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    〇以下の設定は、本作品の中で捏造したものです。公式の作品、設定とは一切関係がありません。
    ・ネロの厄災の奇妙な傷
    ・メインキャラと関わりがあるオリジナルの魔法使い

    〇「哀愁のひまわりのエチュード」のイベストに登場した魔法使い(ビアンカ)が出てきます。当該イベストのネタバレを若干に含みますので、ご注意ください。
    (イベスト未読でも問題なくお楽しみいただけるような内容になっております)

    1.
    ふわふわとした毛玉が浮いている。
    いくつものその白い塊は、果ての見えない草地の上を跳ねていく。草は青々として朝露を浴びたように瑞々しいのに、空は目が痛いほどの茜に染まっていて、なんだかあべこべだ。そこに浮かぶ細切れの雲はだんだんと形を変えて、しまいには草地を飛ぶ白いふわふわに混ざり始めた。
    伊達に600年ほども生きていない。所謂絶景と呼ばれるような景色や奇妙な現象との出会いはありふれているし、つまりは少し奇妙なこの景色に感嘆の声を漏らすことはない。今、意識が向くのはこの空間を包み込む、俺の知らない、この生暖かい気配だけだ。
    「あぁ、またやっちまった……」
    覚えがあるが、確実に自分のものではない気配を感じながら、その主であるがたいの良い彼の、羊を見守る柔らかな微笑みを思い出す。と、同時に寝る前の俺に恨み言を連ねた。いくら、任務にオーエンやミスラの料理のリクエストにと忙しくて疲れていても、就寝前に結界を張り忘れるなんて。少しずつ身についてきたと思った寝る前の習慣も、疲労で鈍った脳の前では、塵と消えたようだった。
    めぇ、とひとつ羊が鳴いた。間の抜けた声は馬鹿をした俺を慰めているようにも思えた。大きく息を吐いて可哀想な俺の過去に思いを馳せる。眠る前に結界を張るようになったのは、初めて大いなる厄災と戦って少し経った頃だ。

    ___

    窓から差し込むわずかな光に目を覚ます。料理人の朝ははやい。ゆるく一度頭を振って、眠気とぼんやりと脳裏に残る白も追い出した。つい先ほどまで見ていた夢など、身を起こしてベッドから立ち上がるころには、もう形も思い出せないほどあやふやな姿をしている。
    身支度をしているうちにすっきりとしてきた頭としっかりとした足取りで向かったキッチンで朝食の準備だ。今日は、昨日任務ですっかり遅くに帰ってきたミチルの好物のコーンスープの予定だ。この前市場で買ってきた寒がりコーンを倉庫から取ってきて調理開始だ。
    「ネロ、おはよう」
    それは、主食となるパンの生地の発酵が終わったあたりであった。この時間にやってくるのは鍛錬に励むカインやシノ、そして今目の前で額に汗を浮かべているレノックスくらいなものだ。
    「おはよう、羊飼いくん。今日も早いな」
    いつものように水を手渡すと一気に喉に吸い込まれてしまった。気持ちのいいものだ。俺が朝はやいな、なんて言ってしまったものだから、ネロこそ、と皮切りに始まった食事のお礼など面映ゆい言葉の応酬に自然と笑みがこぼれる。向かい合ってそんな会話をするのは何とも恥ずかしいので、手元はコーンスープ用の二股人参を切る作業に集中したままだ。
    「ところで、ネロ。昨日の夜、俺の部屋に来たか?」
    今日は随分のんびりしているななんて思っていたところにレノックスが切り出した。昨日の夜という言葉にはて、と首を傾げる。確か、俺の部屋でファウストと晩酌をしたが、明日の午前中も授業があるからと早めに切り上げた。そして、ファウストが気に入ったと言った即席のつまみのレシピを書き溜め、しっかりとした足取りでベッドに入ったのだ。しっかり反芻した上で、やはり覚えがないので、俺はその意を込めて首を振った。
    「そうか……昨日眠っているときに、ネロの魔力の気配がした気がしたんだ。俺も大分気が抜けていたし、慣れ親しんだ気配だったからすぐには起きなかったんだが……」
    そう言ってレノックスは視線を落とした。彼も軍人だったようだったようだし、当人たちは隠しているようだが主人もこの魔法舎にいる。だからこそ、魔力の気配に咄嗟に反応できなかったのを悔しく思っているようで、口元に寄せられた手は必要以上に固く握られているように見えた。とはいえ、俺は昨夜レノックスの部屋には行っていないからな、と首をひねっていると、はたと思いだした。
    「そういえば、俺も、昨日夢で羊飼いくんの気配を感じた、気がする……。あんま覚えてねぇけど」
    なんせ記憶が曖昧なので、段々と言葉が尻すぼみになっていく。でも、そうだ。たしか昨日の夢の中で俺は外、野原のような場所にいて、誰かの気配があった気がする。俺も、寝ているときでも襲われかねない状況に身を置いていたため気配には敏感だが、あまり敵意がなかったのか警戒心を抱いた記憶がなかった。
    「……」
    一方が寝ぼけて勘違いをしているならまだしも、双方に互いの気配を感じたということだ。これは、何かが起こっているに違いないと顔を見合わせる。俺の夢はああだったこうだった、とお互いの状況を事細かに説明しあうも収穫はない。加えて、何か実害があるわけでもないしな、と二人で首をひねるばかりだった。お互い魔法舎の中では年長者の部類だし心配はないだろうと、ひとまず、様子見ということでその日は解散となった。

