行くべき場所、帰る場所 「あ、あれ……どこだ、ここ……」
オレが目を覚ますと、そこは見渡す限りの荒野だった。見慣れたはずの森や草木はひとつもなく、砂ぼこりが舞っているだけの寂しい景色。目を閉じる前の記憶では、確か辺りは木々に囲まれていたはずだったし、オレ以外にも大勢人がいたはず……でも今ここにはオレしかいない……一体どういう事なのだろうか。
とにかく今の状況を把握するため、オレは立ち上がって辺りを見回した。しかし、どこを見ても自分以外の存在を何ひとつとして確認出来なかった。何も無い場所にこのまま留まっていても仕方ないと思い、今度は地平線の方へ向かって歩き出す。すると、歩みを進めた先に何かを見つけた。それは、オレの暮らしていた村ではあまり見かけない古びた看板のようなものだった。
「何か書いてあるな。えーっと……?ほ、て……る?」
字はあまり読めないが、何とか読める部分だけを読み上げてみる。「ほてる」……あまり聞き慣れない言葉だが、その文字の隣りに矢印が書いてあり、自分の後ろを指し示していた。しかし、自分が通ってきた道にその「ほてる」とやらは無かったような気がする。そもそもオレは現段階で「ほてる」がなんなのか理解していないので、見逃していただけという可能性もあるだろう。とりあえずこの案内板に従ってみようと思い、後ろを振り返る。すると、先程まで何も無かったはずの場所に、貴族のお屋敷のような大きな建物が現れたのだ。
「えっ……!?何これ!?ていうかでっか……」
普段自分が住んでいる小屋や村にあるどんな建物よりも大きく頑丈そうなその建物に圧倒され、オレは思わず尻もちをついた。こんな立派な建物、今まで見たことがない。いや、どこかで見たことがあるような気がするのだが、何故だか上手く思い出せなかった。それよりも気になるのは、先程までこんなにも大きな建物なんて存在しなかったのに、今唐突にオレの前に現れたことだ。窓の数を見るに三階建てであろうこの建築物を、周りに遮るものが何もないこの場所で見逃すことがあるだろうか。普通であればないだろう。しかし、現にオレは今の今まで気付かなかった。先程から思ってはいたが、やはり今オレが居る場所は何かがおかしい。オレが目を閉じる前に見た景色とは全く違うし、何故か自分の記憶も曖昧だ。それにいつもなら森に入る時は万全の準備をしてるはずなのに、今のオレは何も持たずに丸腰だ。こんなの、自ら命を投げ出しに行くも同然といった格好だったのだ。
(オレは……何か変な夢でも見てるのかな……)
今の自分の身に起きている事があまりにも現実離れしているので、もはやこれは夢だと思い込んだ方が楽だとさえ思えてきた。それに、夢ならいつか覚めてくれるだろう。そう信じたい。
仮にこれが夢だとしても、砂ぼこりが絶えず自分を襲ってくるこの場所にずっと留まっているのはあまりよくない。そう思ったオレは、目の前のこの大きな建物の中に入ることを決めた。
(誰か中にいたりするのかな)
重厚感のあるドアを開くと、そこにはソファーやカウンター、戸棚に上階へと続く階段、そして高い高い天井と照明器具がずらりと並んでいた。どれも初めて見るはずのものなのに、オレはこれらの品にどこか見覚えがあった。しかし、何故見覚えがあるのかは分からなかった。
オレが建物内に入り内装を眺めていると、カウンターの奥から一人の人物が現れた。その人は黒のワンピースに白のエプロンをしており、このお屋敷の使用人のように見えた。
「いらっしゃいませ。ようこそ誰ソ彼ホテルへ」
使用人のような格好をした女性が、オレに向かって挨拶をした。「ほてる」……そういえばここは「ほてる」という場所だったということを思い出した。しかし、オレは先程から「ほてる」がなんなのか分かっていない。変な事を聞いているという自覚はあるが、ここは夢なのだから、何を聞いたっていいだろう。
「え、えと……あの……」
「はい」
「……"ほてる"って、何ですか……?そもそも、ここはどういった場所、なんですか……?」
初対面の人間にいきなり二つも質問をするなんて、流石に失礼だったかもしれない。しかし今のオレは自分がどこにいるのかも分からない。更には丸腰で、何かあった時に対処すら出来ない状態だ。得られる情報は得ておいた方がいいだろう。
