いってらっしゃい――ピピピピピピ
目覚まし時計のアラームが静かな寝室に鳴り響く。南方はベッドから腕を伸ばしアラームを止めると時刻を確認する。デジタルの文字盤は06:30を表示し、遮光のカーテンの隙間からは朝日が僅かに漏れ出ている。
南方はひとつ欠伸すると布団の中から這い出し伸びをした。薄暗い部屋の中をまだ眠い目をこすりながら見渡せば、同棲している門倉が掛け布団に潜るようにして眠っている。
そうだ、昨日は漸く門倉が長期の立ち会いを終え帰ってきたため、欲望のままベッドへとなだれ込んだのだった。改めて状況を確認すれば互いに産まれたままの姿に乱れたシーツ、ベッドサイドのローションに鈍く痛む腰と情事の名残が身体に、部屋に色濃く残っている。
事後の倦怠感に任せシャワーも浴びずにそのまま眠ってしまったことを思い出し、余裕もなくベッドの下に脱ぎ散らしていた下着を探す。生憎今日とて仕事だ。
肌寒さを感じながらもなんとか暗がりの中、下着を見つけ身につけた南方は門倉を起こさないようにそっと部屋を出る。自分とは違い久しぶりのオフだというのだから、もう少しくらい寝かせてやってもバチは当たらないだろう。
部屋の外へ一歩出れば窓から射し込む陽の光が目を眩ませる。南方は咄嗟に目を細め、その明るさに慣れるのを待った。
朝の光に目が慣れれば、替えの衣服とバスタオルを手に浴室へと向かう。途中脱衣所にある洗面台の鏡へと何気なく視線を向ければ、自身の胸板をいくつもの紅い痕が彩っていた。
少しばかり驚いた南方は鏡へと向き直り、鬱血痕と噛み痕が散らされた己が身体を確かめる。幸か不幸かスーツを気崩さなければ見えないような場所にしか付けられていないようだ。
「遠慮のう付けすぎじゃろ……」
口ではそういっているものの、門倉の独占欲が可視化されたようで悪い気分はしない。いくつもある痕のひとつを指でそっとなぞると思わず口元が緩む。
しかしあまり悠長にしているほどの暇はない。そう我に返った南方はついさっき履いたばかりの下着を洗濯機へと入れ、浴室の中へ入る。
熱いシャワーを頭から浴びれば南方の頭は漸く回り出してきたようで、昨晩の汗を流しながら今日の予定を整理していく。
今日は事件が起きなければ定時で帰れるだろう。それと仕事の後に立ち会いが一件入っていたはずだ。詳細は朝食後にでも確認すればいいか。
南方が身を清め終え、脱衣所へと戻るといつの間に起きたのかスウェットを身につけた状態の門倉が洗面台で顔を洗っていた。
「おはよう。あー、……起こしてもうたか?」
「…おはよ。あがぁに目覚ましなったら起きるわ」
「すまんかった」
顔を洗ってもなお眠たげな目をした門倉に文句を言われ南方は素直に謝る。
「別にええよ。それよか朝飯何?」
文句はいいつつも起こされたことに不満はないのかあっさりと話題を変えた。そのことに南方は胸をなでおろし、冷蔵庫の中身を思い出しながらシャツへと腕を通す。
「卵あるけぇ焼こうか」
「目玉焼きにして」
「ええよ」
「半熟な」
「分かった」
なんて会話を続けながらスラックスに脚を通し、ベルトを締めるとキッチンに移動すべく脱衣所を出る。後ろから門倉が着いてくるのがなんとも可愛らしい。廊下を歩きながらもまだ眠いのか欠伸する声が聞こえてきた。
南方はキッチンへとたどり着くとまずはトースターへとパンを二枚突っ込む。それから冷蔵庫をあけて卵を二つとカット野菜を取り出すと早速朝食の調理に取り掛かった。メニューはサラダにリクエスト通りの目玉焼きだ。
早速大きめのフライパンへ油をひいてまずは卵を一つだけ割り入れる。半熟が好きな門倉に対して、南方は両面をしっかり焼いた方が好みなのだ。同時に仕上げるために時間差で卵を焼くのももう慣れたものだ。
門倉の方へちらりと視線を向けると、いくつかあるコーヒー豆を選んでコーヒーメーカーへと入れていた。頭への怪我の後、嗅覚が鋭くなった門倉が気まぐれに作るオリジナルブレンドはどれもハズレがない。今日もどんな味になるのか楽しみだ。
