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    KKR

    @KKR_156238

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    ここから始まる16年間の恋のお話がその内Pixivに上がった後、書き下ろしを加えて本になる予定です

    愛をくらえ 妖怪世代と呼ばれていた。その中で、侑も確かにバケモノだった。
     バレーボールにひたむきなバケモノ。よそ見を許されない、許されようと思う隙きすら無い。ストイックという言葉で纏めるには足りない程のバケモノ達の姿勢はさぞ、それ以外のものを犠牲にしているように見えただろう。だが、侑にはそんなつもりはなかった。きっと、バケモノと呼ばれる他の面々もそうだ。だからこそ、彼らはバケモノと呼ばれるのだ。
     侑の生活には、長くバレーボールしかなかった。コートの中だけで生きてきた。侑はそういう生き物だ。だが、そんな侑自身も驚く事に、バレーボール以外にも向いた情緒が一つだけある。バレーボールしか選ばない。そんな侑の生活には組み込まれず叶える気も無かったが、顧みられないその情緒は、だからこそ胸中で温まり続けた。紛れもなく、明確に恋情だ。
     自覚するのこそ遅く数年を要したが、高校時代に望みもしないのに転がり落ちたその恋は、侑にとっては手の届かない恋だった。
     それはそれで、一つの美しい形だ。悪いものでもないだろう。
     手の届かない、見ているだけの、ショーケースに飾ったような触れられない感情。そこにはある種の美化がある。その感情は、侑にとって精神的な潤いでもあった。胸中で抱える、温かくなるような。擽ったくなるような。バケモノである侑の、人間の部分。取り出しては眺める、それは永遠に侑だけのものであり続ける筈だった。少なくもと、侑はそう思っていた。
     だというにも関わらず、そんな恋に、今変調が起ころうとしている。誓って言うが、侑が望んだ訳ではない。期待なんて、欠片も持っていなかった。
     引退したら何しよかな。
     冬の夜道。酒気で火照った頬を心地良く冷やす澄んだ空気の中で、大きくもない侑のぼやきが響く。他意は無かった。ただ、浮かんだ事を言っただけだ。
    「そんなん、俺のになればええやん」
     ちょっとコンビニ寄ろか。
     そんなセリフと同じような気軽さで、白い息を吐きながらそう答えが返ってくる。
     侑の長年抱えた叶える気の無い恋の対象、北信介の言だった。








     北信介を侑が簡潔に表すならば、一言で“怖い先輩”。これに尽きる。
     今まで周りに居なかったタイプの彼は、兎にも角にも“正しい”人だ。
     口だけならなんとでも言える。耳障りの良い綺麗事なんて皆知識としては知っている。そんなもの、侑には何も引っ掛からないし従う気も起こらない。空々しさなんて、聞けば解るものなのだ。
     だからこそ解る。北の言葉は、本当の意味で正しい。彼は誰より、彼の説く正しさを実行している人だ。口だけでない。彼は実践し、彼の言葉を体現している。だからこそ、誰も彼の言う事を否定できない。“正しさ”が“正しい”とされるだけの所以を、彼自身の言動が示している。だから、侑は彼を怖いと思う。他の部員だって同じ筈だ。反抗出来ない状態で咎められるだなんて、誰だって怖いだろう。無抵抗で殴られるようなものだ。北が、殴り返すのを許さない訳ではない。彼はそんな暴君ではない。殴り返すのを許さないのは、寧ろ殴られる部員自身の方だ。圧倒的な正しさへの反抗なんて、自分を貶めるだけだ。幸いに、稲荷崎高校バレー部にそんな事すら解らない程の愚か者は居ない。
     北は、プレイで文句を黙らせてきた侑や治とは違う。意見させないレベルのスタープレイヤーではない。それでも文句をつけられない、浮かべられない程の正しさ。圧倒的だ。
     正しい人、だなんて。表現される人間は大人でもそうそう居ないと侑は思う。誰だって、何かしら詭弁を使う。建前を使う。誤魔化そうとする。間違った自覚を持ちながら正しいという顔をする。北にはそれが無い。その姿勢は、実際の彼の伸ばされた背筋と同じだ。きれいにまっすぐ。
     そんな彼に今まさに咎められたのは、侑の無鉄砲だった。
    「体調管理できてへん事を褒めんな」
     強い言葉を向けられたのは、正確には侑じゃない。体調不良を押して部活に出ようとした侑を肯定した銀島だ。だが、それは侑の耳には自身への否定として届く。
     帰れや、と。
     北は侑にそう言った。怒鳴るでも、嫌味でもない、ただ坦々とした声で。何でもない調子で。
     侑はどんな体調でも、それこそ寝込みでもしない限りバレーボールがしたかった。プレイしていたかった。コートの中に居続けたい。そんな欲求はバレーボーラーなら自然なものであるだろう。けれど、嫌だ、とは。たじろぐ事も無くじっと、無言のままに圧の強いどんぐり眼に見つめられれば言えなった。
     咎められるまで、侑は欠片も帰ろうとは思っていなかった。その発想すら無かった。鼻を啜って少し悪寒がする、滅多に無かったがこれくらいの風邪なら、バレーボールを始めた小学時代から中学時代まで部活に参加してきた。けれど言われてしまえば、帰るのが正しいのだと解ってしまった。軽い症状だとはいえ、養生を怠れば拗らせて長引くかもしれない。もっと悪ければそれこそ部活が出来ない程に、悪化するかもしれない。そうなれば、万全でバレーが出来ない期間は長くなるだろう。だったら、今軽い内に休んでしっかり治した方が、結果的により良くより長くコートの中に居続けられるのだ。
     何よりも、北がそう言ったのだという事実が、今の侑の理解が正しいのだと証明していた。
     ただ。
     ただ、だ。
     言い方がキツ過ぎる。正論だから余計にだ。
     正論というのは元々、後ろめたい事のある人間には酷く痛く響く。自分の非を突きつけられるのだから当然だ。自分が間違っているなんて認めさせられるのは、大概の人間は嬉しくない。その上北はそれを、躊躇なくストレートに、余計な言葉なんぞ挟まずにぶつける。豪速球だ。比べれば、侑のサーブすら可愛いものかもしれない。滅茶苦茶に刺さる。時代劇の人斬りぐらいに思い切りよく容赦が無い。
    「もっと優しい言い方ないんかいっ」
     なんっやねんっ!