「到着されたばかりで、まだ記憶が混乱されているのですね。では、まず"ほてる"の説明からさせて頂きます。"ほてる"…ホテルというのは、宿泊施設です。お部屋で寛いでいただいたり、お食事をしたりして過ごしていただく場所です」
「なる、ほど……誰かの家に泊まる、みたいな感じ、ですか?」
「大まかにはそのような理解で問題ありません。そしてここは誰ソ彼ホテル。生と死の狭間の世界です」
「生と死……?」
ホテルという単語の意味は理解出来たのに、その後の説明は何ひとつ理解出来なかった。生と死の狭間の世界とは、一体どういう事なのだろう。やはりここは夢の中、ということだろうか。
「えぇ。ここは、生きているか死んでいるか分からない、そんな人が辿り着いてしまう場所なのです」
「え……それってつまり……」
「貴方様がここに居ること、それが証拠です。今、貴方様は生きているかもしれないし、死んでいるかもしれないのです」
彼女の言葉を受け止めることが出来ず、オレはその場で何も言えなくなってしまった。ここが夢の世界だ、なんていうオレの幻想は完全に崩れさり、もし彼女の言うことが本当なら、オレは現世で生死を彷徨っている……ということになるのだろう。にわかには信じ難い話だが、頼るすべもないのだから、今は彼女の言うことを信じるしか無さそうだ。
だが、そうなった場合一つの疑問点が浮び上がる。生死が分からないからここにいるらしいが、その自分の生死とやらはどうやったらわかるのだろうか。本当は自分が覚えていれば一番いいのだが、それが出来ていたらそもそもここには辿り着いていないだろう。ならば、何かしらの方法があると考えるのが自然だ。いつまでもこのよく分からない世界にいるのも不安なので、この後自分はどうしたらいいかを彼女に尋ねることにした。
「あの、その、もしあなたの言う通りオレが生死の境にいるとして、自分が生きてるか死んでるかって、どうやったら分かるんですか…?」
「貴方様の生死を確かめる為には当ホテルに宿泊して頂き、お部屋の中で記憶を取り戻していただくことになります」
「部屋の……中……?」
「はい。当ホテルの客室は、お客様の記憶に纏わるもので構成されており、お客様の記憶に応じてその都度変化する仕組みになっております。ですので、お部屋の中の物に触れたりする事で、記憶を取り戻すきっかけを掴めたりするのです」
「なるほど……」
勝手に部屋の内装が変わるといういかにも不思議な世界、といった感じの説明がされたが、とにかく今はその部屋に行って、失ってしまった記憶達を取り戻すことが最優先事項なのだろう。どんな部屋になっているのか少し不安ではあるが、今はとにかく行動するしかない、と自分を奮い立たせた。
「こちらが、お客様のお部屋になります」
そう言って案内された部屋は、このホテルの外装に似つかわしい、シンプルだが品のある内装だった。綺麗に整えられたベッド、壁にかけられた一枚の大きな肖像画。窓際にある花瓶には、数本のバラの花が生けられていた。
「綺麗な部屋ですね。でもオレこんな綺麗な所に住んでたのかな……全然心当たりがない……」
「そうですか……しかし室内はお客様の暮らしていた部屋の再現、という訳では無いので、何か気になる物がありましたら触ってみたりしてみてください。きっと、記憶を思い出すきっかけになると思いますので」
「そう、ですね。ありがとうございます。探索、頑張ってみます」
彼女が部屋から出ていき、一人きりになった所で改めて部屋の中をじっくりと見渡してみる。やはり、何度見ても綺麗な部屋だなという感想しか出てこない。しかしこうやって見ているだけでは先に進めないので、部屋の中を歩き回りながら備え付けてある家具や小物を手に取ってみることにした。
まず、この部屋に来てから一つ気付いたことがあるのだが、窓の外に森が見えている。自分がこの建物に来る時は、辺り一面荒地のように草木なんて一本も生えていなかったはずなのに、だ。これも記憶に関係する景色ということで、この部屋、もといホテルが再現してくれていると思っていいのだろうか。
