嘘の獣は月に吠える「……なんだ、これ」
それは、薄暗い路地裏にぽつんと落ちていた。
白くてふわふわして、なんかの毛玉。……本来であれば。
「……ヌヌヌヌヌヌヌ」
一緒に覗き込んだジョンが、その毛玉を見下ろして一言。確かにその毛玉は所々に赤黒く汚れていた。
手足は泥だらけで、長毛種であろうその毛並みは血と泥で薄汚れている。
子猫か子犬か。判別のつかないその獣は、近付いても逃げ出す事は無い。否、逃げ出せるだけの力はない様に見えた。
そのまま息絶えているのかとも思ったが、ふわふわした毛の下の腹部は、その生存を告げるように、微かに上下していた。
残酷な“夜”が支配するこんな世界の中で、両の手で抱えられる程の小さな生き物が、生存していく事がどれ程の苦労を伴う事か。
両の目を伏せて、必死に命を繋いでいるこの小さな生き物を。見捨てられる程、人の心を手放せてはいなかった。
黒い手袋に覆われたその手を躊躇う事なく伸ばしたのは、仕方の無い事と言えよう。
『……おい、ロナルド君。こいつは……』
それに。どくりと脈打つ心臓が、思わず苦言を口にする。
こいつの言わんとしている事は、“解って”いる。
けれども、それでも。
――途端、伸ばした指先に、鋭い爪が閃いた。
がりりと振るわれた鋭い爪は、僅かばかりの傷を手袋に残した。
それに驚いて、思わず手を引っ込めれば、その爪の主は、ふわふわの毛の中から小さな身体を起き上げて。
私の友に触れるな、と。
獰猛な牙を剥いて、その小さな翼を広げて威嚇する。
小さなふわふわの獣の腕に守られる様に抱かれていた小さな蝙蝠は、自分達を見下ろしてくる人間達に牙を剥いて。
倒れた友を守る様に、全力で声を上げていた。
それを見下ろしたジョンとロナルドは、どうしたものか、と思わず顔を見合わせたのだった。
嘘の獣は月に吠える
『……きみ、良く食べるねぇ……』
テーブルの上に乗り上げてまで、ガツガツもぐもぐと。
深皿に顔を沈ませて、凄い勢いで目の前の料理を平らげていく白いふわふわの様子に半ば呆れた様に。
普段の丁寧な所作すら忘れ、少し行儀悪くテーブルに頬杖をついて、“赤い瞳”のロナルドは、目の前で繰り広げられる光景に、思わず小さく溜息を吐いた。
偶然手に入れた纏まった食料に、少量の鶏肉があった。それを湯掻いてササミにして、茹でてホクホクになったジャガイモで和えたそれを、ペロリと元気良く平らげて。
青い瞳の白いふわふわは、美味しかったとでも言うように。ぺろりと口元を舐めて、満足そうに顔を上げて、大きくその毛足の長い尻尾を振ってみせた。
犬なのか、猫なのか……判別は難しいが、機嫌が良い時に尻尾を振るのは、犬の方だったかな、なんて。
そんな事を考えながら、そっとその獣に向かって手を伸ばしてみるが。
「――ウゥゥゥ!」
先程のご機嫌だった様子は急転直下。急に頭を下げて、警戒する様に威嚇の唸り声を上げる。
それを赤い瞳で見下ろしながら、はぁ、と溜息を零して、その手を引っ込めた。
『……きみのご飯を用意してやったのは、私なんだけどなぁ。少しは感謝の意を表したまえよ』
どうして、こう、自分への当たりが強いのか。
その理由に少しだけ心当たりがある事は棚に上げながら。こちらを睨み、ウゥーと唸るその様子に僅かに肩を竦めてみせた。
『……そう、威嚇ばかりするんじゃないよ。折角手当した怪我がまた開いても、“私”は知らないからな』
両手を上げて、触る意思は無いと伝えながら、その赤い瞳を伏せる。
ロナルドの体に纏う塵がわさりと動けば、その瞬間から退治人の雰囲気はがらりと変わる。
ゆっくりと開いたその瞳には、目の前の獣と同じ蒼天の青が光る。
白い獣は纏う雰囲気の変わった退治人の姿にぴくりと耳を跳ねさせると、唸っていた喉を止めた。
突然に警戒を解いて、下げていた頭を持ち上げれば、くぅんと小さな声で目の前のロナルドに甘える様に近付いた。