     正しさに反論出来る訳も無く、ぶつけ所の無いむしゃくしゃを抱えて、侑は乱暴な仕草でロッカールームに戻った。本人に言えない文句を口にして、完全に負け犬の遠吠えだ。それで余計にむしゃくしゃする。気なんて晴れず、苛々が増すばかりだ。
     冷たっ、だとか。風邪引いてまう、だとか。側で聞いていた角名や治が言っていたくらいだ。あんな言い方では、風邪っ引きが増えるというものだ。
     正しい。
     正しいのだ。
     解っている。
     だからこそ、言い方くらい気にして欲しい。そうしてくれさえしたらこちらも、もっと素直に聞き入れて感謝出来るのに。
     そんな事を考えている最中に、ベンチの上にこれみよがしに堂々と置かれているビニール袋に気が付いた。貼り付けられたメモは、侑を名指ししてメッセージを向けている。
     飯をちゃんと食って寝ろ。
     はらいのはっきりした、意外と筆圧の強い文字。最後に北と署名してある。送り主が、これ以上ない程に明確だ。もっと四角四面な文字を書くイメージを持っていたが、案外おおらかな筆跡。ビニール袋の口は大きく開いていて、中身が一目瞭然だった。ほっとレモンと、効きそうなハーブののど飴と、お婆ちゃんが選んだみたいな梅干し。
     体を温めて、喉を潤して、クエン酸を摂りつつ消化を助けて食欲が出るように。
     こんなの、労りのかたまりだ。
     北が侑の事を考えて、的確に思いやっているという現実の具現化。北が侑に傾けた情の証拠。
     ずるい。
     あんなにキツく侑を咎めたあの人が、反面こんな優しさを差し出してくる。
     こんなのずるいに決まっている。わざとなら罪深い。
    「泣いてまうやろ」
     勢いよく大声で、いっそ絶叫と言える程に感激を吐き出した。
     そうでなければ。勢いで誤魔化してしまわなければ、本当に涙がこぼれてしまいそうだった。実際視界は滲んだし、鼻は余計痛くなった。胸が詰まってぎゅっと痛いし、そのせいで息だって苦しい。熱い何かが、臓腑から込み上がってくる。
     なんやねん。
     先程までの怒りと全く違う感情で、そう浮かぶ。ただただ熱い事しか解らず、その感情の正体どころではない。それを追うには、侑に余裕が無さ過ぎる。熱い。くるしい。
     なんやねん。
     初めて得る情動に、浮かぶのはそんな言葉しかない。
     どこか途方に暮れたまま、侑は自分に宛てられたメモを見返す。『ちゃんと』食って寝ろ。ちゃんと。北らしい言葉だ。
    「あ~…」
     思わず天を仰ぐ。
     あの人、俺のことどうしたいんや。
     そんな事を考えるが、どうしたもこうしたも無い。体を治せと、それ以外の意図は無いだろう。解っているが、それが侑にはつまらない気がして、幸運な事に込み上げてくる何かの温度が少し下がった。そうすると、今度はそれとはまた別に、具合が悪くて体温が上がっているのを実感する。悪寒がして頭が鋭く痛い。
     もぞもぞといつより余程遅くジャージの上を羽織り、侑は大人しく帰宅した。温かい内にと、道中北からのほっとレモンをちびちびと飲む。一口飲下す度に、体のどこかに沁みるみたいだった。
    「どないしたん、部活は?」
     ただいまと言って汚れ物を出そうと洗面所の洗濯機に向かっている途中で、廊下に面した居間から母親の声が掛かる。平時にはあり得ない時間帯の帰宅だ。何かと聞かれるのも当然だろう。
    「帰れ言われた。風邪」
    「あんたがバレー休むて、よっぽどやん」
     侑の返答に、ぱたぱたとスリッパがフローリングを叩いて移動する音が聞こえた。
    「熱計り」
     顔を出した母親が、白いケースごと体温計を寄越す。促されるままに侑はリビングのソファーに座り、大人しく体温計を左脇に挟む。床に置いたエナメルのスポーツバッグは、母親が回収した。
    「教科書の一冊くらい持って帰りや」
     汚れ物を出す時に中身のスカスカさを見たのだろう母親が、小言をこぼしながら帰ってくる。
    「何度?」
     測定終了を告げる小さい電子音が聞こえたものの億劫でそのままにしていた体温計を、問われてのろのろと脇から脱いた。表示されているのは38.1℃。思っていたよりも高い。疑ってはいなかったが、本当に帰るべき案件だった。数値で示されてしまうと自覚が湧いて、一気に具合が悪い気がしてくる。
     体温を告げれば、高いやないの、と驚きの声。
    「薬飲まんと。何か食べれる?」
     そう聞かれたので、ビニール袋をがさがさ言わせて梅干しのパックを取り出す。
    「これ、粥にでもして」
    「買うて来たん?」
     あんたが?
