塩とレモンと飴玉と昼はじりじり。夜はもわり。
風も吹かない窓の外は、生い茂る木々すら揺らさない。
ぴたりと窓ガラスに触れれば、伝わるのはじんわりとした生ぬるさだけ。
ただでさえ温度の低い吸血鬼の掌には、それはまだ熱く感じられた。
日の入りと共に棺桶から起き出して、最初にスマホで見たwebニュースの見出しに、でかでかと。梅雨明け、梅雨明け、と。
いくつもの気象系のニュースが並んでいた。
きんきんきらきら、眩く太陽が煌めく夏到来。
これが一年を通して話が進行するタイプのシミュレーションゲームだとするならば。
ジメジメした雨の季節が終わり、夏本番!期末試験に学期末。夏休みに入って開放感溢れる部活に、青く煌めく海でのきらきら水着スチル。
夏の山での林間学校に、攻略対象とのドキドキ浴衣でお祭りデート。花火なんかも一緒に見ちゃったりして、一夏の思い出を作るイベント盛り沢山の夏、到来!!
……なんて。
ゲームの世界でしか見た事無いけどね。こちとら生まれて二百年以上吸血鬼ですので。
青く透き通る夏空に、もくもくの白い入道雲。曇り一つない青に浮かぶ太陽なんて、そんなの見たら砂になりますし。
写真とかテレビとかゲームの中でしか、見た事も経験した事も無い。
だから、何処かイメージは漠然としている。
二百年生きていようが、過ごし方なんて対して変わりはしない。
まぁ、変わったと言えばここ十数年での気温の変化、といった所だろうか。
たかだが十数年だというのに、この異常気象は一体なんだ。
昔は30度超えれば猛暑、猛暑なんて言ってた筈が、気が付けばほぼ40度。人間の体温を超えているとはどういう了見だ。
昔は母方の別荘の避暑地で、優雅に縁側に座って。風鈴の音に涼を取りながら、ジョンと夕涼みしたというのに。
今では夜ですらエアコンのない部屋にいたら、熱中症になる始末。
日中に活動する昼の子達の苦労は相当なものだろうな、と。想像する事しか出来ない。
自分はぬくぬくと、エアコンの効いた地下室で。棺桶の中でお休みなさい、だ。
じゃないと、死ぬからね。
きっと、今日も汗をだらだら垂らしながら、赤いあの子は頑張っているのだろう。
久々に休みが取れたから、仕事終わりにこっちへ来る、と。
たまにしか鳴らない彼からのLINEは、愛しい待ち人の来訪を告げていた。
だから、思わず早めに起きて。部屋のエアコンをしっかり効かせ。
今日は何を作ろうかな、と。
思わず上機嫌で、冷蔵庫を開けている。
そんな私を、何か美味しいものを作るのか、と。食いしん坊のアルマジロがそわそわした様子で見上げている。
期待に満ちたジョンの瞳を見下ろして、思わずふふ、と笑った。
真昼の様な彼と出逢ってから、今まで気にしなかった昼の天気予報を見る様になった。
今日は晴れてるかな?気温はどれくらいかな。雨は大丈夫かな。
なんて。
全くの無関心だった筈の昼の事が、どうしても気になる様になった。
だから、ここ連日がとても暑い日だったと知っている。
きっと、不摂生な彼の事だ。
夏の暑さに体力が奪われない様な、そんなメニューにしてあげよう。
頭の中で冷蔵庫の中身を整理しながら、出来そうなものを構築していく。
それを美味しそうに食べる彼の顔を思うだけで、苦労なんて二の次だな、と。
彼がここへやって来るのを、心待ちにしながら。
冷蔵庫の中からきんっと冷えたレモンを取り出した。
「……よう。来たぞ」
と、いつもの様に涼しい顔で。
けれども、顎を伝落ちる雫が、外界との温度差を物語る。
この暑いのに、いつもの赤いマントと赤い帽子。そんなもの、脱いでくれば良いのに、律儀にもしっかりと着込んでくる辺り、彼らしいというか何というか。
そんな彼を笑顔で招き入れ、そのマントと帽子を受け取った。
ふわりと香る彼の匂いが、思わず鼻腔を掠め。僅かにずくんと牙が疼くのを、にっこり笑って誤魔化した。
久々の恋人との逢瀬だといえど、いきなりがっついては紳士の名折れだ。
紳士協定違反は絶対にNOである。
その色香に誘われて、機嫌を損ねて帰ってしまったら、次はいつ来てくれるか分かったものではない。
折角多忙な彼が作ってくれた貴重な休みを無碍にする訳にはいかないだろう。