次に気になったのは、壁一面を覆い尽くすほどの大きな本棚と、そこに納まっている大量の本だった。オレが覚えている限りの記憶では、自分はそこまで文字が読める人間ではなかったと思う。それこそ子供向けの簡単な絵本や、短編小説が限界だろう。しかしここにあるのは分厚い本ばかりで、どれもタイトルすら読めるか怪しい。だが、そんな取っ付きにくいはずのものなのに、どこか懐かしい気がしたのだ。オレはこの本を、自分ではなく、誰かに読んでもらったような記憶が頭の片隅にぼんやりと浮かんでくる。でも、その本を誰が読んでくれたかまでは思い出せなかった。
部屋に入った時にも気になっていたが、この部屋には至る所にバラの花が置いてあった。窓際の花瓶やベッド、バスタブだけでなく、窓から見える庭のような場所にも咲いている。そして注目すべきはその色だ。基本的にバラと聞くと赤色を連想するが、ここにあるバラの色は赤だけでなく白のバラもある。白いバラなんて珍しいな、と思い触れてみようとしたが、痛々しいほど棘が沢山ついているのが見えたので、とりあえずは触らないでおくことにした。
そして部屋の中を歩き回りながらチラチラと気にしていた、ベッドの傍にかけてある大きな肖像画。そこには、彫刻のように美しい青年の自画像が描かれていた。彼も、きっとオレに関係のある人なのだろう。だけど、彼と自分がどんな関係だったのか、ほとんど思い出せなかった。こんなに綺麗な人、一度見たら忘れられないはずなのに、どうしてオレは忘れているのだろうか。そしてその答えは、本当にこの部屋の中にあるのだろうか。まだあまり記憶を取り戻せていない自分自身に、焦りと不安が募っていく。
先程見つけたもの以外にも、オレの仕事道具と思わしき斧や薪、そして綺麗な食器類に燭台など色んなものが部屋の中で見つかった。綺麗に整えられた部屋で一番異彩を放っている薄汚れた斧に触れると、自分の脳裏に忘れていたであろう記憶の断片が流れ始めた。そして、怪我なんてしていないはずの自分の頭や身体からはどくどくと大量の血が流れ、室内の床を汚していった。朦朧とする意識の中で、この時オレは確信した。オレは、この斧で殺されたのだということを。
自分の命を奪った元凶であるものに触った事で、自分が「殺された」ということは思い出した。そして「誰」にやられたかということも、ぼんやりと思い出してきた。薄暗い夜の出来事だったから個人の特定までは出来ないけど、あれはきっと村人のうちの誰かだったはずだ。顔は見えずとも声やシルエットで何となく分かる。自分は村の孤児で、誰からも必要とされてなかったから、人から向けられる悪意はいつも痛いほど感じていた。だからなんとなく分かるのだ。自分が忌み嫌われていた存在で、きっと何かのきっかけで村人たちの逆鱗に触れてしまったのだということが。
(なるべく迷惑をかけないように、ひっそり生きていたはずだったのにな)
改めて部屋の中や窓の外の景色を見ていると、ある人物の事が頭に浮かんだ。しかもオレは、その人の顔をここに来てからも見ている。そう、それはこの部屋に飾られている肖像画の青年のことだった。先程まですっかり忘れていたというのに、今ではなんで忘れていたんだというぐらいちゃんとこの人の名前が己の口から出てくる。
「……忘れててごめんなさい、ユキさん」
ユキさん。この部屋の肖像画に描かれている、彫刻みたいに美しい人の名前だ。オレは、この人にだけは優しくしてもらっていて、この人といる時だけは辛いことも忘れられた。だからこの部屋も、あの人の住んでた場所に近い作りになっているんだなと今更ながら思った。待っている人のいない家に帰るよりも、自分を待ってくれている誰かがいる場所に帰る方が、何倍も幸せで安心できたからだ。
大切な人の名前や自分がここに来たであろう経緯は思い出した。しかし、自分の名前だけが思い出せなかった。より正確に言うと、思い出せないというよりも自分には名前がなかったということに気が付いたのだ。女性の話では、ここに来た人は皆自分の名前を思い出す事で、顔を取り戻すらしい。ここに来てからのオレは、どういう訳か身体は人間なのに顔は斧という摩訶不思議な見た目をしており、そして何故か自分の姿が鏡に映らない。故に彼女の言うことがイマイチ信じられていないのだが、彼女がオレに嘘をつく理由も見当たらないので、恐らく本当に今オレの顔は斧になってしまっているという事なのだろう。