     らしくないと言外に伝わってくる疑念に、もろた、と手短に返す。
    「ええん貰たやん。寝支度しとき」
     出来たら部屋持ってくわ。
     おん、とそれに返して、侑は冷蔵庫の冷却シートを取ってから治と共用の自室に戻る。部屋着のスウェットに着替え、脱いだ服を一箇所に纏めて積んだ。普段ならどつかれる行為だが、体調を崩した今ならこれで良い。食事を持ってきた際にでも、母親が回収してくれるだろう。
     二段ベッドの下の段で、布団に潜る。本来こちらは治の寝床で侑は上段であるが、看病のし易さや移動の労力を考えてこういう時は侑が使う。人の寝具ではあるが、双子だけあって体臭も大差無いのだろう。匂いに、普段と比べての違和感は無かった。
     仰向けに寝そべって、視界は二段ベッドの天板で埋まる。最初は冷たく気持ち良く感じる冷却シートだが、ぬるく感じるようになるのはすぐだ。これほんまに効果あるんかな、と毎度思わなくもないが、メーカーの謳い文句を信じるならばそう感じるだけで熱を吸い取ってくれてはいるのだろう。そんなしょうもない事を、いつもより更に働きの悪い頭で考える。
    「起きれる?」
     宮家にノックという概念は無い。豪快にドアが開く。起きれる、と答える代わりに侑は肘を着き、のそりと起き上がった。布団に入ったままの腿の上に、一人前用の土鍋の乗った盆が置かれた。ぐずぐずに煮られた米の上に、ほぐして種の除かれた梅干しが浮かんでいる。湯気が柔らかい。水蒸気にくすぐられて、侑は鼻を啜った。
    「鼻嚼みや。啜られん」
     余計詰まるで、と。注意をしながら母親はティッシュを箱ごと寄越す。二組纏めて引き出して重ね、侑は勢い良く鼻を嚼んだ。そうして丸めて、握る。どうせ、食べながら流れてくるのだ。こまめに拭うにはこれが良い。
     レンゲで粥を掬い、少しだけ息を吹きかける。別に猫舌という訳でもないのに、最初はこうして温度を伺ってしまうのはなぜだろう。口に入れる。火傷はしない。甘みも塩気もいつもよりぼやけているが、微かにしょっぱい味が確かにする。北からの労りの味だ。それを実感して、粥の温度とはまた別に、体の芯が温まった気がした。なんとなく勿体ぶってしまってゆっくりと口に運び、完食まで少しかかった。その間に母親は、侑の脱いだ服を持って出て戻って来た。それでも食べ終わっていなかったくらいの時間だ。
     土鍋が空になって、風邪薬を渡される。市販の、瓶詰めタイプの物だ。指を突っ込み、黄色の錠剤を三錠取り出す。瓶に当たって、かつんと短く音が鳴った。コップの水でそれを流し込み、拳の中のティッシュと一緒に盆に乗せて土鍋ごと母親に渡す。
    「マスクしとき。これも」
     そう言って、盆を一度床に置いた母親は、使い捨てマスクと半纏を差し出した。綿の詰まった分厚い半纏は、治と色違いの祖母からの贈り物だ。山吹色のチェックのそれを羽織って前身頃の紐を結び、マスクを着ける。そうして再び布団に潜るのを見届けて、母親はカーテンを引いてから部屋を出ていった。
     もぞりと壁に向かって寝返りをうち、目を閉じる。
     飯は『ちゃんと』食べた。そうなると今度は、『ちゃんと』寝る番だ。
     ちゃんとしてますよ。心の中で、侑は北に報告する。満腹と薬の効果で、うつらうつらとしてきた。眠気で意識がふやけていく。褒めてくれるやろか、と。うっすらそう思った。それから、夢も見なかった。
     次に意識が浮上した時真っ先に脳に届いたのは、近くで軋む音だった。音の方向に首だけ回して振り返れば、カーテンから外の光が透けるだけの薄暗闇の中、はしごを登る足が見える。
    「サムやん…」
     普通に考えればそれ以外である筈も無いのだが、ぼやけた頭で反射的に呟く。
    「起きたんか」
     登っていた足が下がって、侑と同じ顔がひょいと下段を覗いた。
    「なんか食うか?」
     まだ寝る、と答えかけて空腹に気が付く。
    「なんがある?」
     聞きながら、体も治に向かって寝返りをうつ。感覚を探ってみると、どうやら起き上がれそうだった。更に転がってうつ伏せになり、肘に体重を乗せてむくりと上体を持ち上げる。冷却シートは半分剥がれていたらしい。めくれて右目を隠した。邪魔なので取ってしまう。ぱち、と音が鳴って部屋を蛍光灯が照らす。治が、部屋の入り口にある電灯のスイッチを押した音だった。
    「うどんとかならあるんちゃう?普通に晩飯もとっとるけど」
     起きたら熱計れ言よったで。
     そう声を掛けられて枕元を見てみれば、寝る前には無かった体温計が転がっていた。
    「なんか普通に食べれる気ぃする」
     体温を計りながら答えれば、ほんまか?と治は胡乱げに渋い顔をする。
    「ほんまや」
     ん、と。疑う治への主張の裏付けに、液晶部分を見せながら小さく音を鳴らした体温計を差し出した。表示されたのは37.2℃。大分楽な温度だ。筋肉量が多く代謝が良い侑からすると、平熱に少し色を付けた程度の体温でしかない。頭が重いのは頭痛のせいではなく、寝起きであるせいなのだろう。
