千年先の揺籠でカナリアは愛を唄うガウン、と響く銃声と夜闇に立ち昇る硝煙の香り。風に翻る赤いマントを靡かせて、銀色の銃を構えた男は、その冷たい青の双眸で目の前の吸血鬼を見下ろした。
顔の横すれすれを撃ち抜かれ、その後ろの壁には銃弾が突き刺さっている。
普段であれば人懐っこい態度で飄々と笑う男であると言うのに、今はまるで見る影もない。
温度の無い冷え切ったその青の瞳は、ただただ絶対零度の視線を恐怖にへたり込んだ吸血鬼へと注いでいた。
「……おみゃあ、“紡ぎ車の魔女”を知っとるか?」
低く、感情を押し殺した様な声で、その赤の退治人は問いかける。恐怖に絡め取られた吸血鬼は、その問いかけに直ぐに応えられるだけの度胸は持ち合わせていなかった。
あ、とか、うぅとか呻くだけのその吸血鬼の様子に、レッドバレットは冷えた瞳を更に細め、その銃口を容赦なく吸血鬼の眉間に突き付けた。
それに、ひっと引き攣れた小さな悲鳴だけが空気を震わせた。
そのまま、引き金にかけた指に力を込めれば、かちゃりと金属がか細い悲鳴を上げた。
「……どうやら、その同胞は“紡ぎ車の魔女”を知らないようです。今回も空振りですね、レッドバレット」
ぬらり、と。先程までは誰もいなかった筈の暗闇に、黒い影がいつの間にかそこにいた。
引き金にかけていた力を抜いて、レッドバレットは別段驚きもせずにそちらをちらりと流し見た。元々居るのを知っていたのだろうか。
竜の血族の吸血鬼。本来であれば別の赤の退治人と連れ立っている筈のその吸血鬼が、何故レッドバレットと共に?
取り敢えずの生命の危機を脱したと安堵した吸血鬼は、突如現れた竜の同胞の姿に、思わず首を傾げた。
そんな同胞の姿に、視線を投げられた竜の吸血鬼は、何か?とでも言いたげな顔で、ただにっこりと笑う。
その笑みはまるで顔に張り付けただけの様な、感情のない薄寒さを感じる笑みだった。
「情報を持たない貴殿にはもう用はありませんな。それでは、良い“夜”を」
ざんっと振り下ろされる長く赤い何かが、首元を擦り抜ける。
それが何かと理解するよりも早く、身体がざらりと灰になって崩れていく。
自分の死を悟るよりも早く、ぐらりと揺れて反転する視界の中で。赤い爪を長く刃物のように伸ばした竜の吸血鬼は、ただ薄寒い笑顔のまま、そこに佇んでいるのが見えた。
音もなくざらりと地面に崩れ落ちる同胞の姿を、竜の吸血鬼はその小さな瞳孔で、ただ見下ろしていた。
その瞳には一切の感情も浮かんではいなかった。
「……おい、勝手に殺すんじゃにゃあ」
自分の仕事を勝手に取るな、と。咎めるでもなく言うレッドバレットに、竜の吸血鬼は瞳を細めて、けらりと笑った。
「私が手を下さなくても、貴方がやっていたでしょう?」
どうせ、罪状ははっきりしていたのだから、と。
灰となって虚しく地面に崩れ落ちているかつて同胞だったものは、この辺り一帯では随分と好き勝手にやっていたらしい。恐喝、強盗、吸血。吸血鬼である事を謳歌していた同胞に、かけられる慈悲は無かった。
「……全く、最近のおみゃあは狂犬じゃな」
アイツがいた頃とは大違いだ、と。言葉にはせずとも、肩を竦めるレッドバレットの様子に、竜の吸血鬼は僅かにせせら笑う。
「狂犬なのは今の貴方も同じでしょう?“紡ぎ車の魔女”は我等の逆鱗に触れたのです。無遠慮に踏み付けた竜の尾を、ただで通れるとは思っていないでしょう」
あれには然るべき制裁が必要なんですから、と。
その為に必要なら何処までも残忍に、狡猾になれる、と。
互いの眼に光る狂気の色を隠す事なく、二人はただ睨み合う。
歪な共闘関係。それは、あの日から始まった。
始まりを思い出す様に、ひとつ瞬きを落とし。竜の吸血鬼はばさりと夜を広げる様にマントを閃かせた。
「……それでは、今宵はここ迄で。茨の姫と優秀な使い魔が私の帰りを待っているので」
では、ご機嫌よう、と。
夜に溶け込む様にその身を無数の蝙蝠へと変身させ、竜の吸血鬼は城へと帰っていく。
それをただ見送りながら、レッドバレットは成果の上がらなかった今日の退治を思い、ギュッと銃の柄を握り締めた。
どれ程焦った所で、現状は変わらない。刻一刻と過ぎていくその秒針の針は、止まる事は無いのだ、と。
限りある時間を持つ身の悲哀を、ふぅと小さく吐き出して。レッドバレットは握り締めた拳の力を解き、代わりに携帯電話を手にした。