「……お、ご飯ちゃんと食べられたのか。偉いぞ」
何度か眠そうに、ぱちりぱちりとその蒼天の瞳を瞬いた後、ようやく周りの状況に気がついたのか、ロナルドの瞳が白い獣へと落とされる。
おず、と少し遠慮がちに近付いてくる白い獣の様子に、ロナルドは顔を綻ばせ、そっと手を伸ばせば、自らその身を寄せて撫でてと甘えてくる。
そっと寄せられたその顎の下を指先でころころとくすぐってやれば、楽しげに瞳を細め、白い獣は甘えた様に喉を震わせた。
自分を助けてくれた相手に対する絶対の信頼か。自らの急所を晒し、甘えてくる白い獣に、ロナルドは思わず破顔し、ふにゃりとその表情を緩めた。
元来もふもふと可愛いものに弱いロナルドにとって、懐いてきてくれるその姿はほぼ致命傷である。
こんな世の中故に、気の緩んだ姿は中々拝めない退治人だけに、貴重な瞬間ではあるのだが。
と、そこへ、コンコンと響くノックの音に。
ロナルドは顔を上げると、白い獣を一撫でし、扉へと近付いた。
「ヌヌイヌー、ヌヌヌイ、ヌヌヌヌヌヌヌー」
扉の向こうには見知った気配。迎え入れる様に部屋のドアを開けば、扉の向こうには案の定、隻眼の幼子とその腕に抱かれたマジロがいた。
自分達が頼んだお使いを済ませてきてくれたのか、メビヤツが肩に掛けていた鞄から、真新しい包帯と傷薬を取り出した。
喋れないメビヤツの代わりに、ジョンがお店の人と交渉し、買い付けてきてくれたのだ。メビヤツはそんなジョンの護衛としても同行してくれた。
「お帰り、ジョン、メビヤツ。お使いなんか頼んで悪かったな」
テーブルの上に買ってきた物を置いてくれたメビヤツの頭をふわりと撫でれば、一度だけその大きな片方の瞳を瞬いた後に、やがてメビヤツは嬉しそうににっこりと笑う。さらりとした髪がふわふわと、手のひらを滑っていく。
そんな辿々しい労いを見せるロナルドの様子に呆れた様に、黒い塵がふわりと揺蕩う。
『……全く、ロナルド君はいつまでも分からん奴だな。そういう時は、“悪かった”じゃなく、“ありがとう”と言うんだ馬鹿たれめ』
その方がメビヤツも喜ぶだろうに、と。ゆらりと揺蕩う塵が手だけを形作り、ふわりと労う様にジョンを撫でた。
そんなドラルクの言葉にジョンも同意なのか、そうだそうだと声を上げながら頷いた。
それにロナルドは僅かに困った様に瞳を揺らし、メビヤツとジョンを見下ろした。
「……え、と……その……」
未だに独りで戦っていた時の癖が抜けないと見えて、ロナルドは時々、仲間達にどう接すれば良いのかその解答を間違える時がある。
じぃっと少しばかり期待に満ちた光を帯びて、見上げてくるメビヤツの視線が、何処か擽ったく感じる。
普段はあまり口に出来ない礼の言葉を、面と向かって素直に伝えるのは、少しだけ気恥ずかしく思った。
元来、素直な気質の男だけれども、この世界情勢ではその素直さが仇になる事も少なくはない。それ故に、そういった仲間達との触れ合いの機会も、随分と少なかったのだろう。
「……あ、……メビもジョンも、お使い、あ、ありがとな。助かったよ」
僅かに気恥ずかしさに頬を染めながら、ロナルドははにかんだ笑顔を見せた。
それに満足したのか、ジョンはえっへんと誇らしげに胸を張り、メビヤツは嬉しそうににっこりと微笑んだ。
そんな辿々しいやり取りを眺めながら、黒い塵はやれやれと、僅かに肩を竦ませた。
夜に支配されたこの殺伐とした世界は、この若者の本来あるべきだった優しさや人間性すら、意図も容易く奪っていってしまう。
どれだけのものに裏切られ、傷付けられ、失ってきたのか。
過ぎ去った過去は多くは語らないこの退治人の、そういった面が垣間見える度に、少しだけずきりとドラルクの胸は痛む。