    「おー。大丈夫そやな」
     取ってくるわ、と。ベッドサイドに戻って来て、体温を確認した治が無事納得した。
    「今日なん?」
    「生姜焼き」
    「最高やん」
     軽口を叩く程度に余裕が戻っている。晩飯が焼き物で良かった。平気だとは言ったが、揚げ物だと流石にキツい気がする。豚ロースの脂身くらいなら平気な筈だ。
     弄ろうとして探したが、そういえばスマートフォンが見当たらない。思い返せば、寝る前は着替えで精一杯でそれ以外した覚えが無い。ということは、制服のポケットの中だ。ジャケットは、スポーツバッグの中に適当に詰め込んだ気がする。そのスポーツバッグは、母親に任せたきりになっている。
     思い当たって視線を、部屋の中でうろつかせる。そうするとすぐに見当たって、侑の学習机の上に置かれていた。体を持ち上げて、床に足を下ろし注意深く踏みしめる。少し覚束ない一歩目を経て、二歩目を踏み出しクローゼットに近寄った。母親の事だ。汚れ物を出した時に制服に気が付き、ジャケットとスラックスはハンガーに掛けてくれているだろう。折れ戸を引いて、侑のスペースである右半分に目を遣る。見当をつけた通りに制服が吊り下げられていた。襟が少し擦り切れている位置や具合からして、侑のもので間違い無い。奥側の右ポケットに手を入れれば、探るまでもなく手癖で、すぐに目的の物が掴めた。
    「何しとんねん、寝とけや」
     肘でドアノブをひねり、行儀悪く足で開けた治が戻って来て開口一番にそう言う。
    「スマホ取っとっただけじゃい」
     言い返し、侑はどすどすと音を鳴らして大股で治に近付き盆を受け取る。そんな態度がとれるくらいには、調子は上向きであるらしい。そのままベッドに戻らずに、勉強机の上のスポーツバッグをどかし夕飯を置いた。これぐらいの怠さであるのなら、布団の中より机の方が断然食べやすい。
     レンジで温められた生姜焼きは湯気をほこほこと立ち上らせ、食欲をそそる甘辛い匂いを広げている。付け合せの千切りキャベツはしんなりして、少し黄色っぽくなっていた。味噌汁はシンプルに、たまねぎと豆腐とわかめ。
     いただきます、と手を合わせて、体育会系男子高校生に相応しい量の白米を盛られた茶碗を左手に持つ。きちんと手を合わせて、律儀にいただきますを言うのを意外がられる事もあるが、侑には身に染み付いた習慣だ。大概食事を共にする、飯に並々ならぬ執着を持つ双子の片割れが五月蝿いのだ。疎かにした日には、即座に乱闘が始まってしまう。した方が良い挨拶であるのは流石の侑でも弁えているので、忘れる事は無い。おあがり、とお決まりの返しが背中から聞こえた。
    「サムが作ったんちゃうやろ」
    「温めたったろ」
     軽口を叩きながら、白米を大きな一口分掬って口に運ぶ。噛んで飲み込んだ。寝る前よりは、味を感じる。鼻はまだ詰まっているが、マシにはなっているのだろう。今度は豚肉を口に入れる。宮家のおかずの味付けは濃い方だ。おかげで、生姜の味がしっかり舌に届く。白米が進んだ。
    「大丈夫そやな」
    「おう。食器自分で直しとくわ」
     おー、と気の抜けた了解の相槌を打って治は二段ベッドのはしごを登った。今夜はこのまま、下段の自分の寝床を明け渡したままでいてくれるらしい。電灯が煌々と灯っている時の、距離の近い上段の眩しさを身をもって知っている侑であるが、治だってどうせ今すぐ眠るつもりでもないだろう。そう構えて、特に気も使わず悠々と自分のペースで食事をした。
     それでも、食べるのは人よりも早い方だ。咀嚼回数が少ない自覚はあるので、自分の体調を鑑みて心持ち多く噛む。そのつもり、程度な気もするが、こういうのは気持ちが大事なのだ。
     白米の最後の一粒、味噌汁の最後の一滴まで完食して、箸を揃えて手を合わせる。食事の温かさで鼻水が垂れたが、その分息の通りが良くなった。ごちそうさま、と声に出してから盆を台所に運ぶ。流しで空になっていた洗い桶に水を溜め、使い終わった食器を浸けた。
     体調が良かろうと悪かろうと関係なく侑がするのはここまでで、洗うのは母親に任せきりだ。普段なら間違いなくどやされるが、今日は流石に大目に見られるだろう。
     風呂は明日の朝にでもシャワーで済ませる事にして、洗面所で歯を磨く。鏡の中の自分は、元々重たげな瞼が浮腫んでかなり眠そうだ。怠い事を差し引いても、不細工にも程がある。乱れて無造作に目に被さる髪がハイブリーチを繰り返して傷んでいるのが、惨めったらしくそれに拍車を掛けていた。
     ボサボサの髪も直さずに部屋に戻ると、まだ電灯は点いていた。戻って来る侑を思いやってという事ではなく、単に電灯のためだけにわざわざベッドの上段から下りるのが面倒だったのだろう。
    「電気消すで」