「……おう、ヒマリか?今日は何か相談事は入ったか?」
慣れた手付きでいつもの様に。末の妹が所長を務める吸血鬼相談事務所に電話をかけながら、そこから聞こえてくる妹の声に耳を傾けた。
それだけが唯一、心を平静へと戻してくれると信じながら。
レッドバレットもまた、ひらりと赤いマントを靡かせて。その場から歩き去っていった。
そんな彼等をひっそりと見下ろしていた影は、その緑の瞳を夜空に浮かぶ三日月のように細め。そっと音もなく夜に溶けた。
「ヌヌヌヌヌヌ、ヌヌエリヌヌイ」
ばささ、と音を立てて、ジョンが開けておいてくれた窓から城へと帰り着いたドラルクは、窓の淵から身を乗り出す愛しき使い魔を抱き上げて。とん、と軽い音を立て、自らの城へと降り立った。
「ただいま、ジョン。変わりは無かったかな?」
「ヌヌヌヌーヌ、ヌンヌヌヌッヌヌヌヌ」
開けて貰っていた窓を閉め、ドラルクはジョンの言葉にうんうんと頷きを返しながら、いつもの日課であるかの様に慣れた足取りでとある部屋を目指す。
重く閉ざされた客間の部屋。彼専用の部屋として用意していたその部屋は、厳重に施錠され、そこにあった。
古めかしい鍵穴に古びた鍵を挿せば、その部屋は簡単に開け放たれる。
部屋の中から、ぶわりと香る薔薇の匂いが、一段とその濃さを増す。
それにドラルクは僅かに眉根を寄せながら、その部屋へと足を踏み入れた。
「……あーあ、またこんなに茨が伸びて。毎回切り払うの面倒なんだよね」
いい加減うんざりだ、と言わんばかりに、天蓋付きのベッドを覆う茨の蔓を睨み、僅かに肩を竦める。
ジョンを抱き抱えていない方の指先に力を込めれば、すらりと赤い爪がまるで刃物の様に伸びて、きらりと光る。
ざんっと糸も容易く切り払われた茨の蔓は、しゅるしゅると音を立てて、天蓋の柵へと巻き付いた。
「そうそう。いつもの様に大人しくしててね」
天蓋の柵で花開く赤い薔薇が、中に囚われている姫を護る為に伸びている事は知っている。だからこそ、無闇矢鱈に焼き払う事が出来ず、多少の煩わしさを感じてはいる。
枯れては散って、またすぐ伸びては、また咲いて。
絶えず姫を覆う茨はまるで、童話の茨姫とそっくりだ。
そっと天蓋の中へと視線を落とせば、いつもと変わらず、懇々と眠り続ける愛し子の姿がそこにあった。
「……ロナルド君……」
白くきめの細やかなその頰に手を伸ばせば、ふわりと温かい温度が、冷たい吸血鬼の肌を温めた。
長いまつ毛を伏せて、雲隠れしてしまった蒼天の青を、もう随分と見ていない。
彼の低い声で、名を呼んで貰ったのは一体何時が最後だったろうか。
ネタを寄越せ、と。いつもやつれた顔で。けれども、楽しそうに笑う彼の笑顔を、ただ懐かしく想う。
ふわり、と。ベッドの傍らに膝をついて。そっとその傍らにジョンを下ろし。
眠るロナルドの唇に接吻を落とす。
けれども、童話の様にきみは目醒めたりはしないんだ……
何度も試したそんな事を繰り返しながら、ドラルクは小さく自嘲して、壊れ物を扱う様に、優しく彼の身体を抱き締めた。
「……ロナルド君、きみに、逢いたいよ……」
段々ときみの声が思い出せなくなっていく。
目を開けて、名前を呼んで、また笑って欲しい。
ご飯を食べて、原稿をして、退治で走り回ったり。
生き急ぐきみを、ずっと隣で見ていたかった。隣で笑っていたかった。
けれども、今はまだその願いには、遥か届かない。
切実なるその願いを、使い魔だけが聞いていた。けれども、その願いを叶えてあげる事も出来ず、へたりとその耳を垂れさせて。
力無く、ヌー、と。鳴く事しか出来なかった。
……彼がとある吸血鬼の毒牙によって眠りに着いて、既に五年の月日が流れていた。
「――お前が、竜の愛し子か?」
不意に背後から問いかけられた女の声に。思わず、え……?と。
そう聞き返した瞬間、左胸に鋭い痛みが突き刺さった。
…………しくじった。
ずきんずきん、と絶えず鋭い痛みを訴える左胸を押さえながら、ぎりりと目の前の相手を睨みつけた。
突然に銀色の針のような何かを、左胸の鎖骨辺りに突き刺された。その鋭い痛みはじくじくと、悲鳴をあげて。けれども、抜き去るよりも早く、その銀色の針は溶けて、消えてしまった。
針で刺されたというのに、出血さえ無い。けれども、肌を突き刺すようなその痛みは確実に刺された事を物語っている。