それを奪ったのが同胞だったにしろ、人間だったにしろ、この若造からソレが奪い去られたというその事実が、何よりも気に入らない。
もやりと湧き出る不機嫌は、既に生まれた己の所有物への執着なのか。
何にせよ、これ以上この退治人からは何も奪わせたくはない。
世界一貧弱な自分が今、守ってやれるのはこの脈動する心臓だけだけれども。
それでも、過去に剥がれ落としてきてしまったそれらを、いつか取り戻させてやりたい。
そう想う心は、未だとくりと拍動する胸に秘めたまま。
いつか夜が明けるその日まで、告げる事は無いのだろう。
「ピスゥゥゥゥ!!」
――と、鼻息が抜ける様な甲高い音を立てて。
メビヤツに抱っこされたままだった、もう一匹の獣が声を上げる。
白い獣よりも一回りも二回りも小さなその体躯で、精一杯両手の翼を広げ、私達を忘れるな、と。小さな蝙蝠が主張する。
「……あぁ、悪い悪い。お前も一緒にありがとうな。お前の友達の怪我が早く治るように手当てしような」
メビヤツに抱かれたままだった蝙蝠を労う様に、その小さな頭を指で撫でてやれば、分かれば良いんだと言う様にピスゥと鼻を鳴らした。
そんな蝙蝠の様子にくすりと苦笑して、買って来て貰った包帯と傷薬と手に取って、ロナルドは机の上でぺろぺろと自分の肉球を舐めていた白い獣へと向き直った。
『ジョン、メビヤツ。あっちにご飯が用意してあるから冷めないうちにお食べ。あと、その蝙蝠にも果物あるから。……ロナ造も、手当てが終わったら食べるんだぞ』
ちゃんときみの分もあるんだからな、と。
ご飯に喜んで走っていくジョン達を見送りながら、どくりと鳴る心臓が小言を言う様に拍動する。
ちゃんと言いつけておかなければ、この若造は直ぐに自らの食事を抜きたがる。
潤沢に物が手に入る訳では無いこの世界情勢で、食料は貴重だから、と。
最低限だけを食べて他に譲ろうとするその自己犠牲精神は、彼の美徳とする所だけれども度が過ぎている。
食べられる時にはしっかり食べろ、と。その為にわざわざ、身体の主導権を奪ってまで料理をしているというのに。一向にその意図はこの若造には響かない。
それに、へいへい、と。聞き流す様な返事を返しながら、ロナルドは白い獣へと近付いた。
手に持った白い包帯と傷薬。それを見上げた白い獣の青い瞳が、嫌そうに細められた。うぅぅ、と低く唸りながら、そのピンと張ったとんがり耳が、下に垂れ下がっていく。
少しだけ頭を下げて、警戒体制。
けれども、先程のドラルクに対してのそれよりは、幾分も大人しい。
傷を触られるのは嫌だけど、仕方がない。
そう言いたげな青い瞳が、少しの怯えと信頼の狭間で揺れている。
怯えさせない様、そっと伸ばした手でその毛並みに触れる。ふわりと優しい毛並みが指をすり抜けるけれど、白い獣は逃げなかった。
ロナルドならば、触っても良い、と。その態度の全てが語っていた。
『……こういっちゃアレだが、この子ってさ。怪我隠す時の若造に似てるよね』
「はぁ!?似てねぇだろ!!」
『いや、そっくりだよ。自覚ないの?』
きみって、時々手負いの獣より面倒だよね、なんて。
白い獣を膝の上に乗せて、傷に当てたガーゼを交換しながら、軽口を叩く心臓の戯言に思わず声を上げる。
テキパキと手際良く傷の状態を確認し、処置をしていく。傷口を消毒する時だけ、嫌そうに少しだけ暴れたけれど、果物を持ったまま、心配そうにやってきた蝙蝠の姿に、白い獣は大人しくなった。
傷だらけで倒れていた時も、蝙蝠を毛皮の中に隠し、庇っていた姿を覚えている。そして蝙蝠もまた倒れた友を庇って、非力ながらも見知らぬ退治人に牙を剥いた。
互いを大切に思っていなければ、出来ない行動だろう。
包帯を丁寧に巻き直し、白い獣を柔らかく敷いた布の上に解放してやれば、蝙蝠もまた一緒にそばにやってきた。
