いていな1にて展示していたもの(加筆修正版)それは小さな背中だった。
晶や若い魔法使いの悲鳴や叫び声、熟練の魔法使いたちの切羽詰まった呪文を唱える声、ひときわ鮮やかに輝く大いなる厄災。
先陣で存分に力をふるっている北の魔法使い、その後ろで隊を組んでいる西の魔法使いの合間を縫って、一匹の魔法生物が、負傷したヒースクリフと彼を後方で治療するミチルに近づいた。ぎりぎりの状態で誰もが自分の目の前にいる厄災で手一杯だった。だが夜が更けた今、世界で最も強い魔法使いはそういうわけにもいかない。ミチルの危機に気が付いたミスラの気がそれている間に、息を合わせたように厄災が一気になだれ込む。
「シノ!」
敵方の勢いに押されて段々と後方に下がってきていたシノの周囲には、弱ってはいるものの未だのたうち回るものも含め、ざっと10体近くの厄災がにじり寄っていた。肩で息をするシノは、尽きかける魔力を必死にかき集め、鎌の持ち手を支えにようやく立てているような状態だった。
「ヒース、うしろ!」
手当てを受けていたヒースクリフの元にも、魔法舎の噴水ほどの背丈がある狼のような魔法生物が忍び寄る。迫りくる魔法生物にミチルとともに応戦していたが、大分消耗しているせいか押され気味だ。いやに冷静な頭は、もってあと数十秒だと告げてくる。
目の前にのさばる厄災3体を勢いで薙ぎ倒し、愛しい生徒を呼ぶファウストの声に応えるように俺は走り出した。
右手の引っ込み思案だが大いになついてくれたおこちゃまの前にはカトラリーを、左手の食いしん坊で負けん気の強いおこちゃまの前には己の身を滑り込ませる。近くで見るとより気味が悪いそれを前に、重心を低くして体制を整える。盗賊時代に身に着けた体術ともいえないような型もないめちゃくちゃな動きだが、一蹴りで二体ほどをなぎ倒す。続けざまに一体。頭の片隅ではヒースとミチルを守るようにカトラリーを操る。こんなめちゃくちゃなことをしたのは久しぶりだった。だからだろうか。ヒースとミチルを襲おうとした魔法生物が一旦後ろに下がるのを横目で確認すると、興奮で冴えわたっていた脳の集中がふっと途切れ、体から力が抜けて膝から崩れ落ちるように倒れる。俺にあっけを取られながらも鎌をふるっていたシノの赤い瞳が大きく見開いた、気がした。
遠くから声が聞こえた。いつか言ってたな、魔法舎で一番大きな声が出るって。まったくもってその通りだ、なんて場違いなことを考えた。
それが、最後だった。
___
今日のコーンスープは少し甘めに、今朝庭でとれたバジルとトマトはサラダに、しっかり焼いたバケットにはオリーブオイルを添えて。
すがすがしい朝に似合いの朝食を二人前。
「おまちどおさん」
魔法舎で暮らしていたころと比べればだいぶ手狭だが、二人で使うには余裕のあるテーブルの両端にそれぞれの朝食を並べ、自分の席に着く。
いつしか声に出せなくなったいただきますの言葉を頭の中だけで響かせて、フォークを手に取った。
目の前でコーンスープがほかほかと湯気を立てているが、口がつけられることはない。例え目の前にある料理が、彼の大好物のガレットだったとしても、だ。
彼の体は弛緩したままで、たまにうっかり食事中に椅子からずり落ちてしまうこともあるから今日は大丈夫そうだなと確認する。姿勢とは対称的に彼の菫色の目はきっといつものように強く前を見据えている。だが、伏せられているそこは真実を写さない。だから、これは俺の勝手な予想だ、いや、予想というよりは__
「願望、かな」
思わずこぼれた自虐的な笑みをバケットの最後の一欠けらとともに飲みこむ。
ふとこんなポエムのようなことを独り言ちてしまうほどに時は経っていた。
ヒースクリフは正式にブランシェット領の当主になったし、シノの肩書は小間使いではなくなった。大いなる厄災がこの世界に近づいてくることもないし、となれば魔法舎での共同生活も自然と終わりを迎えた。
食後のコーヒーを淹れ、二つ目のカップに注ごうとしたところで手を止めた。コーヒーのあまりに鮮やかな苦い香りが、ここは箱庭ではないと告げるから。
数十年前の今日、俺は初めて厄災を迎撃し、ファウストはながい眠りについた。
あの時、俺はシノも、ヒースとミチルも守ろうとして無理な魔法の使い方をしたことが原因で一時的な魔力の枯渇状態に陥ったらしい。なんとか若い魔法使いたちはそれで守ることができたが、あそこは四面楚歌の戦場だ。当然、魔力が枯渇した俺が一番危険な状況に置かれた。
ろくに動けなくなった俺のもとに集まる仕留め損ねた厄災のうち一体が、俺の右足に絡まってくる。痛みというよりも焼けるような熱さだ。続いてどんどん俺に群がってくる厄災を近くにいたシノが薙ぎ払おうと必死に鎌を振り回す。だが、どんどん増える厄災を前になかなか近づくことができない。
世界中の誰より危険な状況にあって思い出されるのは、魔法舎の面々に好評だった昨日の晩御飯のメニューや、自室のキッチンで切れかけていた調味料、最近なつき始めた白と茶のブチの猫のことだった。
元は死に損なったような身だ。年下の魔法使い達に慕われて、料理を作って出せばねぎらいや感謝を伝えられる。人生のボーナスタイムのような時間を過ごし、仲間の手助けになって石になれるのなら、むしろ本望かもしれない。
だからせめて、シノの周りにいるヤツだけでも、と体を動かそうとするが、消耗しすぎた体では自身の体にまとわりつき侵食せんとしてくる厄災を振り払うことも、呪文を唱えてカトラリーを呼び寄せることもできない。
薄れゆく意識の中、あと覚えているのはどこからか現れた黒いシルエットと、馴染みのある、だが覚えのないほど強い魔力だった。
目を開けると、そこは見慣れた、ここ一年ですっかり見慣れてしまった魔法舎の自室の天井だった。驚くことに俺は生きていた。厄災を追い返してしばらく経ってから目を覚ました俺のもとにはひっきりなしに来客があった。泣く者、怒る者、ただ様子を見に来るだけの者。特に双子先生とフィガロにはこっぴどく叱られたし、ミチルやリケには大泣きされてしばらく俺の元を離れようとはしなかった。シノとヒースは叱ることもしなかったし俺の前で枯れるほど泣いてもいなかったが、憔悴した二人の様子は俺の心に突き刺さった。いつもはストレートにものを言うシノは言葉少なに部屋を後にして、暫く魔法舎の中庭で一日中鍛錬していたのが見えた。
逆にいつもは感情を表現することを苦手とするヒースは、目を覚ました俺の部屋に来ると無事でよかった、とぎこちなく笑って、泣いた。ひとしきり俺の体調を案じて涙もかわいた頃、
「お願いだから、ネロ。二度とこんなことはしないで」
と一筋涙を流した。
正直、目を覚ましてから暫くのことはあまり鮮明には覚えていない。まだ回復しきっていないせいか目を覚ましても半ば夢の中にいるような日々を過ごしたが、次第に体調も良くなって一日中起きていられるまで回復したころ、ほかの魔法使い達と一緒に顔を出すことが多かった晶が一人俺の部屋を訪ねた。俺が意識を失っている間に、なんとか厄災を追い返したこと、怪我人は多いものの誰も石にはならずに済んだこと、今は一年前のように各地の厄災による被害の復旧作業にあたっていること。あの日のことをなぞっているから少し緊張した面持ちで、でも確かな安堵をたたえながら丁寧に話してくれた。
「……ファウストが、植物状態?」
「はい。今までにあまり見たことがないそうで、フィガロも憶測の域を出ないと言っていましたが」
それから、ファウストが目を覚まさないことも。
原因は、ファウストが魔力を暴発させてしまったことによるものだという。魔法は心で使う。自分の本来の力以上に魔法を使うということは、心を消耗するということだ。
「それで魂が欠けた、と」
晶は神妙な面持ちでうなずいた。魂と肉体は密接につながっている。どちらが欠けても人も魔法使いも生きられない。魂が欠けたファウストは肉体の時が止まり、殆ど眠っているような状態だという。
ムルのように魂の欠片が世界中に散らばっていればまだ対処のしようはあるが、ファウストの場合は魔法を使ったことで魂の一部がすっかり抜け落ちている状態らしい。神秘の力が満ちている場所に行けば魂の欠損も埋められるかもしれないというオズの提案で、任務の合間を縫って、世界中の目ぼしい場所を見つけては目を覚まさないファウストを連れて行っているが、今のところ不発に終わっているそうだ。
話が一区切りついたところで、晶は詰めていた息を吐きだした。一気に色んなことを知ったからなのか現実味がなくて、何と言えばいいかわからなかった。ひとまず、今朝ルチルとミチルがおいて行ってくれた水差しから水を一杯注ぎ、晶に手渡す。
ごくりと水を一気飲みすると、暫くうつむいてから意を決したように俺の目を見て告げた。植物状態になるといつ目を覚ますのかわからない。明日かもしれないし、一か月後かもしれない、と。
「つまり、何百年も先かもしれねぇってこと?」
「……は、い」
晶の体がこわばる。たぶん、言ってはいけない言葉だった。ついこぼれた言葉を取り繕うこともできず、掌に力が入る。続きを促すように緩く首を振ると、晶は再び重い口を開いた。植物状態というものは、時が経つにつれて、目を覚ます確率は低くなっていくらしい。つまり、永遠に目を覚まさないことだってある、のだそうだ。ただ、これは医者のフィガロや最年長の双子の言葉ではなく晶の世界で言われていたことだという。俺が口を開く前に晶は、俺の世界での話ですし、あくまで人間を対象にした医療しか発達していませんから、と慌てて付け足した。だが、その言葉をフィガロたちが否定できないのも確かなようだった。
あの時の晶の様子は今だって鮮明に覚えている。痛ましいその姿に、きっと大丈夫だと声をかけたくなった。見たくもない、受け入れたくもない現実なんか無視してただ目の前の大切な人を慰めることに腐心していたかった。でもずっとそんな風にはしていられない。目を閉じたファウストを直視できるようになってもう数十年経ったし、魔法舎が解体してからというもの、俺とファウストの二人でこの家に暮らしている。俺の心と時間を置き去りにして時計は進み続けている。