    ___

    「君たちねぇ……」
    そしてその数日後。その選択のおかげで、爽やかな朝の談話室にて、俺たちはファウストの前で肩を縮ませるはめになった。
    「夢は精神状態を映す鏡のようなものだ。つまり、心で魔法を使う僕たちにとって、夢は重要な指針となるもの。ネロ、前の授業でそう言ったはずだが」
    「はは、そうだっけ」
    「ネロ」
    「すんません」
    仁王立ちして俺らの前に立つファウストに俺はしおしおと頭を下げる。ありったけの記憶をかき集めてその時の授業を探すが、あいにく俺の貧相な頭にはほこりと紙切れが落ちているだけだった。覚えているものといえば、時折行われる抜き打ちテストを前にペンを少しも動かすことなくうなだれる俺の姿ばかりだ。しかし、反省こそしているが、ファウストのお叱りは魔法舎生活2年目ともなれば慣れっこだ。東の国の最年長としてなんとも情けない話ではあるが、俺とファウストの気質の違いを考えれば、まぁ仕方のない話である。少しばかり大げさに反省しているそぶりを見せれば、ファウストは大きくため息をついた。
    「レノックスも。厄災を追い返して日が浅いから、何か異常があったらすぐに知らせるようにとあれほど言っただろう!」
    「申し訳ありません、ファウスト様」
    対して、今回は完全に自分に非があると認めたレノックスは、ファウストの激昂を目の当たりにして、見るからにしゅんとしている。賢者さんの世界では真面目な場面で用いられるという『正座』を、がたいのいい男がしている様子はなかなかに興味深いものである。
    「聞いているのか、ネロ」
    と、そんな無駄なことを考えようものならすぐにファウストがぴしゃりと言い放つ。居住まいを正して、小さく返事をした。いくつ目がついているのやら、俺が一瞬頬を緩めたすきを逃さずファウストは鬼の形相でこちらをにらみつけたのだ。
    「まぁまぁ、ファウスト。その辺にしてあげたら」
    俺がファウストにどう弁明しようか悩んでいると、俺たちの後ろの壁にもたれて終止傍観していたフィガロが割って入ってくる。
    「彼らもシュガーしか作れない子どもじゃないんだし。まぁ、自分たちで解決できる算段があったのかもしれないしね」
    そういってフィガロは俺とレノックスの顔を覗き込み、にこりとほほ笑む。レノックスは気まずそうに謝罪の言葉を連ねた。そんな算段あるわけなかろう、と完全に楽しんでいる様子のフィガロに若干の苛立ちと背筋の冷えを覚えながら俺はもうどうしようもなくなってうなだれた。
    「まぁ、冗談はさておき」
    まるでピリオドを打つように、フィガロはひらりと白衣を翻した。冗談という言葉に、おい、と眉をしかめたファウストを無視してフィガロは続ける。
    「状況から考えておそらく、どちらかがどちらかの夢に侵入したんだろう。膨大な魔力を制御しきれない小さな子どもならともかく、平常時に、しかも無意識に他人の夢に入り込むとは考えにくい。だから、これはおそらく厄災の傷だろうね。レノか、あるいはネロのどちらかの」
    俺はレノックスの方をちらりと向いた。レノックスも同じようにこちらを見ている。
    厄災の傷。大いなる厄災と近づきすぎた影響で魂に負う奇妙な傷。これについて多くのことはわかっていない。なぜなら、この存在が認知されたのはたった1年前のことなのだから。
    今年の厄災は、昨年と同じほどの威力で猛威を振るったが、訓練の成果か誰も石にすることなく空に押し返されていった。それがつい2週間前のこと。無事に追い返せたといっても激しい戦いをしたことには変わりなかったため、全員無傷、というわけにはいかなかった。戦いを終えてからも、特に今年から賢者の魔法使いに選ばれた魔法使いは、厄災の傷を新たに負うかもしれない、何か不可解なことがあったら各自報告するようにと口酸っぱく言われていた。
    そのため、ファウストのお叱りも指摘も、ぐうの音も出ないほどの正論なのである。
    顔を見合わせた俺たちは、しばし黙ったままだった。今のところ、俺にもレノックスにも、厄災の傷が判明したという話はない。つまり、まだどちらの厄災の傷なのかはわからないが、この『他人の夢に入り込む』などと厄介この上ない傷を聞いた時点で何となく嫌な予感はしていた。なんといっても、俺は貧乏くじを引きやすいのだ。
    「あ、ネロ!聞いてください!」
    なんとなく落ちた沈黙の中、ばたんと元気よく扉の音を響かせて入ってきたのはリケだった。いつもかぶっている帽子をぴょこぴょこと跳ねさせて俺の方にかけてきたリケは、仁王立ちするファウストにいつも通りに笑うフィガロ、肩をすぼめるレノックスと俺を見まわして、不思議そうに首を傾げる。それもそのはずだ。抜き打ちテストで赤点をとりまくっている俺ならまだしも、真面目でいい奴のレノックスが『正座』させられているのは異質な光景に映るだろう。小さく口を開けて呆けるリケを促すように、いったん反省モードを切り替えてリケに問いかかる。
    「どうした。腹でも減ったのか?」
    「いえ、ネロにお話したいことがあったので探していたんですけれど……」
    リケが気遣うようにファウストやフィガロの方に視線を向ける。フィガロは相変わらず笑みを張り付けたままで、ファウストがひとまずといった様子でリケに笑顔を向ける。二人の了承の合図を感じ取ったリケは嬉しそうに胸の前で手を合わせた。
    「昨日の夢の中で、僕はおなかが空いていて、それでネロの暖かい匂いがするな、と思ってネロを探していたんです。そうしたら、ネロが焼きたてのパイをもって僕のところに来てくれたんです」
    それがとてもうれしくて、伝えたくて、と邪気のない顔でリケはほほ笑んだ。柔らかな日差しに似合う、なんとも微笑ましい光景である。
    「それで、そのパイが、」
    「夢?」
    「ネロの気配、ねぇ……」
    そんな情景には似合わない、低い声が二人分。
    リケは、不思議そうに首を傾げ、リクエストするはずだったパイという言葉をしばし飲み込んだ。レノックスとフィガロは気遣わし気にこちらを見ている。思わず、といった風にこぼれた言葉を抑えるように口元に手を当てるファウストは、心配そうな、気の毒そうな視線をこちらに寄越した。
    穏やかな光が届く談話室、なんでもない日常の一幕の中。かくして、俺の厄災の傷は判明したのだった。

    ___

    それからは少しあわただしい日々だった。無事に厄災を追い返した賢者の魔法使い達は、迎撃した際に被害を受けた街の復興作業に勤しんでいたが、俺の厄災の傷の事情を知った賢者さんの指示で、俺とファウストは数日間、復興作業から離れることとなった。眠る間、いつ厄災の傷が影響するかわからない。繊細な東の魔法使いとは相性の悪い厄災の傷には、1日も早く対応した方がいいという賢者さんの提案だった。気づかわし気に笑う賢者さんは、ネロとファストの分まで頑張るので任せてください!と、腕まくりをしていて、心配やら有難いやらほんのり暖かな気持ちを持て余してしまった。
    俺の厄災の傷への対処法というのは、眠っている間に強力な結界を張り、俺の魔力が部屋の外に影響しないようにする、というものだった。これを実行に移すためには、魔法だけでは心もとない。つまり、媒介が必要だ。あれよあれよという間に、媒介を含めこの結界について詳しいらしいファウストとの短い旅が決まった。実を成していないハニーポットフラワーの葉に蜘蛛の糸を絡めた錦糸、新月に照らした水晶、など。俺とファウストは東の国を回って媒介を集めていった。
    「ひとまず、媒介の準備はこのくらいだろう。あとは、毎晩結界をはるのを絶対に忘れないことだな」
    絶対に、のところを大げさに強調して、ファウストが人差し指を立てて俺の視線を集めた。立てた指をそのまま振って小さくした媒介のひとつを、俺が持つバスケットの中に放り入れた。
    「あぁ、ほんとに助かったよ。ありがとな」
    素直に感謝の気持ちを伝えれば、少し照れたようにファウストは手を口元に運んだ。その様子がいつまで経っても気恥ずかしく感じられて、誤魔化すように手元のバスケットに視線を下ろす。ファウストによれば、これですべての媒介が集まったらしい。
    眼下に広がる二人と箒二本分の影は、森の木々の上にぼんやりと長く落ちている。空は目に痛いほど鮮やかな橙色をしていて、もうじき陽が沈むことを示していた。帰路につくには少し遅すぎる時間だ。
    「雨の街の近くだし……このまま俺の店来る?もう遅い時間だし、帰るのは明日にしようぜ。それに、媒介集めんの手伝ってくれたお礼もしたいしさ」
    「じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらおうかな。この前君の家にお邪魔したときに食べたハーブと魚のやつ、あれをまた食べたい」
    「おっ、いいな。凍らせたビネガーフィッシュが残ってるから、帰りに野菜だけ調達していいか?」
    「あぁ、もちろん」
    くいと少しだけ箒の向きを変えて、雨の街を目指す。西日が眩しくて、ファウストの顔はよく見えないが、ご機嫌に鼻歌でも歌いそうな雰囲気になんだか笑いそうになった。