目の前に声もなく佇む吸血鬼の、何らかの能力である事は間違いはなかった。
夜の様に真っ黒な髪で顔を隠す女吸血鬼。その髪の間から透かし見える強い眼光は、深緑の光を宿していた。
「……ッ、……い、きなり、ご挨拶じゃねぇか……」
音もなく背後に現れたと思ったその瞬間、振り返りざまに突然に刺された。不意をつかれたとはいえロナルド様が何たる無様か。
痛みに耐えながら、ぎりりと歯を食いしばって目の前の存在を睨めば、ようやく目の前の女は口を開いた。
「……お前に“祝福”を授けてやった。あの月があと二回、空の頂点に達した後、お前は長い眠りにつく事になるだろう」
ふい、と。その白く細い指で空を指さして。夜の空にぽっかりと浮かぶ月を指差して、女は告げた。
その言葉に、……は?、と。思わず聞き返しそうになった、が。
先程の針と、この言動に。かつてマスター達から聞いたとある存在を、記憶の底から思い出した。
「……ま、さか……お前、“紡ぎ車の魔女”……か……?」
国際的に指名手配されている女吸血鬼。数十年の内に数度、現れてはその能力を振るい、姿を消す謎の多い吸血鬼。
その吸血鬼の針で刺された者は、眠りについたまま、老いる事も死ぬ事もなく、ただ眠り続けるという。
その能力は絶大で、未だに誰一人として目覚めてはいないと聞く。
それはまるで、とある童話の茨姫の物語と酷似していて。謎に包まれたその吸血鬼へと付けられたその通り名が、“紡ぎ車の魔女”だったのだ。
確か、最後にその姿が確認されたのはもう四十年は前だったと、記録には残っていた筈だ。
まさか、自分の正体を言い当てられるとは思っていなかったのか。目の前の女はその深緑の瞳を、もの珍しいものを見るかの様に細め、ほぅ、と笑った。
「……私を知っているとはな。……流石は竜の愛し子だ。今回は期待しても良さそうだな」
その深い深緑の瞳の中、吸血鬼の特徴である血の赤が怪しく光る。それはかつて、この目の前の存在が吸血鬼では無かった証。
人間から吸血鬼へと転化した者は、人だった頃の名残をその眼に残す事があるという。
けれども、記録に残るこの能力の強さは、そこら辺の下手な真祖の比ではない筈だ。それは直接相対して良く分かる。
目の前の存在から、肌を通してビリビリと感じる程のその強烈な威圧感は。目の前の存在が如何に強大な吸血鬼であるかの証明に他ならない。
そのあまりの威圧感に、思わず押し潰されそうだ。
……呑まれるな、と。
背筋を伝う冷たい汗を感じながら、弱気になりかける自分に言い聞かせる。
これまで一体何百体と戦ってきたと思っているんだ。伊達に999体倒してきた訳じゃねぇんだよ。
相手からのプレッシャーに押し潰される程、柔な退治人やってきたつもりは無いのだ、と。
舐めるな、と目の前の存在を睨み返せば、何がそんなに楽しいのか。愉悦の色を光らせて、目の前の吸血鬼はくつりと笑った。
「……全く、惜しいものだ。お前のような向こう見ずな若者が世界を駆け回る様は、嘸かし見ものだろうに。お前は私の目的の為に、これから、千年眠りにつかなければならない」
お前の綴る物語を、楽しみにしていたのだがな、と。
何処か残念がるように瞳を細め、紡ぎ車の魔女はその細い指先をすっと此方へと向けた。
「……っ、千年の眠りだぁ?そんなもの、どっかの童話じゃあるまいに、丁重にお断りさせて頂くわ!」
これ以上何かされて堪るか、と。瞬時に胸元のガンホルダーから銀色の銃を引き抜いて、咄嗟に引き金を引く。
ガゥンッと響く銃声は、けれども相手を捕えない。
瞬間的にばらりと霧のように姿を溶かした紡ぎ車の魔女には、麻酔弾すらも通じない。
放たれた銃弾は虚しくも地面の一部を僅かに削り取っただけだった。
その刹那、吐息が掛かる程、至近距離まで詰められた。
ふわりと鼻先を掠める咽せ返る程強い薔薇の香りに、思わず瞳を瞬いた。
「――――ッ!!」
「何、千年の眠りなど、“お前にとって”は一眠りと同じだ。荊に抱かれて、大人しく眠れ」
お前の“竜”に、宜しくな、と耳元で囁きながら。
真っ直ぐと蒼天の青を覗き込むように。深緑の中に揺れる血の赤が、怪しく光る。
その光を見た瞬間、ぐにゃりと視界が歪んで、急速に世界が遠のいていく。
どさりと響いた重たい音は、一体何の音だったのか……
