大人の修学旅行「ええっ!」
宿泊先の廊下に響く大仰な声を受け、面堂は手にしていたエアコンのリモコンを落としてしまった。ドア一枚隔てた部屋の中からでも聞こえる声は紛れもなくあたるのものだ。人よりやたらとよく通る。だからすとんと耳に馴染む。
廊下がざわつき出すのを空気で感じ取り、何事だと慌ててドアを開けた瞬間、「女湯を覗いたことがない男なんてこの世におるんか」などという戯けた台詞が耳に飛び込んできたので、さすがにすっ転びそうになった。なんて不純な話を大声で、不謹慎にもほどがある。
「公共の場でなにを話しとるんだ、きみたちは!」
最大ボリュームでがなり立てれば、そばを通りかかった仲居に驚かれた。でも今は気にしていられない。数人の男子生徒と談笑するあたるの方へつかつかと近付いていって、その薄っぺらい胸元を指で三回突けば、眇めるように見上げてくる。
「なにって、こいつらが今から風呂に入るっていうから」
「だからってどうして女湯の話になるんだ」
「なるだろ、普通、ロマンだろ、女湯は」
ああ言えばこう言う。言い返されるから言い返したくなる。教師二人の一触即発な雰囲気を前にした生徒たちに「まあまあ」と宥められる始末。高校指定のジャージを着た男子生徒たちは、あたるが担任するクラスの中心的存在だった。あたると一緒に廊下や教室で駄弁っているのを、面堂は何度か見掛けたことがある。
睨む、まではしないけれど、生徒を一瞥して「諸星先生の言うことなんぞ一切聞くなよ」と牽制してしまった。大人になっても、高校生相手に嫉妬するなんて、因果な人生。
尊厳は守れと小突きながら言えば、あたるが「べ」と舌を出した。反抗的な態度に面堂の感情もあっちへこっちへ揺すぶられる。
「面堂先生よ、なにをそんなに怒っとるんだ」
「ぼくは注意をしているんだ!」
生徒とする会話にしてはあまりにもデンジャラスすぎる。保護者にばれでもしたら一発で首が飛ぶ案件だぞ。面堂の焦りと怒りを知ってか知らずか、当の本人は悪びれる風もない。面堂先生だって好きなくせに、と含みのある顔で耳打ちをするので、その手を振り払って抵抗すると、あたるがふっと大人びた表情で息をついた。肩に腕を乗せてくるので、鬱陶しいったらありゃしない。
「修学旅行で女湯を覗かんなんて、男がすることじゃないよなあ、面堂先生」
「なぜぼくに同意を求める。人として教師として場所と立場を弁えた方が良いと思うぞ、諸星先生」
「いやいや、おれは知っとるぞ。ここにいる面堂先生なんて高校時代、率先して覗きに行ってたんだから」
「おいこら、あることないこと言うんじゃない! 第一、率先してたのはきみじゃないか!」
とどのつまりは覗きはいかん。肩で息をしながらの言い争いを生徒たちが呆れた面持ちで見ていた。分かったか、と大声でまくしたてると、生徒が頬をぽりぽりとかきながら言った。
「えっと、面堂先生と諸星先生が仲が良いってことだけは分かりました」
全然分かっとらんじゃないか。
二泊三日の修学旅行初日。観光バスに乗っての長時間移動は久方ぶりだった。硬いシートは決して居心地の良いものではなかったが、教え子たちから伝わる高揚感は案外悪くない。親元を離れて遠出をするくすぐったさはこの時代しか味わえない魅惑の時間だ。
高校の修学旅行、どこへ行ったっけ。大浴場へと向かう生徒の背中を眺めながらぽつり思った。面映い高校時代の記憶は、年齢を重ねても今なお色褪せない。どこにでもある旅館の柱、大広間で囲んだ夕食、夕暮れのなかで佇むあたるの横顔。いつだってあたるは面堂の近くにいた。憎たらしい顔で、ふてぶてしい顔で、張り合いのある顔で。それが面堂は悔しくて、ちょっと嬉しい。
「…懐かしいなあ」
あたるが独り言のように呟く。なにが、と聞かずとも、あたるが考えていることは手に取るように分かった。なんだ、考えることは結局同じか。浮つく生徒たちに感化されたのか、面堂までくすぐったい気持ちになる。誤魔化すように瞬きをして身じろぐと、いまだに面堂の肩にもたれるあたると目が合った。瞬間、はたと閃いたみたいに思い出した。まるでそれが合図みたいに、ふと鮮明に、なにもかもが蘇る。
なにって、高校時代の修学旅行先。
「…なんで、大人になっても貴様と同じ部屋で寝泊まりせなならんのだ」
人生にそう何度もない修学旅行だぞ。消え入るように呟いたので、あたるは全てを聞き取れなかったらしい。「ん?」と不思議そうに相槌を打つので、至近距離にある鼻先を指で弾く。
「いて、なにすんじゃい」
「ふん。間抜け面にはお似合いだな」
勝ち誇ったような気持ちであたるを眺める。身長差の分だけ、僅かに高い位置から見るあたるの横顔はもうずいぶん見慣れたものだった。それなのに、まだまだ足りない。もっと見てみたい。あたるが笑うところも、怒るところも、悲しむところも、嘆くところも。それからもちろん、解されて蕩けきってしまうところも。
「…さすがにせんぞ」
面堂の顔を見て何を思ったのか、少し照れたような面差しであたるが小さく呟く。しゅうがくりょこうだからな、と平仮名で続ける声がちょっと可愛くて驚いた。肌の触れ合いに関しては、何故かきちんと分別がつくらしい。変なやつだな、と思うと不思議と楽しくなった。なんだかんだ飽きない。毎日も心臓も人生も、ずっと賑やかで騒がしい、あたるといると。
「…本当にきみは、ぼくの心を掻き乱すことに関しては天才的だな」
一度だけ瞬きをして、肩に置かれたあたるの腕をしっしと払う。
「なんじゃそれ、褒めとんのか」
「これが褒め言葉に聞こえるなら、貴様の頭は浮かれすぎだ」
生徒たちの背中が大浴場の暖簾をくぐるのをこの目で確かめたあと、あたるの腕を掴んで引き寄せてから耳元で囁いた。
「――褒め言葉じゃなくて、熱烈の間違いだろ」
家に帰るまでが修学旅行だからな、と耳打ちすると、あたるが顔を赤くして「不良教師」と俯いた。