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    エヌ原

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    エヌ原

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    アイドルマスターSideMの古論クリスさんに感情のあるモブの話1/5

    #vs古論クリスモブ
    vs.OldTheoryChrisMob
    #古論クリス
    oldTheoryChris
    #
    #SideM

    アカポスの女 禁帯出のノートパソコンを鞄に滑り込ませる。肝心のデータにはどうせ学内ネットワークからしかアクセスできないのに、私はそれを盗まれることが怖い。誰かがワンタイムパスワードと生体認証とをクリアして、私の業績を自分のものにされるのが怖い。もう4,5年使っている、たしか博論の口頭試問が終わったときに買った、ヌメ革の陸地でしか使わないトートバッグはまだ1㎏を切らないノートパソコンの重みをしっかり受け止めてくれる。ラボの明かりを消そうとして10年近く前に自分が通ったのと同じ道を歩こうとしてる院生がpythonが生成したグラフからノイズを取り除こうと四苦八苦していることに気づいてやめる。ほどほどにするんだよと声をかけて、鍵をかけずに部屋を後にする。陸上では自分に義務付けている5センチのヒールの音に嫌な金属音が交じってかかとのゴムを取り換える時期がとうに過ぎていることを知らせる。だけどミスターミニットが開いてる時間に、30分だかの交換時間を捻出することは、今の私には難しい。
     ひさしぶりの終電は思ったより混んでいる。おそらく大半を占める賃金労働者たち、2軒目を終えた大学生の群れ、ペッティングに及びかねない密着したカップル、彼らの服装のはしばしにファーやベロアや地厚のスウェットを見つけて、私はオープントゥパンプスの先端から吹き込む空調に身震いする。衣替えをしなくては。シフォン地のブラウスも膝丈のネイビーのレースのタイトスカートもたぶんもう時期外れだ。だけどいつ、いつするのだろう。私は。手帳のリフィルを埋め尽くす未チェックのタスクリストを確認する。今日も最低限のtodoだけをこなすのが精いっぱいだった。そうだ、今日中にまだ読まなければならない論文が一本ある。タブレットを取り出してPDFを読むのに使っているgoodnotesを起動する。マーカーで線を引く自分の人差し指の先には、先々週結婚式に出席したときに塗ったパールの入ったマニキュアが満月のようにちいさく残っている。
     家の明かりは消えていた。明日は1限だからしかたない。玄関でパンプスを脱いで、ウェットティッシュでむくんだ足の裏と指をぬぐう。出ているのは今日の靴だか明日の靴だかわからないけれど共有ではない互いの持ち物には基本不干渉だからそのままにする。パンプスを靴箱にしまって、明日履く、つま先の覆われたヒールを三和土に置いた。
     リビングを通り抜けて左手の寝室をそっと覗く。夫はダブルベッドの1/3ほどに小さく丸まって寝ている。その体がゆっくりと、あおむけの時よりは控えめにふくらんでしぼむのを確認してから、扉を閉じてリビングに戻る。夕食は食べたのか食べていないのかもう忘れた。冷蔵庫から今朝開けたコントレックスの残りを取り出してマルチビタミンとミネラルのサプリを飲む。経口摂取にどれだけのエビデンスがあるのか私は知らない、知ろうとしない、そんなことに頭を割いている余裕はない。
     いちどパソコンの入ったトートバッグのほうに目を向けたけれどそこに入っているデータ程度をどう加工したって明日の役には立ちはしない。幸い講義のない日だから教材の目処をつけるのも明日でいい。私はソファに座ってタブレットで論文の続きを読みながら、天気予報でも確かめるつもりで、テレビをつけた。