その意味すら分からないまま、意識は簡単に闇へと堕ちる。
「――私は、真実の“愛”が知りたい……」
闇の中、落とされたその声は、果たして現実だったのか。
夢と現の中を微睡む意識には、その答えは分からなかった。
覚醒は突然に訪れる。
頰に感じる冷たいアスファルトの感触に、思わず焦燥だけが先走り。ガッと反射的に手を付いて、重たい身体を起き上げた。
急激な動きに、身体の中の血液が思わず逆流するような。ぐわんと揺れる視界を無理矢理見開いて、ふるりと頭を降って眠気の残滓を振り払う。
「――っ、」
ズキンっと鋭い痛みが左肩口に響く。意識が落ちる間際の事が鮮明に思い出され、慌てて首元を確認するが、吸血された形跡は見当たらなかった。けれども、ズキズキと疼く様な痛みを訴える左胸が、あの吸血鬼との会合は夢ではなかった事を物語っている。
「……くそ、あいつは……?」
慌てて周りを見回しても、意識を失う前にいた路地裏の一角と変わりはない。あの凄まじいまでの気配は、既に夜に溶けて消えてしまった。
どれ程意識を失っていたのか、と。慌てて時計を確認したが、自分が記憶していた時間から既に一時間程が過ぎていた。
催眠を喰らって情けなくも昏倒していたらしい。その事実に、ぎりりと思わず歯噛みした。
ずきりと痛む左胸を抱えながら、ふらつく身体で立ち上がる。
流石に一時間も前に去ったであろう相手を、今から追いかけた所で到底見つかるものではない。
ただでさえ、相手はあの“紡ぎ車の魔女”であるならば、隠密性が高過ぎる。
一瞬途方に暮れかかって、思わず空を仰ぎ見れば、ぽかんと浮かぶ月が僅かに西に傾いていた。
それを見上げながら、先程言われた言葉を思い出した。
『……お前に“祝福”を授けてやった。あの月があと二回、空の頂点に達した後、お前は長い眠りにつく事になるだろう』
あの吸血鬼が言った様に、あと二日で本当に自分は眠りについてしまうのだろうか……
千年の眠りだ……と、言っていた。そんな事が、本当にあるというのだろうか。
もしそれが本当だったのなら、自分は一体どうなってしまうのか……
くゆりと立ち上る様に、足元から不安が押し寄せてくる。
突然に目の前が真っ暗になって帰り道がわからなくなるような、そんな言い知れない不安に取り憑かれそうだ。
ズキズキと訴えてくる傷口をギュッと握り締め、不安な心を落ち着ける様に小さく息を吐いた。
……今の所、確証なんかない。もしかしたら、不発に終わるかもしれないし、なんて。楽観視でもしてなきゃ、とても平静でなんかいられない。
取り敢えず一度家に帰って、良い子で待っているツチノコとかぼちゃヤツに会いたい。
会って、悪い夢だったんだと、思い込みたい。
明日も明後日も明明後日も、ずっとずっと何時もみたいに来るんだ、と。
くわんと耳鳴りのように回るあの吸血鬼の言葉を振り切る様に、ふるりと頭を振って一路、自宅へと帰路についた。
――けれども。
「……何だよ、これ……」
取り敢えず身を清めようと、風呂に入ろうとして。残酷な現実が、再び襲いかかってきた。
半裸になったその姿を映す鏡に、血の気が失せていく。信じられなくて、鏡に触れた指先が、その冷たさに震える。
それは冷たさから来る震えだけでは、きっと無かったのだろう。
鏡に映った真っ青な顔の自分。その左半身に映るソレが、先程あった事が悪い夢では無かった事を思い知らせてくる。
恐る恐ると、我が身を見下ろせば……針を刺された場所。左鎖骨の下あたりから胸元辺りにかけて、赤黒い痣の様なものが広がっていた。
それは良く見れば、薔薇の花のような痣だった。
針で刺されたというのに、その針穴や傷すら見当たらない。勿論、出血の跡すら無かった。
「――っ、」
ガタンッと音を響かせて、よろける様に後ろの壁にぶつかった。
そのまま、ズルズルと壁伝いに滑り落ちて、座り込んだ。
動揺と恐怖で、身体が凍りつく様だ。知らず知らず呼吸が浅くなって、震える手で痣を掴んだ。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
……こんなもの、確実にあの吸血鬼の能力喰らってんじゃねぇか。
そうなると自分はどうなる?
千年眠りにつく?巫山戯んなよ。そんな事になったらみんなどうなるってんだよ。ツチノコやかぼちゃヤツは?