そんな仄暗さに彼は気付く事もなく、吸血鬼の招きを受けて館へと足を踏み入れた。
「さて、お待たせしたね。どうぞ、召し上がれ」
どん、と。目の前に並べられた料理の数々に、ひくり、と。目の前の退治人が僅かに固まった様だった。
その様子におや?と少しだけ疑問に思ったが、何事もなかったかの様な涼しい顔で、退治人君は目の前の料理に手を伸ばす。
それに、嫌いなものでも出してしまったか、という杞憂は掻き消された。
本日のメニューは、なすと枝豆のキーマカレー。トマトをたっぷりことこと時間をかけてゆっくり煮込んで、適度なスパイスで味付けをした。なすには胃液を分泌する作用があるから食欲が落ちやすい夏には打ってつけ。油をよく吸ったなすなんて、夏野菜の王様だよね。
鶏のもも肉をレモンで和えたさっぱりした鶏塩レモンで不足しがちな塩分を補って。トマト、ツナ、きゅうりの梅肉和えサラダ。しゃきしゃき歯応えで、爽やかな味わいを目指したんだ。
そして、冷たいものを多く摂る事が多いであろう退治人君の胃袋を気遣って、汁物には胃腸を温める為のかぼちゃの甘酒豆乳ポタージュである。
暑い日が続いている事もあって、夏バテ防止メニューのラインナップになってしまった。
キーマカレーをスプーンいっぱいに掬い取って、頬がはち切れそうな程詰め込む食いしん坊マジロが、ヌイシーと幸せそうに声を上げる。
それに、普段は切れ長で少し冷めた色を浮かべる蒼が、穏やかに緩んでいる。
けれども、おや?と。思わず顎に手を当て、和やかなその食事風景にそっと首を傾げた。
自宅や事務所では不摂生を極める彼だが、別段少食ではない、と。彼に手料理を振る舞うようになって知った事実だ。
若い肉体に引き締まった筋肉。夜の街を縦横無尽に駆け回る運動量を考えれば、その摂取量もそれに比例する。
それでも、運動量の方が勝るが故に、気が付けば体重を減らしている退治人君だ。
自分の所に来た時はなるべくバランス良く、かつタンパク質と量には気を使ったメニューを心掛けている。
彼のパフォーマンスを維持するなら、本当はこの城に囲って、毎日世話したいと願うのだけれど、それはまだ頷いて貰えていない。
普段であれば、その美しい顔に似合わず、吃驚する程に大きな口で。ぱくり、ぱくりと沢山の料理を平らげる退治人君。話を聞くと、流石に人目がある外での食事では、そこまで大口を開けて食い散らかしたりはしないんだそうだが。
ロナルド様のイメージはそうじゃねぇだろう、と。
何度か此処で料理を振る舞って、慣れてきた頃にそんな食べ方を披露して、余りの食いっぷりの良さに思わず感嘆の拍手を送った。
そんな私にぽろりと彼が秘密を漏らしたのは、今でも良く覚えている。
周りを気にしながら、お上品に食べる。……まぁ、確かに公衆のマナーはある程度必要だけれど、別段そこまで気にする程マナーが悪いわけでは無いというのに。それでも、そんな瑣末な事を気にして、自由に食事も取れないそんな生活なんて。自ら生きづらい生活を送る彼を、本当に不器用で、けれどもそこが可愛らしいと思う。
……だというのに、おかしい。おかしいよね、こんなの。
私の料理が決して不味いわけでは無い、筈。私の味の指針。イデアの丸のお墨付きは貰っているのだ。
なのに、彼の箸がいつもの様に進んでいない。
時折ジョンと目を合わせ、旨いな、と談笑しているのに。
たいして箸が進んでいないのは、明らかにおかしい。
……レモンの効いた鶏肉を口に含んだ瞬間の、僅かに眉根を寄せるその顔に、もしや、という疑惑が頭を掠めた。
かたん、と音を立てて椅子から立ち上がる。食事中に席を立つのはマナーが悪いが、今はそれ所ではない。
何も言わず、彼の側に歩み寄る私に、退治人君は箸を持ったままの状態で、どうした、ときょとんとした顔を向けてきた。
「……な、んだよ、ドラ、……」
ルク、と。呼び損ねた私の名前は、息と共に私に呑み込まれた。
彼の座っている椅子に手を掛けて、逃げられない様に逃げ道を塞いで。
ふわりと重なる唇に、彼が思わず息を飲み込んだのが分かった。
「――――ッ、な、に!?」
椅子の背もたれいっぱいに、身体を反らせた退治人が、思わずキスから逃げる。