    「……しかし、災難だったな」
    大分綺麗になってきた皿の端を見つめながらファウストがこぼした。のんびりと時を刻む砂時計のようなテーブルの上の皿たちは、もうすっかり夜も深いことを示している。ファウストの目尻はほんのりと赤く染まり、不覚にもどきりとしそうなその視線も、瞳の奥の憂いが邪な俺の気持ちをかき消した。
    「厄災の、傷のこと?」
    こくりと彼が頷いた。確かに、夢とはファウストの言う通り、本人の精神状態が鏡写しで現れる空間と言っても過言ではない。そこに誰かの侵入を許すのも、誰かのそれに侵入するのも、心労が募るものだ。だが、繊細な気質を持つ東の魔法使い、特にその性質を多分に持つヒースクリフや、シノをはじめとした心が柔らかい若い魔法使い達、気にしいで心優しい魔法使いにこの傷が回らなかったことだけは少し有難いと思えた。
    「……君だって気にしいで優しい魔法使いだろう。」
    ぴくりと手が止まった。酒で緩んだ口からうっかり漏れ出たらしい言葉にファウストがふっと微笑む。そんなことはない、と反論すれば、さらにそんなことはないと反論されるだろう。逡巡している間にこぼれた、いや……というどっちつかずな言葉が漏れ出た俺にファウストはさらに笑みを深めた。
    「今夜はどうする?」
    「そう、だな」
    お互い大分酔いも回ってきた夜のはし。そろそろだろうと途切れた会話に滑り込ませた俺の問いに歯切れ悪く答えたファウストは、思考をめぐらせるように明後日の方向を見る。媒介を集めるために始まったこの奇妙な旅。2週間ほどの旅路の中でファウストは睡眠をとったり一晩中起きていたりと様々だった。ファウストは申し訳なさげにするが、俺もファウストに合わせて寝たり夜通し起きていたりを繰り返していた。ファウストはあまり人前、というか魔法舎の自室以外で眠りたがらない節があることは、一年近く任務をともにしていれば気づいてしまう。無駄に年を重ねてきた俺とは違って、まだ幼いシノやヒースは勘づいているかわからないが、あの少年たちは心優しく、そして賢いのだ。なにか思うところがあったとしても不用意に他人の心に、特に少し緊張したように目をそらすファウストには踏み込んだりしない。
    「今夜は眠ろうかな。復旧作業がどの程度進んでいるのかわからないから、すぐ動けるように休息をとっておいた方がいいだろう。……まったく、賢者かアーサーが、こちらに気を使って作業の報告を寄越さないようにしたんだろうが、生徒たちの状況がわからないんじゃ安心できないだろう」
    眉をゆるく吊り上げるファウストに、まったくだ、と俺は苦笑いした。ファウストの言う通り、復旧作業から外れざるを得なくなった俺たちに気を使ってか、こちらの状況をうかがわせないようにしたのだろうが、気になるものはどうしたって気になるのだ。しかし、本当に報告らしい報告がないということは、つつがなく作業は進んでいるんだろう。これくらいのことを推測できるくらいには、俺たちは存外いい関係を築くことできていたらしい。どうにも気恥ずかしいことだ。
    「明日、帰ったらすぐに復旧作業に戻るのか?先生は真面目だな」
    「茶化すんじゃない。君だって、子どもたちが作業している横でさぼったりする質ではないだろう」
    茶化すように呆れたように言ったファウストは、クラッカーに伸ばす手を止めた。首をすくめた俺にファウストは何か言いたげだった。
    だが、これは今に始まった事ではない。それはこの旅が始まってからずっとだった。少しだけ早い口調も、どことなくそわそわした雰囲気も、今夜は少しそれが顕著だった。そして、その時は唐突に訪れた。ずっと漂わせていたその雰囲気が一気に膨らんでいく気配がした。
    少しの沈黙の後、口に当てて傾けていたグラスを少し立てた。
    「ずっと言おうと思っていたんだが。君の、厄災の傷のことで、」
    「うん」
    クラッカーに伸ばした手は止めなかった。
    「僕はそれを、君の厄災の傷を、知ってしまった。媒介のことがあったから仕方がないとはいえ。……でも、僕はきみに厄災の傷の話をしていない」
    「つまり、俺がファウストの傷を知らないのは不公平だって?」
    「……まぁな」
    ファウストが少し目を泳がせてから、覚悟を決めたように俺を見つめる。俺に、そんな穢れのないまっすぐな瞳を寄越してくれなくたっていいのに。
    「あー、なんていうか……うん、じゃあファウストが気にするんだったら、俺に教えてよ。でも、まぁ、俺は気にしないよ。あんたの痛いとこ探りたいわけじゃないし、お互い長く生きているわけだし言いたくないことなんていくらでもあるだろ」
    「それに、俺は別に昔のファウストとか、いろいろと全部知ってるわけじゃねぇけど、今目の前にいるファウストとうまくやっていけてるわけだしさ、それで十分なんじゃねぇの」
    言い切って、残りわずかだったワインを喉に流し込む。顔が熱い。なんだか随分と柄にもないことを言った気がする。ファウストは少しぽかんとしてこちらを見ていた。やがて、すこしためらったのちにゆっくりとワインに口づける。
    「君に、不用意に、秘密を作りたくはない」
    「……」
    口を開いたファウストは、大いに照れながら酒を煽る俺とは違い、静かに、罪を告白するような面持ちだった。だが、それも一瞬で、すぐに晩酌のときによく見せる気の抜けた笑顔になった。
    「だが、そうだな。うん、君の言葉に甘えさせてもらおう。もし、……いつか時が来たらまた話すかもしれない」
    そうして、この話は終わりだと言わんばかりに、ファウストはようやく手を伸ばしたクラッカーのひとかけを口に放り込んだ。俺はワインを一口分、残しておけばよかったなと後悔しながら、焼けるような喉の渇きが冷めるのを待った。

    ___

    翌朝、俺たちは雨の街の隣町にある朝市にやってきていた。いつも行っている中央の市場ほど品物の種類や数は多くないが、せっかくならば東ならではの食材をもって魔法舎に帰ろう、ということになったのだ。
    「ちょっと、買いすぎちまったかな……」
    「……あぁ、後で路地に入ったら魔法で小さくしよう」
    ファウストが不自然でない程度に身を寄せて俺に耳打ちしてくる。とりわけ小さく呟かれた魔法、という言葉は周囲の喧騒にかき消されていった。あちらこちらから、あれをひとつ、と告げる客の声や値段を交渉する声が聞こえてきて、東の国にしては珍しく少しだけにぎやかだったのだ。だが、いくら活気づいてるといっても、人の多さや喧騒は中央の国と比べるまでもない。特に体がぶつかる心配もせずに、するすると歩みを進めていった。すると、市場の端の方、ちょうど近くにあった店と住宅の隙間の細い路地に自然と足が向く。
    先に何もない路地の奥に大の男二人が入るのは少しばかり目立つ。荷物を多く持っていたネロが、するりと路地に身を滑らせファウストに目配せした。正しく意図をくみ取ったファウストは、荷物を少しだけネロに預け、路地の入口をそれとなく隠すように立った。
    背中にネロの魔力を感じ取りながら、ファウストは市場を見まわした。中央の商人や客のように明るい笑顔を浮かべているわけではないが、どこか張りつめて歩く雨の街の住人とも違う。みな、しばしの交流の時間に少しだけ居心地の悪さと、高揚感を覚えているように見えた。
    「ファウスト、様……?」
    ぼんやりと道行く人を怪しまれない程度に観察していると、ふいにひとりの少女と目が合った。黒いローブに身を包んだ、いかにも東の者です、といった出で立ち。目深にかぶったフードから覗く、輝くブロンドの髪。澄んだ青色の瞳は自分の生徒を思わせるが、どこか利発さを感じさせる。彼女は、こちらを驚いたように見つめ、ふらりと足をこちらに向けた。段々と早くなっていく彼女の足取りに、僕の額はほんのり汗をかいていた。
    「きみは、……」
    おそるおそるという風にこちらを覗き込み不安げな顔をする、だが確実にこちらを追い詰めるように距離を縮める少女の顔には見覚えがあった。
    戦火の中で輝くブロンド、魔道具の剣を振りかざす魔女、マルティナ。四百年前、戦いを共にした仲間であった。
    「ファウスト様、ですよね?」
    そうして、アレクから弾圧を受けるはずだった魔法使いの一人でもある。
    「……いや、人違いだ」
    僕の返事にもの言いたげにこちらを見つめてくる。残念ながら、今の僕は切実なその瞳に応える資格などない。ほんのりと肌を刺すように張り詰める空気に、呑気な足音が割り入ってきた。
    「悪い、ついでに保存の魔法もかけてたら時間かかっちま、って……。えーと」
    ファウストの知り合い?というネロの言葉を皮切りに、彼女はばっと顔を上げた。
    「やっぱり……!やっぱり、ファウスト様ですよね?!」
    ずいと前のめりになった彼女に両手を握られる。
    たった一つの紙袋を手に、タイミング悪く路地から顔を出したネロは、突然の客人とその奇行に目を丸くした。ファウスト、とその名を呼ばれてしまったことに対するやるせのない気持ちをどうしたらいいか分からず、ネロの方にじとりと目線を向けた。ネロはバツが悪そうに、そして困ったように眉尻を下げて笑った。