……どうなるかなんて、そんなの明白じゃねぇか。
自分以外を遺して、みんながいなくなる。
目が醒めた時にはきっと、誰も残っていない。千年だぞ、当たり前じゃないか。
マスター達も、マリアやターチャン、ショットにサテツも、他のみんなも。
……兄貴やヒマリも……みんなみんな……千年後になんか生きてる訳ねぇじゃねぇか。
動揺で目頭が熱くなる。じわりと滲む涙で、視界が僅かに歪む。
どうしよう、あの吸血鬼に解除条件を聞きそびれている。見つけた所で、きっと素直に吐く訳は無い。
あと二日だぞ?……探し出す事すら、間に合わねぇよ……
じわりと湧き上がる絶望が涙となって、ぽろりと床に落ちた。
そこに、どうしたのか、と。心配そうな様子で隣の部屋から、ツチノコとかぼちゃヤツが近付いて来て見上げている事に今更気が付いた。
ガタンとでかい音がしたもんな。そりゃ、心配して来てくれるよな。
お前ら、優しいからな……
心配そうに見上げてくる二匹の様子に、少しだけ動揺した心が落ち着いた。
何でもないよ、と嘯いて。二匹をそっと抱き上げて、その重さに顔を寄せる。
優しくて可愛い、大事な家族。両手のその重みに愛おしさだけが込み上げる。
……あと二日。二日しかない……
なら、その間に出来る事だけはしないと。
千年眠りにつく……それは言うなれば、退治人ロナルドとしての人間性の死だ。
千年後、世界がどうなっているかなんてわかんねぇけど……確実に今の世界とはさよならだ。
……ならば、身辺の整理をしなければ、残された奴等に迷惑をかけてしまう。
立つ鳥は跡を濁してはいけない。
先程まで荒れ狂っていた心の波が、まるで凪いだ海の様に、ただ落ち着いていく。
大丈夫?と。心配そうに見上げてくる二匹を見下ろして、ただ笑ってその頭を撫でた。二匹と過ごせる時間だって、そう多くはない。
……あと二日。あと二日しかないんだ。
かちりと揺れる秒針を暗い瞳で見上げながら、小さく息を吐いて、立ち上がる。
当たり前だと思っていた世界が、がらがらと音を立てて壊れていく様だ。
あれをしてこれをして……あの書類は何処にあったかな、なんて。
頭の中でやるべき事を考えながら、二匹を抱えて隣の部屋へと戻った。
やるべき事に気が付いてからは、時間はあっという間だった。
事務所類や執筆関係の権利書やその契約書の整理に、譲渡先の書き置き。それだけで随分と時間を浪費した。
普段の忙しさにかまけて、書類を乱雑にしていた過去の自分をぶん殴ってやりてぇ。
今まで世話になったマスターや退治人達それぞれへの手紙と、散々迷惑をかけた編集者達への手紙と……一番の迷惑をかけるであろう兄貴とヒマリへの手紙と諸々の書類を纏めたものを事務所に置いて。
ずるりと重たく感じる身体を引き摺って、二匹と簡単な荷物だけを持って、タクシーに飛び乗った。
仕事ではないのに、いつもの赤い退治人服であいつの所に向かう。
これが最後になるのなら、あいつにはこの姿の自分を覚えていて欲しい。
そんな勝手なエゴだ。
いつもだったら自分の車でルンルンに通っていたと言うのに。流石に、車なんて持っていったら迷惑だろう。
あと、あの日からずっと寝ていないから、眠気に負けるかもしれない。
家族を連れているのだ。事故なんて真っ平ごめんだ。ただでさえ、もうあまり時間がないと言うのに……
最初は左胸だけだった薔薇みたいな痣は時間と共に、茨を伸ばす植物かの様に広がって、どんどん身体中に絡みついている。
気が付けばもう手の甲にまでその痣を広げていた。
この痣が全身に広がった時、自分はもう目を覚せなくなるんだな……と、確かな予感を感じる。
段々と意識がぼやっとして、身体が重たくて仕方がない。眠気を訴える様にじくじくと痛むこめかみの辺りが、ずんっと締め付けられているみたいだ。
あいつの城は山の中にある。タクシーで乗りつけるには流石に迷惑をかけるので、麓で降ろしてもらった。
少ない荷物と二匹を抱いて、ぐらつく身体を叱咤して山を登る。
月はもうすぐ、空の頂点へと達するだろう。
……身体が重い。踏み出す足が、まるで泥濘を歩いているみたいで、何処かふわんふわんしている気がする。
普段だったら二徹、三徹……最大五徹くらい、全然平気なのに。
明らかに何時もとは違う種類の眠気が、ずっとぐらんぐらん揺れている。
早く寝ろと、急かすように。
足が上がりにくくなって、普段では引っかからない木の根に引っ掛かって、思わず足が取られた。
ずべっと転がる無様なロナルド様……なんて、笑えねぇな。
そんな自分を心配して、ツチノコとかぼちゃヤツが地面に降りて、こちらを見上げてくる。
