その呼び方、ナンセンス!好感度:普通
「あっ、ヒムロッチ!」
「…………」
大きな溜息ひとつ。僕は先輩を一瞥して、校門を後にする。
一体何なんだ、あの人は。
入学式の日、新入生を歓迎するように綺麗に咲いた花の横で、心底帰りたいとやさぐれていた僕をじっと見ていたのがあの人だった。
あの時に言う必要のないことをベラベラと喋ってしまったことは反省している。何も分かっていなそうな人、しかも先輩、を思い切り壁に追い詰めてしまったことも。
きっと互いに印象は最悪。驚かせてしまったことは謝ったが、学年が違うなら遭遇する機会はそこまで無いだろうと思い、そのまま思い出ごと忘れようとした。
それなのに、だ。
とある日、いつものようにサーフィン中に近くのカフェで休憩していたら、あの人がいきなり現れたのだ。
悪い夢だ、と思って素知らぬ顔をしていたが、見つかって名前を呼ばれ、それでも無視していたら途端にしゅんと萎んだ声を出すものだから、お情けで反応してしまった。
というか、ここまで態度に出していたら普通の人なら察してくれそうなものだけど。どうやらこの人は違うらしく、あからさまに不機嫌な僕に、入学式の時のような澄んだ目であれこれ話かけてきた。本当に、何なんだ。鬱陶しい。
飲み物はまだ残っていたが、サーフボードを持って席を立つ。あの人はまだ話し足りなそうにしていたが、すぐに別のサーファーたちが近づいて来て何やら会話していた。
そう、それでいい。サーフィンをしている奴なんて山ほど居るんだし、わざわざ僕に絡んで来ずに交流したい人間同士で仲良くすればいい。
海へ戻ろうかと思ったが、サーフィンしているところが見たい、という言葉を思い出し、タダで見せるのは何だか癪だったのでそのまま帰路に着いた。
さて、冒頭に戻る。
つい先週、僕に散々邪険に扱われた先輩は、まるでそんなこと無かったかのようににこやかに僕の名前──正確には名前ではないが──を呼んでいた。漫画ならカバンとメガネがずり落ちているだろう、そんな拍子抜けするようなシーンだった。
ヒムロッチって……そもそもそんなに親しくない人間をあだ名で呼ぶことが無神経だと思うし、その呼び方はナンセンス。彼女もはばたき学園の生徒なら、その言葉で誰が想起されるかなんて分かりきっているだろうに。返事をする気が起こらず、無視して帰ったのも許されるはずだ。
……でも、ちょっと可哀想だったかもしれない。僕に何か用があったかもしれないのに、呼び方ひとつで無視されひとり取り残された先輩を想像したら居た堪れなくなった。チクチクと刺さる周りの視線が容易に想像できる。
もし次に顔を合わせる機会があったら流石に謝るか、……いや、いい。僕が悪いんじゃなくてずけずけと入り込んでくるあの人の自業自得。
普通に、あの時何か用があったのかと尋ねればいい。それに本当に緊急の用だったら向こうから会いに来るだろうし。僕のクラスだって、入学してすぐ上級生まで広まってしまったからどうせ知っているだろうし──
この季節に似つかわしくない冷たい風に頬を撫ぜられて、僕は我に返った。いやいや、何でまた会うことが前提みたいになっているんだ。どうせ面倒なことになる、関わらないのが吉だ。
頭の中に浮かぶ先輩の顔を振り払うように頭を振り、僕は歩調を速めた。
***
「……っ!!」
翌朝登校してすぐ、正面玄関に足を踏み入れたところで先輩を見つけた。予想していたよりもずっと早い再会に、思わず足が止まる。
先輩が階段を上り始めるのを確認してからなるべく音を立てないように上履きに履き替え、ソロソロと歩き出す。だって、今はあの人に見つかりたくない。