     暖色のにぎやかな、目を刺すようなセットが飛び込んでくる。遅れてどっと人が笑う声がして、私の目はようやくテレビの中で動いているものたちがバラエティであることを知る。25時ちかい時間には天気予報はやっていない。そう思いだして、激辛ラーメンをすする芸人だかタレントだか俳優だかわからない人が苦悶の表情を浮かべるのを左上の小さなワイプの中の人が笑うのを、ただ眺めた。学生時代はそれでも実験の合間にテレビやYouTubeを見て芸能人の顔や名前をそれなりに一致させていたのに、D進したあたりからほんとうになにもわからなくなった。海の上ではそもそも地上波の電波が届かないから日本の番組について知ることはほぼ不可能だし、データを送るためのネット回線をYouTubeで詰まらせるわけにもいかない。ひな壇に座った芸能人くずれがラーメンの感想を述べている、MCにすら見覚えがない。番組情報のボタンを押すと番組名にMCのユニット名らしいものが冠されているがそれにも思い当たらない。いや、それは研究とは関係ない。今回はもう船を降りて3ヶ月にもなるのに、私はこういうたぐいのものに一切触れていない。なぜなら。
     そして、男は計ったように画面に現れる。ふたりの仲間とともに。すらっとした長身、ミルクティー色の長い髪、整った容姿、張りのある声、少し回りすぎる口。
     そこにいるのは、私の研究仲間だ。大学が一緒だった、学年も一緒だった、ラボは違った、でも何度も同じ船に乗った。研究データをシェアしたこともあるし、教授が筆頭の論文に名前を並べたこともある。当時から彼は秀才で教授のおぼえめでたく、修士2年博士3年でPh.Dを取得、最短経路でアカポスに就き、テニュアを手にするのだってもう少しだったはずだった。
     その彼が、ネイビーのジャケットに首周りのゆったりしたニットを着て、テレビの中で話している。海洋学についてのことではない。新曲、についてらしい。歌。カラオケになんて一度も行かなかった。同期会で彼はいつもニコニコ笑みを浮かべながら最新の論文の内容をいち早くみんなに紹介し、つぎの〝クルーズ〟で何をするかを語り、学振の申請書の書き方を伝授し、二次会には顔を出さずにラボに戻っていっていた。翌朝も誰よりも早くラボにいて――いや、帰ったのかは誰も知らないけれど、教授に言われたデータをまとめて、さっさと自分の研究にとりかかる。気が付けばいくつもの官学共同研究に名を連ね、民間のプログラムにも協力し、ラボのホワイトボードには「本郷→JAMSTEC 戻21:00」と書かれるのがふつうになった。私たちは、――彼に遠く及ばない、上澄みになってしまったがゆえに己の凡才さを痛感させられた人間は、もはやうらやむような気持ちすら湧き上がらずに、ただひたすら課せられた仕事を深夜にようやく終わらせて、それから自分の研究――ごくごくありふれた、私がやらなくても誰かがやるような――に手をつける日々が続いた。
     私は学部3年のころから予備校で同級生だった夫と同棲し始めていて、それは干からびかけるような日々の中でまちがいなく潤いであり、同じく研究の道を選んだ夫がたまに一緒に過ごせる夕方にドイツ観念論について小学生にでもわかるように私に話しかけてくれることを喜びとしていた。その会話の中で彼の名前は何度か、いや何十回も出た、と思う。彼に触れずに私の研究生活を語ることはほぼ不可能だったし、船に乗って数ヶ月戻らないときに撮りためた写真の中でどうしても彼は目を引いた。夫は人の容姿にうといほうだったけれど彼の顔が整っていることは認めていたし、そうだ一度たしか言っていた、「この人は仕事中の写真のほうが生き生きしてるね、記念撮影は下手だ」。それは私も同じで、というかラボの連中なんていうのはみんな記念撮影となるとただでさえ下手な笑顔に作り物感が出てしまうもので、私はそれをそうだねと聞き流した。今だったら、そうしない、と思う。
     画面の中では彼らがスタンバイして、照明が切り替わり、テンポの速い、なんと形容したらいいのかわからないが、やたらとポジティブで抽象的な歌詞の曲を歌い始めた。左後ろにポジションをとった彼は、ターンするたびに長い髪をなびかせながら、聞きなれない声で歌っている。その口から、そういう言葉がこぼれるのを、私は知らない。
     脱力した手からコントレックスの蓋が落ち、それはフローリングの上をかんかんと跳ねて部屋の隅に転がって止まった。立ち上がって蓋を手にしたところでかたりと扉が開く音がした。
    「ごめん、起こしちゃった」
    「いや、準備をひとつ忘れてたのを思い出したから起きた」
     夫の理屈は時々わからないが私はいちいちそれに付き合うつもりはなく、ソファの端に座る。夫はiPadを立ち上げてスライドを確認しているようだ。テレビの前には直接口を付けたコントレックスしかないから、私はもう一度立ち上がって冷蔵庫で冷えたウィルキンソンを開け、2つのグラスに注いで、ボトルを脇に挟んでソファに戻る。
    「ああ、ありがとう。歯は磨くから大丈夫だよ」
    「音、下げるね」
