渡りの果てが待ち合わせ まず、一人目の証言。「そう言やよ。妃殿下、最近迷わなくなったよな!」
戦煙の狼の異名を持ち、あちらこちらで考え無しに戦端を開いてくれた祖父から、父の治世となって早二十年。
その間、この離宮は空き家同然に放置されていたが、仮にも王家の逗留を前提に設計された建造物だ。有事の際は城下町の人間全員の避難場として開放される広大な敷地。一年を通して決して枯れることのない最新鋭の水利システムが導入された庭園の噴水。屋敷の柱や壁を覆い尽くすのは、手間を惜しまぬ贅を凝らしたモザイクにレリーフ。どれ一つ取っても、地方の下級貴族の本邸が質素な犬小屋に見える規模と品質を誇る。
幼少期、人族に飼われていた過去があるにせよ、いざ屋敷の女主人として住み始めると、見えてくる視点が変わるらしい。「何で厨房があんな奥に押し込められてるの。囲炉裏は家の中心にあるべきでしょ」やら「寝具を出しっぱなしって、人族は物臭やね」やら「衣装を保管しておくためだけの部屋があるっていうのが既におかしい!服は長持ちにしまうもんだって!」やら、伝統ある帝国の建築様式についてピーチクパーチク喚いていたのを思い出す。
言語も文化も価値観も何もかも違う土地に突然放り込まれたのだ。異国の姫君が、故郷の常識が当てにならない間取りに戸惑いを覚えるのも、そして広さ故に物理的に迷子になるのも、無理からぬ話だろう――あくまで、嫁いできたばかりの頃ならば、という注釈がつくけれど。
帝国の王籍に半獣人の名が刻まれるという建国以来の大事件から、すでに季節は二巡目に突入している。いい加減、この離宮を己の巣と認識していてもらわねば困るというもの。
元々物覚えが早く、目聡く耳聡い上に、好奇心旺盛な鷹である。じっと部屋に閉じこもっているのが性に合わないのだろう。
嫁いで間もない頃から、ホームシックにかかる素振りも見せず、少しでも手持ち無沙汰になれば、冒険だの開拓だのと称して、離宮の探検に精を出していた。有翼族には磁覚器官という磁場を感知する能力があるらしく、大まかな方位は常に把握できる上、現在地点がどこか分からなくなれば、窓から外に出て、離宮の正面入り口まで飛んで戻るというチート技のおかげで、見知らぬ場所へ突き進むことに躊躇いがなく、開拓は終始順調だったらしい。
屋敷の攻略が一段落つけば大人しくなるだろうというこちらの予想を裏切って、次の獲物にだだっ広い庭園を選んだときは、随分とフットワークの軽い、もといお転婆な嫁を貰ったもんだと呆れを通り越して感心の念を抱いたのを覚えている。庭師と一緒に泥塗れになりながら、「お、いい土の証拠やね」とデカいミミズを難なく捕まえるなんて芸当、帝国広しといえど、この姫君にしかできまい。
そんな調子でマップ制作に励んだ成果か、一ヶ月も経てば、庭のどこそこに植わっている花が見頃だとか、厨房の食器棚の一番下には料理長のヘソクリこと酒のアテが保管されているだとか、東側の倉庫でイタチが子育てをしていただとか、この屋敷の主である燈矢よりも離宮の内情について詳しくなっていた。
燈矢も、敷地内の範囲で満足しているならばと妻の自由行動を黙認していたので、今更家捜しじみた探検をとやかく言うつもりはないけれど、流石に「北の書庫にさ、半獣人に関する資料がまとめて保管されてる書棚があるでしょ?あの奥の通路ってどこに繋がってるの?」と訊かれたときは、度肝を抜かれた。何で、王族しか知らねぇ隠し通路をしれっと把握してんだよ、コイツは。
だから、臣下に先の言葉を投げかけられたところで、「寧ろ、お前が今でも時々迷子になって、その妃殿下様に案内されてる方が問題なんだよ」と気に留めなかった。その後も、「何で知ってんだ⁉この歳で迷子になるかよ!ここが馬鹿みてぇに広いのが悪いんだ!しかも似たような部屋が並んでる!方向感覚が狂っちまってもおかしくねぇ!」とちぐはぐな弁明と言い訳が矢継ぎ早に飛んできたが、燈矢は「へぇ、あぁ、そう。そりゃ大変だったな。頑張れよ」と相手にしなかった。何せ、侍女から百合の間に置いてきてほしいと託された花瓶を抱えた大の男が、水仙の間で途方に暮れていたという話のあらましをとっくの昔に聞かされていたので。ちなみに、リーク元は「今日、仁さんがさぁ」と燈矢の羽繕いに気が緩み、ついでに口が軽くなった渦中の鷹である。
続いて、二人目の証言。「妃殿下って、殿下を見付けるのが上手すぎない?」
これについては、その後に続く「統帥時代に妃殿下がいてくれたら、殿下捜索も楽だったのに」という恨み言が本命だ。
祖父が各国にばら撒いた戦火消しに奔走させられた先の遠征にて、陣頭指揮の必要がないタイミングを見計らい、燈矢はしばしば姿を晦ませた。というのも、最高司令官として戦場に立っているときは常に部下が傍に控えていたからだ。
上に立つ者の感情や言動は、いとも容易く下っ端に伝播していく。それ故に、いくら疲弊していようが、焦りが募ろうが、分の悪い勝負に懸念事項が残っていようが、決して顔にも態度にも出してはいけない。この国の長男として生を授かったときから、そう叩き込まれて育った。
けれど、体を休めるときくらいは、人の心を持たない白蛇と恐れられた燈矢とて、鉄製の面の皮を外したかった。であれば、誰にも見られぬよう、一人になる他あるまい。それが燈矢の言い分だ。
それに、統帥の不在が原因で敗戦国になったというならともかく、全戦全勝というこの上ない戦果をもぎ取ってきたわけである。己の役儀と責任はきっちり果たした。戦後の世になってまで「殿下には縁遠いことかもしんないけど、やんごとなきお方が行方不明ってさ、下々の肝を潰すんだよ」と文句を言われる筋合いはない。
二十路で早くも政界から爪弾きにされ、隠居生活を余儀なくされた燈矢の元に回ってくる業務と言えば、片手間でどうにかなるものばかり。文字通りの忙殺を狙っているのではないかと疑いたくなるような皇太子時代の分刻みのスケジュールから解放された上に、快眠できる高級羽毛顔負けの抱き枕も手に入れた。その日の疲れはその日のうちに解消できるようになり、そもそもサボりが成立するほどの仕事量もないとくれば、自然と人目を避けて息抜きをする必要もなくなった。
それでも、生まれたときから染みついた癖というのは中々抜けないらしい。時折、無性に一人になりたい衝動に駆られることがある。そんなわけで、離宮に居を移してからも、頻度こそ減れど、燈矢の雲隠れは続いていた。戦場でさんざん最高司令官の失踪騒ぎに振り回された迫は、離宮の敷地内であれば危険はないと踏んだのか、あるいは、どれだけ必死に探し回ろうがどうせ見つからないと開き直ったのか、行方知れずとなった主人の身を本気で案じることはなくなった。何とも悲しい話である。
そんな薄情な臣下の代わりに、捜索隊に新しく加わったのが、燈矢の伴侶だ。入隊当初は、仁と一緒に敷地中を駆けずり回っては、ふらっと自ら姿を現した旦那に「どこにおったと⁉」と悔しそうに詰め寄ってきたものだが、次第に燈矢の居場所を自力で見つけ出すようになり、今や「殿下がどこにいるか分かる?」と訊かれれば、「連れてくるんで、ちょっと待っててください」と迷う素振りもなく、一直線で迎えに行くまでになった。かくして、燈矢のお迎え係が満場一致で決まり、とうとう仁までも「妃殿下に任せりゃいいだろ」と捜索隊を辞めてしまった。ことある毎にボーナスアップを声高に要求する自称忠臣の二人組には、まず主君のことを気にかける忠義に満ちた姿勢を見せてみろと言ってやりたい。
