまっしゃくれたことを言いおって、お前もじゅうぶんガキだわ。文句を言わんだけ、こいつの方がよっぽど大人だな」
「はあ? いまなんて言うたあたるぅ?」
どっちがガキか勝負じゃボケ。どこで覚えてくるのか少々乱暴な言葉遣いで、テンが火を吹くために大きく息を吸い込む。そのタイミングを熟知しているので、フライパンさえあれば怖くはないね。部屋の隅から漫画本と座布団を引っ掴み、これ見よがしに寝転ぶと、テンが余計にヒートアップした。夕飯の時間が近付いていることはあたるも気付いていたので、テンとの戦いはじきに休戦に入る。だからわりと、のんびりとした気分だった。
「お前なんてわいの炎でちりじりにしてやる」
「ほお、いいのか? いま俺の近くにはいたいけな幼児もいるんだぞ?」
「どの口が言うんじゃボケが、常日頃からいたいけな幼児に好き勝手やっとるくせに」
ごおごおと盛大な音を立ててテンの口から放出される炎がフライパンの鉄に跳ねかえって、綺麗な火花を散らす。逆の手で漫画をめくっていると、胸元で幼児が身じろいだ。
「………凄い」
あたるの体に隠れるようにして、炎を見上げる。その瞳はやけにキラキラと輝いていて、初めて芽生えた感情を精一杯に咀嚼しているようにも思えた。
なんだお前喋れたのか、と思ったが、あえて口には出さなかった。代わりに、お前も火が吹きたいのか、と聞いてみると、ううんと首を横に振る。それからあたるの手を指差して、怖くはないのか、と聞いて寄越す。
「――さあ、どうだろうなあ」
火はもちろん熱いし、何より鬱陶しい。それはまずもって間違いはないのだが。熱心に突っかかってくる、暑苦しいガキが近くにいるから、いつの間にか日常になってしまった。
防御の片手間に読んでいる漫画本、あたるがページをめくるたびに、幼児の瞳が必死にコマを追うのが分かった。だから意識的にページをめくるスピードをゆるめた。
「――面白いか?」
ほんの気まぐれの気持ちで尋ねた。幼児が大きく頷く。
「俺はもうこの本を五十回は読んだ」
なんせ金がないからな。だからこの先の展開をそらで言えるぞ。そう言うと幼児があからさまに驚く。
「――この本、やろうか? そのかわり、出世払いだぞ」
見るからに利発そうな子どもだ。もしかしたら将来、面堂よりも使えるかもしれん。
幼児の瞳がみるみるうちに輝き、「欲しい」とはっきり言う。
いわば必要経費以外での庇護欲なんて、馬鹿らしいとすら思っていた。なんとも言えない複雑な気持ちだ。
程なくして、夕飯よ、とあたるを呼ぶ母の声がした。
夕飯時でも幼児はあたるのそばを離れなかった。
一番血が濃いはずの父には見向きもせず、母やラムの声掛けにも照れて黙りこくってしまうだけだった。年齢だけで言えばテンと仲良くなるべきところだが、人間関係や波長というのは難しいもので、幼児同士にも合う合わないはあるのだろう。
不思議なことに今夜の夕飯は穏やかだった。誰も諸星家を邪魔しない。いただいた肉は上等で、母の料理は美味しかった。
「実家のご両親はどうだったの――」
「それがね父ちゃん酔っ払っちゃって――」
母とラムの会話はあたるが驚くほどに普通で平凡でなんてことのないものだった。テンはプロレス中継に夢中で、途中からはあたるも一緒になって応援したり揶揄ったりした。一晩だけの居候の幼児は、あたるの隣にちょこんと腰を下ろして、にこにこと楽しそうにご飯を頬張っている。
こんなに穏やかな日常が続くのはちょっと刺激に欠けるが、間違いなく幸福の部類だ。きっと何十年後先の未来に今日の夜を思い出して、面映さを抱く日が来るのだろうと、あたるはふいに思う。相変わらず二本目の酒を断られていた父のことも、もちろんもれなく。それはちょっと、確信めいている。
二十一時も過ぎると良い子は寝る時間である。
漫画も読みたかったし、ごろごろもしたかったが、あたるのそばをついて離れない幼児の瞼はいよいよ限界だった。