    「ファウスト様、あぁ、ご無事でいらしたなんて、このときをどれだけ夢見たことか……!私です、マルティナにございます。ファウスト様と名誉とともに戦った日々を、忘れた日はございません」
    マルティナがあれからファウスト様、ファウスト様と騒ぎ立てるのであたり一帯は騒然としていた。あれはなんだ、騒がしい、と買い物をしていた者たちが一斉に東の国の住人の顔をした。慌てて街の外れにある森の中まで彼女を引っ張って、念のため防音の魔法をかけ、と息つく間もなく、額には疲労と緊張の汗が浮かんでいた。
    「さっきも言ったが、人違いだよ」
    「私がファウスト様を見間違えるわけがありません!」
    マルティナのひときわ大きな声に近くにいた鳥が飛び立った。ネロは買い忘れがあったなどとこぼしてすぐにどこかへ行ってしまったため、あたりは静寂に包まれた。
    「だとしても、だ。君が知っている男はもういないよ。ここにいるのは、どこにでもいる、ただの陰気な呪い屋だ」
    彼女の瞳に、胸に刻まれているのは、指示を飛ばしながらも先陣を切って駆けていくかつての友の隣で笑う魔法使いであろう。だが、あのファウスト・ラウィーニアはとうの昔に死んでしまったのだ。ただ一人の幼馴染と信頼関係を結ぶことができず、仲間一人救えなかった男が、今さら彼女の前にのこのこ現れる筋合いさえないのだ。
    「……先日、ランズベルグ領に行きましたの」
    落ちた静寂。見かねたように、段落を変えるように、彼女は再び大げさなほど明るい笑顔を作った。
    ランズベルグ領。つい最近聞いた言葉だった。賢者の魔法使いとして初めて東の国主導の任務を行った場所である。そして、かつての戦友、ビアンカの処刑の地であった。
    「ビアンカは鳥が好きでしたので、あのひまわり畑に行ってビアンカに会うときは鳥の姿になるんです。ふふっ、今年は梟の姿にしたら東の森で猟師に狙われそうになりました」
    彼女は友人との思い出話を話すように嬉しげだった。その様子は、400年前と何も変わらないように思えた。お喋りが大好きでいつも人の中心にいたマルティナと心優しくいつも笑顔なビアンカ。年も近く、同じく魔女であることから二人はよく一緒にいたのだ。
    「ファウスト様、ご存じですか?梟って、とっても耳が良いんですわね。……ランズベルグ領についたら農民の方々のお話が聞こえてきました。ファウスト様や賢者の魔法使いの皆様のご活躍をそこで知りましたわ。『人食い魔女ビアンカの呪いを、解決してくださった』、って」
    人食い魔女ビアンカ、その言葉を聞いた途端に全身が緊張していくのがわかった。あの優し気な少女をそのような名前で呼ぶのはひどく違和感があるうえに、その違和感が己の心にじくじくと入ってくる。なぜ彼女がそのように言われなければならないのか。血の焦げるようなにおいが鼻について、仲間を助けようと届かなかった手を固く握った。
    「僕から言えることは何もない。だが、……すまない、ビアンカのこと。きみの大切な友人を弔うのが遅くなってしまった。……それと、あのような目に合わせたことも」
    「一人の不甲斐ない男のせいで、君たちをひどい目に合わせてしまった」
    人違いだと言ったり、謝ったり、無茶苦茶なことをしている自覚はあった。だが、あの惨劇をすべて僕が悪かったと、魔法使いが悪かったとも言いたくないが、きっぱりと知らん顔をできるほど清算が付いているわけでもなかった。このことになると自分がひどくあやふやになる。何を恨んで何に詫びて、何を信じているのかわからなくなってくる。
    ずっと笑顔だったマルティナは途端に顔をゆがめた。
    「やめてくださいファウスト様。ビアンカはあの子の思うままにあなたと共に戦地をかけたんです。あなたまでそんな風に仰ったら、あの子が可哀そうな子みたいじゃあありませんか!……ビアンカはきっと幸せでしたわ。そりゃあ、戦いの最後はあんまりでしたけどね」
    「だからどうか、私たちとの日々をそんなに苦しそうにお話しなさらないでくださいな。ファウスト様にとって、戦いの結末はきっとお辛いことでしょうけれど、私やビアンカの感じた幸せや喜びがなくなるわけではありませんから」
    ね、ファウスト様、どうか。どうか。肌をしっとりと湿らすようなわずかな重み。それでもそれは、祈りであった。
    ビアンカのことを思って心から幸せそうに笑うマルティナの目元には控えめに、涙の粒が浮かんでいた。

    ___

    自然にこぼれた、よいしょの言葉とともに荷物を抱え直す。手元には東特産の果物が入った紙袋がひとつ増えていた。買う予定はなかったが、まぁパンケーキとともに、いつかのおやつ時にでも出せばいい。
    突然現れた謎の魔女、マルティナというらしいが、彼女と別れて俺と合流したファウストを見て、なんだか珍しい顔をしているなというのが第一印象だった。少し不機嫌なような、困っているような、戸惑っているような、理不尽な己の状況にやり場のない苛立ちと不安を持て余している迷子の子どものようだった。だが、その感情を表に出すまいと耐えている悲壮感もあった。そんなファウストに俺は「何かあったのか?良ければ話してくれ」なんてことは言わない。言えないだけかもしれないが。
    だから、俺はうまく出ない言葉の代わりに、先ほど増えた紙袋の中からお目当ての果物を一つ取り出した。悪いが、パンケーキの付け合わせは他のもので我慢してもらおう。
    戸惑うファウストを引き連れて先ほどとは違う路地に入る。オレンジのような丸いその果物の薄い皮を剥くと甘い香りとともに、どこからかにゃあという鳴き声が聞こえてきた。ファウストの視線が果物から路地の奥に移る。てちてち、と俺の手元の果物に吸い寄せられてくるのは、先ほどファウストと別れている間に見つけた、黒い美人な猫だった。猫が食事に集中しているのを見ると、ファウストは上機嫌でその背を撫で始めた。いつからだったろうか。最近では、『別に猫好きではない』というポーズをめっきり取らなくなっていた。それをやめて俺の前で目いっぱい猫を愛でるファウストの様子は文句なしに微笑ましいのだ。
    満足げにファウストを見つめている俺に気が付いて、少し居住まいを正したファウストは、平坦な声で先ほどの魔女について話してくれた。マルティナという魔女はビアンカの友人らしかった。ビアンカという名前にはすぐにピンときた。俺にとっても印象深い任務での出会いだったからだ。
    まだ、俺が賢者の魔法使いになって間もないころ、俺たち東の魔法使いと南の魔法使いで行ったのはランズベルク領の、人食い魔女がでるという噂の村だった。その村では、400年ほど前、人間に裏切られ、人間を恨んで恨んで、しまいには自分の呪詛に飲まれて石になってしまった魔女がいた。そして、大いなる厄災の影響で、息をひそめていたその呪詛は暴走し、それによって起こった不可解な現象の解決を、と俺たちのもとへと依頼が届いた。その任務を受けた俺たちは、その魔女の石が埋められているランズベルグ領のひまわり畑ごと浄化をして、この事態は収束した。
    そして、この石になってしまった魔女、ビアンカという魔女は、レノックスやファウストと旧知の仲らしい。当時はそれ以上もそれ以下も聞いていない。ただ、ビアンカが人間を恨み、呪詛に飲まれて石になったと聞いた時のファウストの痛々し気な表情だけが、瞼にこびりついていた。
    にゃあ、という声に現実に引き戻される。目の前には、ファウストの腕に抱かれた猫が俺にむかって腕を伸ばしていた。抱っこしてくれ、というようにも突っぱねているようにも見える。これで話は終わりだと言わんばかりのファウストに応えるように、俺は猫の顎をなでてやり、しばし二人でこの猫をかわいがることにした。
    迷子の子どものようだったファウストの表情はしばし和らぎ安堵が胸に広がる。それでも、俺はこの程度のことしかできないのだな、と過ぎた期待からくる失望に眉をわずかにひそめた。