あいつの城まであともう少しなのに……ごめんな。こんな所で、足留め喰らってる場合じゃねぇのにな。
もう、本当に時間が無い。段々と身体が動かなくなっていくのが分かる。
既にツチノコとかぼちゃヤツには、事情は伝えてある。
流石に何の説明もなく、自分が目覚めなくなったら、悲しむだろうから。
……あーあ、折角綺麗にしてきたマントが、泥まみれだな、なんて。
そんなくだらない事で、思わず笑いそうになった。
もう少しだよ、頑張って、と。
ぐいぐいとマントを引っ張ってくれる二匹の様子に、ぐっと拳を握り締めて、足を引っ掛けてくれた木に手を掛けながら、何とか立ち上がる。
ずるりと足を引き摺りながら、あいつの城を目指す。
これじゃあ、まるでゾンビみたいだな、なんて。思わずふは、と笑った。
催眠を喰らった後、本当はすぐにあいつに逢いたかった。
やる事なんか全部投げ出して、最後の時間まで、本当はあいつと過ごしたかった。けど、色んな人に迷惑をかけるのが分かってて、それを投げ出せる程、自分は子供にはなれなかったんだ。
だから、あいつにまだ、何にも話してない。話せてない。
これからの事、自分の事。ツチノコとかぼちゃヤツを頼みたいって事。
何にも、伝えられてないのに、最後に逢いたいなんて……勝手な奴だなって。自分でも思う。
それでも、あいつは優しいから。困った顔しながら、結局は俺の我儘に応えてくれるって、知っているんだ。
だから、どうしても甘えてしまう。
面倒事しか無いこんな自分だけれども、それでも良いんだと言ってくれるあいつに、最後だけでも逢いたかった。
ガンっと、殆どぶつかるレベルで、何とか辿り着いたあいつの城の扉の、呼び鈴を乱暴に押して。
待つ余裕なんか無いから、そのまま身体の重力で無理矢理に扉を開ける。いつも鍵が掛かってないのは知ってんだよ。不用心だな、ほんと。
この扉、こんなに重たかったっけ、と。
僅かに息を切らしながら、動かない身体で無理矢理に扉をこじ開けて、中へと入る。けれども、そこで限界が来たらしい。
「……あ、」
玄関の段差に躓いて、ぐらりと視界が揺れる。
ヤバい、また転けるぞ、と。前のめりに傾く身体を支えられるだけの力が、もう残っていない。
これで倒れたら、もう起き上がれるだけの力は残っていないだろう。
そんな事を客観的に考えていたら、ふわりと香る線香の様な匂いに包まれた。
「――ロナルド君!!」
倒れかかる身体を、いつもの痩躯がガッと受け止めてくれる。
お前、そんな力いつもねぇだろ。一緒に倒れて、死ぬのがオチじゃねぇか。
ここで死なれたら、復活を待ってやれるだけの時間はねぇぞ、と。
思わず焦燥に駆られたけれど、その予想に反して、ドラルクは死ななかった。
ぐらりと揺れる身体を受け止めて、ゆるゆると床に降ろしてくれる。
……こいつ、血を飲んでやがったな?
今日は城に行くとは、連絡してなかったのに、どうして、と。
思わず疑問に思いながら、ぐらりと揺れる視界でドラルクを見上げれば、心底困惑した顔のドラルクがそこにいた。
「……よぉ、ドラルク。ご機嫌いかが?」
なんと、声をかけていいのか。思わず考えて、口元を引き上げて、ただ笑う。
心配そうに見下ろしてくるあいつの顔が、何となく可笑しくて……愛しくて。
そんなトンチキな事を言う自分を、困惑した顔のままのあいつが何処か呆れたように息を吐いた。
「……きみ、誰に、何されたの?……そんなに強い“薔薇の匂い”の気配をさせて……咬まれたの?」
――私じゃない他の吸血鬼に。
ぎらりとその小さな瞳孔に、執着の色をありありと光らせて。ドラルクが問う。
まるで、浮気調査みたいだな、と。思わず可笑しくなって、へらりと笑ってみせた。
「……咬まれてねぇよ……けど、悪い、俺……もう、眠い……詳しい事は、手紙に書いてあるから、それ、読んで?」
「ロナルド君?……おい、寝るな!ロナルド君!?」
最後に一目、逢えた。ただ、それだけで安心感だけが心を満たす。
意識が飛び掛けるのを、ぺちんっと頬を叩いて引き留めようとするドラルクの手が、冷たくて心地良い。
「……俺……千年、眠るらしい。……だから、ツチノコと、かぼヤツの事……宜しく頼む」
「はぁ!?千年!?……どういうっ……!」
身体の力がどんどんと抜けていく。冷たい城の床に横たわって、ぼやける視界で見上げれば、広い天井を背景に、青白いドラルクの顔が見えた。
「……なぁ、ドラルク……お前、あと何百年、生きるんだ……?……俺が、目を醒ました時……お前に、また……逢えるかな……?」
ふわりと香る線香の様な匂いに、あぁ、好きだな、なんて思う。
冷たい手が頬を撫でてくる。その手に、力の入らない手を上げて、何とか触れる。