目に見えて燈矢捜索の精度を上げていく姫君に、迫が「妃殿下には行き先を告げてたりする?」と八百長を疑うのも無理からぬ話だ。しかしながら、燈矢は依怙贔屓などという無粋な真似はしていない。妻にも部下にも等しく試練を課している。
それなのに、こうも明らかな差が出るということは、種族の違いによるものだろう。何せ、人族には到底真似できない芸当を、呆気なくやってのけるのが有翼族だ。空を飛んだり。方位を知覚できたり。発情期があったり。――鳥類とコミュニケーションが取れたり。
大方、離宮付近に生息している鳥と交流を深めて、燈矢の居場所をリークしてもらっているのだろう。燈矢とて人目を忍ぶスキルにはそれなりの自信があるが、生憎鳥目を欺く術までは持ち合わせていない。
有翼族のこの能力については、人族に決して漏らしてはならないという厳しい掟があるらしく、燈矢の妻も秘密を打ち明けるとき、他言無用をこれでもかと念押しした。そのため、迫は、燈矢以上に、異国の姫君がやたらめったらかくれんぼに強い絡繰りを知らないわけだが、それでも有翼族と一年以上接してきたことで、何かしらの裏技があることは薄々察しているようだった。深く言及することはせずに、「じゃあ、妃殿下が殿下を見つけられるのは、愛の力だ」なんていう軽口ではぐらかしたのが何よりの証拠。
場の空気を察し、流れをさりげなく誘導し、貧乏くじを引かぬよう上手く立ち回る。迫のそういうところを、燈矢は買っていた。「その理論でいくと、お前は俺への愛が足りてねぇってことになるけど?」という揚げ足取りにすら、「妃殿下に恋のライバルと勘違いされたくないんでね。この山より高く、海より深い敬愛心は胸の内に秘めておきます」と涼しい顔でかわしてみせるところは、つくづく食えない奴だと思うけれども。
はてさて、これらの証言から、二つの事実が確認できる。
一つ。磁場から方位を認識できるため、本当の意味で迷子になることはない。
一つ。有翼族には、何かと鳥の性質が色濃く出やすく、人族とは異なる特技や習性を持つことが多い。
とくれば、ある一つの仮説が立てられる。
「なぁ。帰巣本能ってさ、具体的にどんな感じなわけ?」
「………………へ?」
不意打ちを仕掛けるなら、心地よさに微睡んで口が滑りやすくなる羽繕いのときがベスト。
こちらの思惑通りの間抜けな声に、燈矢の口角はゆるりと上がる。
寝る前に燈矢が甲斐甲斐しく妻の羽の手入れをすることはすっかり日課の中に組み込まれており、今更警戒されることはない。今日も今日とて、ホークスは「よろしくお願いしま~す」とベッドの上に座るや否や、燈矢に背を向けた。
有翼族なら後ろが大きく開いているデザインの方が脱ぎ着しやすかろうと、ホークスのネグリジェにはホルターネックが採用されている。そのため、寝間着を纏えば、シルクの生地に負けず劣らず白い背中とそこから生える目の覚めるような赤い羽が惜しげもなく露わとなる。有翼族にとって翼の付け根というのは急所の一つならしい。猫の尻尾同様、不用意な接触は基本的に嫌がられるのだが、燈矢の指先は例外だった。そこに触れようと叩き落されることはない。鷹は気にする素振りも見せず、ご機嫌に本日の出来事をさえずるだけ。何とも無防備な姿。これを見て、誰が猛禽類を連想するだろうか。
信頼されてんなぁ、と思う。
最初の頃など、純然たる善意で羽繕いの手伝いを申し出ても、自分でやると言って聞かず、激しく抵抗されたものだ。
妹が昔飼っていた猫には積極的にせがまれるほど、燈矢の毛繕いは好評だった。飼い主よりも燈矢に懐いていたくらいで、それこそ猫撫で声で足元にじゃれついてきたのが懐かしい。妹は「私にはそんな声、出してくれないのに」と頬を膨らませていたのもいい思い出である。
だからこそ、貴族達の嫌みや皮肉にも涙一つこぼさず、不遜に言い負かしてみせる女が、燈矢が羽繕いをしようとしただけで泣きそうになったとき、そんなに嫌がらなくてもいいだろと密かにショックを受けたし、「羽も毛もない人族の『できる』なんか当てにならん!」と突っぱねられて、負けず嫌いな性分に火がついた。
まず、羽を傷つけないよう、ブラシを手配した。本人は髪用の櫛を無理矢理転用しているようだったが、これでは羽が傷みかねない。使い勝手が悪かったからという名目で、馬毛ブラシに変えさせてもらった。王族が乗る馬車をひく馬が貧相であっては、民に威光を示せない。そのため、王室で飼われている馬は全て毛並みが美しくあるよう、厩務員は常に気を配っており、件のブラシもその一環で金に糸目をつけずに開発されたものだ。「柔らかかね~。馬用っていうのがちょっと複雑やけど、まぁ、これなら及第点かな」と上から目線の評価を口にしながらブラシの毛で遊んでいた鷹は、よもやそれ一本の購入で、小さな村であれば吊り橋を架けられるほどの金が動いているとは思うまい。
次に、椿油を用意させた。これまた耳を疑う話だが、当の本人は、料理長から拝借したオリーブオイルで代用していたらしい――食用油を纏うなんざ、そのままカラリと揚げられて、フライドチキンにでもなるつもりか。実情を知ったとき、燈矢は思わず閉口した。半獣人の社会においても、椿油は高価なものなようで、ブラシと違い、オイルの変更に関しては「えぇ~?消耗品なんだし、そんな高いのを選ばんでも」と難色を示された。無論、燈矢がすごすごと引き下がるはずもなく、「お前がアクセサリーの類を一切受け取らねぇからだろうが。これも拒否するって言うなら、俺の体裁のためにも、ルビーのブローチの一つや二つ、もらってくれるんだろうな?」と半ば脅すようにして押し通して、事なきを得たけれど。
その他にも、羽専用のボディソープを常備したり、月に一度、椿油に蜂蜜を混ぜて抗菌加工を施したりと、燈矢は妻の羽のメンテナンスに余念がない。迫は「妃殿下より殿下の方が、妃殿下の羽のことに神経使ってるよね」と肩をすくめていたし、実際、燈矢が離宮を数日留守にした折り、ホークスは面倒臭がって羽繕いの手順をいくつか省略したことがある。その結果、真紅の羽艶が鈍り、夫婦喧嘩にまで発展した。
ちなみに喧嘩の顛末については、「俺の羽であって、お前のじゃないでしょうが!俺の好きにさせてくれん」という妻の主張にブチ切れた燈矢が、一晩かけてベッドの上で「俺がこんなに手塩にかけて愛情たっぷり世話してるっていうのに、口出しする権利もねぇのかよ、なぁ?」と真摯に訴え、朝日が昇るより先に「分かった、羽繕いはお前に任せるから、だからお願い、もう許して」という嬌声混じりの言質を引き出し、旦那側の完全勝利に終わった。
僅か半日足らずで幕を閉じた夫婦喧嘩は、使用人達にとって対岸の火事そのものだった。特に何をするでもなく寝て起きたら元通りになっていたわけである。関心が薄くなるのは仕方ないにせよ、「知ってるぜ。こういうの、犬も食わねぇって言うんだろ!」「いやいや、あまりに一瞬過ぎて、犬が食べる暇もなかったって」と茶化してくるのはいかがなものか。主君とその伴侶の間に不和が生じるなど、本来であれば屋敷全体を揺るがす大事件だ。そこからお家騒動に波及したケースだってある。だというのに、燈矢の護衛共は、どうにも仕える者としての志と危機感が低くていけない。