けれども、逃がしてやる程優しくはないぞ。
逃げた隙間を埋める様に、もう片方の手で椅子の反対側を掴んで、逃げ場を奪う。強引な二度目のキスに、思わず抗議の声を上げようと開いたその唇の隙間から、無遠慮に舌を捩じ込んだ。
くちゅりと混じり合う舌と唾液から、彼がさっきまで食べていた鶏塩レモンの酸味が伝わって、思わずぴりりと舌が痺れた。
食事中にいきなり盛ったのか、この野郎、と。
目を白黒させる退治人と、主人が無体を働く様子に思わずヌヒャーと真っ赤になって目を塞ぐ献身的な使い魔と、彼の隠した秘密を暴きたい私との攻防。
椅子に拘束された退治人は逃げる術もなく。ぬらりと入り込む温度の低い舌に、口内を荒らされる。
そして。
「――――――ッ!!!!」
ざりりと、容赦なく上顎を舐め上げられたその痛みに、退治人は声にならない悲鳴を上げた。
びくりと身体を強張らせ、逃げようと暴れる。けれども、逃がしてやるものかと、椅子を持つ手に力を込めた。
ざりり、ざりりと口の中を舌で撫でられるだけで、ビクビクと身体が震えている。じわりと唾液と一緒に広がる僅かな鉄の味に、やっぱりな、と私は一人確信を得た。
余りの痛みに、思わず涙目で。私を殺そうと、がしりと拘束する私の手を握り締めてくる。けれども、残念。今日の私は久々の恋人との逢瀬に年甲斐もなくはしゃいでいてね。君を満足させる為に、ボトルを一本空けておいたのだ。
だから、死なないんだよ。
あ、でも痛い。痛い。そんなギュッと握るんじゃないよ、死んじゃうじゃない。
まぁ、君に痛い事を強いている私も、君と同罪なんだけどね。
「――――ッ、ャ……い、だぃ……痛、……痛ぃ、痛いッ!!!!」
やだ、ばか、死ね!!と。
涙ながらに遂に彼が音を上げた。はい、言質頂きました。
必死に私からのキスから逃げて、涙ながらに叫ぶ彼が私の顔を押し除ける。流石に腕力では敵わない。
苦痛を伴うキスからようやく解放されて、ぜぇはぁ、と涙ながらに睨んでくる滲んだ青が、ごめん。ちょっとだけ可愛かった。
痛みのせいで思わず転び出た五歳児顔で、全力拒否の退治人君。
完全にロナルド様の仮面が剥がれ落ちている。
普段は腕切り裂かれようが腹裂かれようが、ヒャッハーとガンぎまった顔で瞳孔かっ拡げてネタを寄越せと笑っている癖に。
鍛えようがない内部からの痛みには、流石の彼もお手上げなのだ。
キスして分かったけれど、彼の口の中、口内炎だらけだった。其処彼処から鉄の味がした。
全力拒否で私から逃げようとしている彼の様子に、小さく溜息を吐いて。ようやく彼の身体を解放してあげた。
「……君、口内炎だらけじゃない」
「……………………」
私の指摘に、彼は罰が悪そうに瞳を逸らす。ぷいっと拗ねた子供の様に口を噤む彼の様子に、私はまた一つ溜息を吐いた。
それに、彼の瞳がぎくりと怯えた色に揺れたのに気が付いて、彼の椅子の前に膝を付いた。
「君の箸がいつもみたいに進まないから、おかしいなって思ってさ。そりゃ、そんな口であのメニューの数々は……刺激があったよね、ごめん。知らなかったとはいえ、何も言わず食べてくれようとしてたけど、ちゃんと言って欲しかったな」
彼の前に跪いて、その手を取って。僅かに怯えた色を帯びるその青を見上げて、優しく諭す。
どうせ、頑張り屋の彼の事だ。また寝食を忘れて仕事に奔走したのだろう。
若いからといって無茶をすれば、何処かしこから悲鳴が上がる。
その結果が今回は口内炎だったのだろう。
やはり、囲ってしまって、栄養の全てを管理してやりたい。
彼が私の料理を美味しく食べられない口内炎なんか、絶対に作らせないのに。
僅かにクマのある目元に、彼の無茶が垣間見える。
そっと労る様にその頬に触れ、まだ少し潤むその目元を優しく親指で撫でれば、僅かばかりの涙が指先を濡らした。
「……でも、俺の為に作ってくれたやつだって……分かるから……」
だから、頑張って食べようとした……と。
消え入りそうな声でぼそりと。ロナルド様の仮面を脱ぎ捨てた幼い彼が、素直にそう白状した。
確かにどれも、これも。君が暑い夏に負けないように、と。健やかに過ごせるように、と、選んだメニューだった。