少しだけ疲れたのか、布の上で白いふわふわは丸くなった。そんなふわふわに寄り添って、果物を持ったままだった蝙蝠は、ちょこんとその側に座って、ふわふわに埋もれる様に寄りかかった。
私が側にいるから大丈夫だぞ、とでも言うように。
そんな蝙蝠の姿に、白い獣は蒼天の瞳を細めると、側にいる事を許す様に、そのふわふわの尻尾をひらりと揺らし、そっと蝙蝠をその尻尾で包んだ。
それにようやく安心したのか、蝙蝠は持っていた果物に口を付けた。
「しかし、良い加減、呼び名がないと呼び辛いんだよなぁ」
『……おい、ロナ造。まさかこの子達に情でも移ったのか?怪我が治ったら元の場所に帰す。そう最初に決めただろう?』
その約束を違えるのか、と。心臓が冷酷にも釘を刺してくる。
本当はこの二匹を助ける事は最初から賛成していなかった。それでも、譲らなかったロナルドに譲歩したのが今の現状なのだが。
その事実を理解はしているのか、僅かに苦虫を噛み潰す様に表情を曇らせ、けれどもロナルドは食い下がる。
「そうだけどさぁ……でも、その短い間だけでも……」
『駄目だ。やめろ。呼称なんか必要ない。余計な事をするな』
ロナルドの主張に対し、今回の心臓は頑なだ。
頑として受け入れないドラルクの様子に、ロナルドは思わず歯噛みした。
普段であれば多少我儘な主張でもそれを受け入れ、自分の主張を飲み下してくれる所があるドラルクなのだが、今回の事に関しては随分に頑なだ。
最初に見つけ、助けようとした時もドラルクはずっと反対をしていたし、了承しなかった。それを無理矢理、無視したのはロナルドの方だった。
だからなのか、助けた白い獣も蝙蝠も、ドラルクの気配に何処かいつも怯え、懐く様子が見られなかった。
「……何だよ、分からず屋!……いいよこっちが勝手につけるから!白い方がモフロ、小さい方が蝙蝠だからモフド!どうせ傷が治るまでの呼称だ。適当なら良いだろ!!」
俺に似てるって言ったのはお前だからな!――と。
フンっと、少しだけ意地になって、ロナルドは勝手に決める。
モフロ、モフドと、名付けられた獣達は、ぱちくりと数度その瞳を瞬いて、ロナルドを見上げた。そして互いを見遣り、その名を噛み締める様にそっと鼻先を近付けあった。ちょんっと重ねられる鼻先が、そっと触れ合って離れていった。
『……あぁ、もう!分からず屋は君だろ!!勝手に決めて……どうなっても、私は知らないからな!!』
そんな二匹の様子とは裏腹に、苛立ちを隠そうともしないドラルクが、どくりと心臓を打ち鳴らした。
それに、意固地になったロナルドは、フンッと怒った様にそっぽを向いた。
「うるせぇ!お前にどうこうして貰わなくったって、自分がやった事の不始末くらい、自分でどうにか出来るわ!!」
みくびんじゃねぇよ!――と。
啖呵を切る様に言い捨てたロナルドは、不機嫌そうにズカズカとソファーに歩み寄るとドカッと音を立てて乱暴に横になった。
「もう良い!寝る!!……三時間経ったら起こせ!!」
『かぁー!!不貞寝か、五歳児が!!ちょっと、ご飯!!食べなさいよってさっき言ったでしょ!!』
「うるせぇ!てめぇはお母さんか!!そんなに言うならお前が勝手に俺の体に食わせろ!!俺は寝る!!」
これ以上話していたくないと、無理矢理に話を打ち切って。ソファーにごろんと横になったロナルドは、ぱさりと帽子を顔に被せると瞳を伏せた。
即堕ち二秒宜しく、規則正しい寝息が聞こえてきた。
横になってこんなに直ぐに寝落ちるのは、ほぼ気絶と変わらない、なんて……人間達の書物で読んだ事があるが、それにしたってそんなに疲れていたのだろうか。
それか本当に自分と話していたくなかったのだろうか、なんて。
そんな事を考えては、深い溜息が零れ落ちた。
『……はぁー、全く、この五歳児は……きみの身体に憑依して動かすの、実はめっちゃ大変なんだぞ。……それに、そうほいほいと、主導権を譲るんじゃないよ……』