    2.
    廊下を歩いていると、ふんわりとバターの香りが鼻をかすめた。その香りが自分の服から香っているのだと気づくのにそう時間はかからなかった。なんとなく甘いものが作りたかった気分であったので、今日はずっとキッチンに籠ってパウンドケーキにクッキー、ジェラートなどなど菓子を大量に作っていた。おかげで、今日は一日中、キッチンがにぎわっていた。甘い香りにつられてどんどん人が集まり、さながら小さなパーティーのようだった。
    こどもたちや北の魔法使い達に食べられる前に、なんとか確保できたのは、手元の小さな皿に乗っている塩味のきいたクッキーだけだった。焼く前の型抜いたクッキー生地に嵐塩をひとつまみ乗せる。甘いものが得意ではない魔法使い達にはもちろん人気であったし、なによりこれは酒に合うのだ。
    このクッキーやそのほかのつまみ、そして自前のワインを手に、俺はファウストの部屋を目指していた。手元のバスケットの中身は、サーモンのカルパッチョにレバーパテ、フルーツのマリネとファウストが好んで食べているのもばかりだ。
    最近、ファウストはふさぎこみがちである。そして、それはたぶん媒介集めの旅から帰ってきてから、というか、最後の日にマルティナという魔女と会ってからであるように思う。しかし、授業もしっかりと行っているし、食事の時間もちゃんと顔を出すので、わかりやすい変化ではない。ふとした時に考え込むようなしぐさや、どことなくぼーっとしていることが増えた、というようなとても些細な変化だ。子どもたちは気が付いていないかもしれないし、俺がわざわざ出る幕でもないのかもしれない。だが、その葛藤の答えは、このバスケットの重みだった。ろくに答えも出ないまま、まぁとりあえず晩酌でも、と安直な考えに至った自分にほとほと嫌気がさした。はぁ、とため息とともに、下を向く。
    そのとき、何か赤いものが視界をかすめた。
    「……花びら?」
    ちらちらと瞬く赤くて小さいそれらは、廊下の奥から列をなして、舞いながら行進している。俺の足元辺りまでやってくると、それはふっと立ち消えていった。
    俺はそれらに逆行して廊下を突き進んだ。不思議なその赤は、たどるたびにどんどん量を増していく。さらに階段を昇って、本来の目的地であった4階にたどり着くと、花びらだと思っていた赤いそれは、よく見ると違う形をしていることに気が付く。火の粉だ。嫌な汗が顔の側面をつたう。
    「ファウスト、いるか!」
    それは、あろうことか、ファウストの部屋の扉の隙間から漏れ出ていた。どんどんと扉をたたく手は、不思議と熱さを感じていなかったのに、彼を呼ぶ喉は煙を吸い込んだように、焼けて痛むようだった。逡巡の後、ドアノブに手をかける。開かない。ぴくりとも動かないそのドアノブは、この扉が魔法で閉められていること、そして俺では開けられないことを示していた。
    「どうかしたか」
    廊下にばたばたと二人分の足音が響く。階段から姿を現したのはフィガロとレノックスだった。
    「なにかあったのかい?……これは」
    気軽な様子だったフィガロが、床の上を漂う赤い火の粉を認識した瞬間、途端に顔を曇らせた。普段表情の変化が乏しいレノックスも、一瞬で悲痛な面持ちになる。俺は動揺した。何かに耐えるように、ぐっと口を引き結ぶレノックスも、冷めたような諦めたような瞳で立ち消えていく火の粉を見つめるフィガロも、あまりにこの光景とは不釣り合いだ。ファウストと、影を落とした彼らの表情、そして火の粉。どれも見てはいけないもののような気がした。
    「これって、魔法だよな」
    それでも、駒を前に進めなければならないときもある。一見すれば火事のような惨状を前に、杭を打たれたように動かない二人を動かすのは、俺しかいなかったのだから仕方がない。
    「あぁ、燃えることはないから安心して」
    ようやく口を開いたのはフィガロだった。ぎこちなさを感じさせない笑みをこちらに向けて、流れるようにファウストの部屋のノブに手をかけた。ぱりん、となにかが弾けるような音が響き、しばし止まっていたフィガロの手が動き出す。ドアノブはすんなりと動いた。
    「ひとまず、俺が部屋とファウストの様子を見てくるから、二人はそこで待っていて」
    「……わかりました」
    「あぁ、頼んだ」
    ようやくぎこちなく頷いたレノックスを見る間もなく、フィガロは部屋に足を踏み入れていた。
    「あの方の結界が作用しないなんて……」
    小さく落とされたレノックスの呟きはネロには届かなかった。

    料理人という性分ゆえ、いつもは正確に時を刻む体内時計は、そのときばかりは正常に機能しなかった。何時間にも感じれられたその時間は、きっと3分にも満たないほど短い時間だった。
    「フィガロ様……!」
    切羽詰まったレノックスの声は、いつもよりも大きく響いて、扉を開けて出てきたフィガロを追い詰めた。
    繕った顔に確かな苛立ちを滲ませて、言い聞かせるようにフィガロは話し始めた。俺に、というよりレノックスに。
    「ひとまず結界を張り直しておくよ。ファウストの容体について気になることがあったから、少し車庫を漁ってくる」
    「ファウスト様は?」
    「眠っているだけだよ。すまないなレノ、じゃあ失礼するよ」
    「眠ってるだけって……フィガロ、どういう、」
    何も伝えず立ち去ろうとするフィガロを引きとめようと、一歩前に踏み出した。その時、ほんの僅かに開いたファウストの部屋の扉から、中の様子が伺えた。真っ暗な部屋の中、飛び交う無数の火の粉の合間から見えるのは、燃え盛る寝台に横たわるファウストだった。
    「ファウスト!」
    フィガロの静止の声を無視して部屋に立ち入った瞬間、むわりとした熱気が身体を包むようだった。目に飛び込んできたのは一面の炎。無数に倒れているのは兵士のような格好をした魔法使い。燃えて消えゆく大輪のひまわり。
    まるで戦地の中心にいるような光景だった。
    「ネロ!」
    「これ、魔法、だよな……ファウストは無事なのか?!」
    慌ててばたばたと入ってきたレノックスとフィガロに詰め寄る。二人とも苦虫を噛み潰したような顔で押し黙った。
    「……無事だよ。とりあえずは、ね」
    吐き捨てるように、嘲笑するように、フィガロはそう言ってふいと顔を背けた。目線の先には、熱のない炎に包まれながらも尚青白いファウストがいた。魔法使いが3人も部屋に入り、これだけ大きな音が響いていても、ファウストの瞼はピクリとも動かない。それなのに、額には汗がにじみ、呼吸も心なしか荒い。
    「フィガロ様、これは一体……!」
    「わかってる。ちゃんと説明するよ」
    ファウストの様子がおかしいことに気がつき、血相を変えて今にも飛びかからんとしているレノックスを、フィガロは短い言葉と目線だけで止めた。フィガロがなだめるように俺にも目線を寄越す。火の粉を見ただけでは、滲んでいなかった汗が、二人の額に浮かんでいるのを見て、手足が冷えていくのを感じた。
    ほわ、と部屋全体を淡い光が包む。フィガロの呪文と共に、ばたんと扉が閉まり外に向かっていた火の粉のようなものが部屋に留まった。部屋にはただ燃え盛る荒野のような景色と、薄く呻き声を上げるファウストと、三人の魔法使いだけが残された。

