内側のスケアリー・モンスター.
美しすぎるヴァンパイア。
彼を前にして、その言葉に異論を覚える者は居ないだろう。居る筈がない。敢えて言うならば、寧ろ表現が安過ぎるという事だろうか。それならば一理ある。安易で、安直で、だがそれ故に流布も容易でキャッチー。チープな言葉は間口も広がる。SNSでの浸透を狙うならば適している。ルークとしては、『美しすぎる』という一言だけでは些か物足りないのも事実であるが。
なんとも修飾の簡素過ぎる、単純な言葉だ。
ハロウィンウィークの為に彼の磨いた美は、ルークの目にはそれよりもずっと奥深く見えるというのに。
マジカメモンスターと名付けられた迷惑なゲスト達への対処の下準備として撮影を進める彼と寮生達を眺め、ルークはそれを実感した。
ダークカラーの唇は、幅を狭く塗られ本来の輪郭よりもずっと肉薄に見せる。
グリーンのベースを仕込まれた肌は、元より誇る白皙を一層青褪めさせる。
人間への捕食者である怪物の、無慈悲な酷薄を表現して居るのだ。
メイク一つとっても意味が込められ、入念に用意されたものである。ただの仮装と、軽視されるべきものではない。ハロウィンはこのNRCにおいて重大な行事であり、今年が最後になる三年生であり、運営委員長。これだけ条件が並べば、この装いに懸ける熱意も労力も察して余りあるだろう。ヴァンパイアに扮する彼の姿は、彼自身の努力の粹だ。
数百枚を目標とする写真を撮る為に、彼を囲む寮生は代わる代わる入れ替わり、彼自身は幾度もポーズを目まぐるしく変える。これも、彼自身が努力を以って培って来た技術だ。一種で、様々なアングルからの撮影に対応出来るポージング。そして、そのバリエーション。単純な物量作戦実行のためのタスクは、被写体のプロフェッショナルにしか熟せない。
談話室の三人掛けのソファにしなだれ掛かった彼が、小さく顎を引き首を傾ける。その動作で、まとめて上げた前髪の毛束が少し解れた。ヴァンパイアというテーマを意識してカーテンを閉ざしシャンデリアと燭台だけを光源とする室内で、細くも濃い影が露出し秀でた形の際立った額に落ちた。
「御髪が…」
吐息を主体とする、嘆嗟と陶酔の入り混じった声が即座に上がる。
ルーク、と。零された言葉に多くを問わず、視線をずらす事も無く、彼は端的にルークの名を呼ぶ。
「お呼びかな?毒の君」
「お呼びじゃなかったら名前なんて呼ばないわ」
微笑み仕掛けた戯れは、すげなく断ち切れてしまった。それにルークは含み笑い、歩み寄る。よく出来た寮生達は、声を掛けずとも身を退き道を空けた。
辿り着いた先で右手袋を外し、軽く身を屈め伸ばした指先で髪の流れを整える。整髪料を帯びた髪は、少し圧を掛ければ纏まりを取り戻した。その様を捉え、シャッターの音が鳴る。
「オフショットは、マジカメには載せないでおくれ」
撮影自体は咎めずそちらに振り向きウインクを送れば、はい、と返そうとしたであろう裏返った声が悲鳴にも近い音で上がった。咎められはしないと察した周囲から、追従する様にシャッター音が重なって続く。
髪を直し、ついでとばかりに服の皺やマントの流れ、ブーツの編み上げにも手を付け一歩下がり、ルークは彼の頭頂から足先まで視線を動かし全体を確認した。マントの広がりに少し手を加え直し、もう一度確認を繰り返した末に頷く。
「ありがとう、ルーク」
修正の完了を察した彼がルークに声を掛け、そうして二度、大きく手を叩いた。気を惹かれ、未だ続いていたシャッター音が一斉に止まる。
「休憩は終わり。再開するわよ」
熱を継続しつつも、どこか弛んだ空気が一変して引き締まった。リーダーシップの強い彼の一声で粛々と、本来の趣旨に戻った撮影会が再開される。美のカリスマである彼に、皆等しく美を尊ぶ寮生達は従順だ。