ソレは、きみの大事な身体でしょうに……と。
ふゆりと揺蕩う黒い塵が、ロナルドの身体を慈しむ様に、そっとその身に寄り添う。そんな塵を見上げながら、ジョンとメビヤツが少しだけ心配そうな瞳を揺らしていた。
『……大丈夫だよ。少し眠れば若造の機嫌も落ち着くだろう。……ジョン、すまないが、ロナルド君のご飯はラップしておいてあげてくれ。ちゃんと彼に食べて欲しいからね……』
その為に、美味しく作ったのだから、と。
その言葉は飲み込みながら、少し申し訳なさそうに揺蕩う塵に、優秀な使い魔は任せておけと言うようにポンっと胸を叩き、ヌーと声を上げた。
食べる事は生きる事。口に入れ、何かを咀嚼する事は娯楽でもある。
その娯楽すらも、最近の彼は億劫に感じているのかもしれない。
とくり、とくり、とんとんとん、と。
彼の胸の中で打つ鼓動は、確かに動いている。けれどもそれは、彼の本当の心臓では無い。
無理矢理にこの現世に留めてしまったのは、ただ身勝手なエゴに過ぎない。
それでも、彼は確かにそれを受け入れ、生きる事を誓ったと言うのに。
終わりのないこの戦いに、彼は疲れてしまったのだろうか。
けれども、人々から救世主と崇められ、救いの御手を求められれば、彼は傷だらけの身体を抱えながら、それでも立ち上がる。……立ち上がってしまう。そういう男だ。
どれだけ自分の身体が、心がボロボロであっても。
そうして、燃え尽きてしまうのだ。まるで神話の蠍の火の様に。
“みんなの幸福の為に、どうぞこのからだをお使い下さい”――と。
……そんなのは、クソ喰らえだ。
彼を何としても“人”として引き留めたい。その為なら、幾らだって料理してやるし、世話くらいやいてやる。
彼を此方側へ引き留められるのなら何だってしてやる。
彼を護る為ならば、どんな恨みを買っても構わない。
彼に余計な火の粉が被るくらいなら、最初から遠ざける。その為に、彼の善性を傷付けてでも。
揺蕩う黒い塵の向こう、寄り添う二匹の様子を流し見ながら。
愛し子を護りたい吸血鬼の葛藤は続く。
「――っ、そっちか!!」
ガウンッと響く銃声と、夜闇に棚引く硝煙の香り。
今日の魔都シンヨコにも、血生臭さが滲む。
この世界が“夜”に飲み込まれてから、世界のあらゆる所で大なり小なり、いつだって人間と吸血鬼の小競り合いは起こる。
互いの主張が噛み合わないならば、そこには争いの火種しか生まれない。
人間は吸血鬼よりも劣る生き物で、支配されるべき存在。血袋としての生を謳歌しろ、などと。
人間達の尊厳を無視したその思想では、歩み寄る事など不可能だった。
人間達にとって吸血鬼は悪。全て滅ぼさなければ、自由は無い。
その為の戦いならば、それは“聖戦”である。
……そんな、真っ二つに分断された世界の狭間で、人と吸血鬼が混在するロナルドの存在は、異端であった。
人の中にも、吸血鬼の中にも、戦いを望まない存在はいる。
人々は後ろ指を刺して、日和者、半端者と嘲笑う。けれども、他者を傷付ける事を嫌い調和を、平穏を願う事の何が罪だと言うのだろうか。
黒か白かを問う残酷な世界の只中で、敢えて灰を選ぶその選択肢を、奪う権利を誰が持ち得ようか。
いつしか、ロナルドとドラルクの噂は、そんな人々にとっての救いとなった。
魔都シンヨコであれば、吸血鬼と人間の争いが少なくて済む。
狭間を望む者達が、こぞって魔都シンヨコを目指した。
人間も吸血鬼も、争う意思さえなければ保護をする。
シンヨコの退治人達はこの混迷する世界の中で、迷いながら時に話し合い、最善と思える方法で、中立の立場を貫くべく努力を続けている。
その結果、人も吸血鬼も等しく存在する、そんな魔都が出来上がったのだ。
但し、それは争う意思が無ければの話。
魔都の住人達へ被害をもたらす者に対して、シンヨコの退治人達は冷酷だった。