    ___

    「夢にとらわれる?」
    「……」
    フィガロが眉間に深く皺を寄せて頷いた。レノックスはフィガロの説明を聞いているときからずっと押し黙っている。
    「そんなことあり得るのか?」
    「普通はないね。でも、呪詛に飲まれる魔法使いなら知っているだろう。あれはつまり、自分の手に負えないほど大きくなった感情を持て余して、心を制御しきれなくなったということだ。理論上、そういう精神状態になれば、体に異変が起こってもおかしくはない」
    フィガロ曰く、ファウストは今見ている夢の内容に深く心を奪われている状態だという。前にファウストに言われた通り、夢と心は密接につながっている、らしい。そのせいで、ファウストの夢と心が複雑に絡んで、夢から脱して目を覚ますことが難しいという。
    「無理やり起こすのはだめなのか?」
    「可能かもしれないけれど、ファウストの精神に傷をつける可能性が高い。ファウストが自力で起きてくれるのが最善なんだけど……」
    こちらが魔法で無理やり干渉するのは、ファウストの心を捻じ曲げることである。最悪の場合、精神の一部が欠落する可能性もある、とフィガロは言う。人間にとってもそうであるが、心で魔法を使う俺たちにとって、精神に傷を負ったり機能不全になったりすることは致命的な痛手になる。その点でも、魔法でファウストを起こしたりするのは得策ではないらしい。
    「それから、さっきも言ったけど、この現象について俺たちから説明することはできない。今後、今夜のことをファウストに言うもよし、言わないも良し、君に任せるよ」
    そうしてフィガロは目線だけで部屋を見渡す。その先には、先ほどから炎で赤く染まっていたひまわりの上で揺れる絞首刑の縄があった。
    そもそもなぜ、彼の夢らしいこれらが見えるようになっているのか、俺は知らなかった。フィガロは知っているらしいし、おそらくレノックスもだ。だが、嫌でも気づいてしまう。ファウストが人前で眠らない理由。任務で泊っている際に一晩中起きている理由。きっとそれは今目の前に広がっている景色がその答えだ。
    「なぁ、それって、ファウストが夢から出られるように、内側からどうにかすることってできねぇ……?」
    「ネロ……」
    俺の意図するところがわかったのか、押し黙っていたレノックスが目を見開く。俺もこれを自分が言っていいのかわからなかった。何を言わんとしているのか、本当にわかっているのか問いただしたくなった。臆病な俺が自分の襟首をつかんでいる。おい、ネロ・ターナー、お前はまた他人に入れ込む気じゃないだろうな、と。
    俺が厄災と戦ったことで、付けられた、得てしまった傷、『他人の夢に干渉する』というもの。なんの因果かは知らないが、俺の手元に解決の糸口が転がってきてしまった。しかも、きっとファウストがとらわれている『過去』に俺はいない。つまり、部外者である俺に、だ。それでも、
    「上手くいくかわかんねぇし、そもそも俺に何ができるかわかんないけど、やれることがあるなら試してみたいんだ」
    ファウストは、友人だ。それ以外に、俺がここまで必死になる理由がわからなかった。なぜ理由を探しているかもわからないまま。ただ、なんとなく一歩を踏み出す理由が欲しかっただけなのかもしれない。
    「……わかった、俺がサポートしよう。わかっていると思うけど、危険な手だし、君の身に何かあっても困る。無理はしないで。この手がだめだったら他の手を探す」
    「フィガロ様……」
    レノックスが意外そうにフィガロを振り返る。正直、俺もフィガロからの了承が得られると思っていなかった。彼は、ファウストに対しては少し過保護気味になる節があると感じていたからだ。そんな俺たちの視線を受け、フィガロは肩をすくめた。効率や正確性を求める彼にとって、解決策は書庫ではなく、俺にある可能性が高いと判断したまでだろう。
    「これでも、君を信用しているんだよ、ネロ。この子をよろしくね」
    驚いて俺はあぁ、と気の抜けた返事をしてしまった。フィガロが俺にそんな事を言うなんて思ってもみなかったからだ。確かめるように、今度はレノックスの方を向いた。
    「ファウスト様をよろしく頼む。ネロ」
    「あぁ」
    いつにもまして口数が少ないレノックスが、ゆっくりと口を開いた。相変わらず、表情はわかりにくいが、拳にぐっと力が入っている様子は緊迫した空気感を醸し出していた。今度は、二人分の言葉を受けてしっかりとうなずいた。
    今から、俺が助けに行くのは目の前の彼の従者であった人で、その隣の大魔法使いとも縁が深い人だ。だからどう、というわけでもないが、目の前に横たわる魔法使いのとても濃厚な400年を思って少しだけ肩がこわばった。

    「本当にいいんだね」
    「あぁ」
    俺はベッドに横たわり、目を瞑った。ファウストのベッドを魔法で広げて、そこに寝転がっているためすぐ隣にはファウストの苦し気な横顔がある。自分の厄災の傷が影響しないように、結界を張らずに眠るのは久しぶりだった。フィガロの呪文とともに、段々と意識が沈んでいく感覚がする。段々と手足の力が抜けていき、思考が曇っていくのがわかった。自分が眠る過程を客観的に眺めるような不思議な感覚だった。その感覚に身をゆだね、しばしの空白に意識を落としていった。

    ___

    「意外だった?」
    「はい……フィガロ先生なら、ネロを止めると思っていました」
    「はは、まぁあの子の悩みを受け止めるのは、もう俺の役目じゃないしね。俺より、ネロの方が適任だろう?」
    「フィガロ先生……」
    まただ。また、役目は終わっただとかをこぼしている先生にため息をつきたい気持ちをぐっとこらえた。今の言葉をファウスト様が聞いたらきっとお怒りになるだろう。そして、なによりも悲しむだろう。
    「君こそ。大事なファウストの危機だっていうのに、ネロの提案を飲むの、渋っていただろう」
    やっぱり、こういうところがあるからレノは信用されやすいんだろうな、とフィガロ先生は笑う。
    「別にそういうのでは……。でも、できることならあの方をお助けするのは自分が良かったと、思ってしまったんです」
    へぇ、とフィガロ先生は意外そうに、そして可笑しげに笑った。
    俺にとっては、フィガロ先生が意外そうな顔をしたことが、意外だった。だって、400年も前から俺は欲深いたちだから。



