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「選ばなかった未来を数えるなんて愚かだわ」
白く優美な指はページを捲る。形の良い、少し酷薄な印象を与える唇からは小さく息を溢した。物を美しく扱い使用する彼ではあるが、舞台の公演期間を目前に控えた今ともなれば、手にした台本は流石に少し草臥れ開き癖が付いている。
表紙に印字されたタイトルは、誰もが知っているであろう古典演劇の名作と同じもの。とはいえそのものではあらず、名作をアレンジした現代劇であるらしい。演出と同時に脚本も手掛けるのは、舞台演劇の分野でも名高い人物である。キャストも錚々たる名優揃いともくれば、情報解禁からSNSを騒がせたのも当然であろう。ルークの目の前で溜息を吐いた彼も、その錚々たる名優の中の一人だ。主演でこそないものの、充分に花形と称されるだけの役柄を得ている。
選ばなかった未来を数えるなんて、愚か。
彼の口にした言葉に、ルークは心当たりがあった。
何も、彼が語った訳ではない。彼はプロフェッショナルだ。部外者に仕事の内容を漏らす事などする筈も無い。ただ、舞台演劇を好み嗜む者として下敷きになった古典作品の知識を持ち合わせているだけだ。
この作品は、元の作品に忠実であるなら典型的な悲劇である。悲劇と称されるからには、登場する人物たちに用意されているのは当然須らく身の破滅だ。それぞれの役柄を演じるには、繊細かつ確固たる力量が必要となる。その中でも花形にあたる役を得たからには、ヴィル・シェーンハイトという俳優に与えられるのは相応に華やかな愁嘆場だ。
彼が板の上で与えられた役の男は、自らを追い詰める破滅の足音を聞きながら後悔する。
ああしていれば。こうしていれば。
望んで手に入らなかった栄光の像に最期まで焦がれ、浅ましい仮定を繰り返す。そうして、改心はしない。
ああしていれば。こうしていれば。
そう観衆の前で嘆く予定である彼は、そんな事を言っても、選ばなかった時点でそれはもう有り得ない事象であるのだと知っている。その短慮も、滑稽も理解している。そんな愚かを遠ざける人格である彼。そんな彼がこの役柄を演じる事に、ルークは好奇を感じていた。
「聡明な君が、愚者を演じるのもきっと美しいね」
その姿を、ルークは楽しみにしている。発表以来、幕が上がるのを指折り数えている最中だ。実際に、全公演とはいかなくとも多くの公演のチケットを確保していた。
「アンタは何でもボーテでしょ」
呆れた声で彼は言う。いつだか、何にでも向けられる言葉は安いと言われた事があった。ルークからすれば心外である。世界が、美しいもの達で彩られているだけである。例えそれが数多く口から出る言葉であろうと、それぞれに込めたルークの賛辞はその都度真摯だ。
聡明でしか在らずにはいられない彼が、虚実の中で愚者になる。
愚者である事を、現実であるかの様に力を以て観衆に訴える。
彼のなれない人間になろうとする、その姿の皮肉はルークにとって美しい。想像しただけで、胸中の喜悦が波立った。
「何でも楽しめる男だって知ってるわ」
何かを諦めた色の声で、彼はルークに言葉を向けた。
「でも実際に、アタシが愚かに振る舞ったらちゃんと諌めるだろうから許してあげる」
それがアンタの価値観でない事くらい、アタシは知ってるもの。
言い切って、彼はアメジストの双眸を瞼で隠した。濃く長い睫毛がけぶる様にアイラインの印象をぼかしている。
諌めるのが、ルーク本人の価値観ではない。
それを知っていると告げた彼は、同じ言葉で括る事に呆れを覚えながらもルークにとって己が陳腐でない事を理解しているのだろう。
「ああ、ヴィル」
興奮でルークの視界が滲む。
「キミはいつだって美しいね」
選ばなかった未来を数える愚か。
彼は役者としてそれを演じるが、彼自身がそうなる事は決して無いだろう。
彼は、ルークが。彼がそうならない様に。その為だけに、平素他者に振る舞う肯定を与えない事も、その意味も知っている。
だからこそ、近く観衆の前で愚者を演じる彼は、現実では愚者にならない。
彼は。
ヴィル・シェーンハイトという一人の人間は、聡明で在らずにはいられないのだ。
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