突如発生した下等吸血鬼の群れ。それを相手取って、黒い塵を纏う赤い退治人は夜闇に踊る。
襲い来るグール達やデカイ蚊を、その手にしたサバイバルナイフで的確に切り捨てながら、は、と短く息を吐いた。
他の下等吸血鬼と違い、グールは使役されている事が多い。
近くに親玉である高等吸血鬼がいる筈だ、と。
周りを警戒する様に、緊張の糸がぴりりと張り巡らされている。
街の人々を襲った下等吸血鬼を追って、気が付けば狭い路地裏に誘い込まれていた。
暗がりが多いこの路地裏では、隠れる場所は存外に多い。
ロナルドのすぐ側で共に戦ってくれていたメビヤツが、目の前のデカイ蚊をその魔眼で撃ち落とした。
「――、♪」
声を持たない魔眼の幼子。唯一人、自分を目醒めさせたロナルドに忠実に従うロナルドの騎士。
ロナルドを守れた事に嬉しさを覚え、思わず誇らしげにロナルドへと視線を向けた。
吸血鬼を屠る魔眼の射手。本来であれば心を持たぬ自動人形は、蒼天の瞳によって心を得た。その心故の幼い行動が、仇となった。
暗がりに潜んでいたチスイガエルが、そんなメビヤツの背後から襲いかかった。
「――――!?」
一拍置いて気が付いても、既に遅い。
瞬間的に目の前まで迫ったチスイガエルの動きは、メビヤツよりも俊敏だった。
血を吸う為に進化した鋭い牙が、すぐ目の前に迫る。
「――メビッ!!」
ぐいっと瞬間的に掴んだメビヤツの服の首元を、引っ張って。ロナルドはぐりんとメビヤツと自分の立ち位置を交換した。
体躯の軽いメビヤツは、首根っこを摘まれる子猫宜しく、ブランっとその身を振り子の様に振るわれ、チスイガエルの牙を逃れた。
手にしたサバイバルナイフが、チスイガエルの牙を弾いて、金属特有の甲高い音を立てた。
多少所でなく乱暴な庇い方ではあったが、傷を負うよりはマシだ。
ブンっと力任せに振るったナイフに弾かれて、チスイガエルがびよんっと地面に跳ねた。
「大丈夫か、メビ!ごめんな!!」
視線は目の前のチスイガエルを捉えたまま、メビヤツを背に庇いながら、ロナルドは乱暴な救出に謝罪する。
地面に降ろされたメビヤツは、ブンブンと首を振って、ロナルドに感謝を伝える様にギュッと一度だけロナルドの服を掴んだ。
狡猾なチスイガエルは、路地裏の闇を利用して巧みに距離を取る。
常人よりも夜目が効くとはいえ、吸血鬼では無いロナルドにとって暗闇は厄介だ。
俊敏なチスイガエルを、この狭い路地裏で仕留めるには闇が多過ぎる。
『――ロナルド君!!もう一匹いるぞ!!』
「え、――――ッ!?」
突然のドラルクからの警告。目の前のチスイガエルに気を取られた刹那、死角となった暗がりの中から、もう一匹のチスイガエルが飛び出してきた。
回避が一瞬、間に合わなかった。メビヤツを背後に庇っていた事もあり、身を引くのが一瞬遅れた。
鋭い牙が左腕に引っ掛かり、その切先が掠める。ビリリと切り裂かれた袖口から、真新しい鮮血が夜の闇に散った。
「――ッ、この、」
左腕にひりりと焼ける痛みが走る。それに思わず顔を顰めながら、ブンっとサバイバルナイフを振るう。
閃く銀の輝きが夜闇を一閃するも、チスイガエルの動きはそれよりも俊敏だった。
空を切った感触にちぃっと思わず舌打ちし、油断無くナイフを構えていたロナルドだったが、急にぐらんっと揺れた視界に、思わずたたらを踏んだ。
「え、あ……」
――しまった。毒だ。
掠めただけの牙から、少量の毒が回ったらしい。
焼ける様な熱さを感じる傷口が、それをまざまざと思い知らせてきた。
目の前にチスイガエルが迫っているのに、がくりと膝から力が抜ける。
まずい、このままでは。
背後にメビヤツを庇っているのに、と。焦燥がちりりと胸を焦がすけれど、地面に落ちた膝を立ち上げる事が出来ない。
毒などにやられて、膝を折っている暇など無いのに。