___
ばたん、と扉を閉める音に意識を引き戻される。レノックスか同じ階の誰かが部屋に戻ったのかもしれない。晶がファウストの話をしに訪ねて来てからどれくらいの時間が経ったのだろう。
俺は、ベッドから抜け出し、部屋を出た。そういえば地面に足をつけるのは久しぶりだった。そのせいで足は震えるし、ゆっくりしか歩けない。
ながいながい廊下を歩いてたどり着いた四階のファウストの部屋の前にはレノックスがいた。
「ネロ、急に起きて大丈……」
レノックスはファウストの部屋の扉に背を向けていたが、俺に気が付いて駆け寄ってきた。俺が壁にもたれながら息も絶え絶えに歩いているの気がついて、すぐに体を支えるように手を伸ばす。そのまま抱っこでもされそうな勢いだったので、軽く手で制すると眉根を寄せて少し困った様子だったが、俺に壁にもたれて座るように促した。
「悪いな、羊飼いくん。でも大丈夫だよ、だんだん慣れてきたし」
「だが……。ファウスト様に会いに来たのか」
これ以上病人を歩かせたくないというレノックスの思いは感じたが、すぐに俺の目的に気づいたようだった。俺があいまいに頷くと、少し迷ったようにファウストの部屋のほうを向いた。俺を部屋に連れ戻すことは選ばなかったようだ。
「おぶっていこうか」
大丈夫だと告げた声は我ながらみじめに震えていた。
レノックスに支えられながら部屋に入ると、そこは俺が知る限りで一番明るい様子だった。色とりどりの花や猫モチーフの雑貨、晶が教えてくれたおりがみという置物、魔力を帯びる不気味なものが所狭しと並んでいた。その真ん中に鎮座するベッドにファウストは眠っていた。本当に、ただ眠っているだけのようだった。肌は元から青白いし、頬は前より少しこけているが、小食な体は一年前と変わらず何を食べさせても細いままだった。ただ、瞳の菫も、たまに差す頬の紅もない静けさがこの部屋とあまりに不釣り合いで、強く頭を殴られた。
ファウストが目を覚まさないかもしれない。
じわじわと己を襲う現実にゆっくりと頭が侵されていくようだった。
俺があの時倒れたりなんかせずファウストのサポートができていれば。作戦会議の時、いざという時に対処できるあんたはもっと後方にいたほうがいいと念押していれば。俺が治癒魔法を覚えていればファウストの負担を減らせたかもしれない。俺が、おれが。
ひたすらに頭を駆け巡る言葉たちに吐き気を催した。目が回るようで、今立っているのか座っているのかもわからない。絶えず汗がにじむ掌は、固く握りすぎたのか開き方を忘れてしまった。
レノックスが俺の背に手を添える。まとまらない頭をゆるく振って、できた余裕でレノックスに心配をかけてばかりではいけないと考える。俺がなんとか口端をあげると、気づかわしそうに椅子をすすめられた。ありがたく座って、胃からこみあげてくるものをなだめるように深く息を吐く。また、細く吸う。そして、意識をそらすように改めて部屋を見渡した。
先ほど、晶に教えてもらって知ったが、すでに厄災を追い返してから二週間以上も経過しているらしい。誰もが戦いで傷を負い、復旧作業もあり大変な時期であろうに、思い思いのものをもって魔法使い達はこの部屋を訪れる。
この部屋にあふれているのは祈りだ。どうか、どうか。目を覚まして、ファウスト、ファウストさん、ファウスト先生。
「ファウスト様」
レノックスがファウストの枕元に膝をつく。
「ネロが来てくれました」
「そういえば、話しかけるといいんだっけ」
先ほど、晶がそのようなことを話していたことを思い出す。ただ眠っている状態であるから聴覚は機能しているかもしれない、何も刺激を与えず心の動きが止まってしまうのは今のファウストに悪影響なのだそうだ。レノックスは、本当にファウストが目を開けているのではと思わせるほど、自然に話しかけていた。
「あぁ、仲が良いネロと話せればきっとファウスト様も喜ぶ」
「はは、仲良しって柄でもねぇけど」
「……席をはずそうか。そのほうが話しやすいだろう」
レノックスの気遣いは素直にありがたかった。だから甘えようかと思ったが、つい想像してしまった。自分がファウストが目覚めることを祈って静かに語り掛ける姿を。なんて声を掛けたらいい、ふがいなく仲間をみすみすこんな状態にしてしまった俺がどのツラさげてファウストの前に立てばいい。いや、それよりも。ファウストがこんな状態になってしまったことを受け入れるのが恐ろしかった。俺がどうしようが、目の前のこの人が目を覚ますわけではないのに。
「ここしばらくファウスト様の様子も変わりないから、ひとまず不寝番も必要ないかもしれないな。ネロ、もし気が向いたら様子を見に来てくれないだろうか」
今ではない、いつか。俺がファウストに会いに来てもいいようにと気遣ってレノックスはそっとそう添えた。彼はやはりいい奴だなと思いながら、この胸の不快感を飲み込んでしまう日を想像した。
___
天気がいい日だ。
今日は確か、中央と東の国境のあたりで骨董品なども扱う市場が開かれる。芸術品や陶芸品においては西が有名だが、あの辺りは東の商人が活発に活動できる数少ない場所のため、掘り出し物も多い。最近割ってしまったティーカップの代わりを探すのにちょうどいいかもしれない。
食器を洗い終えると、身支度をして、ほかに必要なものがないか思考をめぐらせる。帰りにいつもの肉屋によって、良いものがあれば今日の夕食に使おう。最後に、いつものようにテーブルの前、ファウストの前に立つ。
「≪アドノディス・オムニス≫」
すっかり慣れた祝福の魔法。魔法舎にいた頃は、できないわけではなかったが年齢の割にお粗末なものだったので、ファウストから指導を受けたこともあった。きらきらとした輝きをまとうファウストは何度見ても美しい。
迷ってからもう一度、指先に力を込める。かざしていた掌を下すと、ファウストの頭上から白や紫が花弁がひらひらと舞う。名前は知らないが、いつか見た、美しく、高潔な、儚い花たち。
花弁は床につく前に姿を消す。一片、またひとひら。
「ちょっと出かけてくるよ、ファウスト」
ファウストの足元には、何も残らない。
___
誰も廊下にいないことを確認してから、慎重にドアを閉める。結局ネロがファウストの部屋を再び訪れたのは、レノックスと言葉を交わした二日後の夜だった。あの夜は久しぶりに動いた疲れからか、大量の情報を処理しきれていないはずの脳はあっけなく睡魔に負けてしまった。ここ二日間、頭にこびりついた寝台のファウストは夢にまで出てきたが、現実でなくとも俺はファウストに話しかけることができなかったのをおぼろげながらに覚えている。
正直、ファウストにかける言葉はまだ見つかっていない。ずっと考えていた。ファウストのこと、魔法舎に住む人々のこと。レノックスが伝えたのか、俺が一度ファウストの部屋を訪れたことを何人かは知っているようだった。おそらくそれまでは体調が芳しくない俺を気遣って敢えてファウストの話をしなかったのだろう。
「彼は、レノックスを守ろうとして魔力を暴発させました。あなたが倒れてからのことですよ。誰かが止める間もなく……」
昨日俺の部屋を訪れたシャイロックは突然語り始めた。一瞬戸惑ったが、すぐに戦いの日のファウストのことだと分かった。ベッドサイドの椅子に足を組んで腰かけるシャイロックは、パイプを燻らせた。窓の外に向けていた視線を何も言えないでいる俺のほうに向けると、ひとつ息を吐いた。
「私はベネットの土地や癖のある友人たちを好ましく思っています。何十年、何百年と。そうしていられたのは、愛するものを慈しむ私自身まで愛していたからです。清廉な乙女のように夢を見ながら、焦げつくように深く憎しみながら」
「……憎しみ」
何も考えず口からこぼれた言葉を、拾い上げるようにシャイロックがほほ笑む。
「ええ、必要なことですよ。視線を預けて、心が震えて、手を伸ばさずにはいられない……それが愛であり憎しみです。それがそう簡単に見つかるものではないと、あなたも知っているはずですよ、ネロ」
意味ありげな視線に、思わず目を泳がせる。愛だの、憎しみだの、そういう情熱的なことは目の前にいる西の魔法使いにはお手の物だが、東の魔法使いはどうにも不向きだ。だが、その感覚はわかる気がした。知ってしまった隣人の暖かさや、それを失うことを恐れて叫びたくなる気持ちを。手に余る情があつくて醜い、どろどろした感情に変わっていく過程を。この身を呈して世界中のあらゆるものから守ってやりたい気持ちも。
「はは、そうかもな……」
思わずこぼれてしまった同意とともに、やはり目の前の男は自分よりも随分長く生きていることを思い出した。自分の弱みを見せるような、自分の心の中に招くようなことはのらりくらりとかわしてきたネロが取り繕うこともせずにただ弱く笑っているところを見ると、シャイロックはふ、と息をつく。その眼差しは慈愛に満ちていた。
「……どうか、あなたの大切なものを見失わないで」
その苦しそうな笑みに俺は何も答えられなかった。
あの夜よりかは幾分整った息遣いで階段を上っていくと、特に誰とも会うことなくファウストの部屋の前にたどり着けてしまった。臆病な俺の決意に、揺らぐ機会など与えてはくれなかった。何度か息を吸って、吐く。それでも、いつかの夜と同じように鼓動も手汗も収まらない。
「……入るぜ」
ノックして入ると、中は相変わらず鮮やかな贈り物たちに溢れていた。この前来た時もあっただろうか、透き通るベージュ、深みのある赤、光を集める黄金に、淡い空色の猫の置物が戯れあっていた。そのすぐそばに瞳を閉じた青白いファウストの顔がある。
「なあ、早く起きなよ。シノもヒースもあんたを心配してるぞ」
かける言葉など思い付いていないはずなのに、せっついたように当たり障りのない言葉がこぼれる。一度口を開くと不自然に途切れさせることもできない。だっておかしいじゃないか、人前で眠ることを拒んだファウストがただ眠るのを、無言で眺めるだけなんて。会話の少ない夜もあった、任務などでしばらく一緒にいないこともあった。それでも、無言も、ほどよく空いた空白も心地よい関係だった。だけど、会ったら絶対に声をかけるんだ、何気ない言葉を。それは不器用な俺たちがほんのすこし近づいた証拠だ。