恙無く進む撮影を尻目にマジカメのアプリケーションを開き、先んじて撮影を終わらせた寮生の投稿した写真の様子を確認する。ハッシュタグを付けて検索を掛ければ、投稿数は既に百を超えていた。その多くが、いくつかシチュエーションが分かれつつも今回の撮影会でのものであるが、中には一般のゲストが撮影したと思われる写真も混ざり始めている。ハッシュタグが話題となり、六日目までに来場したゲスト達が便乗を始めたのだろう。良い傾向だ。拡散は、より加速してゆく事だろう。ルークは、常から浮かべている薄笑いを深めた。
「そろそろロケーションを変えましょう。
次はそうね…、鏡舎なんてどうかしら」
彼の指示に、寮生達は一旦撮影を中断した。屈む姿勢の長かった者は背中を反って伸ばし、座り込んでいた者は立ち上がり膝を伸ばす。アキレス腱を伸ばしている者は、恐らく背伸びで上からのアングルを狙っていたのだろう。モバイルバッテリーの貸し借りも行われていた。
「何か飲んで行くかい?」
一息吐いた彼に、ルークは移動の前に水分補給を提案する。
「そうするわ」
「ハーブティーで良いかい?」
「ええ、ホットでお願い」
茶葉は任せるわ、と。注文も付けず一任されるのは、投げやりではなく信頼の証左だ。
ウィ、と。平素通りに一音で承諾し、ルークは隣接している簡易キッチンへ向かった。設備の整ったキッチンは別にあるが、談話室という性質上軽い飲料の支度はこちらで出来る様に設けられているのだ。珈琲や紅茶、フルーツジュース等が寮費で潤沢に用意されているが、それに加えてヴィルは寮長特権により、私費で購入した私物をストックするスペースを確保している。
その中から、ルークは淀み無く円形の缶を一つ選び手に取った。今日はハニーブッシュを淹れる。ビタミンやミネラル、ポリフェノールを豊富に含まれているこの茶葉は、ハロウィンウィークも佳境を迎え正念場でもある今、彼に適しているだろう。茶器を温め茶葉を入れ、湯を注いで抽出すれば植物の華やかさと蜂蜜に近い甘さの入り混じった香りが柔く広がった。蒸気が肌に心地良い。
トレーにソーサーとカップも並べ、体感で抽出時間をあと一分程残した所で談話室へ戻り始めれば丁度良く彼にハーブティーを提供出来る。ここにエペルが居たならば相性の良い蜂蜜も用意するが、ヴィルとルークの二人だけなら必要無い。勿論気分によっては甘味を求める事もあるが、少なくとも今はそうではなかった。
談話室の入り口に背を向けて座る彼の隣に回り込めば、彼は視線を手元のスマートフォンの画面へと落としていた。自分でも、SNSの動向をチェックしているのだ。
ロイヤルブルーのラインとゴールドの縁で彩られたソーサーの上に、伏せていた揃いのカップを正しくセットし要望通りのハーブティーを注ぐ。良いチョイスね、と。茶器にも茶葉にも掛かるのだろう評を口にし、彼は端末をテーブルに置き手を離した。優雅にハンドルを摘み、カップを持ち上げる。そうして口を付ける前に一度、嗅覚で香りを楽しむ。小さく目元を和ませ、緩く唇端を持ち上げたのが見て取れた。
彼が飲料を口に含む。同じくして、ルークも自分のカップを持ち上げ傾けた。癖の無い味が、鼻腔に広がり口内を満たす。音を立てず静かに嚥下する一方で、カップの影で彼の喉笛が微細に上下しているのをルークの目は捉えていた。飲み下す、当然の生理反応だ。今人外を模した姿で、その人間としての生存している証を目の当たりにする。そんな事実に、妙な倒錯を覚える。彼と同じくマナーに忠実に、静かに液体を飲み下していたルークの喉が、引き連れる様に一度大きく鳴った。
「毒の君。鏡舎で撮影した後は、どうするつもりだい?」
己に忍び寄った興奮の気配を隠し素知らぬ顔で、ルークは彼にスケジュールについて尋ねる。
「時間も丁度良い頃でしょうからスタンプラリーのスタッフと撮影班を入れ替えて、校舎で新しいメンバーで撮影しようと思ってるの」
その返答に、トレビアン、と感嘆を返した。
「とても良いね。無駄がなく効率的だ」