コーヒーメーカーからミルで豆を削る音が聞こえてきた頃、門倉が隣へとやってきた。南方の手元を確認するとやるべき作業が分かったのか、食器棚から目玉焼きを入れる皿を二枚取ってきてカット野菜を適当に盛り始める。
食事の準備は出来る方がやるとのルールのためこうして隣に並び二人でやることも少なくはない。門倉とキッチンに立つ度、二メートル近い男二人並んでも狭くないキッチンの家を選んでよかったと思ってしまう。
南方がそんな感慨に浸る間に目玉焼きの片面が焼き上がる。フライ返しでさっとひっくり返し、端に寄せると空いたスペースにもう一つ卵を割り入れる。あとはこのまま待てば互いの好みの焼き加減の目玉焼きの完成だ。
待つ間にトースターへ入れたパンの様子を確認すると、門倉も手持ち無沙汰なのか南方の隣に並び立ち覗き込んで来る。こう大の男二人がトースターを覗き込む図がどことなく面白い。
「なににやけとんじゃ」
すぐに門倉から指摘が飛んでくる。南方は笑い出さない様に耐えたつもりだったが、トースターのガラスに映る口元は完全に緩んでいた。怪訝な目で見てくる門倉に対して南方は素直に思ったことを白状する。
「いや、なんかこうして二人して覗き込んどるのがなんか面白い思うて」
「ほうか」
理由を聞けども釈然としていないようだ。そんな門倉にトーストの方は任せ、南方は目玉焼きのほうの確認に戻る。フライパンの中を見ると程よく火が通っていた卵を野菜が盛られた皿の上へと乗せる。
直後チンと音が聞こえた。どうやらタイミングよくトーストが出来上がったようで、門倉が別の皿へとトーストを移している。熱さをものともせず取り出している様はなんというか強いとしか感想が出てこない。
南方と門倉はそれぞれ目玉焼きの乗った皿とトーストの乗った皿を手にダイニングへと向かう。向かい合う様に皿を配置し、南方は調味料の類を取りにもう一度キッチンへと戻る。コーヒーの方もドリップが終わっていたようで、南方がダイニングへと調味料等を手にやってきたときにはちょうど門倉が二人分のマグカップにコーヒーを注ぎ終わったところだった。
「いただきます」
南方が席に着くと門倉が待っていたかのように手を合わせて食事を始める。
「いただきます」
少し遅れて南方が手を合わせた。その間にも早速南方が持ってきた調味料を目玉焼きへと門倉がかけている。そんな姿を見ながら南方は同棲を始めた頃、焼き加減や調味料で言い争うことも度々あったななんて思い出した。今では各々の好みに口を出さないという形で決着しているあたり互いに丸くなったななんてまた口元が緩みそうになる。
「なんじゃ今日は機嫌ええの」
南方は門倉に指摘されて初めていつもより気持ちが浮きたっていることに気付いた。だが、その理由は考えるまでもない。
「久しぶりに一緒に朝飯食えて浮かれとるかもしれん」
素直な南方の言葉に門倉は一瞬驚いた様に目を見開くも、すぐに喜色を浮かべ喉を鳴らして笑い出した。
「南方、おどれどんだけワシのこと好きなんじゃ」
「好きで悪いか」
「全く」
そう開き直りながらも南方はなんとなく気恥しい思いを誤魔化す様にサラダを口の中にかき入れた。そんな南方に追い討ちするように門倉が口を開く。
「ワシもおどれのこと好いとるよ、恭次」
「ッん、っ……いきなり何言うんじゃ」
思わず噎せた口元を押さえ、咀嚼も疎かに口のなかのものをコーヒーで無理矢理流し込んだ。せっかくのコーヒーが勿体ないとは思うが、それよりもこういったことは滅多に言わない門倉の言葉を受け止めるだけで今は精一杯だ。
「何?嬉しくないん?いきなり言うたのがいけんかった?」