死人のようなファウストに涙を浮かべてうなだれるのも、奇跡を願って届きようのない言葉をかけるのも、そんなの__
「……そんなの、ごめんだ」
言葉がしっとりと、誰にも届かずに床の絨毯に吸い込まれる。うてどもひびかない凍った北の湖のようだった。
口を開いてからすぐに後悔した。思い出したのは、生を許さない凍えるような寒さの中、傷だらけで敵地から帰ってきた大馬鹿者の頬を叩いた掌の痛みだ。ぐったりと笑うあいつの顔がいまだに瞼の裏にこびりついている。
「っ……なぁ、凄かったろ、今回の、えもの……ごほっ」
「馬鹿野郎!腹から血出てんじゃねえか!……っおい、目開けろブラッド!」
必死に祈った。怒りが、思いが、糧となって増大した魔力をブラッドに注ぐ。今度こそこいつは死ぬのではないか、よく知りもしないヤツにつけられたこの傷でこいつを死なせるわけにはいかない、あぁいっそ一思いにこの手で終わらすことができたのなら。
それでも、どんなにこいつの隣は耐えられなくても。死んでほしくない。あふれる思いを願いを、なりふりかまわず必死に紡ぐ。ブラッドに届くように、と。これがきっと祈りだ。俺がファウストにできないでいることだ。
「なぁ、ファウスト」
それでも目を覚まさないファウストに、俺はきっと、向き合うことができない。
___
多めの塩で漬け込んだ豚肉を軽く茹で、燻煙する。じゅう、と食欲をそそる音を立てて焼き目が付いていく。グランデトマトとグリーンフラワーにも焼き色を付けてスキレットに並べる。
「はいよ。酒と合うように、しょっぱめにしたんだ」
最後にフライパンで熱したチーズをかければ、少し癖のある豊満な香りが部屋の中に広がった。これは、先日ファウストをフィガロのもとに検診に連れて行った際に、レノックスにもらったものだ。
キッチンの片隅にある小さなワインセラーから、今晩の夕食兼晩酌に合いそうなものを見繕った。住まいを転々としていたこともあり最低限の家具しか持っていなかったが、この家に長く住むようになって、ワインセラーをはじめとした余分な家具も大分増えてしまった。
しょっぱめのラクレットを運び、ワインを注ぐ。グラスは二脚だ。あんたの好きな味だろ、とは言わなかった。そんなこと言えば、あぁ、やはりうまいな、なんて言葉が欲しくなってしまう。
ベーコンを小さく切って、チーズに絡めて口に運ぶ。我ながら、なかなかの出来だ。でももう少し、塩っけを抑えてもいいかもしれない。
なんとなく口端に浮かんだ言葉をこぼしていく。大抵は、今日あった他愛無いことだ。ここはかつてのにぎやかな魔法舎ではないから、話題の中心だった可愛いおこちゃまたちや懐いている猫の話のネタはそうそうにない。そんな変わり映えのない日々を過ごしているから、無言のままのことのほうが多いし、返答のいらない話題ばかりを選んでしまうせいで、もはや口を開いても開かなくても同じじゃないかと思うことさえある。ファウストといるためにこの生活を続けているのに、ファウストがいるから俺はこの口を完全に閉じることができない。皮肉なものだ。
目の前のものを平らげて、追加でつまみを作るか迷っているとき、ふいに窓の外がちらちらと輝いた。窓辺に近づくと、大いなる厄災を背にして一匹の蝶がひらひらと舞っていた。珍しいななんてのんきに思っていると、急に蝶がまとう光の熱量がまし、申し訳程度にかけている家の結界の中に侵入してくる気配がした。
「うわっ!」
__ぱりん。
きらきらとした光の中、高音を響かせながら蝶はふいに姿を消した。
「……なんだったんだ、今の」
はっとして振り返り、ファウストに異常がないか確認する。念のため検分しようとファウストの首筋に手を伸ばすと、俺の手に1枚の白い封筒が握られていることに気が付いた。魔力の気配をたどり、悪意があるものではないと認識してから、おそるおそる封蝋に手をかける。便せんにつづられた流暢な字に、思わず安堵にも似たため息がこぼれた。きらびやかだが、品のある演出に合点がいく。
『親愛なるネロ・ターナー様
次に猫が鳴く夜、ぜひ私のバーにいらしてください。
沢山の大切な友人と杯を交わして、思い出話に花を咲かせるもの一興ですが、次にお会いするときは、どうかあなたと二人きりで。
とっておきのものを用意してあなたをお待ちしています。
愛をこめて、シャイロック・ベネット』
1か月後の満月の夜。今日がその日だ。
この生活が始まってから、家にファウストがいるため夜に家を空けることは殆どなかったから、出かける際、大分しみついてきた結界の魔法を何度も何度も張りなおした。ファウスト自身にも保護や祝福の魔法をかけまくったが、ファウストの体がほのかに光りだしたのを見て、そこまでにした。
「いらっしゃいませ。お待ちしていましたよ、ネロ」
「ネロだー!」
「はは、久しぶりだな二人とも」
扉を開けると、カウチの背もたれにつかまって逆立していたムルに飛びかかられるも何とか受け止める。今夜は他のお客がいないからなのか、そんなムルを咎めることはせず、シャイロックは食器の片づけを進めていた。魔法舎でよく見た、相変わらずな二人だ。
「呼んでくれてありがとな」
「こちらこそ、来てくださりありがとうございます。人気者のあなたですから、ふられてしまうのではないかと思っていましたよ」
「はは、せっかく西の名店の店主にご招待されたんだ。断らねえよ」
適当な席に着くと、ことり、と目の前に赤のワインと軽めのつまみが出される。ボトルの銘柄をうかがうと、それは北の国の歴史ある貴族が大昔に製造していたもので、確か今はほとんど流通していないはずだ。なるほど、シャイロックはこれを俺にと呼んでくれたのだろう。ムルも俺にひっついたまま隣の席に着く。カウチの前のテーブルにあったグラスは回収され、ムルの前に新たに出されたのは深い青と紫がグラデーションになったカクテルだった。
乾杯の合図とともにシャイロックも飲み始め、懐かしの友人たちとの晩酌が始まった。
「今、店はどうしているんです?」
「次に店出す場所見繕ってるところだから今はやってないんだ。のんびりさせてもらってるよ」
「ならここに出店しちゃえばいい!最近向かいの通りのお店がやめちゃったんだ」
「えぇ……西で店出したら何かと苦労しそうだな」
「ふふ、ムルに言い負かされて店主が失踪したレストランのことですね」
「……」
「そういえば、魔法舎の連中もよくここに来てるのか?」
「えぇ、ラスティカとクロエ、フィガロにルチルもよく来て下さいますね」
「たまにミスラやブラッドリーも来るよ!」
「そういえば、先日ルチルがミチルとリケを連れて来てくださいましたね。リケもミチルもおめかしして、興奮冷めやらぬといった様子でそれはもう可愛らしく……おや」
「ネロ、かたまってるね!」
「そういえば、今日はムルも一緒だったんだな」
「うん、ムルも一緒だった!なんで?俺がいると嫌?それとも三人が嫌?」
「本当はあなたと二人でと思っていましたが、野良猫が紛れ込んでしまって……ふふ、私と二人きりの夜をお望みですか?」
「い、いや別に、そういうわけじゃ……」
「にゃーん、食べられちゃう!」
いつのまにか、シャイロックもカウンターの外側に出てきて完全にくつろぐ体制だった。ムルも会話をあっちこっちに散らかすのは相変わらずだったが、飽きることなく長い間俺たちと会話をしていたので彼なりに楽しんでいるのだろう。俺も、騒がしくも楽しかった日々を思い出しながら久しぶりのシャイロックの酒に舌鼓をうつ時間をとても楽しんでいた、想像以上に。こんなににぎやかで自らも喋りっぱなしの夜は久しぶりだったから、意識的に酒の量はセーブした。何もなくとも酔いが回りそうだったからだ。
「ここ数年より今晩のほうが絶対沢山喋った……」
「ネロ、楽しそうだった!ずっとにこにこしてた!」
「はは……え、まじ?」
ムルが嬉しそうに俺の周りをぐるぐると周回する。シャイロックの生暖かい視線もこそばゆい。
そろそろ夜も深くなり、少々名残惜しいが帰路についたほうがいい時間になってきた。長く飲んでいた割には酔っていないし、危なげなく家まで箒で帰れそうだなんて考えながら手元のグラスの中身を減らしていく。なんとなくお開きの雰囲気が漂うが、動く様子がない二人に少し戸惑った。ムルはともかくシャイロックがこういった気配を見逃すとも思えない。東の魔法使いの得意分野でもあるが、バーの店主らしく機微に通じているはずの彼は深く椅子に座りなおした。こちらが招待してもらった身だから、自ら解散を切り出したほうが収まりがいいのかもしれないと思い直し、ならばと口を開く。
「シャイロック、今日は……」
「さて、ムル。あなたの恋人が外で待っていますよ。会いに行ってさしあげては」
恋人の名前を呼びぐるりと窓を振り返ると、一も二もなくムルが箒を出して窓から飛び出していった。出て行った拍子に揺れたグラスをおさえながら窓の外を見ると蛇行しながら空へと駆けていく背中が見えた。今日は満月だ。
急な展開に何も反応できないでいると、もの言いたげで申し訳なさげなシャイロックと目が合う。なんとなく上げかけていた腰を下ろし、シャイロックの言葉を待っていると、彼はカウンターの中に入り、こちらに一杯のカクテルを差し出した。
「……これは、」
星夜のカクテル、彼はそう呼んだ。深い海のような青はグラスの足が近づくほどに透き通る。グラスのふちにまぶされたシュガーも白、青、紫など涼しげな色でまとめられている。魔法舎にいた頃、ファウストがよく頼んでいたものだ。
「ネロ、ヴィノグラードフの谷をご存じですか」
「ヴィノグラードフ……って、東と北の境にあるあれだろ。気性の荒い精霊が多くて魔法使いでもなかなか立ち入れないっていう……」
「えぇ、神秘の力が満ちている有数の場所でもあります」