     リモコンの下向きの矢印を押すと彼らの歌声が小さくなる。消えかける直前で止めるとホワイトノイズに似る。夫はしばらくiPadを操作していたがうなずくと鞄の蓋を開けて前からふたつ目の仕切りにiPadを戻し、ソファに腰かけた。
    「今日ははやかった?」
    「ボスが来ないと処理できないところまで進めて、きりがよかったから」
    「よかった。夕飯は」
    「大丈夫」
     私はせめて夫にだけは嘘はつかないと決めている。が、夫はその欺瞞を見抜いたように、利紗子さん、ちゃんと緑黄色野菜とか、青魚を食べたほうがいいよ、と言い、ウィルキンソンを口にする。夫の理系の知識は大学受験で止まっているから、多分サントリーかどこかの栄養食品のコピーをそのまま口にしているだけだ。
    「昼はランチミーティングでしっかり食べたから。大陸式だよ」
    「そうか。明日の朝はフレンチトーストが浸けてあるから、もし起きられたら一緒に食べよう。浸す時間は帝国ホテル式の半分にもならないけど、ちゃんと四枚切りを買ってきた。もし起きられなかったら俺は先に食べるから、無理はしなくていい」
    「ありがとう」
     夫はすべてにelseif、elseを設定するような話し方をする。それが心地いいわけではないけれど、何を考えているかわかるから安心はある。なにより夫は私の健康を心配して、卵やらを食べさせようとしてくれているのがわかる。それが、この人と結婚した理由だ。私もウィルキンソンを一口飲む。強炭酸が舌と喉を刺す、寝る前にはちょっとよくなかったかもしれない。思いながら入眠剤さえ飲んでしまえばそんなことは苦にもならないとも思う。
     夫の顔を照らす光の色が変わる。テレビに目をやると歌とCMが終わって、またさっきの騒がしいひな壇に、彼らが戻る。あ、と夫の口が動くのを見て違う話題を持ち出そうとしたけれど間に合わなかった。
    「この人、同僚にいなかった?」
     くそ、と思う。だけど私は、夫には嘘をつかない。
    「いた。大学一緒。院も」
    「そうだよね、写真で見たことあるよ」
    「……なんかね、やめたらしいの、研究。それで今、アイドルやってるんだって」
     へえ、と夫の声が裏返る。ドイツ語ばっかり読んでいるこの男がアイドルのことを宗教上のイコンの一種と勘違いしていないか一瞬心配になったけれど、夫はテレビの中で困ったように微笑む彼を見て、何かあったの?と聞いた。
    「わからない」
     何か。あったのだろうか。噂は山ほど聞いた。学生指導でやらかしたとか、教授とどうしても折り合いがつけられなかったとか、誰かの嫉妬で研究を台無しにされて心が折れたとか、もっと下世話なところでは院生を妊娠させたとか出向してきた上司と不倫関係に陥ったとか、説はいろいろあった。でもそのすべては噂レベルで流れて掻き消えた。だってそんなこと程度で彼が研究を諦めるわけがないってみんな知っていたから。
     日焼け止めが用をなさない酷暑の海上での採取に不眠不休の解析、不備があれば何度でもやり直し、サンプルを持つ大学や企業を熱意ひとつだけで口説き落として、結果として出力される気が狂うほど精密に書き込まれたポスターと一点の破綻もない発表に、重鎮たちが言い負けるレベルの質疑応答。間違いなく私たちの世代のエースで、学会のホープで、将来を嘱望されていた――その彼が、研究を捨てて、歌やダンスやドラマやバラエティに出て、ただ容姿のいいからっぽの男のように扱われている。
     違う。そんなことで彼を量らないで。
     握りしめた手のひらに爪が刺さる。夫が心配そうに覗きこんでくるのを制して、引き出しから爪切りを取り出した。
    「私、昇進したでしょう、っていうか、するでしょう」
    「ああ、来春の」
    「……この人がやめたから、ポストが空いたの。正確には、この人のために作られるはずだったポストを、今更やめるわけにもいかなくて、それで私になったの」
     それはある資源開発についての官民合同プロジェクトに付随する助教待遇のポストだ。彼が何も言わずに去ったあと、現場はぐちゃぐちゃに混乱して、いったんは企業は手を引こうとした。そこをひとまず引き留めた大学は誰かいないかと血眼になって過去の論文を総ざらいして、たぶん私の名前を彼の隣に発見し、たまたま研究分野が近いこともあって、外向きには抜擢というかたちで就任させることにした。もちろん私は人脈も実績も知識も彼に遠く及ばない。たとえば地下資源については最低限の知識はあるけれど、深海バイオマスについては何もわからない。死に物狂いで論文を読み、先行研究をしらみつぶしにしたけれど、結局企業側がGoを出さずに、就任は当初の予定から半年遅れることになった。その間によそが同じことを進めていたら? 発表が、査読に出すのが1分1秒でも遅れたら? 私が彼でなかったばかりに。考えると喉をかきむしりたくなる。