    3.
    長い時間が経った、ような気がした。実際にはどのくらいの時間が経過したかはわからなかったが、すっかり数時間経ったような気も、まだ数分しか経っていないような気もした。目を開くと、そこは一面の野原のような光景だった。ぐるりと見まわしても果ては見えず、ただひたすらに先が少し枯れた草としおれた花が地面からくたびれた顔を出しているだけだ。ここがファウストの夢の中だと、思いだしたのは目の端に菫色の花弁が映った時であった。
    走馬灯のように様々な顔や声が頭の中を通り過ぎていく。ファウストを刺激しすぎないように、心身がつらくなったら直ちに起きるように、と厳しい顔で告げるフィガロの声と、誠実にファウストの名前を呼ぶレノックスの声。その流れる景色と呼応するように、今度は視界になにやら駆けていくものがあった。青年であったり、中年の女性であったり、年齢も性別もばらばらな幾人もが俺の横を走り抜けていった。一方である者は、のんびりとした歩調であったが、全員一様に同じように古びた簡素な鎧のようなものを着て、同じ方向へ歩いている。なにやら楽しげに言葉を交わしているが、精霊のささやきのようにきゃらきゃらと甲高い音が響くだけで、その内容は聞き取ることができない。
    俺は、その人の波に乗って前に歩いてみた。その空間はどこか心地よかった。顔も名前も知らない、横を駆けていく彼らと行く方向が同じというだけで、この道が合っていると思える。そして、何よりこの先から声が聞こえるのだ。それは、俺の胸を震わせてくれるような、縋りたくなるような響きのある声だ。
    歩みを進めていくと周囲の景色は少しずつ変わっていった。もともと枯れていた草木はさらに色を失くし、周りを駆けていく人々の表情は段々と張りつめたものになっていく。あの部屋で見たような火の粉がちらちらと舞い、熱さは感じないのに息苦しい。みな苦しげに歯を食いしばっているが、やはり一様に同じ方向へと足を進めている。まるで、というかおそらく本当に今戦おうとしている兵士たちのど真ん中にいるようだった。
    また、景色は変わる。気づけば、周囲には誰もいなかった。聞こえていなかったはずの喧騒が遠ざかったような物寂しさと、それを覆い隠してしまうやるせなさが周囲には満ち満ちていた。ずっとまっすぐに前を向いて歩いていたはずなのに、気づけばどこが前なのかわからなくなっていた。仕方がないので、そのまま歩き続けてみると、鮮やかな黄色が視界に飛び込んできた。それは大輪のひまわりたちだった。風にゆらゆらと体を揺らしているひまわりは、こちらに手招きしているようである。振り返っても物寂しい荒野しかない、その思いでひまわり畑に自然に足が向いた。特に整備されているわけでもないその中をかき分けて進む。時々、長く伸びた茎が頬や体の脇をかすめて痛かった。
    何もないと思っていたひまわりの海のその奥、急にぽかんとひらけた場所に出た。とはいえそんなに広くはない。2,3人くつろげる程度の狭いスペースだ。その中心にファウストはいた。言葉が出なかった。ずっと探していたはずなのに、そのことをすっかり忘れてこの場所に来るのに夢中になっていた。それなのに、感じるこの暖かさと懐かしさこそ、自分が求めていたものだ、と心が震えるようだった。
    「……ネロ」
    「……よう、ファウスト」
    ファウストが顔だけでこちらを振り返る。特に驚いた様子もなく、魔法舎ですれ違って挨拶を交わす時のようだった。
    「なにしてたの?」
    ファウストはただぼんやりとひまわり畑の奥を見ていた。体ごとこちらに向けて少しほほ笑んだ。
    「昔話を」
    どこかぼんやりとしたファウストは、らしくもなくぽつりとそうこぼしたきり黙ってしまった。
    大きく風が吹いた。幾枚もの黄色い花びらが宙を舞い、ファウストを隠している。隙間から見えるファウストは、あの日のように、迷子の子どものような顔をしていた。
    「そうか」
    そう言ってファウストの隣に立った。俺はファウストを観察しながら、しばし思考をめぐらせる。ここはファウストの夢の中であり、俺はここにいるファウストを救わなければいけない。何から?別に彼は茨にとらわれているわけでも、誰かに刃物を突き付けられているわけでも、助けを求めて泣き叫んでいるわけでもない。ただ、熱心にひまわりを見つめているだけだ。
    どうしたら、ファウストの心に傷をつけずに近づけるのか、救うことができるのか、思考をめぐらせた末にたどり着いたのは一人の人間の顔だった。俺を賢者の魔法使いとして召喚して、共同生活やら任務やらで俺とファウストをつなげてくれた人、そっと暖かに、誰かに寄り添える人。
    「ファウスト、あんたの話を聞かせてくれないか」
    きっとあの人ならこんな風に声をかける。こんな時にまで、誰かの言葉という膜を借りる俺は臆病者以外の何物でもないが、縋りたくなるほど暖かい人だから、どうか許してほしい、と誰にいうでもなく独り言ちた。
    「……僕の話?」
    でもやっぱり、自分にしてはあんまりに気障な言い方だったから、思わず笑ってしまった。だが、ファウストは笑わないで、口元に手を当てて考え込むような仕草をした。そのまましばし彼は固まっていた。時間が止まってしまったように、あたりは静かだった。
    「……僕はどうすれば、彼らに償うことができるんだろう」
    ひっそりと人間を恨んで過ごすことは彼らの贖罪になるだろうか。今、誰かと過ごしているこの時間を彼らは許すだろうか。僕が自分に課してきたこと、自分が選んだことは、彼らを不幸にはしないだろうか。
    一度呟き始めると、うわごとのようにファウストは言葉を紡ぎ続けた。彼らは、彼らは、と。そのすべてを俺は理解することはできなかった。なぜなら、俺はファウストの過去を詳しくは知らないのだから。彼の名前と、伝え聞いた中央の国建国の歴史、レノックスとの会話で知る断片的なエピソード、全てを繋ぎ合わせても理解することは難しいだろう。だってそれらはすべて彼の口からきいたものではないのだから。
    もし、この場にいるのが、レノックスであったなら、彼の過去を知っているからこそより心に寄り添える言葉をかけることができるのだろう。だが、そんな考えは無理やり隅に追いやって、いつも通り答えた。いつもの晩酌で時折こぼす、過去の断片を沿うような話。それは、お互いに正直に話したくない過去のすれすれで、酔いと一緒にワインに混ぜて飲み干してしまう。そんなときにかける言葉は大抵、俺が知っているファウストの姿と、目の前の彼の言葉から紡いだ、慰めにもならない言葉たちだ。俺たちの晩酌はいつもそうやって流れていた。
    「ファウストも、俺も、マルティナって子も、みんな魔法使いで、長く生きなきゃならない。だれかのために自分を曲げたりするのも、誰かを思って自分の行動を後悔するのも、無理だよ。それをしながら生きていくには、長すぎるんだよ。俺たちの人生は」
    彼らは、とつぶやくファウストは傷口をさらしているようで痛々しかった。俺はファウストの口を手でとじさせ、彼の代わりに言葉を紡いだ。ファウストは黙って俺を見ている。
    俺たち、魔法使いの一生は、人間のようにたった100年ぽっちの道のりじゃない。いろいろなものを背負うには俺たちの人生は長すぎる。薄情だと言われても、沢山のものを捨てながら進んでかなきゃいけないときもある。なのに、ファウストは少しばかり背負いすぎのようだった。
    だから、眠れないのだ。きっと、沢山抱えすぎたものが溢れてしまったんだ。
    燃え盛る炎も、ひまわり畑も、絞首刑の縄も、彼が背負う必要があるかもわからないのに。
    「一人きりの夜と同じだよ。一晩中、堂々巡りで考えて一人でどうしようもない夜ってきついじゃん。でも、眠るのも逃げてるみたいで嫌で、どうにもできなくってさ」
    ファウストは変わらずこちらを見ていた。相変わらず、柄にもなくぼんやりとしていて、俺の言葉が届いているかも怪しいほどだ。
    俺がファウストを救えなかったら。いつも通りに、いつも通りに、と平常心を保っていた心に、嫌な水のようにそんな考えがすっと入り込むようだった。一瞬、言葉に詰まりそうになった。俺は、ファウストにとって「良い」言葉を言えるか、ずっと気にしていた。やり方がわからない。なんて声をかければいいのかわからない。のこのこと彼の柔らかい部分に触れておきながら、大したことができるわけでもない。俺は、汗でしっとりと濡れる手を握った。思い出したのは、あの日の路地でファウストと一緒に撫でた猫の感触と、もとよりファウストとの晩酌のために用意していた嵐塩クッキーの生地の感触だった。いつだって、ただなんとなく隣に立つことしかできなかった。それでも良いのだと、彼は笑うような気がした。
    「眠るのが嫌になったら、朝まで飲み明かせばいい、俺と」
    だから、今度はファウストの手を引いてみた。
    ぐいと彼の手を掴んで引きよせ、そういえばその先を考えていなかったなと思い、なんとなくひまわり畑に寝転がった。ファウストの腰を腕で支え、ごろんと上を向く。頭上に輝くひまわりは長く長く伸びている。
    俺は横を向いてファウストと目を合わせた。彼の鮮やかな菫色の瞳に黄金色が映っている。途端、周囲のひまわりたちがふわりと輝いた。
    「ふふっ、ネロが好きな麦穂の色だ」
    ファウストが笑って俺の頭上に視線を向けた。ぱっと見上げると、無数に咲いていたひまわりの一本一本が、いつの間にかすべて麦に変わっていた。目に映る、揺れる黄金色たちはまさしく俺のマナエリアだった。
    「これ……」
    「あぁ、ネロ。またネロと一緒に飲みたい。君の作ったつまみと一緒に」
    ファウストが身を起こして、地べたに座る。麦に包まれる俺を覗き込んで、満足げに彼は笑った。彼はもうひまわりの面影を探してはいなかった。
    ありがとう、彼の口がそう動いた瞬間、俺は唐突な眠気に襲われた。夢の中で眠くなるとは一体どういうことか、と混乱したが、すぐに理解した。俺は寝たがっているのではなく、起きたがっているのだ、と。今にも落ちそうな瞼を引き上げて、なんとか口を動かした。
    「あぁ、好きなもんいっぱい作ってやるから、待ってるよ」