けれどそれが返って、彼に負担になってしまった。
それが少しだけ申し訳なくて。けれどもその気持ちを汲んで、全てを呑み込もうとしてくれた彼の優しさが。
……ただ、どうしようもなく、愛おしかった。
そっと、触れた頬を撫でて、もう一度唇を近付ける。
それに一瞬だけ退治人君の身体が、先程の痛みを思い出してぎくりと身構えたけれど。
ひやりと少しだけ冷たい唇が、戯れる様に熱を持つ唇を啄んで、軽い音を立てる。
触れるだけの優しいキス。痛みを伴わないそれに、一瞬だけ怯えた青い瞳が安堵の色に揺れる。
愛しい恋人に、酷い事なんか出来る訳ないだろう。……いや、時々酷い事してる気がするけど。
向きを変えて何度も何度も、啄むようにキスをする。両手で彼の頬を包んで、慈しむように。
その柔らかな頬を優しく撫でながら、何度も唇を啄んでいたら。ようやく強張っていた身体がゆっくりと解れて、柔らかくなっていく。痛みに怯えさせてしまった事を、少しだけ申し訳なく思った。
キスの合間にほとり、と小さな息を吐いて。瞳を閉じて全てを受け入れてくれる退治人君。
一等好きな彼の青が隠れてしまうのは残念だけど、私の愛を受け入れてくれるその顔も、とても好きなんだ。
愛おしさが溢れて止まらない。
この愛おしさを、どうやったらきみに、全部伝えられるのかな。
きみと私は違う生き物だ。別の身体、別の心を持つ、別の存在。
だからこそ、こうやって触れ合える。愛し合える。
きみと私は同一にはなり得ない。だからこそ、この気持ちもきみとは同じになり得ないのだ。きみにはきみの、私には私の心があるのだから。
けれども、重ねる事は出来る筈だ。
同じでなくても、一緒じゃなくても。
違うからこそ、織り合えるのだ、と。
きみも、そう想ってくれていたのなら、それはとても幸福な事だと思う。
かちゃん、と。テーブルの方から微かな音が響く。
それに触れ合っていた唇を離し、そちらへと視線を向ければ。
スプーンを倒してしまったジョンが、あっ、という申し訳なさそうな顔をしていた。ヌヒャーと、真っ赤っかな顔で。恋人同士の逢瀬を邪魔してしまった、と。困った顔でごめんと手を合わせている。
「……あ、じょ……ごめ……」
ジョンのその姿に、一部始終を見られていた事に今更気が付いて。
退治人の顔が思わず沸騰したように真っ赤に染まった。
真っ赤に熟れた美味しそうなトマトみたいに。羞恥で潤む青い瞳が、戸惑った様に揺れる。……思わず、齧り付きたくなったけど、それはとんでもない紳士協定違反だ。
「あ、すまない、ジョン。君がいる前だっていうのに、紳士協定違反だったね」
食事の途中にすまなかった、と。
申し訳なさそうにしているジョンの頭を撫でて、彼のご機嫌を伺う。
それに、ジョンはヌー……と小さく鳴いて許してくれた。
「ジョンはそのままお食べ。ロナルド君にはもう少し食べやすいものを用意しよう。今日のご飯は、タッパに詰めてあげるから、口内炎が少し落ち着いたら食べれば良い」
但し、賞味期限を過ぎたら駄目だぞ、と念を押して。
この時期は痛みが早いから、食中毒に気をつけなければ。
それに僅かにぶー垂れた退治人君が、名残惜しそうにスプーンを齧った。こら、行儀が悪いぞ、と。まるでお母さんの様な注意をしたくなった。
「……お前の料理は、どれも旨い……絶対食う、から……」
だから、早く治す、と。
ぼそりと少しだけいじけた様に。そんな可愛らしい事を言ってくれる姿に、もうどうしてくれようかしらこの子、と。
思わず頭を抱えそうになった。
あまり無理はさせられないけれど、今日は寝かせてあげられるか、ちょっと自信が無くなった。
紳士協定違反、紳士協定違反。私の中の紳士よ。気を付けよう。
頭の中で冷蔵庫の中身と、今のメニューの残りを考えて。今の退治人君でも食べられそうなメニューを組み立てる。
口内炎には確かビタミンB群が効果的。B2とB6が多く含む食材は何だったかな、と。昔雑学で読んだ料理書を思い出す。
あれとそれと、どれとこれ。きみを健康にする為のパズルはいつだって難解だ。
けれども、そのパズルを諦める気は毛頭ない。