    「忙しかったのはそのせいもあるんだけど。ごめんね、家事も自分の分しかしてないし、ブラーバ買うって言って選んでもないし、そうだ、衣替えもしてない。まだ布団夏掛けでしょ」
     夫が困ったように眉根を寄せるのに私の心はまた焦る。この人はこういう場面で言うような言葉を持っていない、だからこういう場面をそもそも作ってはいけない、わかっているのに愚痴めいたことを言ってしまうのは自分の精神を律せていないからだ。
     テレビから、そんならまた来週~、とのんきな声が聞こえてきて、落ちていた視線をあげるとMCの芸人がカメラに向かって大きく手を振っていた。彼はひな壇の一番上に座って上品に手を左右に揺らしている。その手は、魔法の手だった。同じ解析器を使うのに彼のサンプルだけは理想的な、あるいは想像もしなかった結果を生み出した。ボーリングする地点を決めるときだって彼のペンはよどみなく走り、後から計算して導き出した緯度経度とほぼ同じ数値を示した。未知の嫌気性バクテリアが見つかるとき、採取したサンプルからすぐに応用可能な酵素が吐き出されるとき、彼はかならずそこにいて、実験の主導権を握り、カリグラフィこそふさわしいような筆記体でその結果を研究ノートに書きつけた。それはやがて数十ページの論文にまとめられ、全世界に広がり、同じような感度を持つ研究者たちに火をつけ、真実を連鎖させる。それは私が夢見てきた、正しい、理想の、あるべき研究の姿だった。私の身の回りでそれができるのは彼だけだった。不世出の、とは言いすぎだけれど、間違いなく、10年にひとりの、研究者だった。それなのに、なのに。
    「やめないでほしかった?」
     横を向くと、夫は慰めの色のかけらもない、穏やかな顔で座っていた。
    「……わからない」
    「わからないっていうのは、自分の気持ちが?」
    「……私は」
     どうしてほしかったのだろう。私は。彼に輝かしい研究のいいところだけを煮詰めたような存在として、絶対に敵わない諦念の対象として自分の歩く道の先を切り拓いていってほしかったのだろうか。
     違う。研究は、誰にだって生易しくない。私が血へどを吐きながらキーボードをタイプしているときに、彼がひとつも躓かずに論文を書き終えていたなんて、思っていない。そんな失礼なことは思わない。彼が魔法を使えたのは――単純に、彼が、誰よりも情熱をもって、誰よりも長く、誰よりも必死にサンプルたちと向き合っていたからだ。先んじられるのを是とせず、誰も知らない何かを手にすることに重きを置き、何よりもそれが楽しくて仕方がなくて――同じくらいの苦痛を感じていたとしても――私たちのフィールド、あの広い深い海に挑んでいたからだ。
    「……やめてほしくなかったよ。だいたい腹が立つじゃない。私たちがガチで一生捧げてやってるテーマだよ。そんな簡単に手放して――絶対後悔するって思ってた。すぐ戻ってきて、また君臨するんだって、みんな思ってたと思う」
     彼はすべてのポストを手放し、CiNiiと研究者データーベースにその実績だけを残して、学究の世界を去った。今はもうどの学会にも籍がないという。海外の研究者から名指しで今年は論文が一本も出ていないが体調でも悪いのかという問い合わせもあった。私たちはどう説明していいかわからず、ついhe's goneと口走って誤報を広めかけた。ぽっかりと、その空間はまだ残っていて、私たちがどれだけ必死に働いても、まだ埋められていない。
     たまに広報誌に、アイドルとして名前が載る。水族館や科学未来館のイベントに呼ばれて、きらびやかな衣装を着ている彼の姿が目に入る。風呂に入ってるんだか怪しい髪をひとつくくりにして、サンダル履きでぺたぺたと廊下を歩き、学生たちに遠巻きにされていた彼と、その姿はずいぶん違う。船の上で捕ったアジをサバイバルナイフでさばいて、即席のお造りをつくってくれた日に焼けない彼とも違う。
    「でも帰ってこないってことは、たぶん、楽しいんだと思う。それは……悔しいなやっぱり。見返さなきゃいけないと思う。絶対に」
    「それは、筆頭著者になるとかそういうことで?」