    ___

    気が付いたら、何もない草地に立っていた。
    先ほどまで、ネロと一緒にいた気がするが、よく思い出せない。僕は思うままに、足を前に踏み出した。歩いていくうちに、すっきりと意識が明瞭になっていった。頭のなかに様々な人々の顔が浮かんでいった。レノックスや、ビアンカ、マルティナ、フィガロ。そして、ネロ。
    一番最初に思い浮かんだのは、あの日再会したマルティナの流した涙だった。その涙は、僕の頑なで不安定だった心のバランスを崩していくようだった。僕はレノックスと魔法舎で再会し、できるだけ彼と関わらないようにした。彼の幸せな人生には、彼らを傷つけた僕はきっと邪魔でしかないから。だが、マルティナの言葉を聞いて、涙を見て、その考えはぼろぼろと崩れていくようだった。僕は何を間違えたのだろう。
    マルティナがあの日、別れ際に言っていたことを思い出した。
    「私、街中でひまわりを見かけたら、ビアンカに会いに行くって決めているんです。でも、それだと会いたいときに会えないでしょう?だから、今度からはひまわり畑からお花を一輪いただいて、色んな国を巡るのもいいと思いません?」
    ビアンカはあの景色が見たいと言っていた、あれはきっとビアンカの好みの味だからあの町に行こうかしら、とやはり矢継ぎ早に言うものだから、なんだか圧倒されて、それから拍子抜けしたのだ。マルティナは、もう歩き出していたのだ。過去の日々を胸に抱いて、大切にしながらも歩き出そうとしていた。僕が彼女らにつけた傷は決して浅くはないというのに。
    かつての仲間たちがどんなに僕を許したとしても、僕はそれを受け取ることはできない。アレクへの恨みと同じぐらい、僕は自分の無力を悔いてきた。だが、それすらも正しいのか、わからなくなっていた。いや、正しさではない、僕が傷つけてしまった、守りたかった彼らに誠実でいたいのだ。
    そうであるために、そうありたい自分を納得させるために眠れない夜を何度も超えてきた。超えた分だけ、彼らに誠実だったかというと、やはりそうでもない。現実は変わらないし、傷跡が消えても傷ついた過去は変わらない。それでも、少しだけ、にがく苦しい夜の時間に、誰かと一緒にいても、許しを得た罪びとのように穏やかな夜を過ごしてもいいのではないか、と僕にしては前向きな言葉がこぼれた。そんな自分が少し可笑しくてふっと息を吐いた。
    ふと横を見ると、地面から小さな花が顔をのぞかせていた。ただの草地だと思っていたが、ちゃんと周りを見渡すと遠くのほうに青々しい木々が生えているし、鳥が数羽飛んでいる。そのうちの一羽が何か光るものを咥えていた。遠くてそれ自体は見えなかったが、太陽の光を受けるその輝きは彼の魔道具を思い出させた。
    僕に友人と呼べる人ができた。彼と一緒に、眠れぬ夜を超すのもたまにはいいのではないかと思った。
    これは不誠実な変化だろうか。人はこれを成長と呼ぶのだろうか。だが、そんな夜を過ごしたいと思ってしまったのだから仕方がない。僕だって気まぐれでいい加減な魔法使いなのだ。
    そうだ、そんな夜は、ネロの話が聞きたいとねだってみようか。ネロが傷つかないように、丁寧に、礼儀をわきまえてきこう。ともに夜を明かす彼は、それが得意なのだ。
    太陽の光が急速に膨らんで、辺りが白んでいくと同時に、急激な眠気に襲われた。きっと、僕はこの草地がら抜け出すのだ。目を覚ましたら、きっとすぐ隣にネロがいる、そんな気がする。起きたら、すぐにつまみのリクエストをしよう。彼が待っていると言ってくれたのだから。


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    potyakouuu

    DONEキャプション
    〇以下の設定は、本作品の中で捏造したものです。公式の作品、設定とは一切関係がありません。
    ・ネロの厄災の奇妙な傷
    ・メインキャラと関わりがあるオリジナルの魔法使い

    〇「哀愁のひまわりのエチュード」のイベストに登場した魔法使い(ビアンカ)が出てきます。当該イベストのネタバレを若干に含みますので、ご注意ください。
    (イベスト未読でも問題なくお楽しみいただけるような内容になっております)
    1.
    ふわふわとした毛玉が浮いている。
    いくつものその白い塊は、果ての見えない草地の上を跳ねていく。草は青々として朝露を浴びたように瑞々しいのに、空は目が痛いほどの茜に染まっていて、なんだかあべこべだ。そこに浮かぶ細切れの雲はだんだんと形を変えて、しまいには草地を飛ぶ白いふわふわに混ざり始めた。
    伊達に600年ほども生きていない。所謂絶景と呼ばれるような景色や奇妙な現象との出会いはありふれているし、つまりは少し奇妙なこの景色に感嘆の声を漏らすことはない。今、意識が向くのはこの空間を包み込む、俺の知らない、この生暖かい気配だけだ。
    「あぁ、またやっちまった……」
    覚えがあるが、確実に自分のものではない気配を感じながら、その主であるがたいの良い彼の、羊を見守る柔らかな微笑みを思い出す。と、同時に寝る前の俺に恨み言を連ねた。いくら、任務にオーエンやミスラの料理のリクエストにと忙しくて疲れていても、就寝前に結界を張り忘れるなんて。少しずつ身についてきたと思った寝る前の習慣も、疲労で鈍った脳の前では、塵と消えたようだった。
    23923

    potyakouuu

    DONE本作は以下のものを多分に含みますので、苦手な方は読むのをお控えください。

    ・病気やその症状についての捏造(作者は医学的な知識を持ち合わせていません。フィクションであることをどうかご理解ください)

    ・魔法使いや精霊などについての設定の捏造

    ・体調不良やメインキャラの死亡の表現


    お楽しみいただけたら嬉しいです。感想などいただけると大変喜びます。
    いていな1にて展示していたもの(加筆修正版)それは小さな背中だった。

    晶や若い魔法使いの悲鳴や叫び声、熟練の魔法使いたちの切羽詰まった呪文を唱える声、ひときわ鮮やかに輝く大いなる厄災。
    先陣で存分に力をふるっている北の魔法使い、その後ろで隊を組んでいる西の魔法使いの合間を縫って、一匹の魔法生物が、負傷したヒースクリフと彼を後方で治療するミチルに近づいた。ぎりぎりの状態で誰もが自分の目の前にいる厄災で手一杯だった。だが夜が更けた今、世界で最も強い魔法使いはそういうわけにもいかない。ミチルの危機に気が付いたミスラの気がそれている間に、息を合わせたように厄災が一気になだれ込む。
    「シノ!」
    敵方の勢いに押されて段々と後方に下がってきていたシノの周囲には、弱ってはいるものの未だのたうち回るものも含め、ざっと10体近くの厄災がにじり寄っていた。肩で息をするシノは、尽きかける魔力を必死にかき集め、鎌の持ち手を支えにようやく立てているような状態だった。
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