カクテルといい雰囲気といい、てっきりファウストの話が始まると思っていたのに話の先が読めなくなり、とりあえずカクテルに口をつけた。ファウストに便乗して俺も飲んだことがあったが、あの時と変わらずほのかに香るスパイスと甘みの中にある爽やかさが心地よい。
「そこに、700年に一度実をつける、アキスという大樹があります。精霊たちに長い間愛されているので、その実の魔力回復の効果は折り紙付きですが、実ると一瞬で熟れて腐ってしまうので、手にしたことがある者も一握りと言われています。加えて、なかなか立ち入れない場所ですからね」
ヴィノグラードフの谷にアキスの実、どこかで聞き覚えのある単語たちだと思ったが、そういえば盗賊団にいた頃ブラッドから聞いたことがあった。アキスの実自体はシャイロックの言うとおり、もたらす魔力も高くいい品だが、気性の荒い北と他者を寄せ付けない東の特性を持った精霊たちをかいくぐり、一分もすれば使い物にならない実を手に入れるのは至難の業だし、はっきりいって労力に見合った効果は望めないという。その実を狙うくらいならそこそこの魔法生物をマナ石にした方がいいとも。
「ですが、実をつけるその瞬間。その時を長い間焦がれていた精霊たちが一気に活発になり、谷全体に神秘の力が溢れかえると言われています」
「神秘の力……」
「ネロ、このような好機はもうないでしょう。試してみませんか」
あたりがしんと静まり、聞こえるのはかすかな耳鳴りだけだ。いつのまにか降り始めていた雨の音が沈黙を埋める。
神秘の力が満ちた谷、魔力を蓄えたアキスの実、ファウストの菫色。ずっとしまっていたものが静かに開く気配がした。目を背けてきたもの、見てはいけないもの。
ファウストが目を覚ますかもしれない、もう一度ファウストと言葉を交わせるかもしれない。最後のチャンスかもしれない。はやる鼓動を抑え、握っていた手を無理やり開かせて意識を視覚に集中させる。ようやく目が合ったシャイロックはこちらを気遣うように何も言わずに見つめていた。
「……700年に一度って」
「今晩から8回目の満月の日です」
約8か月後の夜、俺はファウストと笑いあっているかもしれない、そんなことを考えた。本当はいつも考えていたのにいつしか避けていた夢だ。いつもなら何を馬鹿なことをと一蹴するような突拍子もない妄想だが、これは決して午睡の夢ではない。8か月なんて魔法使いからしたら瞬きのような時間なのだ。どんどん増してくる現実味に耐えきれなくて、俺は息継ぎをするようにグラスに口をつけた。
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大いなる厄災の脅威が去り、魔法舎が解体することが決まってからまず話題になったのはファウストのことだった。件の厄災戦から数年、ほかの魔法使い達の努力もむなしくファウストは眠り続けている。当然ながら、ファウストだけ魔法舎に残るわけにもいかないので、誰かが自分の家に招くことになるだろう。では誰が。新たにネロを迎えた先生会議の中、その役目はファウストを定期的に検診しているフィガロに白羽の矢が立った。
「フィガロちゃんでいいんじゃない?お医者さんだし」
「フィガロちゃんがいいんじゃない?レノックスも近くにおるほうが安心じゃろうし」
「ちょっと、軽いノリで決めようとするの止めてくれませんか」
軽く言ってのけるスノウとホワイトにフィガロもあきれ顔だ。ファウスト不在の先生会議は以前にも増して混沌としていた。ファウスト代理のネロも先生役の中では常識人的な役回りだが、ファウストとは違い年長者たちのボケ倒しに突っ込んでいかないため、もとより長かった会議の時間はさらに伸びることが多くなった。
「では、私はネロを推薦いたしましょう」
「え、俺?!」
話が脱線しながらもなんとかまとまりつつある会議の終盤。フィガロが軽い抵抗を見せるものの、検診や万が一のことを考えればフィガロが妥当だろうと決定しそうなところに、突如シャイロックが爆弾を落とす。驚きを隠せないネロにシャイロックが追い打ちをかけるように微笑みかける。
「おふたりは同じ東の魔法使いですし、よくふたりで過ごしていたでしょう。それとも、何かご不満な点が?」
「え、いや……」
「おぉ、なんと!フィガロや、ファウスト争奪戦といくかの?」
「フィガロや、ネロがお主の可愛いお弟子ちゃんといるのは不満なようじゃよ」
「いや、不満は全くないです!」
がたん、と椅子を蹴り飛ばして叫ぶネロに返ってくるのは双子のからからとした笑い声だけだった。相変わらず静かに目を瞑るオズと、フィガロに目配せするシャイロック、苦虫を噛み潰したようなフィガロはネロの方を見ない。
「うるさいですよスノウ様、ホワイト様。俺としては定期的に検診できればどっちでもいいんですけどね」
ファウストは俺の弟子だなんだと抵抗するかと思いきや、さっと身を引いたフィガロにネロは困惑した。別にファウストを自分の家に招いてもいいのだが、20人いる魔法使いの中で本当に俺が適任なのか?ブランシェット城の方が圧倒的に広いしヒースやシノは喜ぶだろう。そもそも彼の元従者であるレノックスが適任なのではないか。いやいや、過去にしがらみの多い彼だからあえて付き合いの浅い俺が都合がいいのか。エトセトラ。
頭を高速で回転させて湯気でも出そうなネロを、年長の魔法使いたちはそっと見つめる。あんまりに必死な様子にたまらずシャイロックが声をかける。
「ファウストが路頭に迷うこともなさそうですし、急ぎで決めることでもありません。ネロ、今夜ゆっくり考えてみては?」
「うむ、その心は次の先生会議の時にでも聞かせてくれ。オズや、それでよいか?」
「……あぁ」
ホワイトの一声でごたついていた会議はひとまずまとまり解散となる。ネロは深く息を吐き出しのろのろと立ち上がると、キッチンに向かっているようだ。彼は確か、考え事をするときは料理をするのだと言っていたから今晩の夕食は豪華になるかもしれない、とシャイロックは思った。
「シャイロック、なにを企んでおる」
その夜、魔法舎のバー。
スノウ様とホワイト様に、それぞれお出ししたノンアルコールのカクテルをゆっくり楽しんでいただく間もなく、スノウ様が口火を切った。もう少し、カクテルを楽しんでいただいてからが良かったなどと言ったら怒ってしまわれるだろうか。
「これ、スノウ。そのような言い方をするでない」
なだめるホワイト様にスノウ様がむっと頬を膨らませる。手がつけられないほど怒っている時は何度か見ているからわかるが、本気で怒っているという程ではない。だが、簡単には言い逃れさせまいという態度だった。カクテルに口をつけたホワイト様も、あまりもこの話題興味がない風を装いながらもスノウ様を止めるつもりはなさそうだった。
ホワイト様への感謝を告げながら、手入れしていたグラスを置く。話すこともやむなしということだろう。まぁ、このお二人が会議での様子を見て何もしないはずがないことは重々承知の上だったのだけれど。
「……ファウストのことしょうか?」
「わかっておるではないか。なら、フィガロに口添えをしたのもそなたじゃな?」
「そこまでわかっていらっしゃるのに、わざわざ私に聞くなんて意地悪な方」
スノウ様はため息をつき、ホワイト様は困ったように眉を下げる。そうだ、私はフィガロ様に申し上げた。ネロにファウストを引き取ってもらうのはどうかと。勿論、最初はフィガロ様も不満げだった。なんだかんだと可愛い弟子をほいそれとやる気はないのだろう。だが、私の提案をなかなか承諾しないのは不満というよりも興味の方が強いようだった。
「なんでネロ?普通に俺で良くない?」
「もしネロがファウストとの関係を絶ったら、彼の心は蝕まれていくでしょう。それがわからないあなたではないでしょう、フィガロ様」
「それはそうだけどさ。俺が聞きたいのはそっちじゃないよ、シャイロック。君がなんでそんなにネロを気にかけるのかなって……もしかして、あの時のこと気にしてるの?」
あの時の会話を反芻しながら、どこまで正直に話すものかと思考をめぐらせる。思案する私を見てから思い出したようにカクテルに口をつけたスノウ様に、そういえばこの方もオズ様やフィガロ様には存外甘いところがあったななんて思い直した。痺れを切らしたホワイト様の口をふさいだのはバーには合わないほど元気の良いドアの音だった。
突然の来訪者はカインとルチルだった。もう二人は酒が入っているのか持ち前の明るさも相まって途端にバーはにぎやかになり、結局シャイロックが真実を話してくれることはなかった。本当に話すつもりだったのなら人除けの魔法でもかけるだろうに、まんまと煙に巻かれてしまったということだろう。やはり彼も伊達に千年以上生きていない。
「良かったのか、スノウ」
「仕方あるまい。まぁ、何となく予想はついているしのう。今回は勘弁してやろう」
ひとまずバーから撤退した二人は、並んで自室に足を進める。
「……やはりあの時のことを気にしているのかの」
「あぁ、シャイロックはやさしい子じゃからのう」
愛情と執着は紙一重とはよく言ったものよと、ホワイトの自嘲的な笑みが、魔法舎の廊下に伸びる小さな影ひとつに消えていった。
___
「≪アドノディス・オムニス≫」
淡く光るファウストの足元が、次いで腰、肩とふわり浮いていく。自分の部屋の2つ隣のドアを開けてファウストを中に入れた。間の部屋は物置だ。今借りている家はなかなかに部屋数が充実している。なにせ成人男性が寝られるベッドがおける部屋が2つ必要だったので、当分ファウストと暮らすことが決まってから過去一番で大きな部屋を借りたのだ。
魔法で体を清めベッドに寝かせる。靴を脱がせてから浮遊の魔法を完全に解いて布団をかければ完成だ。もう何年もやっているルーティーンワークなので、もう目を閉じたままだってできる自信がある。
それがもし、今日で終わったら、俺はどうするのだろう。窓の外を見上げれば、少し膨らんだ半月が浮かんでいる。アキスの実が実る満月の日までは後4日。ヴィノグラードフの谷までは箒でも丸1日かかり、さらにアキスの樹にたどり着くまでにも半日以上かかるそうなので、余裕を持って明朝には出発する予定だった。