何はともあれ、燈矢の地道な努力が実を結び、有翼族にとって生命線とも言える翼の手入れという役目を仰せつかるほどの信頼を勝ち取るに至った。そしてこの特権のおかげで、燈矢は甘い汁を吸わせてもらっている。
この鷹は、一度懐に入れた者にはとことん甘い。燈矢が羽繕いのタイミングを狙って騙し討ち同然の誘導尋問を仕掛けたのは、何もこれが初めてではなかった。その回数はゆうに片手を越えており、毎度しっかりバッチリ誘導されているホークスは、「お前、そんなんだから敵ばっかり増えるんだよ!」と羽でバシバシ叩いて抗議する。その癖、羽繕い係から燈矢を罷免しようとはしなかった。信頼を裏切っているようなものなのに、最後には必ず「俺だからいいけど、他ん人にはもうちょっと誠意ば見しぇんしゃい」と水に流されてしまうものだから、味をしめた燈矢は彼女のお人好しっぷりに胡坐を掻くことを止められないでいる。
とはいえ、燈矢とて、好んで危ない橋を選んでいるわけではなかった。政略結婚である限り、いくら夫婦仲が冷え切ろうが、世論が両国の同盟の維持を望んでいれば、離婚の成立を憂う必要はないけれど、あの鷹が本気で臍を曲げたら、厄介なことになるからだ。
屋根の上までひとっ飛び。そこから一歩も動かない。たったそれだけのことだが、侮ることなかれ。帝国のご令嬢なら、そもそも、手すりもなければまともな足場もなく、足を滑らせれば一巻の終わりという高所に命綱なしで留まる度胸はないし、そこで夜を明かすなど以ての外だろう。されど、燈矢の妻は元傭兵で、野宿なんて慣れたもの。熊すら狩ったことがある玄人だ。腹の虫が鳴けば、自ら狩りに赴き、獲物を仕留めてくる。何と勇ましいことか。屋根上の生活などどうせ長くはもたない、放っておけば音を上げるだろ、というこちらの見込みは大いに外れたわけである。
兵糧攻めが機能しない籠城戦には、戦場で数々の狡猾な作戦を立案し、白蛇と恐れられた燈矢も手を焼いた。空を飛べる有翼族が接近を許してくれない限り、人族は文字通り手も足も出ないのだ。ご機嫌取りをしようにも、物理的に取らせてくれない状況には、能天気な従者二人も「こんなに手こずった攻城戦なんて他にあったか?ねぇよ!」「殿下がここまで攻めあぐねるとはね……」と焦りを見せた。
あれの二の舞はごめんだ。燈矢は固く誓った。虎の尾ならぬ、鷹の尾羽は二度と踏むまい。
だから今回も、最終的に「もう、仕方なかね」と眉を下げて、困ったようにあるいは呆れたように、笑って許してもらえるよう、万全を期して臨んでいる。
有翼族には帰巣本能が搭載されている、という説は、現時点において燈矢の憶測の域を出ていない。
しかし、渡り鳥にはなくてはならない能力だし、渡りを行わない留鳥でも、鳩のように優れた帰巣性を発揮するものもいる。特定の鳥だけが持っている固有の能力ならともかく、帰巣本能は鳥類全体的に広く見られる特技であり、その上、渡りの際に鳥類が道標にするという磁気感覚が有翼族にもあることは確定事項だ。ならば、燈矢の仮説も、全くの的外れということはないだろう。
羽を有し、発情期があり、時には単為生殖すらできてしまえるという有翼族は、されど卵を生むことは滅多にないのだという。人族からすると、そこら辺の違いはよく分からないけれど、有翼族にとっては決定的な隔たりならしい。有翼族は卵生なのか、という質問にホークスは心外だと言わんばかりに「俺達は鳥じゃなくて人間ですけど⁉」と食って掛かった。有翼族と鳥との間には彼らなりに譲れない線引きがあって、それを蔑ろにすると大層な顰蹙を買う。そのため、燈矢はその手の話題を振る時は、慎重にならざるをえない。
今回にしても、十中八九、帰巣本能があると睨んでいるとはいえ、残り二割は空振りを想定していた。その場合、ホークスは「何で帰巣本能があることを前提に話を進めてるんかな」と咎めるように白い目を向けてくるはずなので、素直に謝罪の言葉を口にして、貶めたり、侮辱したりといった他意はなかったことを伝えればいい。あのお人好しは、反省の色を見せる相手になおも怒りをぶつけられるような性格をしていないから、更なる事態の悪化はこれで回避できる。あとは損ねさせてしまった機嫌を直してもらうべく、とびっきり甘やかすだけ。翌朝、泣きはらして赤くなった目元へのキスを受け入れてもらえれば、晴れて仲直りだ。後朝に「女たらしめ」という憎まれ口を叩かれても、この時ばかりは聞こえぬ振りをしてやろう。
けれど、燈矢は、高確率で、「あれ?人族には帰巣本能ってないの?」と拍子抜けするほど快く解説してくれるのではないか、とも期待していた。
人族にとっての常識が、半獣人にとって突拍子もないほど無縁なものだったという場面に今まで何度も遭遇してきた。逆もまた然り。ホークスには至極当然のことで、わざわざ説明するほどのことでもないという認識のものが、燈矢からすればお伽草子の世界のように映ることなどザラにある。文化や宗教は人族同士でも国によって異なることがあるため、ある程度予測することができるが、こと有翼族の生態に関しては、埒外のことがほとんどだ。発情期になると羽の一部の色が変わるだなんて、誰が思いつくものか。不治の病の類にでもかかったのではと気が気でなかったあの時の燈矢の心配を是非とも利子付きで返してほしい。
異種族間の結婚に、カルチャーショックは付き物だ。ホークスも、円満な新婚生活を送るためには互いに歩み寄ることが必要不可欠であることは承知しており、旦那との会話の中で少しでも違和感を覚えたら、「待って。多分、俺達の間で何かすれ違いが起こってる」と相互理解を何より優先するようにしている。
だから、有翼族に関して燈矢が把握していない知識が出てくれば、大抵のことはすんなりと教えてくれる――自分に不都合な事柄は燈矢の目に触れないよう確信犯で立ち回るのはいただけないけれども。有翼族の中では、羽繕いの申し出が夜のお誘いを意味し、それを受け入れることが「今夜、あなたに抱かれます」という返事になるというローカルルールなんぞ、知っているわけがない。結婚して間もない頃、羽繕いをしようとする他人の手をとりつく島もなく突っぱねていたのは、単に人族に羽を触られるのを嫌がっていたというより、気恥ずかしさが勝っていたからだと燈矢の理解が追いついたのは、随分後になってからだった。
つまり、燈矢が一番警戒しなければならないのは、帰巣本能という習性の中に燈矢に知られると都合の悪い何かがあった場合、ホークスが小細工を弄して隠蔽工作を図ることだった。それを封じ込めるための、不意打ちである。
数秒の間が空いたと思ったら、ホークスは勢いよく後ろを振り返った。急回転する赤い翼に激突されそうになり、燈矢は「おっと」と軽く避ける。
これだけ大きく動揺した上に、燈矢を映す琥珀色の瞳は零れんばかりに大きく見開かれている――ビンゴ。思わず口笛を吹きたくなった。こちらの読み通り、有翼族は帰巣本能を持っている。
駄目押しに、燈矢はもう一声付け加えた。
「磁覚器官とやらでどれだけ離れてても常に把握できるんだろ?人族には今一つ分からねぇ感覚だから、どんなもんかとふと気になってよ」
その瞬間、赤い羽根がブワリと膨らんだ。
この反応を見るに、どうやら、ホークスはわざと燈矢から帰巣本能に関する知識を遠ざけていたらしい。向こうから言い出してくれるのを気長に待っていては、いつまで経っても燈矢の疑問は解消されないままだっただろう。思い立ったが吉日。さっさと確認に動いて正解だったわけだ。