いつか、いつか。きみが口内炎なんかに負けず、私の料理をいつまでも元気にもりもり食べられるように。
その方程式を求め続けよう。
万能薬なんて存在しない。あるのはきっと、果てしない愛だけだ。
きみのために作り続ける料理は、愛の妙薬足りえるだろうか。
いつまでも、元気で健やかに。
いつか、いつか。きみの全ての食事を私が作れるようになれたら良いな、と。
今はまだ来ない未来を、ただ夢想する。
それはきっと、きみの胃袋を全部掴んだ時なのだろう。
きみの身体を作る全てが、私の作ったもので出来たら良いのにな、と。
今はまだ言えない、そんな執着を。
きみには段々、思い知らせてあげる。
きみが気が付いた時、私の愛で雁字搦めにされて、もう逃げられないんだと解らせてあげる。
逃がしてあげる気はないから、覚悟しておいてよね、と。
思わず溢れた忍び笑いに、何も知らないきみはきょとんとした瞬きだけを返した。
「……何だよ、気持ち悪りぃな。なんか企んでんのか?」
「ふふふ。なーんにも?」
ほら、人畜無害でしょ、と嘯けば。何だこいつ、みたいな疑いの目が返された。
それにまた楽しくなって、椅子にかけていたエプロンを手に取った。
「じゃあ、簡単なものになっちゃうけど、何か作ってくるから。摘めそうなもの摘んでおいて」
そう言って、ひらりとキッチンへと向かう私の背に。おー、と。気のない返事だけが返された。
フォークを片手に、ジョンと談笑するその姿をちらりと眺めながら。
君の口内炎をどう攻略してやろうか、と頭の中のパズルを組み立てて。
私の料理は、きみの口内炎なんかに負けないんだからな、と。
ぱたたとキッチンへと向かいながら、ぐっと襟袖を捲り上げるのだった。
口内炎にすら嫉妬する自分に、きみへの執着を思い知らされながら。
「……それにしても、今回は盛大な口内炎作ったじゃない。何?また徹夜ばっかやってたの?」
きしりと軋むベッドの上で。気怠げに横たわる退治人君に、ちゃぽりと音を立てるペットボトルの水を差し出しながら問い掛ければ。
散々鳴された喉で、僅かにけほりと咳き込みながら。水を受け取る為に気怠げな身体を起き上げた。
「……ちげぇ。みんなの愛……」
「――――は?」
僅かに掠れた声で、けほり、と。小さく咳き込みながら何かとんでもない事を言う退治人の言葉に、思わずちょっと不穏な声で聞き返した。
きゅっと音を立てて、蓋を開けて。透明な液体を一気に煽る。
エアコンで冷やしていても、やはり夏の夜は僅かに蒸し暑い。
そこに激しい運動が加われば、それはお察しだよね。
ごくごくと、凄い勢いで水を煽る退治人は、ぷは、と息を吐く。
ぐいっと、少しだけ乱暴に。先程まで何度も触れ合った柔らかな唇をぐしっと拭って。
ようやく一息吐いた退治人は、先程の問題発言の続きを口にした。
「……ギルドのみんなが、事ある毎に飴くれたんだ。塩レモン飴」
熱中症予防に、と。
昼間に熱された街では、夜になっても温度はあまり下がらない。
どうしたって、嫌という程汗を掻く。水分ばかりでは失われた塩分が足りず、熱中症になるリスクが上がる。
それを補う為に各自それぞれ、塩分タブレットや塩飴なんかを持ち歩いている。
マスター達からも気をつける様に、と。常に渡されていた。
「……だから、それをせっせと舐めてたら……口ん中、傷だらけになったみたいで……」
気が付いたら口内炎だらけになっていた、のだと。
だから、みんなの愛で口内炎になった、と。
そうぼやく退治人の姿に、はぁー、と。深い、深い溜息を吐いた。
「……私はてっきり、また無茶ばっかしてんのかと思ってたよ……」
そっか、良かった……と。
君を愛してくれる人達が、君の側に居てくれて。
君の健康を気遣ってくれる人達が、君を支えてくれていて。
君が熱中症にならない様に、と。差し出してくれるソレは、確かにみんなの愛に他ならない。
けれども。
「……飴の食べ過ぎには注意しましょう。食べたら口を濯ぐ。はい、復唱」
「え、なんで?」
「はい、復唱!!」
「あ、飴の食べ過ぎには注意、しましょう?た、食べたら口を、濯ぐ?」
「はい、分かってない!もう一度」
きみの健康を守るには、まだまだ道程は険しいようだ。