そう続ければ、そうでしょ?と返す彼は得意げで常よりも少し幼い。常が年相応でなく大人び過ぎているのだと言えばそうなのだが、だからこそ際立つ。そしてそれを無防備に露呈させる要因が親しさであるのだから、ルークにとってその姿が愛らしく映るのは至って道理と言えるだろう。
「撮影は問題が無さそうだね。
となると…あとはテアトルをどうするか、かな」
今行っている撮影は計画の肝要部には違いないが、あくまで仕込みである。直接的にマジカメモンスターへ作用する訳ではない。彼らを怯えさせる寸劇が必要だ。そしてそれは、現状白紙に近い。ヴィル・シェーンハイトは本物のヴァンパイアである。そう思い込ませるという目的は決まっているが、逆に言えばそれしか決まっていない。
「ヴァンパイアといえば、やっぱり王道は吸血よね。寮生の誰か、適当に噛み付いてやろうかしら」
ヴィルのその発言に、ルークは瞠目し声を上げる。
「オーララ!そんな事を?サービス精神が旺盛だね。
哀れな…とはとても言えない、ヴィルに噛み付かれる幸運なサクリフィスは一体どうやって決めようか?きっと希望者が殺到するよ」
「まぁ、アタシに噛まれるなんてお金を払ってでもされたい人間が幾らでも居るものね。どうやっても角が立つに決まっているし、ランダムで良いんじゃないかしら」
そう言って笑う彼の口元から、本来は整っている筈の歯列が覗いた。白いそれは、今は牙を模した被せ物で乱れが加わっている。
「嗚呼。常日頃から誇りを持っている副寮長という役職だけれど、今ばかりは憎く感じてしまう!」
私が演じたかった、と。ルークは天を仰ぎ大きく嘆いてみせる。
内容の決まっていないエチュードではあるが、目的へと誘導するナビゲーターを必要とするのは絶対だ。ヴィルが主演である以上、当然その役目を担うべきはルークに他ならない。示し合わせてこそいないが、それはヴィルとルークの持つ共通認識だった。
オーララ…、と嘆きを幾度か繰り返し、ルークは感情の整理を着けた。
「許そう……テアトルなのだから……。そう……、テアトルなのだから……」
自分に言い聞かせる様な渋い声での呟きに、呆れを含んでヴィルが笑う。
「どこから目線の何の許可なのよ」
「これはおそらく許容の話で、許可とは別の問題なんだ」
そう補足したルークの言葉はヴィルの価値観外のもので、意図が一切伝わっていない。それはルークの目に明白であったし、ヴィルも己が感覚を汲み取れてはいないのだという自認を持っている様子だ。そして、そこで区切りこれ以上許容については追求しない。無理をして理解しようとはせず、同時に理解したつもりになろうともしない気性は彼の美徳だ。同時に、理解し得ない価値観だと判断するのも早く敏い。
そうして内容への共感を放棄したヴィルは、ただ発言に込められたルークの大仰な嘆きと彼からすれば謎の苦渋を単純に楽しんだ。
「ああ、おかしい。ルークがこんなに羨むなんて思ってなかったわ」
「テアトルだからこそ、こうして納得しようとしてみせられるのだよ」
笑いに呼吸を小さく喘がせ始めた彼に、肩を竦めて返しルークは言及する。
「もしもキミが本当に血を求めるモンスターであったなら、許すとは言わないさ。真っ先に、私に牙を突き立てて欲しいと乞うよ」
どんなベル・オムの語る愛よりも熱く、キミの糧となりたいと伝えてみせる。
脳裏でその状況を想定しただけで、仮定の言葉が甘さを帯びた。ルークはうっそりと微笑む。想像だけで、こうなのだ。演技を羨むとすら思っていなかった彼からすれば想像し得ない程の懇願を、ルークは彼に向けるだろう。
「アンタって、本当に適当な事ばっかり」
懇願を向けられる彼は特に気に留めず笑い、そんなルークの言葉は冗談になってしまった。それでも良いと、ルークは思う。適当だと思われて良い。冗談だと思われても良い。それで彼とルークの関係が健全を保てるのならば、結局それが一番良いのだ。
ふふ、と。