早く立ち上がらなければ、と叱咤しても、チスイガエルの毒は強力だった。
『――ロナルド君!!』
このままでは不味い。
ロナルドが動けないのならば、身体の主導権を奪ってでも強制的に逃げなければ。
どくりと脈打つ“心臓”が、思わず声を上げた。
けれどそれよりも早く、チスイガエルが毒で弱った獲物へと襲い掛かった。
――その瞬間、離れた場所でジョンに保護されていたソレが飛び出した。
白い突風。まさにそんな表現が妥当だった。
暗い路地裏の中でもはっきりと分かる程の、白銀の毛並み。
地面を一歩踏み出した瞬間、その姿は突如変貌する。
人の子供程の体躯となったそれは、しなやかに流れる毛並みを靡かせて、その牙でその爪で、ロナルドに迫るチスイガエルへと襲い掛かった。
「――――、え……?」
一瞬にして目の前を走り抜けた白い毛並みに、思わず思考が固まった。
遅れて響く狼の様な唸り声に、止まった思考が刺激される。
中型犬程の体躯の真っ白な狼。その瞳には蒼天の青が光る。
ロナルドに迫った二匹のチスイガエルを蹴散らして、ガルルルルゥと鋭い唸り声を上げている。
チスイガエルからロナルドを庇う様に、じゃりりとその四つ足で地面を蹴りつけて、白い獣が威嚇する。
その気迫にたじろいだのか、チスイガエルがじりりと後退った。
「……モフ、ロ……?」
危ないからと、ジョンに預けてきた獣の一匹。変貌したその姿に思わずロナルドは問い掛ける。
そんなロナルドをちらりと、狼の青い瞳が流し見た。
大丈夫、とでも言うように。
その蒼天の瞳には、何処か見知った色が揺れていた。
「アオオォォォォォォォォン!!」
瞬間、白い狼は月に向かって吠えた。
白い喉を目一杯伸ばし、高々と。
その声は何処までも真っ直ぐに、夜の闇を切り裂いた。
余りの迫力と声量に、空気がビリビリと振動する。
その声に恐れをなして、迫っていたチスイガエルは戦意を喪失し、一目散に逃げ出した。
びょんびょんと跳ねる姿が、路地裏の闇の中に消えていく。
街の人達の安全の為に、出来ればここで仕留めておきたかった。
そう思ってはいても、毒にやられて直ぐには動けないこの身では、目の前の危機からの脱却が最優先だった。
ちりりと胸を抜ける小さな焦燥を、息を吐く事で落ち着けて。
ロナルドは助けに来てくれた白い狼と向き合った。
「……お前、モフロ、か?……そんな姿にもなれたのか?」
変わり果てたその姿に瞳を丸くして、思わずその手を伸ばせば、くぅんと小さく鳴いた狼は、甘える様にその鼻先を寄せてきた。
ふんふん、と。ロナルドの匂いを嗅ぎながら、すりりと頭を寄せて、撫でてと瞳を閉じるその姿は、いつものモフロの姿と良く似ていた。
両の手で覆える程小さかったその体躯からは信じられない程大きく、立派な姿になった。
中型犬程の大きさの狼は、褒めてと言わんばかりにすりりとロナルドに懐いていた。
「モフロ、お前、凄いな。格好良いな!!」
そんなモフロの様子に、ロナルドもまた子供のように破顔して、そのふわふわの毛並みを両手で撫でた。
助けてくれたその感謝を伝える様に優しく撫でるロナルドの手に、モフロは嬉しそうに瞳を伏せた。
『……………………』
そんな一人と一匹の様子を眺めながら、ロナルドの傍に揺蕩う黒い塵は、複雑な思いを燻らせた。
ジョンの側にいるもう一匹の獣。そして、目の前のこの獣の正体については、おおよその検討がついている。
残酷な現実が待っているであろう事は、分かりきっているのだが、それでも。
ロナルドを守ってくれたその献身には、感謝している。
自分が危惧しているそれは、果たして杞憂なのか否か。
ロナルドに懐く白い獣を見下ろしながら、これ以上、愛し子が傷つく事が無いよう。
ただそれだけを、願わずにはいられなかった。
とくり、とくり、とんとんとん、と。
奏でる心臓は、静かに憂いを零すのだった。