     一応声をかければ、おー、と気の抜けた声が了承を示して返る。すかさず、ぱちりと音をたてて入り口横のスイッチを切った。
     ベッド下段の、治の布団に潜り込む。食後で手足が温い。帰宅して早々に寝たというのに、すぐに穏やかな睡魔が襲ってきた。否応なく、という程には強くない。それでも、身を任せるのは気持ち良かった。ゆっくりと意識は沈む。薄れて、いつの間にか途切れていた。








     翌朝、侑を揺さぶったのは治ではなく母親だった。んあ、と鼻にかかった気の抜けた声が漏れる。
    「…サムは?」
     平素との違いに、深い意味は込めずに尋ねる。
    「そんなんとっくに出たで」
     呆れた声で母親は言った。
    「…何時!?」
     寝惚けた頭に届くまで、少し間があった。理解して、飛び起きる。朝練、とシンプルにその言葉で脳が埋まっていた。ベッドから降りようとして、普段なら無い位置の上段の縁で頭を強打した。
    「っっっったぁ……」
     額の少し上を押さえて呻く。
    「何しよん、そそっかしい。
     そんだけ打ったら目ぇ覚めたやろ。支度したら朝ご飯食べに来ぃ」
     それだけ言って部屋を出る母親に礼も伝えず、慌ただしく侑はジャージに着替える。この際トレーナーは寝間着のままで良い。汗をかいた筈だが、そんな場合ではない。スウェットの下を勢い良く脱いでジャージのそれを履く。脱いだ際に、下着も一緒にずり下がりそうになって押さえた。
     飛びかかる勢いでスポーツバッグを開き、中に滅茶苦茶に制服を詰め込む。それから財布とスマートフォン。後は何だ、タオルか、と。慌てた思考で答えを見つける。廊下に出て、階段を段飛ばしで降りた。洗面所に向かう足は、どれだけ慌てていても流石に思考に引きずられて縺れはしない。病み上がりとはいえ、これでも全国区のトップ選手だ。
     スポーツタオルを二枚掴み入れて、乱暴に、すすぐのにちょっとおまけが付いたくらいの雑さで歯を磨く。髪はもう朝練の後で良い。ワックスはロッカーに常備している。洗面所を飛び出して、次は台所だ。流石に朝食抜きで部活には行けない。動けるものも動けなくなってしまう。
     食卓に伏せられた自分の茶碗を鷲掴んで、白飯をよそった。席に戻り、もう並んでいた味噌汁をよそったばかりの白飯に注ぐ。行儀だなんだと言っている場合ではない。そのまま、味噌汁の水分で流して掻き込んだ。卵焼きも、二切れ一気に口に入れた。
    「ご飯くらい落ち着いて食べや」
     喉詰まるで、と。母親は、慌てる侑にため息を吐く。
    「遅刻や」
     もごもごと、食べ物を飲み込みながら言葉少なに答える。
     余裕が無いから口に出しはしないが、おかんが起こすん遅いねん、と責める気持ちが強い。だがそれも、視線で伝わったのだろう。恨みがましいねん、と母親はぼやいた。
    「もうえぇ言うても、今日くらい朝練休みぃや」
     治にも休む言うといてって言うたわ。
    「あかん」
     母親の意見が自分の事を思ってのものだとは解っているが、侑は強く拒絶する。
    「バレーしたいねん」
     断言した侑に、母親は肩をすくめた。こうなっては、何を言っても無駄なのだとよく知っている。生まれてこの方十六年、ずっと双子を育てている母親なのだ。無言で、卓に三本が束になったバナナを置いた。持って行けという事だろう。落ち着いて食べないのだからせめて、部活後にでも栄養補給しろと言外に伝えてくる。本気でやっている運動部の息子を二人持っていれば、バナナの有用性は知っているものだ。宮家でも常備されていた。
     焼いた厚切りのハムを大口で食べて咀嚼しながら、バナナを持ってありがとう、と席を立つ。行っといで、と侑が空けた食器を重ねながら母親から声が掛かる。
    「行ってくる」
     早足に玄関に移動しながら、侑は応えた。
     土間で履き慣れたスニーカーに足を突っ込み、爪先を数度打ち付ける。屈んで、少しきつめに紐を結び直した。よし、と気を取り直して外に駆け出る。気が逸った。走らなくとも朝練が終わるまでには着く。体調不良で休んで昨日の今日なので、遅れたって咎められはしないだろう。休むと言付けがあるのだから尚更だ。解っている。それでも侑は走った。バレーボールがしたい。体は飢えて疼いていた。
     校門を潜って、一目散にクラブハウスに向かう。部活動に力を入れていて全国大会出場経験のある部活を複数擁している稲荷崎高校であるが、中でも実績の際立つ男子バレー部は学校側からの扱いが特別だ。ロッカールームも、一階で入り口から近く広い、良い位置を割り当てられている。階段を駆け上がらなくても良い分、普段から楽な上に急いでいる時は特に助かる。
     どうせ大概の部の朝練はもう始まっているのだから、誰に迷惑を掛ける訳でもない。そう判断して侑は、下駄箱にしまいもせずエントランスに運動靴を脱ぎ散らかした。北に見つかればそれこそ大目玉だが、練習中の今、クラブハウスに来るはずも無い。