そう。有翼族にも帰巣本能があるかもしれない、という可能性に思い至ったとき、燈矢が何より気になったのは、その仮説の正誤ではなかった。
帰巣本能がないならないで一向に構わない。その力を利用して、何ぞの悪巧みでも働こうなどとは今の所考えちゃいないので。
けれど、もし、その能力を有しているならば――この鷹の中で、帰るべき巣は一体どこに設定されているのだろうか、と。ただその一点だけがどうしても知りたくなった。
帰巣本能とは、複数地点を登録できるものなのか。一カ所だけという制限がかかるなら、やはり長くいた故郷の邑になるのか――それとも、ここに帰ってきてくれるのか。
例えばの話だ。例えば、この鷹が誘拐でもされて、現在地が分からない場所に監禁され、やっとの思いで脱出に成功したとき。本能に刻まれた真っ先に帰るべき安全地帯として認識するのは、果たして自分がいるこの離宮なのかどうか。それを確認したかった。
真正面から尋ねれば、人の心の機微に目敏いこの鷹は、こちらが何を望んでいるのかを察して、なるべく燈矢を落胆させずに済む「模範解答」を用意するだろう。伴侶を思っての気遣いだと分かっている。けれど、それではまるで意味がないのだ。
耳障りのいい上っ面の慰めは要らない。下手に希望を匂わせるような展望も要らない。自分の意に添わなかったとしても、燈矢が欲するのはありのままの事実だけ。
だから正攻法を捨て、こうしてあれこれとまどろっこしい策を弄することにした。
初撃で相手の余裕をはぎ取り、体勢を立て直す隙を与えず、追撃を叩き込んで追い詰める。それは、皇太子時代、燈矢が好んで使っていた手だった。考えつく限りのあらゆるパターンを想定し、それぞれに対する的確な対応策を講じ、獲物の出方を伺いながら臨機応変に対処していく。この作戦において、何より肝要になってくるのが入念な下準備で、それを怠っては、不測の事態に陥った際、自陣が総崩れとなりかねない。だから燈矢は、それはもう蛇の如き執念をもってして、用意周到に事に当たってきた。そのおかげで、今回も滑り出しは順調そのもの。後は、その巣がどこに設定されているのかを聞き出すだけ、なのだけれども。
異国の姫君は、燈矢の予想の斜め上を軽々と飛んでいくのが得意だった。
琥珀色に映り込むのは、狼狽と焦燥。ここまでは想定内。問題は、そこに明白な怯えが混ざり込んでいることだった。
何事にも物怖じせず、未知への遭遇にも二の足を踏むどころか好奇心が勝るホークスが、平静を取り繕うこともできずに、こうも分かりやすく恐れの感情を顔に出すこと自体珍しい。かつて自身を奴隷として買ったことがある人族との再会のとき以来ではないだろうか。
逆に言えば、燈矢が帰巣本能のことを把握しているという事実は、ホークスにとってそれほどの絶望を与えたことになる。そこまでは燈矢も理解できたが、生憎、肝心の理由についてはとんと見当がつかなかった。
厳密に言えば、一つ、心当たりがないわけではない――「有翼族は鳥類と意思疎通が図れる」という情報と同じく、帰巣本能に関する情報が、有翼族の中で門外不出の扱いを受けていたケースだ。
けれど、燈矢はとうに有翼族の秘技のうち一つは知っているわけだし、秘匿すべき機密事項が一つ増えたところで、誤差の範疇だ。それに、人族に隠しておきたいなら、帰巣本能よりも、磁覚器官があることを真っ先に伏せておくべきだろう。どんな暗闇の中でも、初めて赴く場所であっても、地図が機能しない状況下でも、常に正確な方位が把握できるなど、軍事利用しようと思えばいくらでもできる能力なのだから。
ホークスの態度を見るに、磁覚に関する情報の取扱いに厳格な規則は設けられていない。即ち、有翼族にとってデリケートな話題とは見なされていないのだろう。そう判断したからこそ、この可能性についてはさほど考慮しなかった。人族と有翼族の感覚のズレなど今に始まった話ではなかったのに見通しが甘かったと悔いればいいのやら、本当に一筋縄ではいかない嫁だと感心すればいいのやら、リアクションに悩むところである。
はてさて、どう振る舞うべきか。
確かに事実を知りたいと願ったが、何もホークスを傷つけてでもとは思っていない。無理に暴いて、今後の関係性に尾を引く方が大問題だ。細い腰を抱き寄せれば、その体は随分と冷え切っていた。今は腕の中の存在を安心させることが先決かと方針を定めようとしたところで、ホークスが「だれが、」とか細い声で問うてきた。
何でと、燈矢が知っていることそのものに戸惑うでもない。どうやってと、燈矢が知るに至った経緯に疑問を抱くでもない。「誰が」と、ホークスは真っ先にそれを口にした。その問いに、固めたはずの燈矢の心が揺らいだ。
仮に、それが一族の掟に抵触する裏切りの行為に等しいなら、ホークスの性格上、いの一番に身内を疑うような問いかけは出てこないはずだ。まずは同郷の潔白を信じて他の要因を探し、それらが一通り否定されてようやっと、燈矢に告げ口した者が仲間の中にいるという可能性と向き合う。その一連の流れをすっ飛ばした先の発言は、燈矢が睨んだ通り、一族ぐるみの隠蔽などではなく、ホークスが個人的な理由で恣意的に行っていた隠し事だという表れではないのか。
燈矢が知っている有翼族の情報の大半は、ホークスからもたらされたものだ。帝国内において、ホークス以上に詳しい内容を、ホークスを経由せずに入手することは難しい。だから、ホークスにとって、離宮で暮らす人族相手に情報規制をかけるのは造作もないことだった。それが原因で、こっちが無駄に振り回されたことも少なくない。
何をここまで恐れているのかはさておき、燈矢は「お前以外にも、有翼族の伝手はあるってことを忘れたか?」と一か八かのハッタリをかましてみる。この答えに対するホークスの反応を見て、本心からの怯えを見せれば、これ以上の追及は止めておこう、と。そう思って、最後の賭けに出た。
どうやら、ホークスは姉貴分と慕っている女傑の姿を脳裏に思い描いたらしい。既に燈矢が何もかもを把握していると思い込み、「ち、ちがっ、いや、違わんけど、でも悪用しようとか、謀ろうとか、そんなんじゃなくて」と申し開きを始めた。
いっそ哀れなほど狼狽える妻を目の当たりにすれば、何を置いてもまず落ち着かせてやるのが、善き旦那様なのだろう。けれど、この調子であれば燈矢が知りたかったこともポロリと話してくれそうだったし、あの女傑に冤罪を被せたまま放っておくと、燈矢の脳天がぶち抜かれかねず、いつどうやってホークスの誤解を訂正するか、そのタイミングを見極めることの方が重要事項だった。沈黙は金雄弁は銀。この期に及んでなお、燈矢は様子見を決め込むことを選んだ。
案の定、語るに落ちるのは早かった。
「確かに、帰巣本能でいつでも居場所を把握しようと思えばできるけど、すぐそばにいるとかじゃなかったら、集中してようやく分かるってレベルで、普通に生活してるときなんか全然意識してないし、だから、機能してないも同然っていうか」
そりゃそうか。ホークスの言葉を頭の中で復唱する。該当地域周辺でなければ、その磁場を認識しにくく、普段の暮らしの中で「巣」を意識することはない――その条件は、現在、ホークスが住処としているこの離宮には当てはまらない。