    「当たり前でしょ。私はアイドルにはなれないから。プロジェクトも絶対に成功させる。……じゃないと、メンツが立たない。ちゃんと個人研究の論文も書くし、学生も育てる。全部やる。迷惑かけるかもしれないけど、全部やりたい」
     道は分かたれた。私は学術の世界で、これから誰の背も見ずに、誰の幻も追わずに、ひとりで歩いていかなければならない。研究をするというのはそういうことだ。ラボの仲間も、先輩や後輩、ボスも、いるにはいる、けれど究極的には私は、私の脳と指先とセレンディピティの才能で、歩いていかなくてはならない。
     私は大成しないかもしれない。次のプロジェクトで擦り潰れるかもしれない。どこかの海でダツに刺されて死ぬかもしれないし、大嵐で船ごと藻屑になるのかもしれない。そして、生き延びたとして、誰かの期待を裏切って、彼なら、と言わしめるのかもしれない。
     だけれどもう彼はいないのだから。

     ねえ、そっちの世界は楽しいですか? 私は楽しいです。つらいことも苦しいこともたくさんあるけれど、私は楽しいです。それだけは、あなたと私で唯一変わらないことだと、思っています。
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    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスに感情があるモブシリーズ4/5
    図書館の女 玄関に山と積まれた新聞の束を回収して、一番最初に開くのはスポーツ新聞だ。うちの館ではニッカンとスポニチをとっている。プロ野球も釣りも競馬も関係ない、後ろから開いて、芸能欄のほんの小さな四角形。そこにあの人はいる。
     最初に出会ったのはこの図書館でだった。私は時給980円で働いている。図書館司書になるためには実務経験が三年必要で、高卒で働いていた書店を思い切ってやめて司書補になり、前より安い給料で派遣として働き始めたのは本をめぐる資本主義に飽き飽きしてしまったからだ。
     べつに司書になったからって明るい未来が約束されているわけではない。いま公共の図書館スタッフはほとんどが今のわたしと同じ派遣で、司書資格があるからといって、いいことといえば時給が20円上がる程度だ。わたしはたまたま大学図書館に派遣されて、そこから2年、働いている。大学図書館というのは普通の図書館とはちょっと違うらしい。ここが一館目のわたしにはよくわからないけれど、まあ当然エプロンシアターとか絵本の選書なんかはないし、代わりに専門書とか外国の学術誌の整理がある。でもそれらの多くは正職員がきめることで、わたしはブックカバーをどれだけ速くかけられるかとか、学生の延滞にたいしてなるべく穏当なメールを書けるかとか、たまにあるレファレンス業務を国会図書館データベースと首ったけでこなすとか、そういうところだけを見られている。わたしもとにかく3年を過ごせればよかった。最初はほんとうにそう思っていた。
    8911

    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスへ感情があるモブシリーズ3/5
    大学職員の男 秋は忙しい。学祭があるからでもあるが、うちの大学では建前上は学生が運営しているので、せいぜいセキュリティに口を出す程度でいい。まず九月入学、卒業、編入の手続きがある。それから院試まわりの諸々、教科書販売のテントの手配、それに夏休みボケで学生証をなくしただとか履修登録を忘れただとかいう学生どもの対応、研究にかかりっきりで第一回の講義の準備ができてないから休講にしたいという教授の言い訳、ひたすらどうでもいいことの処理、エトセトラエトセトラ。おれはもちうるかぎりの愛校精神を発揮して手続きにあたるが、古いWindowsはかりかりと音を立てるばかりでちっとも前に進まない。すみませんねえ、今印刷出ますから。言いながらおれは笑顔を浮かべるのにいいかげん飽きている。おまえら、もうガッコ来なくていいよ。そんなにつらいなら。いやなら。おれはそう思いながら学割証明書を発行するためのパスワードを忘れたという学生に、いまだペーパーベースのパスワード再発行申請書を差し出す。本人確認は学生証でするが、受験の時に撮ったらしい詰襟黒髪の証明写真と、目の前でぐちぐち言いながらきたねえ字で名前を書いているピンク頭が同一人物かどうかはおれにはわからん。
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