     運動神経が余程優れていなければ足が縺れるだろう勢いで、転がり込む様にロッカールームに入る。レギュラーが集まった一角の慣れ親しんだ自分のロッカーを開く。全ての動作が騒々しい自覚がある。きっと埃も立っているだろう。本当に、北の目が届かなくて良かった。
     スポーツバッグを雑に放り込み、バレーシューズを掴み体育館に全力で走る。戻ったエントランスで、左右に離れて散らばっていた運動靴を引っ掛けた。
     全国常連の強豪であるバレー部には、学校側からの力も当然に入っている。ロッカールームはそれが良いように作用しているが、体育館は違う。専用体育館の十分に整った設備と引き換えに、敷地でも奥まった部分にあるのだ。普段は不満など無くむしろ甘受しているが、こういう、時間に余裕の無い時に悪態を吐きたくなる。現金な自覚はある。
     起きてから、ずっと必死だった。ロードワークとは訳が違う。焦りながら、全力疾走を続ける。いくら鍛えていようが、体力があろうが、体育館に着いた時には少し息が弾んでいた。息を整える間も持たず、思い金属の扉を引いてスライドさせる。
    「ハザーッスっっっ!」
     崩した挨拶を大声で口にすれば、監督がこちらを向いた。
    「なんや、侑。休むんやなかったんか?」
    「オカンが勝手に言うたんで!」
     うずうずと、体が動きたがっているのを隠さずに侑は答えた。
    「なんや元気そうやなぁ。ほんまに風邪引いとったんか?」
    「俺が仮病でバレーサボるとかありえへんのんで」
     冗談にそう返せば、それもそやな、とケラケラと監督は笑った。
    「遅刻は今日はええわ。練習混ざれ」
     出された指示に、アザッスと返事をする。バレーが出来る。それだけで動くアンパンじゃなくとも元気は百倍といった所だ。顔が弛む。溌剌と、隅でウォームアップを始める。
     侑、と。
     開脚した上で上体を前に倒しストレッチをする侑に、静かな声が掛かる。
    「もう大丈夫なんか?」
     静かに凪いだどんぐり眼。透明な視線を侑に注ぎ、北はそう問い掛けた。
     北さん、と名前を呼ぶ。
    「ウッス、ちゃんと食って寝たんで」
     ちゃんと食って寝ろ。そう書いた北からの指示を、それこそ『ちゃんと』守ったのだと、あからさまにアピールする。大きいカブトムシでも見せびらかす小学生の様なドヤ顔。褒めて下さい、と表情で語る。北にも伝わったのだろう。偉いな、と無表情のまま口にした。北は『北さん』であるので、侑だって何も全開の笑顔なんて返ってくるとは思ってない。言葉だけで満足だった。
    「まあ、病み上がりなんやし無理するんやないで」
     まともな忠告をした後、北の視線が不自然に下がる。
    「かわええやん」
     北は何がとも言わずにそれだけ言うと、素っ気無く練習に戻って行った。侑は首を傾げる。心当たりがない。まさか侑に対しての発言でもないだろう。侑はどちらかというと、男前な部類なのだと自負している。
     頭を疑問符で埋めていると、カシャ、と写真を撮った音がした。案の定とでも言おうか、そこに居たのは角名で、スマートフォンを侑に向けて構えている。視線がぶつかり、なんやねん、と声に出す前に角名が言う。
    「バボちゃんじゃん」
     言われて、侑は自分のみぞおちに目線を落とした。ピンクの円。同じく丸いつぶらな瞳。生えた手足。紛うこと無く、慣れ親しんだバレーボール大会のマスコットキャラクターがそこに居た。
    「ー!!!!」
     驚きに、思わず濁った声で叫ぶ。北がかわいいとコメントしたのはこれか。納得と羞恥が侑を襲う。
     侑のオーバーリアクションが面白かったのだろう。真顔だった角名は独特の笑い声をオッホと上げ、途端に楽しげな様子になった。からかう気が満々なのを、隠そうともしない。
    「へぇ侑、そういうの着るんだ」
    「今日はちょっと、急いどっただけや!」
    「家ではそういうの着るんだね」
    「サムかて着とるわ!」
     応酬は丸聞こえだったのだろう。巻き込むなや、と治がぼやいたのを侑の耳は聞き逃さなかった。
    「ほんまの事やろ!」
    「違うとは言うてへんわ」
     言い争いを始めた双子の遣り取りに、角名はニヤニヤと笑うばかりだ。面白くなってきた、と顔に書いてある。なんやなんやと、周りの視線が集まり始めていた。
    「お前ら、練習せえや!」
     三人と北を交互に見遣りながら、尾白は焦った上擦り声で言う。このままだと飛んでくるであろう、北の正論パンチを恐れているのだ。最も、それを恐れていない部員なんて稲荷崎高校バレーボール部には居ない。部員は総じて北を恐れている。
     尾白の視線の先で、北はじっと三人を見ていた。怒気を発している訳ではない。ただ、どんぐり眼でじっと見ていた。三人の背筋が伸びる。
     遊びに来たんか?