「おやすみ、ファウスト」
祝福の魔法をかけて部屋から出ると、小さな物音ともに何やら嫌な気配がした。大変遺憾なことに俺のこの類の予感は当たるのだ。近づいてくる気配に意識を集中させる。ぴりぴりとした感覚を肌で感じながら手元にカトラリーを呼び寄せ、臨戦態勢を崩さないようにゆっくりと玄関のドアに近づいた。来る。浮いていたカトラリーの中からナイフをつかみ取り。
「よぉ、ネ……」
__ダンッ
「あっぶね、いきなり何すんだ!」
「ブラッド……」
慌てて軌道をそらしたナイフがブラッドリーの真横のドアに突き刺さる。そこにいたのはもうしばらく会っていなかったブラッドリーだった。いつもの余裕そうな笑み、ではなく流石にいきなり攻撃されたことに目を見開いている。
「魔力だだ漏れにしながらいきなり来るんじゃねぇ!切り刻むところだったろ!」
「ははっ!相変わらずおっかねぇな」
だが驚いた顔も一瞬で、どこか嬉しそうに肩に腕を回してくる。こいつのこういうところが嫌なのだ。再会の言葉も少なに、ブラッドはごそごそと勝手にキッチンを漁り始める。身勝手にふるまいやがってと文句の一つでも言いたいところだが、こうなったら何と言おうが無駄なので大人しくブラッドが持ってきた上物のワインに合いそうなつまみを戸棚から出した。それを見てさらに満足げになったブラッドとともに、予想外の晩酌が始まった。
乾杯の音頭もそこそこに静かに飲み始めたブラッドに違和感を感じた。こいつが押しかけてくるときは、大体ぺらぺらと何事かを喋っているのが常なのだ。夕食の時にすでに少し飲んでいた俺は、迷いながらも希少な酒につられて一杯だけ飲んだ。
「なぁ、俺明日早いんだ。さっさと帰るか、でなけりゃ先休んでるぞ」
「あ?なんだ明日出発なのか。気が早ぇな」
そういうとブラッドは手にしていたグラスの酒を仰ぎ、出ているつまみをいそいそと腹に収め始める。俺がなにがなにやら分からず固まっていると、かつての相棒はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「ヴィノグラードフの谷に行くんだろ。アキスの実まで狙うとなりゃ東の飯屋には荷が重い。そこでブラッドリー様の出番ってわけだ」
「いや聞いてねぇし……ていうか頼んでねぇよ!」
「俺様が行ってやるっつてんだ。ありがたがっとけ」
そういって豪快に笑うと、もう話は終わりだと言わんばかりに寝床を物色し始める。
「呪い屋を叩き起こすんだろ。つべこべ言わずやれることはやっとけよ」
それでもまだ渋る俺を見て茶化すわけでも鼻で笑うわけでもなく、やけに真面目にそう言い残すと、壁際においてあるソファに寝転がり寝息を立て始めた。
自分一人でなんとかなるとか、そういう風に考えていたわけではないし、確かにブラッドがいれば成功率は高まる。またとないチャンスを無駄にするわけにもいかない。はぁ、と大きなため息を隠さずこぼす。適当に済ませようとしていた明日の朝飯の下準備をさっと済ませ、余計なことは考えないようさっさと目をつぶってしまった。
東にある俺の家を出発してから一日と少し。途中で休憩をはさんだこともあり予定より時間がかかってしまったが、想定範囲内だ。
「……でけぇな」
箒を降りて足を踏み入れたのは、ヴィノグラードフの谷底を臨む洞窟だった。洞窟の入り口は谷の岩壁に面しており、この谷底に沿ってずっと行ったところにアキスの大樹があるらしい。ひとまず洞窟の中で暖を取り、しばしの休息をとってから出発することになった。
「なぁ、なんでてめぇはこんなとこまで来た」
「……は?」
持ってきたサンドウィッチなどの軽食を摘んでいると、ふいに黙ったブラッドがじっと俺を見つめて問うてきた。突然の質問に反応できないでいる俺に構わず言葉を続ける。
「別に俺様に聞かせろってんじゃねぇよ。だがな相棒、てめぇが中途半端にふらふらしてっと道は開らかねぇ。誰かのためなんかじゃねぇ、てめぇの欲望のために自分の手で切り拓けよ」
「……自分の」
塩っ気のあるハムと固めに焼いたパンが胃に落ちる。ブラッドはしばらくこちらをじっと見ていたが、何も言わない俺の様子を見て再びサンドウィッチにかぶりついた。つぶやいても何も返してはくれない洞窟の壁は、俺を思考の海に浸らせるのに十分な無機質さだった。
自分のため。ファウストやほかの何かのためではなく。あれからずっと答えの出ない問いに向き合っているせいで、あまり言葉を交わさないまま拠点となる洞窟を発った。そっと胸に手を当てる。胸ポケットにはブラッドの魔法で小さくしたファウストがいた。ファウストを目覚めさせるため、この地に満ちる神秘の力も利用したいからだ。
魔法を使って精霊たちを刺激しないように、ここからは箒を使わず歩こうということになった。ヴィノグラードフの谷の谷底を歩いている間、恐ろしいくらいに変わり映えのしない景色に目が回りそうだった。ごつごつした岩肌から青々とした葉をつけた木が顔を出し、高い岩壁に囲われているにもかかわらず爽やかな心地よい風が通り抜ける。精霊に愛され、人も魔法使いも立ち入らないこの地はあべこべで気持ちがよくて、気味が悪かった。
「うわっ!」
突然周囲が暗闇に包まれる。咄嗟のことに一瞬体がこわばるが、すぐに低い姿勢をつくる。
「ネロ、どうした」
緊急事態に備える俺の予想よりも、気の抜けたブラッドが伺うように声をかける。どうしたも何も、何らかの方法で暗闇に包まれたのだからもっと警戒すべきだろう、と文句を言おうとして口を開いてはたと気づく。精霊のいたずらで俺だけ視覚を奪われたのか。同じく状況に気が付いたらしいブラッドが興味ありげに笑う。
「なるほどね。噂より大人しいと思ってたが、こういうねちっこいことしてくるとこは東の精霊っぽいな」
「そんなこと言ってねぇで、これ何とかならねえか?何も見えないせいで、魔法に集中できない」
ブラッドの呪文でパッと視界が開け、失いつつあった平衡感覚も戻ってくる。周りに潜む精霊の様子をうかがうと、単純にいたずらの成功を楽しんでいるような、すぐに視界を取り戻した俺に残念がっているような気配があった。どの土地のものでも言えることだが、精霊は基本的にいたずら好きだ。だから、何も本当に俺から永遠に視覚を奪ってしまおうと思ってはいないはずなのに。
「この先には行かせたくねぇってことかな」
「……あぁ。アキスの大樹はここの精霊にとっちゃあ守り神みたいなもんだろ。そりゃあ、俺らを易々と通すわけにはいかねぇってことだ……面白れぇじゃねぇか」
好戦的に目を輝かせるブラッドリーとは対照的にネロは大きなため息をつく。そして、そのブラッドリーの瞳が疲労で陰るのにそう長くはかからなかった。次々と襲い掛かる落石、催眠作用のある花粉を振りまく花は急成長し、谷底をちょろちょろと流れていた小川は急激に増水し俺たちを飲み込まんとした。
「ブラッド!そっちに行った」
「っ、ちっ!≪アドノポテンスム≫!」
極めつけは魔法生物たちだ。もとからこの谷に眠っていたのか、なかなかお目にかかれないほど珍しく、そして厄介な魔法生物たちが次々に襲ってきた。ブラッドの銃弾がひとつ目の獅子の額をとらえるも、二人の表情は晴れない。魔法を使って仕留めれば、その魔力に反応した精霊が興奮し、新たな魔法生物と共鳴し呼び起こすという最悪な悪循環が生まれていたからだ。
「きりがねぇ、ずらかるぞ!」
終わりの見えない戦いはブラッドの無理やりな号令で締めくくられた。精霊たちを刺激しないように、なんて構ってもいられず箒に飛び乗り、谷の中ほどの深さを滑走していく。はるか下には興奮して必死に追いかけてくる魔法生物の姿があった。常ならこのレベルの魔法生物を、なおかつ二人がかりでなら確実に仕留められるが、分が悪く撤退を余儀なくされたためブラッドは悔しそうに眼下を眺めていた。それでも今回の目的は魔法生物の討伐ではないからか、何も言うことはなく面を上げた。
そのまま箒で飛ばしていると精霊たちの猛攻も弱まり、辺り一帯の空気が重たく、澄んでいく。地図もないので証拠もないが、間違いない。近くにアキスの木がある。確かな気配に二人目配せをしてゆっくりと箒の高度を低くした。変わり映えのしなかった景色が次第に色を変えていく。相変わらず四方を岩で囲われているはずなのに、進むたびに芝生も花も青々とし生き物たちが躍動している。
箒を降り、地面を踏みしめて歩く。一歩歩くたびに、近くにいる精霊たちが騒めくのがわかる。でもそれは、先ほどまでのように部外者を排除せんと興奮しているのではない。
「これが、……」
「あぁ、すげぇ魔力だ」
今にも成りそうなアキスの実を前に、喜びが抑えきれていないのだ。もうこちらのことなんか気にもしていないという様子だった。だがそれはこちらとて同じだ。
見上げると首が痛くなるほどの高さ、成人男性数人ほどは余裕で隠せそうなほど幅がある幹。長く生きてきたが、なかなかお目にかかれないほど立派な大樹だった。そして葉の隙間からいくつかちらちらとした光が輝く。そこに目を凝らせば、まん丸で青白く光る実が成っていた。形は月光樹の実にも似ているが、そこから放たれる魔力はすさまじく、まだ少し距離があるにもかかわらずそれをひしひしと感じていた。
「もしかして、そろそろ実が完熟するころじゃねぇか」
「あぁ、予定より随分時間かかっちまったが何とか間に合ったみたいだな」
目の前にアキスの実がある。シャイロックに話を聞いた時からずっと、想像していた場面だ。緊張で心臓が騒ぎ出す。神聖な空間に魅入られそうになりながらも、ゆっくりと樹の方に足を向けた。いつの間にか隣にいたブラッドの気配がなくなっていた。ここからは俺の仕事ということだろう。俺が樹に、アキスの実に近づくたびに、いよいよ俺を無視できなくなってきた精霊たちのざわめきが大きくなる。こいつはなんだ、大切な私たちの樹に近づこうとするなんて、そういう声が聞こえてくる気がした。