何となく、予想はついていた。残りの人生を棒に振ってまで、守ろうとした邑だ。花嫁選びのクジに細工を施したというエピソードが、ホークスにとって故郷の邑がいかに大切な存在であるかを物語っている。
訓練次第では帰巣先を変更できたり、増やせたりするならともかく、あの口振りからすると、一年以上暮らしてもまだこの地を「巣」と認識できていないようだから、望みは薄いだろう。帰巣本能とは、生まれついての生態なのだと言われてしまえば、人族にはどうしようもない。
「へぇ」と自嘲めいた薄笑いを浮かべる燈矢に、ホークスはさらに慌てた。
「帰巣本能でマーキングされてるとは言っても普段は少し離れただけで周りの磁場に簡単にかき消されちゃうようなものでさ、そもそも一番強い土地の磁場だって一定の距離があると感知しにくいし、それ以外のは本当に微弱なんだって」
本来、そんなにか細いものが、いざという時は何よりの頼みの綱になるわけだ。そりゃ、心強いな、良かったな。
斜に構えた考えという自覚はあるが、今は何を聞かされても面白くなかった。
何を言っても焼け石に水の手ごたえに焦れたのか、ホークスは泣きそうになりながら叫ぶ。
「~~~、俺はっ!最低限んプライバシーはちゃんと守っとぉつもりばいっ」
ふぅん、プライバシーまで慮るとはお優しいこった、と思ったところでふと違和感を覚える。土地に配慮するプライバシーとは一体何だ。
「居場所」。「そばにいる」。「プライバシー」。思い返せば、ホークスの言葉選びは何やらおかしかった。どれもこれも土地に対して使うものではない。「一番強い土地の磁場」とは、てっきり「土地の中で一番強い磁場を持っている場所」というニュアンスだと解釈していたが、もしもだ。もし、「土地の磁場が、あらゆる磁気の中で一番強い」という意味だったら。その場合、「それ以外」が指すのは、土地以外の何かにならないか。プライバシーを守ってしかるべき「何か」を、「巣」に設定しているのではないか。
燈矢の推論を裏付けるように、「大体、生き物の磁波で個体識別するのってばり難しかっちゃけんね⁉三つも部屋が離れたら、そこしゃいおるとが仁さんなのか迫さんなのか分からんもん!」というヤケクソじみたカミングアウトが飛んできた。
――ほほぉ、これは。
この鷹と夫婦になって一年以上。経験則から燈矢は確信を得ていた――現在進行形で、自分達の間に何やら文化摩擦が起こっている、と。そして、ホークスの帰巣本能が指し示す先は、土地ではなく生き物、それも十中八九、人である、と。
思わずにやけそうになる。強い絆のある土地という勝負なら故郷の邑相手に勝ち目はなかったが、帰巣本能の合否基準が特別な繋がりを持つ人間というなら話は別。何せ、ホークスは、世界でただ一人、燈矢のためだけに羽の色を変え、燈矢の熱を求めて発情する。有翼族の本能が、燈矢を唯一無二の番として認識していることは疑いようがなく、そして有翼族の生態上、番よりも特別な関係性というものを作らない。
燈矢の伴侶の特技は、こちらの予想の斜め上を易々と越えていくこと。そして今回は珍しく、燈矢にとって都合のいい方向へと進路を取っている。
期待するなと言う方が野暮というもの。「なぁ、」とかけた声は少しばかり上擦っていた。
ビクリと肩を震わせ、気まずそうに視線を泳がせる番に、燈矢は微笑んだ。勝利の笑みだ。
これは決して自惚れなどではない。
「お前の帰巣本能って、俺に向いてる?」
何を言われると身構えていたのやら。
豆鉄砲でも食らった鳩のような顔をした鷹は、「……え、うん。そうだけど?ナガン姉さんから聞いてるんでしょ?」と不思議そうに聞き返してきた。そうだ、その誤解も早々に訂正しておかなくては。
絶好のタイミングなので、燈矢はあっさりネタばらしをすることにした。「いいや、初耳。鎌かけてみただけ」とあっさり白状すると、ホークスの表情が面白いほどにピシリと固まる。それから数秒ほどおいて、理解が追いついたらしい。先ほどとは違った意味で、顔が一気に青ざめていく。
恐る恐る「もしかして、俺、盛大に失言ぶちかました?」と確認してくる妻。無論、燈矢は首を横に振る。失言だなんてとんでもない。あれはとても有益な情報だった。敵国に送り込んだ間諜であれば、二階級特進くらいの褒賞に相当する働きぶりだ。もっと自分に自信をもってくれても罰は当たるまい。
ところが、旦那からの太鼓判も、テンパった妻には逆効果だったらしい。次の瞬間、ホークスは身を翻す。ここで逃がせば、鷹の気が済むまで屋根上籠城戦コースまっしぐらだ。当然ながら、燈矢には、指をくわえて見ているだけのあの歯がゆいイベントに付き合う道理なぞ微塵もない。華奢な足首を掴んで力任せに引き寄せた。「ぅわっ」とバランスを崩したホークスをシーツの上に縫い付けて、覆い被さるようにして跨がれば、あとはもう燈矢の独壇場だ。
先のやりとりの中で、聞きたいことが山ほどできた。相互理解を深めるためにも、一つ残らず答えてもらわねば。
幸いにも、夜はまだ始まったばかり。時間はたっぷりある。加えて、ここの使用人たちは空気を読むことに長けている。仲睦まじい夫婦の寝室に踏み込んでくるような無粋者、もとい命知らずはいない。離宮の主の朝寝坊には見て見ぬふりをして、平常業務を恙なくこなしてくれることだろう。邪魔が入ることを心配することなく、時間を気にすることなく、妻を思う存分愛でることが許される。仕事に追われていた皇太子時代では考えられないスローライフ。隠居生活様様である。
昨晩までの名残をなぞるようにして、細い首筋にキスマークを散らしながら、項の後ろで結ばれたリボンの端を摘まむ。肩紐代わりのそれがシュルリと衣擦れの音を立ててリボンが解け、咄嗟に胸元を隠そうとする無粋な腕は右手で捕まえて、悪さをできないようにしておく。そして羽のある背中の下に回した左手は、項から背骨を辿って下に滑らせる。肌の上から、骨の凹凸一つ一つを確かめるように、丁寧に、丹念に、ゆっくりと。
すると、ホークスが耐えかねないといった様子で「あ、あのさぁ!」と声を上げた。
聞こえなかった振りをしてこのまま行為を続けることもできた。しかし、相手の要望を聞いた方がこちらの要求も通りやすいという打算の下、燈矢は「何?」と会話に応じることにした。
「いや、その、一つ、確認したいことがあるんだけど」
「だから、何?」
「……怒ってるわけじゃないの?」
そう尋ねてくる心許なげな声から、ホークスが大いに戸惑っているのが手に取るように分かった。どういう訳か、この鷹は、帰巣本能の詳細が燈矢の知る所となれば、軽蔑されると信じ込んでいるらしい。そのような勘違いをするに至った経緯も、追々聞き出すとして、まずはその不安を払拭するべく、燈矢は「近年稀に見る上機嫌だぜ?」と力強く否定する。
まだ完全には納得していないようだが、先ほどからずっと強ばっていた身体から力が抜けるのが伝わってきた。「本当に?」と念押しする妻に、「本当本当」と燈矢は頷く。
ほっと安堵の息を漏らすホークスに、されど、燈矢は「でも、」と言葉を続けた。
怒ってはいない。それは紛れもない真実だ。機嫌がいいというのも嘘ではない。ただ、味方からも諫められるほど徹底的に敵国を追いつめ、その執念深さ故に蛇と例えられた男が、気分がいいという理由だけで何もかもを不問に処してやれるほど寛容かと訊かれれば、言うまでもなく答えは否だ。
「夫婦の間に隠し事を持ち込むのはいただけねぇよなぁ?」