     あの目が、絶対にそう言っている。間違いない。圧が、凄い。実際に言葉で責められる寸前だ。
    「ウィーッス…」
     集まっていた三人がそれぞれに散る。与えられた執行猶予には、有り難く甘えるに限るだろう。
     サーブ練習に合流しようと、ボールの籠に近寄った。バレーボールを模したキャラクターの描かれたトレーナーのまま、改めて侑は本物のバレーボールを手に取る。サーブ練習は、まずは景気良くスパイクサーブの方からだ。最初から飛ばす訳ではなく、三割以下の力で軽く流してから、徐々にエンジンをかけていく。
     侑さんナイッサー、と。七割程度まで温まった所で、球拾いの一年生が声を上げる。こんなの、まだ全然ナイスじゃない。適当抜かしよって、と思わず眉が寄った。掛け声をした一年生の挙動が固まり、身を竦めて青褪める。怯えさせているのだと判るが、悪いとは思っていない。世辞なんて要らないのだ。侑からすれば、余計な事をする方が悪い。
     気を取り直しサーブ練習を続けていた所に、監督からの指示が入りアタック練習に移行する。セッターである侑の役割は、勿論トスを上げる事だ。
     並んだ部員に順番に、各々に合わせたトスを上げる。オーバーハンドで、指に掛かるボールの感触を確かめながら。この感触が、侑を生かす。生きていると感じる。やはり、バレーなのだ。侑は、コートの中の生き物なのだ。
     そんな侑、だからなのだろう。今朝はやたらと調子が良かった。たった一日。されど一日。放課後の練習を一度休んだだけで、朝の練習には出られたのだ。それなのに、たったそれだけの事が侑に飢えを与えた。その空いた隙間が、埋められていく。満たされていく。もっと、もっとと欲深な侑がバレーに満足する日は来ないが、少なくとも、今はバレーを取り上げられてはいない。
     ずっと居りたい。
     ここに居りたい。
     心がそれだけで埋まる。集中していた。
     体育館のライト。
     自分の上げるボールの影。
     助走を付けるシューズの音。
     打撃で、打ち下ろされたボールがコートを跳ねる。
     ここが世界のすべてだ。
     そう没入する侑の集中を、割って入った笛の高い音が中断させる。時間の感覚が曖昧になっていたが、今朝の練習はどうやらここまでであるらしい。タイムリミットに不満は抱くが、学生であるからには仕方がない。流石にそれくらいは侑だって理解しているが、拗ねが表情に乗る。未練がましく持ったボールは、素っ気無く治に回収された。
    「一年困るやろ」
     バレーボールに関してはすぐ威圧感を出す侑に、レギュラーでもない一年生が片付けるからとボールを奪うなんて度胸がある筈もない。治は侑から回収したボールを、近くに居たボール拾い中の部員に渡した。
     クールダウンを終わらせて、先程飛び出したクラブハウスに戻る。別に連れ立って、という訳でもないが、同じ事を熟して同じ場所に戻るのだから他の部員と一緒になる。
    「侑、めっちゃ調子良かったやん」
     一晩で治ったんやな、と銀島が安心した様子で言った。昨日の遣り取りを気にしていたのだろう。良い奴だ。
    「完全復活や」
     笑ってそう返しながら、侑はトレーナーの裾をめくり上げて顎を拭いた。慌て過ぎて、ロッカーにタオルを忘れたのだ。
     侑、と。
     名を呼ばれ、反射的に侑は跳ねる。北の声だった。
    「何です?」
     恐る恐る振り返ると、タオルが差し出されていた。
    「ちゃんと拭け」
     また風邪引くで、と。受け取るように手を軽く上下して促される。
     面食らいながら、ありがとうございますと応えて額を拭った。仄かに、柔軟剤の匂いがした。宮家とはまた違う、ベビーパウダーの香りに似た感触と同じに柔らかい匂い。無地のタオルはコマーシャルに出ても遜色ないくらいに白く、侑はそれに北らしさを感じた。何故か、息がぎゅっと詰まる。緊張だろうか。侑は内心首を傾げる。
     アザッした、と。伝えてタオルを返せば、気ぃつけや、と言って北は歩を進める。その後ろ姿を、少し呆けて眺める。
     め…めっちゃ優しいやん…。
     北さんってこんなんやっけ、と。昨日の事も含めて驚きを感じた。そこまで考えてはっとする。立ち止まって呆けている場合ではない。朝練の後、ショートホームルームまでは時間があまり無いのだ。遅刻してしまう。それこそ、北の耳に入れば大事だ。説教を食らうに違いない。侑や治に何かあれば、教師は絶対に北の耳に入れる。部活の関係ない生活態度ですら、…むしろ生活態度こそ北に告げる。すっかり宮兄弟の指導係として全校中に認知されているのだ。生徒に一任するとか職務怠慢ってやつちゃうんか。そんな文句を浮かべながら、立ち止まった分、侑は小走りでロッカールームに戻った。
     練習後のロッカールームは、汗と各々の制汗剤の入り混じった臭いがする。シトラス、ミント、マリン、石鹸。逃がす為に窓が開いているが、真冬の今の気温は運動後には丁度良い。
     自分のロッカーの両隣の治と銀島は、既に運動着を脱いで制服のスラックスに履き替えていた。お疲れ、と声を掛けながらその間に割って入る。銀島は少し反対に寄ってくれたが、治はおー、と見向きもせず雑に応えただけだった。
     スポーツバッグのファスナーを開ければ、真っ先にタオルが見える。掴んで、首に擦り付けて汗を拭く。先程北に借りたタオルで軽くは拭ったが、完全に引いた訳ではない汗がまだじんわりと滲んでいる。鼻に付くのは、先程とは違う香り。馴染みきった、いつもの宮家の匂いだ。今嗅いでいるのは完全にそちらなのに、北のタオルの匂いが強く侑の鼻の奥に蘇る。
    「なぁ」
     ぼんやりと口にした呼び掛けに、『う』と『お』の中間音で治もぼんやりと応えた。
    「北さんって俺の事好きなんかな」
    「はぁ?」
     思わず、といった体で勢い良く治がこちらを向く。