長い間、いつもと違う環境にいたからなのか、普段ならあまり考えないようなことが頭に浮かんだ。ファウストならこんな時どうするのだろう、と。俺と彼は、きっと生まれた環境も経験したことも、真逆だと言っていいほどに異なる人生を歩んできた。だから戦い方も違うから、そんなことを考えても無駄なのに、想像していた。そして、俺は胸ポケットからファウストを取り出し、芝生の厚そうな地面に横たえた。俺の意図を察したブラッドが、ファウストにかかっていた魔法を解き、彼の体は元の大きさに戻る。
「東の魔法使い、ネロだ。あんたたちの大切なものに近づいて、すまない。だが、聞いてほしいんだ。俺はこの人を、ファウストを助けるためにここに来た」
「……」
ファウストなら、きっとこんな時、精霊たちに真摯に向き合うだろう。あの人はそれができる人だ。だが、彼がそうできるのは彼はいつだって自分の心から逃げていないからだ。自分の心を素直に打ち明けて、相手と同じテーブルに着く。あの人が得意な、誠実に向き合うとはきっと、そういうことなのだ。
「この人は長い間、眠ったままなんだ。俺は、ずっと目を覚まさないことが、それを受け入れてしまうのが怖かった」
そうだ。何も起こっていないように、あの頃となにも変わらないと自分に言い聞かせるのに必死だった。そのせいで、随分と長い間、俺は自分だけの箱庭に閉じこもっていた。
「……だから俺は、必死に祈れなかった、この人が目を覚ましますように、って。……でも、これが最後のチャンスなんだ。俺は、ファウストを目覚めさせたい。どうか俺たちにアキスの実を譲ってくれないか」
今なら、今さらやっと本気で祈れる気がしていた。こんなところまで来て、やっとだ。腰の位置ほどまで深く頭を下げる。こういう所作が精霊たちに理解されるのかもわからなかったが、とにかく必死だった。
「北のもんは頼みごとをきいたりしねぇ」
ふと顔を上げて隣を見ると、不敵に笑うブラッドがいた。てっきり後ろで見ているものだと思っていたので、面食らっている間にブラッドはさらに歩みを進め、アキスの実の目の前までくる。
「だが、俺様はいい男だからな、気持ちの伝え方は知ってんだ。ありがとうな。こいつはいただいてくぜ、精霊さんたちよ」
ブラッドの手には、丁度熟したアキスの実が握られていた。
突如、空間に満ちる神秘の力が大きく膨れ上がった。精霊に呼応するように大きく感情が揺さぶられるが、それは怒りとか嫉妬とかそういったものではない。泣きたくなるほどの喜びと興奮。ここにいるどの精霊たちもアキスの実の成熟を喜び、ブラッドや俺自身にも好意的な感情を向けてくれているようだった。
「ネロ、今のうちに呪い屋にこれを食わせろ」
「っ、あぁ!」
精霊たちの意味を紡がない歓喜の声に負けないように、お互い声を張り合う。こちらに投げられた実を受け取り、すぐそばで横たわるファウストにかけよる。辺りは精霊のせいでちかちかと光って見えにくいが、向かう足の速度は緩めない。
「そいつを飲み込んだら魔力強化の魔法を使え」
軽くうなずき、魔法で小さくした実を口元に運ぶ。
「……≪アドノディス・オムニス≫」
ファウストの喉元がわずかに動いたことを確認してから、彼の胸元に手を添える。ずっと、言えなかった願い、祈りだ。今度こそ言おう。どうか、どうか。目を覚ましてくれ、ファウスト。
周りにいる精霊たちが、俺の感情に寄り添うように、呼応するように、やさしく触れている気がする。わずかにブラッドの魔力が己に流れてきている。祈るってことは、やっぱりこんなにも辛い。叶わない願いだと知っている気がするから。なんだか無性に泣きたくなって、情けなく震える声で、もう一度呪文を唱えた。
俺は久しぶりに陽の光を見たような気がした。
長い夢を見ていた。自分にしては幸福な夢見だ。常に暖かいものにくるまれている気分だった。
だから目を覚ますことが少し億劫だ。もう少しだけ、幸福な夢を__
「ファウスト!」
ゆっくりと瞼が持ち上がる。久しぶりに菫色に輝く瞳を見た。
「あぁ、ほんとうに……」
壊さないようにそっと両腕を伸ばし、ファウストを抱きしめる。怖くてめったに触ることのなかったファウストの肌のぬくもりも、頬にあたるふわふわな髪もすぐそばにある。これだけ長い間一緒にいても抱き合う機会なんてなかったから、その細さにぎょっとしてまた少しだけ涙がこぼれた。
「……ネ、ロ」
ゆっくりと体を離し、顔を覗き込むとうっすらとほほ笑むファウストがいた。声がうまく出ないのか、緩慢な動作で口を動かしながら必死に俺の名を呼んでいる。それに応えたくて耳を澄ますが、ファウストの動きはさらに鈍くなり、やがて瞼がゆっくりと下がった。
「……寝ちまったみたいだな、無理もない」
「あぁ」
「魂が欠けてた気味の悪い感じも、もうなくなってる。成功したみてぇだな」
「……っ、あぁ」
ぼろぼろ、ぼろぼろ。訳も分からず俺は泣いた。ブラッドは笑わなかった。じっとこちらをうかがっていた精霊たちや、遠くで騒いでいた精霊たちもこちらに寄ってくる。言葉は交わせないが、感じた暖かな気配のなか、俺はしばらく心のままに泣いていた。
___
目を覚ましたファウストを箒に乗せ、急いで向かったのは南にあるフィガロの診療所だった。ブラッドの嫌そうな顔を無視しファウストの体調が最優先なのでなりふり構ってはいられないと診療所に向かったら、ブラッドは途中でどこかに消えてしまった。結局、到着したのは深夜で、突然の訪問だったにもかかわらず、フィガロはファウストの目覚めを喜び、快く向かい入れてくれた。
「ネロ、今夜はもう休んだ方がいい。ファウストにも異常はなさそうだし、今晩は俺があの子についてる」
「でも……」
「ヴィノグラードフの谷に行ってきたんだろう?あそこは魔力の流れも神秘の力の強さも俺たちのいるところとは全く違う。自分が思っているより大分消耗しているはずだ。休んでいなさい」
ネロは言葉に詰まった。確かに大分疲れがたまっていた。ファウストが目覚めたのだから、喜びに興奮して仕方がないはずなのに、先ほどから経験したことのないほどの眠気に襲われていた。
「ここが落ち着かないなら、少し行ったところに俺の家がある。そこで休んでいかないか」
大きな布団をもって顔をのぞかせてそう言ったのはレノックスだった。彼はフィガロからファウストのことを聞いたらしく、ファウストの診察が終わって間もなく駆け込んできて、ファウストの病室となる部屋のベッドを整えていた。
レノックスの厚意に甘えようと思ったが、ファウストの身の回りの世話をしようと意気込み暫く家を空けそうな彼の家に居座るのも、と思い、診療所の空き部屋を借りることになった。フィガロ曰く、ファウストの容態は安定していて、今は長年眠っていたせいで魔力が不安定だという。魔力が回復すれば自然と目が覚めるということで、暫くファウストはこの診療所でお世話になることになった。
ここ何年か変わらなかった状況が一変し、とても幸福なことが起こったというのに、ベッドに入った体は思考する暇を与えず、すぐに眠気に負けてしまった。フィガロの診療所のベッドは、ふかふかしていてなかなかに心地よかった。
「フィガロ先生、お休みにならなくて大丈夫ですか」
「大丈夫だ。レノこそ平気なの?」
「俺は……今は眠れそうにありません」
ネロも眠り村全体が寝静まったころ、フィガロとレノックスはファウストが眠るベッドを囲んで座っていた。
「はは、そりゃそうだ」
「フィガロ先生は、ファウスト様に高等魔法を使われてましたから、お疲れでは?」
フィガロはピクリと眉を動かした。本当にレノックスの観察眼には時々驚かされる。
ネロには何も問題ない風に言ったが、ずっと眠り続けた体にいきなり大量の魔力を注ぎ込んだのだ。ファウストほどの魔法使いでなければ無事ではなかっただろう。ヴィノグラードフの谷に同行したのがブラッドリーだと知ってこの荒療治に納得したが、ファウストが無事でなければブラッドリーのところにオズを送り込むところだ。
「うーん、実は今すごく眠いんだよね。少しだけ仮眠させて。奥にいるから一時間たったら起こして」
「わかりました」
レノックスの了承の声を聞いてフィガロは診療所の奥にある自室のベッドにもぐりこんだ。とはいえすぐに寝付くことは難しかった。なんたって、この世でたった一人の弟子がながいながい眠りから目覚めたのだ。世界中の人々にキスをして愛について語らってもいいくらいだ。だが、ファウストの万が一に備え休息をとった方がいいと思い直し、フィガロは自身に魔法をかけ深い眠りに落ちた。
その夜、夢を見た。ファウストが植物状態に陥ったかの厄災戦から数日後、ネロが目を覚ましてから数日後の出来事だった。実際に俺が見聞きしたわけではないことも、聞いたことと都合よくつなぎ合わせて一つの情景を作り出していた。
「あ、ネロだ!」
「……ムルか」
月が空の支配者になってしばらく経った頃、重い体を引きずってネロはキッチンまでたどり着いた。手には空になった水差しが握られていた。ムルは久しぶりに見るネロを前に飛びつくのをぐっとこらえる。シャイロックが病人に抱き着いてはいけないと言っていた。
「お水が欲しいの?」
「あぁ。ムルはどうしたんだ。あいにく夜食を作ってやれるほど体力が戻ってないんだが」
ふよよ、と水差しが宙に浮き中身が満たされていく。意外な優しさにネロは礼を述べると、ムルは嬉しそうに一回転する。
「ううん、借りてたグラスを返しに来て、今晩の準備してた!」
「今晩の準備?」
「うん!ファウストの部屋でパーティーする!」
ファウストの部屋でパーティー。ムルがいるということはおそらく、西の魔法使いが参加するのだろうか。恐ろしいこと、というかなんとも可哀そうなことになっているなとネロは苦笑いするしかできなかった。
「そうか。先生、あんま騒がしいのは得意じゃないからほどほどにしてやってくれよ」
「たしかに!視覚も触覚も鈍っているから、聴覚はいつもの何倍も敏感かも!そしたらファウストはうるさくて跳ね起きる?」
「えぇ……ファウストが寝ている間にパーティーすんの?」