「凄いっちゃねぇ。寝ぼけててもダーリンの服、掴んで離さないっちゃ」
「えらいガキに懐かれてしもた」
「ふふ、満更でもないくせに」
俺はまださっきの勝負忘れてへんどぉ。ラムの胸に抱かれながら、舌足らずな声がする。
「お前だってよっぽど眠そうだぞ」
テンの額をこれでもかと小突くと、おきあがりこぼしよろしく反動をつけて揺れたので、気分も晴れた。
「ちょっとダーリン、テンちゃんがかわいそうだっちゃ」
「えーん、ラムちゃーん」
「勝負する気概があったって眠気には勝てないねぇ、赤ちゃんだもんねぇ」
「うっさいボケぇ、わいと勝負、勝負、…しろぉ…」
「あーあ、テンちゃん、もう限界だっちゃ」
うちら宇宙船で寝るね。二人の幼児を起こさないように、ラムが囁くように言って、にこにこと笑う。
ラムが飛び立つ間際、テンがはっと目を覚まして、あたるを見た。
「――お前、そいつと一緒に寝るんか?」
電気を消すと、部屋に差し込むのは月明かりだけだ。満月をバックに、ラムに抱かれたテンと目が合う。
「――そのつもりだが」
間髪入れずに言い返すと、テンの顔がぐしゃりとゆがんだ。なんで、と聞きたそうな顔をして、テンは結局何も言わなかった。いたいけな幼児なのだから、意地を張らずになりふり構わず素直になれば良いのに。このクソガキは、誰に似たのか知らないが、余計な場面でだけでしか素直になれない。
翌朝、泣きはらしたような目のテンを見たときは、さすがに腹を抱えて笑ってしまった。
「お前、どうしたんだよ、その顔、あっひゃっひゃ、傑作じゃこれは」
「指指して笑うなアホボケ、お前なんてな、お前なんてな…」
朝からひと悶着終えつつ、みんなで朝食を囲んだ。母によると、この幼児はこのあと駅まで送るらしい。
「ふうん、そうか。一晩泊めてやったんだから、うちに挨拶に来ても良いのになぁ」
「まあねえ。でもいろんな事情があるみたいよ」
出会いも突然だったが、別れも唐突に訪れた。小さな頭は、あきらかに寂しそうにしている。つむじをぐりぐりといじり、細くて頼りのない肩をぽんぽんと撫でると、これからますます光るであろう原石みたいな瞳にぱっと色が灯る。
「出世払い、忘れんなよ」
「…うん」
「俺はしぶといぞ」
「…うん」
元気でな、と頭を撫でると、まるでたがが外れたようにぐしゃぐしゃに泣き始めたのでさすがに面食らった。アーモンド形の大きな瞳から零れる大粒の涙をぬぐうことも出来ずに暫し見つめる。
子どものあやし方や接し方なんて、あたるはなにひとつ知らない。ナンパは得意分野ではあるが、ラムと出会ってからこっち、連敗が続いているし、人との距離の取り方だってもしかしたら不得手の部類なのかもしれない。
「あらあら、あたるに泣かされちゃったわねぇ」
「もう、ダーリンったら」
それでも、これから色んな世界を見て逞しく生きていくだろう幼い子どもの泣き顔を見て、両親もラムも、今まで見たことのないたぐいの優しい顔で笑っていた。
子どもを泣かして褒められるなんて、初めてのことでちょっと恥ずかしかった。
ただ、テンだけはひとり、部屋の隅っこでいじけていた。
その日の夜、寝る時刻になるとテンの頭がこっくりこっくりと船を漕ぎ始めた。
ラムも眠そうにしていたので、何も言わずに立ち上がって布団を敷くと、ラムが電気を消してくれた。
「今日は押し入れで寝ようっかなぁ」
「………おう、そうしろ」
「ほうら、テンちゃん、寝るっちゃよ」
「ん~…ラムちゃ~ん…」
寝ぼけたような甘えた声で、ラムに腕に頬を摺り寄せるテンを辟易とした気持ちで眺める。
ラムの手が押し入れの引き戸に掛かった際、テンと一瞬だけ目が合ったので、一緒に寝るか、と聞いてみた。
気まぐれと悪戯心と、それからほんの少しの愛しさとよく分からない罪悪感みたいなもの。それらが綯い交ぜになって、気付いたら声に出していた。
「――お前と寝るなんて、死んでも嫌じゃ」
テンの顔が不機嫌と嬉々に染まったので、ちょっと笑った。