    「キッショ」
     そう吐き捨てて毒づいた。
     お前何言うとんねん。
     雄弁な表情の苦さが、言外にそう語っている。眉ってそんな寄るもんなんか、と思う程に顰められて眉間に深い皺が刻まれていた。
    「北さんに向かってキショいってなんや」
    「北さんちゃうくてお前やお前。自意識過剰やろ」
    「や、なんか俺に対して態度ちゃうない?」
     自意識過剰、という治の言葉に侑は曖昧な根拠を基に反論する。
    「ツム、今日もあれだけ圧掛けられとってよう言うな」
     本当、どんな神経しとんねん。
     そう続けて、治は溜息を吐いた。
    「ツムが特別手ぇ掛かるだけやろ。態度自体はあの人、誰にでもああちゃう?」
    「そうなん?」
    「せやろ」
     簡潔に肯定を返し、何言い出したんかと思った、とぼやきながら正面に向き直った治はカッターシャツのボタンを嵌める。侑も、トレーナーを脱いで体の汗を拭く。制汗剤を振り掛けて、アンダーを頭から被って着た。ジャージのズボンを、足を持ち上げて脱いでから黒のスラックスに履き替える。前屈みになった上体を起こして、シャツを取ろうとスポーツバッグの中に手を伸ばす。
    「そうか」
     俯きながら、小さく声が溢れた。がやつく部屋の中で、隣にも拾われない様な微かな言葉。
    「ちゃうんか」
     どういう感慨の言葉なのか、侑本人にも解らない。
     ちゃうんか。
     今度は音にならず、内心だけで反芻する。
     違うと、その言葉を深く咀嚼する。味わって、それなのにどんな味がするのか解らなかった。何故それが解らないのかすら、侑には解らない。解らない事しか解らない。
     落ち込む、とも少し違う。からっぽ、という方がまだ近い。少しだけ心が寒くなる感覚。
     授業を受けて、食事を摂って。その後迎えた放課後の練習は、朝程の絶好調ではなく普通。
     夕食の後に入浴を済ませて、前日出来なかった分も入念にストレッチを熟して、ベッドに入る。昨日とは違って、二段ベッドの上の段。侑の本来の寝床だ。
     消すで、と。治から声がかかり了承すれば照明が消えて暗くなる。
     仰向けで、でもまだ目を閉じる気にならず、少しずつ暗闇に目が慣れていく。
     かわええやん。
     クスリと笑った訳でもないのに、侑にそう言った感情の乗ってない声が耳から離れない。タオルは北の香りがした。
     温かいホットレモン。スッとするのど飴。酸っぱい梅干し。
     ぼんやり思い浮かんだそれらの味が、順番に咥内に蘇った。
     意外とおおらかな、整った筆跡が脳裏に浮かぶ。
    「なぁ」
     言葉なんて思い浮かんでいないのに、そもそも話しかけようと意欲があった訳でもないのに。何ともなく、侑は治に呼び掛けた。
    「愛ってなんやろ」
     はぁ?と。唐突な言葉に、下段の治が怪訝な声を上げる。侑と同じ様な顔はきっと、これ以上無いくらいに歪められているに違いない。そんな予想が容易い、棘のある苦々しい声だった。キッショ、と。朝と同じく、治は嫌悪を吐き捨てる。
    「──そんなん、バレー思い浮かべとけ」
     それでも、数秒黙り込んだ後にそう続けてちゃんとまともに答える治は、なんだかんだ侑の良い片割れだ。
    「バレーか」
    「せや」
     治の言い分に、侑は納得する。
     確かに、間違えようの無い程に、侑はバレーボールを愛している。侑程バレーボールを愛している人間はそう居ない筈だ。バケモノと呼ばれる様なレベルの、ほんの一握りの人種だろう。
     バレーボール。それが侑の愛。
     あの形を愛なのだと定義するならば、このぼんやりとしたからっぽは、きっと愛ではないのだろう。
     愛ではない。
     きっと、少し驚いただけだ。
     考えてみれば、侑はプレイヤーとして優しくされた経験なんて、あまり無かったかもしれない。
     宮兄弟。
     治とセットで全国区で轟く名に向けられるのは、いつだって畏怖だ。恐れを向けられている。ある時は強大な敵として、ある時は有無を言わさぬ味方として。優しく接する様な、優しさを与える必要がある様な存在とは見なされない。加えて、特に侑は優しくして何かメリットが返ってくる様な可愛い性格はしていない。自覚はある。
     そんなただえさえ優しくされない侑に、よりにもよって優しくしたのが北だった。意外性が凄い。あの北が、だ。ギャップで印象が強くなり過ぎたに違いない。
     可愛いと言った、感情の乗ってない声。タオルの香り。
     温かいホットレモン。スッとするのど飴。酸っぱい梅干し。
     思い浮かぶ、どこかからっぽな感慨を侑の内に連れて来るそれら。
     でも、愛じゃない。
     侑にとっても、きっと北にとっても愛情なんかじゃない。
     それなのに何故か焼き付いたそれらを、侑はこれから一生忘れない気がした。
     ホットレモンを飲む度、スッとするのど飴を舐める度、酸っぱい梅干しを食べる度。侑はきっとこの先ずっと、北の事を、北に与えられた優しさの事を思い出すのだろう。
    「ツム、今日朝から何やねん。熱で頭沸いたんちゃうんか」
    「沸いてへんわ、アホ」
     めっちゃ正常やっちゅうねん!
     言い返した侑を、おーおーと治は軽くいなす。
    「正常なんやったらはよ寝ろ」
     そのもっともな応答に、言われんでも寝たるわ、と憤慨を滲ませながら目を閉じる。瞼の裏に蘇る、北の顔はいつもと同じで愛想無く、ニコリともしない。ニコリともしないまま、あの人は侑に優しさを差し出した。
    「なんや嫌な予感するわ…」
     意識が夢に沈んでしまう前に、真下から治のぼやきが聞こえた。
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