冷たくて、優しい手。いつも俺を撫でてくれる、大好きなこいつの手。
好きだ、と伝える代わりに、一度だけ潰さない力加減でぎゅっと握った。
「……おい?ロナルド君!?しっかりしろ!」
段々と、目が開けていられなくなっていく。ぱちり、ぱちりと瞬く瞼が、重たくて、重たくて……開けられなくなっていく。
まだ、待って。まだ伝えてない事、沢山あるのに……なんて、思ったって。
もう眠くて、言葉すら出て来ない。
眠くて、眠くて……もう、起きていられそうにない。
余りの眠気に、じわりと涙さえも滲んでくる。
……あぁ、駄目だ。落ち着いていた心が、また、波打ってきた。
ぱちりと重たい瞼を瞬けば、ぽろりと涙が頬を零れ落ちて、ドラルクの手を濡らした。その冷たさに、普段だったら死んでたかな、なんて。
ふわつく思考が、そんな事を考えた。
「……俺……本当に千年、眠るの、かな……まだ、やってない事……沢山、あるのに……兄貴に、何も、言ってない……育ててくれて、ありがとうとか、悪かった、とか……なんにも……」
こんなんじゃ、ただの譫言みたいだ。
ぽつり、ぽつりと後悔だけが、零れ落ちていく。反抗期拗らせて、兄貴には随分と迷惑を掛けた。
手紙は残して来たけど、もう二度と会えないのなら、一度はちゃんと本音で話す機会を作っておけば良かった、と。
後悔だけが後から後から、どんどんと湧いては微睡みに溶けていく。
何時だって、失くしてからその大切なものに気が付くんだ。俺の、悪い癖だ。
「……なぁ……ドラルク……千年先、で、俺……お前には、逢える、かな……?……誰も、居なくなっても……お前だけは……俺の、傍に……いて、くれるか……?」
独りぼっちは……嫌だな、なんて。
微睡みに落ちていく意識の中で、零れ落ちた弱音を、あいつはどんな顔で受け止めてくれるのかな、なんて。
もう瞼も開かなくて……あいつが何か言ってるらしい音だけがぼわんと耳に響いている。けど、ごめん、何言ってるか、わかんねぇわ。
面倒事を押し付けてごめん。けど、こわい。千年先で目が醒めて、誰もいない世界を生きるのが。
こわい、たすけて、ドラルク……
ふわりと香る線香の様な匂いが少しだけ強くなった。まるで、安心して眠れとでも、言うように。
傍にいてくれる、ずっと。
そう、言ってくれたような気がした。
ほとり、と。小さく息を付けば、繋ぎ止めていた意識が簡単にぼやけていった。
そうしてそこで、俺の記憶は途切れた。
「……っ、……ロナルド君……」
声を荒げ、揺さぶっても。もう彼は目を開けない。
その真昼の空のような蒼天の瞳を、長い睫毛の下に隠して。
ことりと、微睡みへと落ちて行ってしまった。
一体どういう状況なのか。全く、理解が追いつかないまま、零れ落ちていく彼の意識を、引き留められず、がちんっと悔しさに牙がぶつかった。
すぅすぅと、穏やかな寝息を立てる彼の身体から、咽せ返る程の薔薇の香りが染み付いている。
吸血された訳ではないという彼の言葉通り、その首元や見える範囲には噛み痕は存在しなかった。
けれども、首元や手首からちらりと見える何かの痣が、この香りの正体である事は分かっている。
どうして、何で、もっと早くに言ってくれなかったんだ、と。
もっと早くに来てくれていたら、何か対処が出来たかもしれないというのに。
譫言のまま、こわい、たすけて、と。
普段の彼だったら絶対に口にしないその弱音を吐く程に、彼を追い詰めたこの能力の主を、絶対に赦さない。
見つけ出して、催眠を解除させて、八つ裂きにしてやりたい。
彼を泣かせた罪を、身をもって味合わせてやりたい。
めらりと自分の中で蠢く黒い衝動に、思わずぎりりと牙を噛み締めた。
「ヌヌヌヌヌヌ!」
仄暗い憎悪に呑まれかけた瞬間、響いたジョンの声で思わずハッとする。
彼と一緒に来てくれたツチノコとかぼちゃヤツが、すんすんと泣いている。彼等から現状を聞いたらしいジョンが、手短に説明してくれる。
二日前、別の吸血鬼から催眠を受けた事。相手を見つけ出す事が困難な事。
そして、自分はもう目を覚ませない事。
だからドラルクに面倒を見てもらう様にと言われた事。
ぽろぽろと大粒の涙を零す二匹の様子に、ジョンもぽろぽろ涙を零しながら、二匹を慰めている。
普段の彼は諦めの悪い男だ。どんな逆境にも笑いながら飛び込んでいく様な戦闘狂。そんな彼が、こんなにも簡単に諦めてしまう様な、そんな強大な吸血鬼だったのだろうか。
彼から香る芳醇な薔薇の薫りに、昔一度だけ会った事のあるとある吸血鬼の存在を思い出した。
「……“紡ぎ車の魔女”……か」