「ひぇ」と小さい悲鳴がホークスの口から漏れる。まるで化け物にでも出くわしたかのよう。おかしな話だ。今、彼女の前にいるのは、愛しの旦那様のはずなのに。
「今ここで全部話せば、お咎めなしにしてやる。だから、安心して白状してくれ」
「やっぱ、はらかいとろうもん!」
「怒ってねぇよ。伴侶に隠し事をされて、ちょっとやそっとじゃ立ち直れねぇくらい傷心中なだけ」
「鏡ば見てきんしゃい!傷ついとぅ奴の顔やなか!」
「お前好みのイケメンが映るだけだろ。見るまでもねぇ」
「そうだけど!そうだけどさぁ⁉自分で言う⁉」
先程までのしおらしい態度はどこへやら。すっかりいつもの調子を取り戻したらしく、ホークスは威勢良く噛みついてくる。
「大体お前だって、俺に色々と隠し事してたじゃん!元婚約者のこととか!お相子なんだから、俺ばっかり責められる謂われはないでしょ⁉」
「どんだけ昔のことを掘り返すんだよ。いつまでも過去を引きずってねぇで、前向こうぜ、前」
「しつこくしつこくことある毎に過去の出来事を引き合いに出してくるお前にだけは言われたくない台詞なんですけど⁉」
ふむ、と燈矢は考える。自分が根に持つタイプだという自覚はあるし、自らを棚に上げるのはいかがなものかというホークスの指摘も一理ある。
何より、自分達の間に必要なのは相互理解。燈矢がホークスについて一方的に詳しくなるだけでは不十分だ。ホークスにも燈矢のことを深く知ってもらわねば意味がない。
「まぁ、確かに、お前にばっか質問攻めっていうのは、フェアじゃねぇか」
「う、うん……?何か、俺が言いたいニュアンスと微妙に違うような気がするんだけど、ちゃんと正しく伝わってる?」
「伝わってる伝わってる。夫婦ってのは以心伝心するモンだろ」
とは言え、生憎人族は、半獣人からすると寝耳に水に思える習性を持ち合わせていない。こればっかりはどうしようもないので、ここは皇太子時代のエピソードで手を打ってもらおう。
こういうのはまず男性側がエスコートするものと相場が決まっている。なおも疑惑を顔に浮かべるホークスの物言いたげな視線も何のその。燈矢は「俺、よく白蛇って言われるんだが、蟒蛇とも呼ばれてんだよ」と口を開いた。
「え、待って。怖い怖い。突然何ね?何が始まったと?」
「要するに、あれだろ?人のことを知りたがるなら、自分の身の上話もしましょうってことだろ?」
「いーや、全っ然違う!俺の言いたいことが何一つ届いてないね」
「何で俺が蟒蛇って言われるようになったかと言うとだな」
「アルコールに強いからでしょ知っとぅよ!」
「そう結論を急ぐなって。飲み比べをしたら、必ず相手が吐くことが由来っちゃ由来なんだが」
「何でお前は、その手前で勝負がついたことにしてあげんのかなぁ?」
「そこから派生して、俺直々に拷問されたら、どんなに口の堅い奴でも吐かずにはいられねぇっていう意味で蟒蛇の異名が使われるようになったんだよ」
ここで元気な合いの手がふつと途絶える。そして間を置いてから「……あぁ、なるほど?」と声のトーンが先ほどよりやや下がった声が返ってくる。
交渉相手には焦りを気取られるのは悪手。逆転の余地すら見えないほどの窮地に立たされようが、まだ奥の手があるのだとハッタリをかますべく、余裕があるように振る舞わねばならない。それは、帝国の上流階級に生まれた者なら誰しも最初に叩き込まれている作法だ。マニュアル化された表情の作り方を、社交界デビューしたばかりの頃のホークスは「うわぁ、判で押したみたいに皆、同じ顔してる」と薄気味悪がっていた。
それに対し、有翼族は何かと喜怒哀楽が顔に出やすい傾向にある。燈矢の意図を正確に汲み取ったホークスは、挑戦状を叩きつけるがごとく、煽るような笑みを口元に貼り付けているつもりならしいが、まだまだ脇が甘い。「何で急に脈絡のない話を語り出したのかと思ったら、そこに着地してくるのね?」と未だ勝機を諦めずに会話の主導権を少しでも自分の方へ手繰り寄せようとする意気込みは評価するが、残念ながら口角の不自然な引きつりは隠せていなかった。その出来栄えでは、こちらの冷静さを失わせることは難しい。
「そんな張りきらんでも、墓穴を掘った今、俺には隠し立てする意味もなくなったしさ?ちゃんとお前の質問には答えるから、もっと穏便にいかん?」
「話し合いほど平和的な解決方法もねぇと思うけど?」
「お前の言う話し合いって、後ろに括弧付きで物理がつくやつでしょ」
「聞き捨てならねぇな。俺が血生臭ぇ暴力に訴えるとでも?最愛のローゼライトを、そこらの捕虜やスパイみてぇに扱うかよ。これでもかっていうくらい優しく愛でるに決まってんだろ」
「お前の優しくは、世間一般の優しくとズレてるんだっていい加減理解してくれんかな⁉」
「もっと素直に喜べよ?俺が特別扱いするなんて、世界でただ一人、お前くらいのもんだぜ?」
何もそんなに怯えなくてもいいだろうに。
仁や迫に言わせれば、燈矢の愛で方は、砂が吐けるだの、角砂糖も形無しだのといったレベルの寵愛だそうだ。最近に至っては「殿下へのお願い事は妃殿下を間に挟んでおくと、通る確率が一割はアップする」とほざいては、何かにつけてホークスに言伝を頼む技を覚えてしまい、手を焼いている。主人に物申すなら、人任せにせず、首を跳ねられてでも直訴するくらいの気概と覚悟を見せてみたらどうだ。
使用人たちからの頼まれ事が増えたことに対して、精々「俺もここに馴染んできたってことかなぁ」程度の理解だったホークスは、「え、俺、実は勝率高かったの……?」と意外そうに眼を瞬かせた。
「じゃあ、とりあえず俺の上から退いてくれる?それで、テーブルでお茶でも飲みながら、ゆっくり落ち着いてお話しよ?」
「知らねぇようだから、教えてやる。夫婦の話し合いは、ベッドの上でするもんだ」
「嘘吐き全然絆されん!」
どうやら語弊があったようだ。ホークスのおねだりを受けて燈矢が重い腰を上げてきたのは、どれもこれも、面倒臭かったり、億劫だったり、気が乗らなかったりとモチベーションの低さが原因で手を着ける気になれなかったものの、可愛い妻が惚れ直してくれるというなら仕方がないと譲歩した案件ばかり。
つまるところ、やる気が数パーセントに満たなかったものを、最低でも十数パーセントまで引き上げる効果がある、という話で、端から応じる気がないものについては、意味をなさないのである。
そう、燈矢は知っている。この期に及んで、我が妻は隠し通せそうなものは、だんまりを決め込もうと企んでいることを。一年以上、旦那をやっていれば、その往生際の悪さを見誤ったりはしない。全てまるっとお見通しだ。
話が違うと喚く鷹に、燈矢は「ゼロには何を賭けようが、ゼロだろ?」と懇切丁寧に解説してやった。
燈矢の話はこれで終わり。お次は、満を持してのホークスの番である。
「つぅ訳で、そろそろ洗いざらい吐いてもらおうか」
はてさて、今宵の鷹の夜鳴きは、いかほどのものであろうか。
生物が周期的に規則正しく、特定の生息地間の移動をすること――これが渡りの定義とされている。
誰に教わるでもなく本能に刻まれたその行動パターンは、鳥類や哺乳類に限らず、爬虫類に両生類、果ては昆虫に至るまで確認されており、人族が思っているよりもよっぽど生き物として普遍的なものならしい。ちなみに海の生き物については回遊と呼び分ける慣例があり、渡りと表現する場合、主に陸路及び空路による移動が想定されている。