門倉は目に見えて狼狽える南方の様子が楽しいのか切れ長な目元をさらに細めていた。からかうような視線に南方は恨みがましい視線を返しながらも、自身を落ち着けるためにもう一度コーヒーへ口をつける。そうして一つ息を吐いたあと門倉の方へと向き直った。
「嬉しいに決まっとる。けどいきなりなんは心臓に悪いわ」
そんな南方の言葉に門倉は悪い顔で笑う。この様子ではまた唐突に言われるのだろうなということは予想に難くない。南方はもう一つ息を吐くと諦めた。
「ご馳走様」
門倉に弄ばれながらも南方は朝食を食べ終えた。少し遅れて門倉も食べ終えたのか手を合わせている。互いに自分が食べた分の食器を手にキッチンに向かった。食洗機に各々食器を入れて電源を押す。
テーブルの片付けが終わると南方は仕事のための身支度をしに一度自室へと戻った。しかし、先程のシャワーの後に着替えはあらかた済ませているためやることといえば荷物の準備とネクタイ、ジャケットの着用程度だ。
直ぐに準備を済ませた南方がリビングへと入ると門倉がソファーに座りテレビを見ていた。時計を確認すれば七時四十五分。家を出るにはまだ少し早い時間だ。
それならば今日の立ち会いの確認をするかと、南方は賭郎から支給されているタブレット端末を鞄から取り出し門倉の隣へと座った。南方が見ているものが賭郎のものだと気づいた門倉が端末を覗き込んでくる。
「今日立ち会いあるん?」
「おん。仕事の後に」
「ほーん……まぁこれなら直ぐ終わるな」
勝手に画面をスクロールし、賭けの内容と対象となる金銭や物品等をざっとみた門倉は大した賭けではないと興味を失ったようだ。思ったよりあっさりとした感想に南方は興味本位で門倉へと尋ねてみることにした。
「先輩立会人としてなんかアドバイスとかないん?」
「アドバイス?」
怪訝そうな目で聞き返されるも案外直ぐに答えが返ってきた。
「この程度、別にワシがアドバイスせんでも南方なら問題ないじゃろ」
予想外の答えに一瞬何を言われたのか理解できなかった。だが南方の頭は直ぐに再起動し言葉の意味を処理しだす。
門倉に一介の立会人としても認められている。その事実が南方の胸に染み込み、じわじわと喜びが込み上げてくる。
「門倉……!」
喜びのあまり門倉を抱き締めようとすれば、待てと言わんばかりに手のひらを南方の顔の前へ突きつけられた。咄嗟に南方は動きを止め門倉の表情を伺う。聞く姿勢になった南方に満足気に頷いたあと門倉は時計を指差した。
「そろそろ家出んとな時間やない?」
「あ」
時計はいつの間にか八時少し前を指していた。
南方が慌ててタブレットをしまい、立ち上がった。玄関に向かう後ろを、門倉が着いてくる。どうやら見送りまでしてくれるようだ。
玄関に座り革靴の紐を絞め終えると、一度門倉の方を振り返る。
「そいじゃあ……」
いってきますと南方が言おうとしたところで門倉にネクタイを掴まれた。何事かと驚く間にそのままぐいと引き寄せられ、唇が重なる。時間がないからか重なった唇は直ぐに離れ、愉しそうな門倉と目が合った。
「な、何すんじゃ!」
「何って、いってらっしゃいのちゅーじゃろ」
「は?なんで」
平然という門倉の言葉に、またしても南方は固まった。しかし、直ぐに理性を取り戻した南方は顔を赤くしてしどろもどろに抗議する。
「……いきなりは心臓に悪いて、いうたばかりじゃ」
久しぶりに朝を共にしただけでも浮かれてたのにこれは些か刺激が強い。門倉の供給過多だ。そう煩く鳴る心臓の音が主張している。
「いきなりはやめるて、ワシ一言も言うとらん」
門倉はそんな南方の反応に満足したのかネクタイから手を離した。乱した襟周りを軽く整えると行ってこいだなんて笑っている。
そんな門倉に毒気を抜かれた南方は敵わないなと小さくため息をついた。そもそも惚れている自分が門倉に勝てるわけがないのだ。
「じゃあ……いってきます」
改めて先程言えなかったあいさつを口にすると門倉に笑いかける。門倉も先程までとは違い穏やかな笑みで返す言葉を口にした。