彼に纏わり付く力の残滓のその気配。胸糞悪くなる程の薔薇の薫りに、無意識に眉根が寄った。
「――――っ!?」
相手の吸血鬼に気付いたその瞬間、ぶわりとロナルドを包む薔薇の香りが強くなった。
彼の手足に広がった茨の痣が騒ぎ出し、そこからしゅるしゅると音を立てて、本物の荊が彼の身体に巻きつき始めた。
それに咄嗟に爪を伸ばし、彼の身体を傷付けさせまいと荊を断ち切るが、次から次へと伸びて絡みついていく。
けれども、どうやらその茨は宿主を傷付けるものでは無いらしい。棘は全て外へと向いて、その中に捉えられたロナルドには一切、傷を付けてはいなかった。
それはまるで、あの童話のよう。16歳となった乙女が紡ぎ車の錘に指を刺し、茨に抱かれ百年の眠りにつくという。
百年どころか千年眠るとか、糞ったれな能力強化しているんじゃない、と。
茨に包まれていく彼を奪われたくなくて、彼を抱き抱えると茨を切り裂きながら、抑制する様に力を奮う。
吸血鬼はより血の力が強い方が勝る。
あの魔女は元々は人間であった筈。それを同胞へと変えた真祖もそれなりの古き血であった筈だが、竜の一族の直系には及ばない。
ましてや、此処には術者本人はいない。
これ以上彼を好き勝手される等、許容出来る筈も無かった。
ぎらりと小さな瞳孔が血の赤に光る。
彼が森に入ったであろう辺りから、不穏な気配を感じていた。
だから、警戒して血を飲んでいたのだ。
時間制限のあるブーストだから、さして長い時間を留めておける訳では無い。
全盛期だったならまだしも、今は不摂生が祟って、弱体化している我が身では、抑え込むのが精一杯だった。
今更我が身の不摂生を後悔したとて、遅い話ではある。
彼の肩口に咲いた一輪の薔薇の花が、ひらりとその花弁を散らし。一枚の花弁が床へと落ちた。
その途端、その花弁がぱぁ、と赤黒く光を放ち、城の床を汚した。
『親愛なる竜の吸血鬼。お前の愛し子は我が手に堕ちた。
茨の姫を目醒めさせるは、唯一つ真実の“愛”のみ。
されども、接吻などで計れる愛など、私は愛とは認めない。
彼の姫を目醒めさせたくば、私を探し当てるが良い。
その時こそ、お前の真実の“愛”は証明される』
血の様に溶けた花弁は、術者の言の葉を床に綴る。
その言葉を見下ろして、すんっと自分の中の血が静かに蠢くのを感じた。
仄暗く揺らめく怒りの焔が、ぐわりと我が身を灼いていく。
その湧き上がる憎悪の力にあてられて、彼に纏わり付いていた荊が力を失い、枯れていく。
それと同時に、彼の肩口に咲いた一輪の薔薇もまた、力を失って萎み、やがて枯れた。
術者の言の葉を刻んだ花弁が、さぁっと溶けて、床に刻まれた文字は消え失せた。
残ったのは綺麗に掃除された大理石の床のみ。
刻まれた文字など、最初から無かったかの様に、ただ電飾の光に照らされて、きらきらと光っていた。
「――この竜の真祖に、宣戦布告とは……“紡ぎ車の魔女”は随分な愚か者とみえる」
低く、感情の篭らない声で、は、と嗤う。
余りにも見え透いた挑発。
けれども、既に大切な愛し子は害された。
どうやら最初から、狙いは自分の方だったらしい。
その為に利用された彼が、どれ程苦しめられた事か。
どんな気持ちで、この二日を過ごした事か。
唯でさえ短い生を謳歌する彼が、千年の眠りだなどと。それを前にして、どれ程絶望した事だろう。
簡単に踏み荒らされる薔薇の園の様に、ぐちゃぐちゃに踏み潰された彼の心は、どれ程傷付いた事だろう。
たすけて、と。譫言の中で零したその言葉を。
どんな気持ちで、告げたのだろう。
彼を害した“紡ぎ車の魔女”は、絶対に赦さない。
この世の何処までも追い掛けて、必ず罪を贖わせてやる。
そう、心に深く刻み付けながら。何も知らず穏やかに眠る彼の身体を抱き締めた。
せめて、夢の中だけは、穏やかでありますよう。
いつか目醒めるその時まで。
長い睫毛に閉ざされた美しい彼の寝顔に、そっと接吻を落とす。
けれども、彼の瞳は童話のように開く事は無かった。
夜に煌めくシンヨコの街を見下ろしながら、紡ぎ車の魔女はそっと月を仰ぎ見る。
月は既に空の頂点へと達している。
彼の退治人は、竜の元へと辿り着いたろうか、と。
そっと瞳を伏せれば、想い出す。
きらきらと光る木漏れ日と、本を捲る穏やかな紙の音。
そうして、自分の名を呼ぶ温かな、その声を。
――今はもう、それは遠い遠い、夢でしかない。
伏せた深緑の瞳を開けば、夜の中で冴え冴えと煌めく魔都が見えた。
「……私は、真実の“愛”が知りたい……」
果たして今度こそ、我が望みは叶うだろうか。
紡ぎ車の魔女は、竜の同胞のこれからの苦難を思い、そっとその深緑の瞳を細めたのだった。