渡りの頻度は多種多様だ。生涯に一度きりという、渡りが終の棲家への引っ越しを意味することもあれば、まるで避暑や避寒のため別荘を転々とするかのように季節ごとに生息地を変えることもある。渡り鳥の場合、周期を一年単位としているたことが多いため、仲間内で協力して行う風物詩という感覚だそうだ。人族でいうところの、春先の田植えや秋の稲刈りに近い。
渡りをする目的については、越冬だの、食料確保だの、多角的に研究されているが、動物に近しい半獣人に言わせれば「繁殖のため」の一言に尽きる。
季節によって、寒さや暑さ、もしくは乾燥などが劇的に厳しくなる土地は少なくない。生きていくことが過酷な環境になってまで、そこに留まる理由がなければ、生き物たちは楽園を求めて移動を開始する。そして、自分が日々を生き抜くだけで精一杯だった生活と比べ、餌が簡単に調達できたり、快適な気候だったり、天敵が少なかったりと他の命の世話をする何かしらの余裕が生まれる場所に辿り着くと、番と交尾し、出産し、子育てに勤しむ。このようにして、生命の営みは脈々と紡がれてきた。
環境の変化を求めて行われる渡りは、現在の生息地とは様相が異なる場所をゴール地点に設定する。そのため、到着地が出発地と同じ気候帯に属していては意味がなく、自ずと渡りは長旅になりやすい。人族であれば、長距離移動の際、道端にある目印や天体の動きを頼りにするところだが、生き物、特に鳥類の渡りでは、時に星の見えぬ闇夜の中、何一つ手がかりのない大海原を何日もかけて飛んでいかねばならぬことがある。
そんな時、役に立つのが帰巣本能だ。一口に帰巣本能と言っても、人族と同じく、天体や地形の特徴を道標にしたり、犬のように驚異的な嗅覚を活用したりと、その方法はいくつかあるが、磁覚を用いる場合、本能に刻んだ目的地の磁場を捉え、自分の現在地を方位や周囲の磁場から割り出すことで、渡りのルートの精密な調整が可能になるそうだ。鳥類も例外ではなく、他の手段と併用しながら、この磁覚器官を帰巣本能に使ってきた。
そして、このナビゲーション能力は、鳥と似通った生態を持つ有翼族も持っていた。ただし、進化の過程で帰巣本能の有り様が変容したため、鳥類のそれと全く同じというわけでもないらしい。というのも、有翼族に、繁殖のための渡りを必要としない定住生活が根付いたからだ。使わない器官は衰えていく。結果、東西南北の方位は常に正確に把握できる一方、ある程度近づかないことには周りの磁場の干渉を受けて、事前に脳内でマーキングしておいた特定の土地の磁場を見失ってしまう、という具合に磁覚の精度が落ちた訳である。長距離飛行の際、最後の頼みの綱として縋るには、若干の不安が生じ得ない。
その代わりに、有翼族が帰巣本能として発達させてきたのが、番との繋がりだった。
渡り鳥の場合、常日頃パートナーと一緒に行動しているとは限らない――普段はそれぞれの縄張りで独り身を謳歌して、繁殖期のときだけ、渡った先で相手を見つけて夫婦生活を満喫するのだ。この時、交尾の度に毎回毎回パートナーが変わる移り気な種もいるが、一度番をこれと決めれば、例え相手と死別しようが再婚の道を選ばない一途な種もいる。そして、有翼族は、言わずもがな、後者に分類される。
およそ一年ぶりのご対面。しかも繁殖地には他の仲間も我も我もとひっきりなしに押し寄せてくる。そんな密集地帯の中、渡り鳥はどうやって唯一無二の番を見つ出すのか。鳴き声。匂い。去年自分達が巣を作った場所での待ち合わせ。お互いだけに通じるサインを元に再会を果たすのだが、有翼族は磁波を選んだ。
土地と比べれば、遥かに脆く儚いものではあるものの、生き物も電気をまとった磁気を発している。磁場に対して磁波と呼ばれるそれには、個体それぞれに固有の特徴があり、個体識別に利用することも可能だ。ただし、本来は磁場によって簡単にかき消されるような脆弱なもので、余程近くにいないと個人を特定できるほど事細かに波形を感知することは難しい。
そこで有翼族は、磁覚を番の磁波を捉えることに特化させた。元々、番のフェロモンの影響を受けて発情期に入るという半獣人としての体質を有している。渡りの原動力に繁殖が絡んでいるのであれば、番の磁波をフェロモンと共に本能に刻み込むのも、有翼族にとっては荒唐無稽な話ではなかった。
このような進化を経て、有翼族は番の居場所を、己の帰るべき巣として常に把握する能力を手に入れたのである。
ホークスにとって、磁場や磁波を認識することは、鼻で匂いを嗅ぎ取ったり、耳で音を聞き分けたりするのと同様、ごく自然なことだった。
しかも、他の感覚器官と違い、磁覚にはオンオフの切り替えがない。例えば視覚であれば瞼を閉じればいい。聴覚であれば耳を塞げばいい。嗅覚であれば鼻をつまめばいい。されど磁覚は、心臓の鼓動と同じく、生きている限り、こちらの意志一つで好きに制御できるものではなかった。
もしも磁覚がなかったら。「目が見えなかったら」や、「耳が聞こえなかったら」といった他の仮定と同じく、そのたらればの空想に浸ったことがないと言えば嘘になる。でも、物心ついた頃より磁場や磁波を読み解く術に慣れ親しんでいたものだから、磁覚のない世界というのはあまりに現実離れしており、結局いつも上手く想像できずじまいだった。ホークスにとって、世界とは磁気に満ちているものだった。
人族には磁覚がない、とホークスが知ったのは、帝国に嫁いでから暫く経ってのことだった。森の中を進軍している最中に、方位磁針が壊れてあわや迷子になるところだったという軍時代のエピソードを仁から聞かされたとき、どうにも腑に落ちなくて、その日の晩に羽繕いをしてもらいながら、早速旦那に確認したのだ――人族とは、コンパスに頼らねばならぬほど磁覚器官が鈍っているのか、と。人族代表の答えは「は?磁覚器官?」という素っ頓狂な声でのオウム返しで、寧ろホークスの方が根掘り葉掘り質問された。
その時、ホークスが抱いたのは、磁覚がないなんて人族は不便やねという呑気な感想と、生まれてこの方磁気を感じ取ったことがない相手に磁覚器官とは何たるやを理解してもらうのは困難を極めるため二度とやりたくないという疲弊した決意だった。どうやって匂いを感知するのか、視覚とはどのように認識するものなのか――磁覚とは、そういう直感的なものだ。学者でも研究者でもないのに、論理的に秩序だって説明できるわけがない。
さて、誓って言うが、この時点で、ホークスが磁波について一切触れなかったのは、故意ではなかった。磁覚器官とは磁場も磁波も認知するものというのが当然で、わざわざ補足説明するほどのことでもないと思っていたからであり、人族にとって生き物も磁気を有しているという発想がないなんて、全く知らなかったのだ。
いくら微弱すぎて感知するのが難しいとはいえ、何度も夜を過ごし、その背にひっかき傷を残すほど近く強く抱き締めた相手であれば、流石に身体がその磁波の波形を覚えるというもの。
ホークスの磁波探知範囲は、およそ離宮の敷地内に及ぶ。とはいえ、離宮のどこそこに磁波を発する何かがあると大まかに把握できる程度で、最初の頃など、実際に近くに行くまで磁波の持ち主が人なのか、動物なのかすら判別できないほどだった。