笑みを落ち着けようとしたのだろう。彼が薄く口を引いた。習慣付いた仕草に意識が追いつかず、常と違った偽装の牙が柔い唇に突き刺さり肉を沈ませた。
美しすぎるヴァンパイア。
なんと端的な、方向の定まらない茫洋とした言葉だろう。
牙の食い込んだ唇を眺め、ルークは改めてそう実感する。
ルークならば、幾ら美辞麗句を連ねようと満足し得ないだろう。幾ら詩を贈ろうと、幾ら歌を歌おうと、表現が彼という美に追い付かない。美しすぎる、なんて。そんな陳腐な言葉に収まる彼ではないのだ。
きっと、彼の美を語れば、夜は一千一では足りない。
ともすれば、人としての一生を捧げても足りないのかもしれない。
命の限り傍で言葉を紡ぎ続ければ、それはルークが彼の為の金糸雀である様で素敵だ。
冗談だと片付けたヴィルが、糧となりたいと口にしたルークの心情を理解する事は無いだろう。糧となりたい。この言葉は、紛う事なきルークの本心だ。
彼の為の存在である。
彼の為の生命である。
そうして、彼を生かす一端である。
それがルークにとって幸いとなり得る現実を、彼は理解しない。
それも良いと、ルークはそう思うのだ。
彼は己がルークに幸いを与えていると知らず、ルークは彼が知らないままに勝手に幸福になっている。その構図は白々しく滑稽で、食い違いながら円滑で面白い。
美しすぎるヴァンパイア。
それはなんと、無責任に楽しい仮定だろう。
結局、全ては仮定の話で空想だ。あり得ない妄想の絵空事。
だが実はこの愉悦の本質は仮定そのものには無く、『そう』仮定した際に『こういった』情緒を抱くだけの素養を、仮定しない状態の平素からルークはヴィルに向けて内包しているのだ。ヴァンパイアに限らず他のどんな仮定だろうと、向かう情緒は同じ重さに至る。倒錯に至り、勝手に甘く陶酔する。そんなルークを、共感し得ない彼は理解もし得ない。
そう、ならば彼は、ルークの重さも狂気の沙汰も、実感する事は無いのだ。
相手が知らない事は、相手の世界に存在しない事と同義だ。ヴィルの世界のルークは、実感出来ない範囲の重さも狂気の沙汰も存在しない。なんと自由な事だろう。寧ろ不可解であればある程、ヴィルはルークを理解しようとしない。都合の良い事実だ。
喜悦も恍惚も、ルークは自分の胸にだけ仕舞い込める。実は、これが一番楽しい。ルークは一人遊びが好きなのだ。そして、本当は自分だけのものにするのが好きだ。
その点で言えば芸能人であるヴィルは対極である様だが、皆のものであるかどうかに関わらず、そもそも人は個人であり尊厳を有し他人のものにはならない。
だから、ルークは狩りが好きだ。写真が好きで、絵画が好きで、詩が好きだ。それらは、手に入らない存在を切り取って自分のものにする手段なのだ。
ふ、と。
ルークは細く、息を吐いた。熱を逃した。そうしなければ、胸が焦げて焼け切れてしまいそうだった。
「あながち冗談でもないのだけれど。
適当な事ばかり言う私は嫌かい?」
ルークは、狡いコミュニケーションを仕掛ける。答えは解っている。そして、この狡さがヴィルに伝わらない事も解っていた。
「そんな事言ってないじゃない」
狡さが伝わらないヴィルは、容易く受容の言葉を口にした。そうして笑みを零す。眉を潜め、困ったような笑い顔。セルフプロデュースもコントロールも完璧である彼であるのだが、どうしてだか飾らない笑顔だけが下手なのだ。
その笑顔に、ルークも笑顔を返す。
こうして実際に交わされる遣り取りに目を向ければ、二人のコミュニケーションは極めて双方向性が高く健全な関係だ。信頼で結ばれ、親愛で満ちている。問題は無い。二人の関係は良好で平和だ。
ルークの内面はルークだけのものであり、彼は──ヴィルは、己に向く情緒で生まれるルークだけの感情を知る由もないのだから。
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