先輩の姿が見えなくなって、少し待ってから僕も階段を上り始める。と、すぐにパタパタと音がして誰かがこちらに向かってくる気配がした。これはもしかして、と思うより先に、今1番会いたくない人が目の前に現れた。
「「あっ……」」
声が被って、しばし沈黙。しっかりと目が合ってしまった今、逃げ出す訳にもいかず身構える。
まだ人もまばらな時間故、通りがかる人影が無いせいでまるで時間が止まってしまったかのような錯覚を覚える。先輩が口を開くのも、やけにゆっくりと見えた。
「ひむ……えっと……イノリ、くん?」
「えっ?」
「イノリくん、だよね?」
階段の上から、おずおずと声をかけられた。鉢合わせた時から動転し続けている頭では理解に時間がかかり、身の入っていない返事をしてしまう。
「あぁ……うん。呼び方……」
「昨日はごめんね、怒らせちゃって……。あの後考えて、氷室、って呼ばれたくないのかな、って思って。次からは下の名前で呼ぼうと思ってたの」
ダメかな、と首を傾げて訊いてくる先輩。何だか絶妙に気にするポイントがずれている。
「べつに、普通に氷室って呼ぶなら大丈夫だけど」
「あれっ、そうなの?海でも無視してたから、それが嫌なのかと思ってた」
「う、それは……ごめん。あの氷室教頭……と、同じように呼ばれたくないってだけで。それ以外なら、べつに」
溜息混じりでそう返すと、先輩は心底ほっとしたような表情を浮かべた。予定に無かったのに結局謝罪まで入れてしまい、何だか負けたような気分になる。
「そっか、よかった。でも呼びやすいからイノリくんって呼ぶね。イノリ、ってどういう漢字書くの?」
「数字の一と、糸偏に己で紀。……というか、あの時に1回聞いただけでよく下の名前まで覚えてたね」
「うーん、素敵な名前だな、って思ったから、かな?漢字もかっこいいね、一に紀でイノリかぁ」
てっきり「氷室の人間だから名前なんて有名だよ」、みたいな返答があると思っていたので、直球で褒められたことにひどく驚いた。今までに、僕の名前に対してそんな言葉をかけた人がいただろうか。
変な人。なんだか調子が狂う。
「あっ!そうだ、職員室行かなきゃって思ってたんだ。じゃあ、またね、一紀くん」
パン、と手を叩く音で目が覚める。弾かれたように階段を駆け下りて遠ざかる先輩に向けて、僕は咄嗟に口を開いた。
「あの!」
「ん?」
「昨日は、その、……ごめん。用があったなら、悪いことしたなって思って」
「ふふ!姿が見えて声掛けただけだから。またお話しに行くね」
振り向いた先輩は少し驚いた顔をしていたけど、すぐに満面の笑みを浮かべて、僕にひらりと手を振った。あっという間に姿は見えなくなり、パタパタという音も次第に遠ざかる。
まるで見送るようにしばらくその場に立ち尽くしていたが、ふと我に返り、階段に足をかけた。
あれだけ関わりたくないと思っていたのに、いつの間にか普通に話し続けてしまっていた。本当に、不思議な人だ。人の顔色を読めないのか、それとも敢えて読んでいないのか。
去り際に言っていた「またお話しに行くね」という言葉と、一紀くん、という呼び方が頭の中で木霊する。
人の心の中にずけずけと入ってくる彼女は、今まで絶対に関わろうとしてこなかったタイプだった。
けれど。少しだけなら、面白いかもしれないな、と思う自分がいる。
次はどんな関わり方をしてくるだろうか、僕の予想をどう超えてくるのか見てやろう、と思いながら、僕は自分の教室に足を踏み入れた。
──次の日。
「あっ、一紀くんもここでバイトしてたんだね!今日から入りました、小波です。よろしくね?」
入学前から始めていたバイト先であるアンネリー。店に入った瞬間、制服のエプロンに身を包みにこにこと笑う先輩に声を掛けられて、僕は、
「これは流石に想定外……」
とその場に崩れ落ちたのだった。