こりゃあんまりだな、と思いどうにか止めてやりたいなと思案する。ムルはネロとの会話には飽きたのかふよふよと浮きながら、ドライフルーツや日持ちする焼き菓子が入った戸棚を眺めていた。さてどうするかと逡巡していると、キッチンに一人の人影が加わった。
「あっ!シャイロック」
「ムル……とネロ、起きていて大丈夫なんですか?」
「あぁ、今戻るとこだよ。心配かけて悪かったな」
シャイロックは髪を解いていつもよりラフな格好だった。用件は、件のパーティーの準備だろうか。
「シャイロックはどう思う?ファウストは聴覚が鋭くなっているかも!なら彼の耳を最も刺激するのは?ネロの声かも?」
「……え?」
「ムル」
シャイロックはいつもよりも大分焦った様子でムルの口を止めようと、ムルに近づく。彼の手がお喋りな口をふさぐ前に、ムルの言葉がネロに届いた。
「だって、ファウストが植物状態になる直前に聞いたのはネロがファウストを呼ぶ声!お互いを石にしないためにね。ネロは、」
「ムル!」
シャイロックはようやくムルの口をふさぎ、思わず天を仰いだ。実は、起きたばかりのネロにはまだファウストの容態を伝えていない。確実にネロの心を傷つけるから慎重に伝えなければと、先日のファウスト不在の先生会議で話し合ったばかりだ。ムルが指先を振ってネロの手から滑り落ちた水差しの落下を止める。
「ファウストが、なんだって……?お互いを石にしないため、ってなんのことだ。なぁ、……教えてくれないか」
ネロはぼんやりした頭で、自分の部屋に様子を見に来てくれた顔ぶれの中にファウストがいないこと思い出した。本当は、少しだけ気になっていたのだ。心配性で、無茶をしがちなうちの先生の姿を一度も見ていないことを。
ムルが口をもごもごさせるだけで、キッチンには何も音が響かない。シャイロックは迷っていた。このままネロをはぐらかすことは難しいだろうし、いつかネロに真実を伝えなければならないだろう。しかし、体調の芳しくない今のネロに話すことでもない。ムルの視線がシャイロックに刺さる。ごまかして何になるのかと。シャイロックが細くため息をつく。
「……ネロ、そのことはあなたの部屋で話しましょう。体調が心配です」
「いや、ここで良い」
「……わかりました。では、せめてそちらの椅子へ」
ムルの口から手を放し、反省の色を見せない彼へのお小言は後にして、シャイロックは席に着いた。ネロもキッチンの椅子に座ったことを確認してから話し始める。ファウストが植物状態になった経緯を。
「あなたがシノをかばって怪我をしたとき、ファウストがあなた達を守ろうと魔力を暴発させ、」
「じゃあ、俺のせい、なのか……?」
ネロの小さな呟きはシャイロックには届かずに落ちた。ムルも興味津々でネロの顔をじっと見つめるばかりだ。
「ネロ?」
ネロの様子を見ながら話していたシャイロックは、みるみる顔色が悪くなっていく様子に話を止めた。
「お話の続きは明日にしましょう。ネロ、部屋で休んで……」
いやいやと首を横に振るネロにシャイロックは困り果てた。ひとまず水を勧め、ネロの心を落ち着かせることに専念したかったが、頑としてネロは話の続きを求める。恨めしい気持ちで隣で話を聞くムルに視線を送っても彼はどこ吹く風だ。うつむいて顔は見えないが、わずかに震える背中を見て落ち着かせようと、ネロの背中に手を伸ばす。
「ネロ、やはり今日は」
「はっ……、はーっ、は……」
「ネロ?!」
ガタンと、座っていた椅子とともにネロが倒れる。
「過呼吸を起こしていますね。ムル、フィガロ様を呼んできて」
わかった、とムルがキッチンを飛び出すと、シャイロックはネロの体を支える。苦しそうに胸を抑え、息を乱す背中を必死にさする。顔を覗き込むと目は虚ろで、体中汗でしっとりと濡れていた。
駆け付けたフィガロの魔法によってネロの容態は落ち着き、彼の自室へと運ばれた。ファウストの話を聞いて冷静ではいられないだろうと思っていはいたが、まさかここまでとはと苦し気に眉を顰めるシャイロックとフィガロは、急ぎ今後のことを慎重に話し合った方がいいということを共有し、その夜は解散となった。
その翌日。
「え?昨日のこと?」
昼過ぎに目が覚めたらしいネロのもとにシャイロックとフィガロが訪ねた。ネロの体調を見て話の続きをするか判断しようとしていた二人は、ネロの言葉に面食らった。彼は昨夜キッチンでムルとシャイロックに会ったことやファウストの話、過呼吸を起こしたことも、まったく覚えていなかった。
「……いや、何でもないよ。まだ体力も魔力も十分に回復しているとは言えないからゆっくり休んで」
すぐに笑顔を取り繕ったフィガロがネロに医者としての言葉を残し、部屋を後にした。こちらもすぐにこわばった顔をほぐしたシャイロックも、見舞いの言葉を述べてからネロに背中を見せる。
「フィガロ、ネロは……」
「あぁ、精神的にひどいダメージを受けて、防衛本能で記憶を失っている可能性が高い。うーん、困ったなぁ」
部屋を出て、廊下に誰もいないことを確認すると二人はそろって苦々しい顔をした。ネロが昨晩のことを本能が記憶から消してしまうほどに受け入れられない。それは予想よりもはるかに深刻な状況だった。
「昨晩はムルが配慮もなしに、彼の心に踏み入ったようなものです。彼が落ち着いた状態で順序だてて説明すれば、あるいは」
「そうだね。いずれにせよ、ネロにファウストの話をするのは当分先にしよう。子どもたちにもファウストの話をふらないようにもう一度言っておいた方がいいかもね」
以前のフィガロなら、やれ記憶操作や感情の掌握などを提案したのかもしれないが、なにも言わないあたり彼なりの変化か、仲間を大切にしている証だろうか。これから南の魔法使いは任務があるというので二人はその場で解散となり、廊下に一人取り残されたシャイロックは壁に背を預けうなだれた。人の心も、魔法使いの心も、複雑だからこそ美しい。だが、複雑だからこそ大切にするのが難しいものだ。まるで、野良猫の世話のようだと、シャイロックは取り出したパイプを深く吸った。
その後も二回、俺たちがネロに真実を話すことを失敗した場面が走馬灯のように駆け抜ける。体調が落ち着いた頃、ネロにファウストの話をしても翌日には記憶にないということが、計三回もあったのだ。さすがにネロの心身への負担が大きすぎるということで、ネロには、ファウストはレノックスを庇って魔力を暴発させたと説明することになった。それでも、ネロは発作を起こしたが記憶を失くすことはなかったので、渋々ながらもこの方法で行くしかないと、レノも交えた先生会議で決定した。
「ファウスト様!」
切羽詰まったレノックスの声に飛び起きる。少し懐かしくも悲しい夢に感傷的な気分になるも、そう長くは浸ってはいられないようだと、布団と眠気を剥ぎファウストの病室に急ぐ。
部屋には上体を起こすファウストと、そんな彼を信じられない面持ちで支えるレノックスがいた。それだって奇跡に近いような出来事だ。驚異の回復力なのだから。しかし、それだけが要因ではない、部屋の中は異様な緊張感に包まれる。
「ファウスト様の魔力が、」
その部屋に満ちる魔力は、レノックスとフィガロのもの、ただ二つだけ。つまり、三人いるこの部屋の中には魔法使いは二人しかいないということだ。
「ファウスト……」
ファウストの頬に一筋の涙が流れた。
ファウストが魔力を失った。
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長い夢を見ていた。自分にしては幸福な夢見だ。常に暖かいものにくるまれている気分だった。だけど、次第にそれは陰っていった。どろどろとくすんだものに変わっていった。
それは、僕が大切にしていたものだ。どうか、穢れないで。僕のそばにいて穢れるくらいなら、僕がここから去るから。
「……ファウストが魔法を使えない?」
ファウストは昨日アキスの実によって目覚めた。人生で一番幸せな目覚めとなるはずの朝は、最悪な宣告によって始まった。ネロが起きたのは、太陽がすでに真上に昇っているころで、軽く身支度を整えフィガロ達のもとへ向かったところだった。
「それって魔力がもどってないってことじゃなくて……」
「実際に見た方がいいだろう。ネロ、こっちへ」
朝から何やら書物を漁っていたフィガロは、深刻な顔で話し始め、そのまま俺を連れて行った先はファウストの病室だった。軽くノックしたフィガロに続いて病室に入ると、否が応でもフィガロの言葉の意味を理解してしまった。魔法使いは魔力の強さはどうであれ隠す気がないなら魔力がにじみ出るものだ。特にファウストのように熟練の魔法使いならなおさら。本来なら部屋に満ちているはずのあの気配が、ファウストが目覚めていないときでさえ毎日そばで感じていた、彼の魔力の気配が全く感じられなかった。例えるなら、魔力を持たないただの人間と対峙したときのようだ。
「……なんで」
「昨晩急にファウストが起きて、たぶんその瞬間からファウストの魔力の気配が消えた」
「その時、何か変わった様子は?」
フィガロが顎に手を当てて思案する。あ、と何かに気が付いたように声を上げる。
「何かあったのか?」
「ネロ、君ファウストと何か約束をした?」
俺の質問を無視して突然こちらに体を向けたフィガロが問いかける。当然、俺はファウストと約束などしていないので首を横に振った。そう、と言うが何か言いたげな顔をしてこちらを見つめている。
「とにかく、ファウストの回復を待たないと何も始まらない。詳しいことはもう少し状況がわかってから話すよ。君は、どこか散歩でもしてのんびりしているといい」
半ば追い出されるようにしてネロは病室を後にする。約束ってなんのことだとか、容体はどうだとか、言いたいことは沢山あったのに言えないまま診療所を出ることになってしまった。とはいえ行く当てもなければファウストのことが気がかりでのんびりできるはずもない。明らかに強引に話を打ち切ったフィガロを問い詰めることも到底できやしない。逡巡ののちため息をつき、ネロは仕方なくレノックスの家へ足を向けた。彼からは、急に南に来て不便も多いだろうから家を好きに使っていいと言われていた。今の俺にできることは、ファウストのために奔走しているフィガロやレノックスのため、そしてどこにも向かうことができない悶々とした俺の意識のために何かうまいものを作るくらいだろう。