そして、彼女の話が正しいとするとここで名前を思い出せなければ顔を取り戻す事ができず、現世にもあの世にも行けないということになる。だけど、オレはそもそも名前が無いのだ。こういう場合はどうしたらいいのだろうと思い彼女に尋ねる。すると、彼女はこう答えた。
「名前がない、というのも不思議ですが、たまに偽名を本名だと思い込んでる方がいて、そちらを思い出す事で顔を取り戻す方もいらっしゃいます。名前というものはお客様のアイデンティティなので、その呼び方が自分を指し示していると自覚出来れば、仮に本名でなくても問題ありません」
「なるほど……偽名、か」
偽名。そう言われて一つだけ思い当たるものがあった。それは、あの人─ユキさんがオレに付けてくれた名前だった。名前が無いと何かと不便だろう、とわざわざオレの為に名前を用意してくれたのだ。確かあの時は、今この部屋に置いてあるような分厚い本のページの中から選んでくれていたような気がする。オレは、朧気な記憶を頼りに本棚からお目当ての本を探した。
「えーっと、確かこれだ……それでこのページの……ここ…………あっ!あった」
彼が自分の名前を呼んでくれた時のことを思い出しながらページをめくり、己の「名前」を見つけ出す。そして、一つの言葉にたどり着いた。そこに記されていたのは、『Momo』という文字だった。
記された文字に指先が触れた途端、オレの持っていた本が光り出し、部屋の中が眩しい光に包まれた。光が収まったと思ったら今度は足元に何か重たいものが落ちる音がしたので、自分の足元に視線を移す。するとそこには、人の頭くらいの大きさのある斧が落ちていた。部屋に置いてあったものとは形の違うそれを見ながら突然斧がここに現れたのかと思ったが、ずいぶんと身に覚えがあるそれは、自分がよく持ち歩いていた斧によく似ていた。そして、彼女が言っていた「名前を思い出すと顔を取り戻す」という言葉を思い出し、もしやと思ったオレは恐る恐る自分の顔を触ってみた。想像よりも人の温かみはなかったが、そこには確かに人間の顔があったのだ。
「オレ……ちゃんと思い出せたんだ……よかった……」
自分が何者かを思い出せたことに安堵しつつ、オレは自分が何故鏡に映らない存在であったのかも同時に思い出していた。それは、自分がもう人間ではなくなってしまっていたからだ。薄れゆく意識の中、あの人が自分を生かしてくれた事を、本当に断片的ではあるが、思い出したのだ。
(そうだ。オレは、もう人間じゃない。でも、生きてる。だから帰らないと。あの人の所へ)
ホテルを去る直前、オレは彼女にお礼を言って、更には自分が何者であるかを説明した。オレが鏡に映らなかった理由を聞いた彼女は少し驚いた顔をしていたが、お客様の帰る場所が分かってよかったです、と優しく微笑んでいた。
「お客様、道中お気をつけて」
「ありがとうございます。こちらこそ、お世話になりました」
軽く会釈をして、彼女を背にホテルを出た。地平線の彼方で眩しいぐらいに輝いている光に向かって、オレは歩き出した。
次に意識を取り戻した時、オレは大きなベッドの上に寝かされていた。思うように身体は動かないし、意識も少しボーッとする。だけど、夢の中、という訳ではなさそうだった。なぜなら、自分のすぐ側にあの人─ユキさんがいたからだ。ユキさんは、オレの手を握ったままベッドに倒れ込むようにして眠ってしまっている。もしかして、オレが起きるのを待ってくれていたのだろうか。相変わらず、この人はオレに優しい。握られていた手をそっと握り返すと、ベッドに沈んでいたユキさんの頭がゆっくりと動く。そしてオレと視線が交差すると、言葉もなくそのまま抱き寄せられた。
「…………っ、モモ」
ユキさんが、絞り出すような声でオレの名前を呼んだ。泣きそうになっているのを堪えているのが伝わってくる。きっと、心配してくれていたのだろう。こんなオレの事を大事にしてくれるのは、きっと後にも先にもあなただけだろう。
「……ただいま、ユキさん」
震えるユキさんの背中に手を回しながら、オレは帰宅の言葉を口にするのだった。