ネロを無理やり追い出し、ぱたんとドアを閉めれば部屋にファウストと二人きりになる。
「もう行ったよ」
「……」
おすまし顔で閉ざされていた瞳がそろりと開く。声はまだうまく出ないらしいが、目だけで会話ができるのではないかというほどに、この子の瞳は気持ちを伝えてくる。
「そりゃ狸寝入りくらいわかるよ。俺はこれでも医者だからね」
今度は何と言っているのだろうか、さすがフィガロ様!かもしれないな。呆れ顔のファウストと目線を合わせるようにベッドサイドの椅子に座った。
「君、誰かと約束してたの?」
ファウストの瞳孔が開く。ビンゴだ。まさか用心深いファウストが、と思っていたがそのまさからしい。ファウストが魔力を失った理由は単純明快、約束を破ったからだ。彼の瞳がそうだと告げている。
「君が魔力を失ったことと、昨晩俺の夢に入り込んできたことの関連性は?」
今度はバツが悪そうに眼をそらした。本当に顔に出やすい子だ。
昨日夢を見ていたとき、ずっとファウストの気配を感じていた。おそらく不安定だったファウストの魔力が、無意識に俺の夢の中にまで干渉してきたのだ。迂闊にも慣れ親しんだ魔力の侵入を許してしまった俺の夢を覗いたファウストはおそらく、魔力を失う、もっといえば約束を破ることになるようなことを見聞きしたのだろう。ほかに考えうることがないとはいえ、かなり突飛な推測だと思っていたが、どうやら正解に近いらしい。そして、昨日見ていた夢は、ネロがファウストの容態を聞いて発作を起こし記憶を飛ばす、というなかなかに刺激的な内容だ。まぁ、随分昔のことだし伝えるつもりもなかった出来事だ。なにより、ファウストが本来知らない方がいいことだろう。
「まぁ、詳しいことは君が元気になってから聞こう。残念ながら、大魔法使いフィガロ様でも君をもう一度魔法使いにすることはできない」
「……」
「でも、ファウストが元気になれるよう手を尽くすよ。だから、今はおやすみ」
背を向けて部屋を出る。去り際にファウストの顔を見ると再び瞼は閉じられていた。
それからしばらく、ネロは南の国でのんびりと過ごすことになった。ファウストのことはずっと気がかりだったから一日の半分以上は彼の病室に入り浸った。時々目を覚ますので、そんなときは軽く会話をする。何年も言葉を交わしていなかったとは思えないほど、とても自然にふたりの会話は弾んだ。改まって何を話すべきかとネロをうならせていた悩みの一つは、こうして消えていった。
その日もいつものように朝食を終えファウストの病室に入ると、ファウストが上体を起こしていた。大体の場合は、ネロがファウストが起きるのを待っていたり、起きても寝たままの姿勢であることが多かったので、俺は慌てて駆け寄ってファウストの体を支えた。
「無理すんなって。まだ寝てた方がいい」
「……いや、今日はこうして話したい。調子もいいし、難なく声も出せるようになってきた」
そういって得意げに笑うファウストに、もう一度寝ていろということもできず、近くにあったクッションをファウストの背中の後ろに差し入れ、寄りかからせた。ありがとう、と笑う彼に、ため息をこらえて俺は渋々ベッドサイドに座った。
「ネロ、大事な話がある」
雑談もそこそこにファウストがそう切り出した。あの時のような、何でもない話を気楽にしていくような関係から少し変化するような気がして、俺は体をこわばらせた。それでも、ファウストの真剣な顔つきを見て逃げられなくなる。俺が浅くうなずき腹をくくった様子を見届けると、ファウストは重い口を静かに開けた。
「僕がもう魔法を使えないことは君も知っているだろう。あれは、僕が約束を破ったからなんだ」
「約束を破ったって……」
「……僕にとってはつい最近の出来事なのだが、もう何十年も前になるのか。君たち賢者の魔法使いと魔法舎で暮らしていた時だよ」
「ネロ、飲みすぎじゃないか……?」
「あはは、へーき」
魔法舎のネロの部屋のテーブルにはいくつもの空いたボトルと、綺麗に食べられたつまみの皿が並んでいた。ネロはいつもよりなんだかぐでんとしていて、今にも寝てしまいそうだ。
「なぁ、ファウストは怖くねーの」
話がすぐに方向転換するのは酔っ払いの悪い癖だ。ネロは赤らんだ瞳で窓の方を見る。空に大きく浮かぶ大いなる厄災は、迎撃する日がそう遠くないことを告げている。
「怖くないといえば嘘になるな。だが、なんのために僕たちが授業や訓練をしたと思っているんだ。……ネロは、こわいのか?」
ネロの方に視線を向けると舟をこぐ間もなく額がテーブルにくっついていた。返答もないまましばらくすると穏やかな呼吸音が聞こえてきたので、どうやら本格的に寝てしまったらしい。ここのところネロに疲労が見られたので、晩酌に誘ったが、会場をネロの部屋にして、そして自分は酒のペースを緩めたのは正解だった。魔法でネロを浮かせ靴も脱がせ、ベッドに入れてやる。後ろでひとつに結んだ髪も解いてやろうとベッドサイドに腰かけると、ネロがふいに目を開けた。
「ネロ、僕はもう帰るから、」
「俺は怖いよ。怖くなっちまった」
それが先ほどの僕の質問の返答だと理解するのに時間はかからなかった。酔ってとろけたシトロンの瞳とは対照的に、口調はしっかりしている。
「俺が石になるのは、怖くない。もう十分すぎるほど生きたと思って、た。けどさ、シノやヒース、それにあんたにもしなんかあったら、……俺耐えらんねぇよ」
「ネロ……」
「それに、たまに想像するんだ。俺がもし死んだらさ、あんたたちは優しいからきっと悲しんでくれるだろ。それなのに俺、悲しんでるあんたらにうまいもん食わせてやれないんだ」
ネロのうるんだ瞳に彼の腕が重なる。見えにくくなった表情が、少しだけ歪んでいた。それは、いやだなと静かな呟きがファウストに届く。続いて、穏やかな寝息も。
「……ネロ、君をひとりにさせないよ。あらゆる悲しみから守って見せよう、絶対に」
「……言ってから気が付いたんだ、約束が成立したんだって」
「でも……俺は、その約束を承諾してない」
「あぁ、だからこれは自分との約束だ。強く思ったんだ、君を一人にはさせるものかって」
一通り話し終えると、ファウストは姿勢を崩し、クッションに体重をかけた。
ネロは混乱していた。まったく知らないし覚えていなかった。ファウストが約束をしたという夜のことを。
「念のため言っておくが、僕が勝手に約束しただけだ。君が責任を感じる必要はないよ」
俺の様子を見て、困ったような、あきれたような様子でファウストがつけ足した。図星をつかれて思わず動きそうになる表情筋を必死に抑える。
「でも、なんで約束を守れなかったって思ったんだ?その……あんたはこうして目を覚ましてくれたし、シノやヒースも元気にしてる。あんたが目を覚まさない間だって、何回も遊びに来てくれた」
「それは、……君が、僕が目を覚まさないと知って取り乱していたろう。そして、長い間口をきけない僕に寄り添ってくれた」
「なんでそれ」
俺が取り乱していたとかはファウストが知る由もないはずなのにと言えば、バツが悪そうにうつむき、かぶっていない帽子のつばを手が探していた。
「まぁ、いろいろあってね。……もちろん、憐れんでいたのではないよ。ただ、僕のせいで、君にそんなに悲しそうな顔をさせたんだと思ったら、気が付いたら魔力が……」
「ファウスト……」
こんな時でもファウストはまっすぐに俺を見つめていた。
それとは対称的に、俺の心の中はぐちゃぐちゃだった。俺が、ファウストと向き合えていない間にも、ファウストは俺にまっすぐに向き合おうとすべて抱え込み、長い眠りについた挙句魔力まで失ってしまった。なんで、どうして。そんなことばかり考えた。本当に俺は、己を顧みないやつばかりを選んでしまう。俺は、ただ、隣にいてほしいだけなのに。その願いは、きっと星よりも遠いのだろう。
「ごめんファウスト。あんたにそんな思いさせたくなかった」
「いや、謝らないでくれ。……なぁ、代わりと言っては何だが僕の願いを一つ聞いてくれないか」
「なに?」
「……僕はもう、魔法使いではないからあとたった数十年で死んでしまう。だからネロ、これからもう少しだけ、僕と一緒にいてくれないか」
俺は驚きに目を見開き、少しだけ緊張した様子のファウストとかち合った。約束をしていたことの告白よりも、願い一つ口にする方がよっぽど身を固くして、一緒にいたいと乞うている。なんだか俺はたまらなくなった。隣にいてほしいとか、変わってほしくないとか、色んなことをぐるぐると悩んでいるものを彼はひょいと乗り越えてしまう強さがある。けれど、強引に手をつかんだりせず、お互いに伸ばせば手が触れる距離で笑っていられる優しさがある。
「あぁ、もちろん」
東の魔法使いにとって『一緒に』は簡単なことではない。でも、あんたが手を伸ばしてくれるから、俺も恐る恐るだけど手が伸ばせるんだ。
「今度こそ、約束を守って見せよう」
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「なぁ、ファウスト。今幸せ?」
「ふふ、なんだそれ。……うん、幸せだよ」
あぁ、それにとても眠いよ、ネロ。
「俺ずっと祈ってる、あんたがこの先も幸せであるように」
「それは、僕のセリフじゃないか?」
君がこの先も一人ではないように。
「また、会えるといいな」
「ふふ、おやすみ、ネロ」
「っ……おやすみ、ファウスト」
長い夢を見ていた。自分にしては幸福な夢見だ。常に暖かいものにくるまれている気分だった。だけど、次第にそれは陰っていった。どろどろとくすんだものに変わっていった。
それは、僕が大切にしていたものだ。だから、僕がこの手でその陰りを晴らそう。もう君の笑顔が曇らないように。
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