やがて人族に囲まれて過ごす内に、人族特有の磁波の波形を学んだ。そうすると、旦那がふらっと姿を消した際には、磁覚レーダーに引っかかる波形から人族だけを抽出し、その位置を割り出して片っ端から足を運び、それが誰なのかを確かめる、という力ずくの探し方が可能になった。時間はかかるが、いずれ必ず正解に辿り着く。後は、ホークスが燈矢の居場所を突き止めるのが先か、燈矢が自らかくれんぼを切り上げるのが先かのスピード勝負である。
人族という括りの中から、燈矢固有の波形を暗記できるようになると、捜索がもっと楽になった。部屋の中に誰かいることは分かっても、それが誰なのかはいちいちドアを開けて確かめないことには分からなかった以前までに比べ、廊下に立てば室内を検めずとも探し人の波形と一致するかどうかが区別できるようになったからだ。加えて、行動パターンを読めるくらいには、離宮にいる人達自身への理解が深まっていたことも大きい。この時間、ここにいるのは、恐らく誰それだと一つずつ可能性を潰していき、消去法的に残った怪しい磁波の出所を優先的に探せばいいのである。
惨敗続きだったかくれんぼは、次第に白星を増やしていき、いつの間にか、制限時間内に見つけられないことの方が少なくなっていった。旦那様を探し出すのも随分上手くなったという自負が芽生えると同時に、正直これ以上のレコードタイムを叩き出すのは無理だろうなと己の限界も察した。何せ、有翼族の磁覚は、精密にはできていない。磁場ですらアバウトにしか認識できないのだ。磁波については言うに及ばず、である。それでも、迫や仁からは「妃殿下のおかげで殿下捜索が凄く捗る」と喜んでもらえていたし、磁覚を持たない人族からすれば、ホークスの頼りない磁覚でも多少は役に立っているのだろうと純粋に嬉しかった。
だからこそ、自らの身体の劇的な変化――どれだけ離れていようが、燈矢の居場所だけは、即座に分かるようになったときには、ホークス自身も大層驚いたのだ。
その変化は、ホークスの故郷で祝言を上げ、そこで三三九度の盃を燈矢と交わし、発情期の際、羽の色を変えるのに必要な色素と燈矢の唾液を同時に身体に取り込んだことがきっかけで――つまり、身体が、本能が、燈矢を番として認識するようになったことで、起こった。
勿論、有翼族は番に対してのみ、驚異的な磁覚能力を発揮すると知識では知っていた。けれど実際に体験してみると、想像を遥かに越える精度だったのである。
ほんの少し、燈矢がどこにいるのかが気になれば、ホークスの頭は即座に番の現在地を指し示す。周りの磁波や磁場に攪乱されることもない。一際強い磁波を真っ直ぐ辿れば、そこには必ず番がいる。かくして、ホークスは燈矢を探すとき、他の磁波には目もくれず一直線で駆けつけられるようになった。
何と便利な、と新しく手に入れたスキルに一頻り感心していたところで、迫から「本当に殿下を探すのが上手くなったもんだ」と呆れ半分に言われ、仁から「まるで、殿下の居場所が分かってるみてぇだ」と冗談めかすように言われた。
分かってるみたいも何も、ホークスは元々燈矢の磁波を頼りに捜索していた。その精度が跳ね上がっただけの話だ。どの磁波が探し人のものか特定するのに少々手間取っていたとはいえ、磁波の発信源を把握しているという観点では、最初から分かっていたことになる。
この二人は一体何を言っているのだろう。ホークスが困惑している間も、迫と仁の会話はテンポよく織りなされていく。「いやいや、あの粘着質で狙った獲物は絶対逃がさない殿下ですらその域には達してないでしょ」「そりゃそうだ。いや、あの殿下だぜ?その内できるようになってても不思議じゃねぇだろ。流石にねぇよ!」「そんな超能力、殿下が身につけちゃったら、ますます逃げ場がなくなるな。あぁ、恐ろしや」
おかしい。この二人は、ホークスが磁気感覚を有していることを知っている。だから、磁波で人捜しができることも知っているはずなのに。
ホークスが帝国に嫁ぎに来た頃は、確かに歓迎されていなかった。半獣人だからというのも多少はあったのかもしれないが、それ以上に、自分の主君の政治的な回復を未来永劫潰した相手に対して彼らは敵愾心を抱いていた。それは人として当然のことだろう。帝国の皇位継承事情を知った今となっては、そりゃ恨みたくもなるとホークスも納得しているし、自分なら一発殴るくらいのことはしていてもおかしくないから、ホークスに手を上げなかった二人の紳士的な対応については尊敬の念すら覚える。
しかし、それも昔の話。
一緒に過ごすにつれ、浅くはなかった溝が少しずつ埋められていき、今ではすっかり打ち解けた仲にまで進展した。それはホークスの独りよがりではないはずだ。帝国人であっても、仁と迫は、半獣人としての能力を、遠回しに悪意ある表現で貶したりするような人ではないと断言できる。そもそも、だ。迫はともかく平民出身の仁が、帝国貴族のようなまどろっこしい嫌みをスラスラと口にできるとも思えない。彼は、褒め言葉であれ、悪口であれ、思ったことはストレートにぶつけてくる。その素直さは、「アイツ相手だと、小細工も駆け引きも要らねぇ」と燈矢の折り紙付きだ。
喉に小骨が引っかかったような違和感が消えない。どうして、二人は、磁波を使って人捜しをすることを非難するような態度を取るのだろう。どうして、ジョークという体を取ってまで、ホークスの能力を否定するのだろう。
いくらメンタルが馬鹿げているほどに強いと言われるホークスでも流石に戸惑いの中に不安が生まれたそのとき、ふと気がついた――冗談みたいに、ではなく、彼らは本心から冗談だと思っているのでは、と。
磁覚を持たない人族にとって、磁気とは方位磁針の指し示すものが全てだ。そして、方位磁針は磁場にしか反応しない。そう、つまり、方位磁針では観測できない弱い磁気――磁波は、彼らの世界では存在しないものになっているのではないか。人族は、生き物も微弱ながら磁気を発しているという事実を、種族単位で知らないのではないか。
そう考えると、迫の言葉も、仁の発言も、全てに説明が付く。彼らには、磁覚を出しにしてホークスを貶める気などさらさらなく、本当にただの雑談のつもりで、あのように口にしただけなのだろう。そこには、やはり他意も悪意もなかったのだ。
思い返せば、燈矢に磁覚を教えるとき、人族でも理解しやすいよう、何かと方位磁針を引き合いに出した。何なら、頭の中にコンパスがあるのだとすら言った気がする。そしてその時、磁場について言及するばかりで、磁波のことは一言も触れなかった気がする。磁覚に関する知識はすべて教えたつもりでいたが、とんでもなく偏った知識しか授けられていない気がする。
意図的にそうした訳ではない。最初に質問をしたのはホークスだったにも関わらず、いつの間にか会話の主導権を握られ、燈矢が矢継ぎ早に投げてくる疑問質問にホークスが答える形式になり、脇道に逸れる余裕がなかったからだ。完全に不可抗力である。そして質問者に磁波の発想がなければ、質問内容が磁場で占められるのも道理だろう。
つい先ほどまで輪郭を掴むことすら難しかったピースが瞬く間にはまっていく。付かず離れずまとわりついていた靄が一気に晴れていく。世紀の大発見でもしたかのような心地に、エウリカと手を叩きたい気分だ。が、しかし。喜んでばかりもいられない事情があった。
何故なら、この発見から芋づる式に、新たな事実が発覚してしまったからだ――ホークスと燈矢の間で、現在進行形でとある認識の食い違いが発生している、という見過ごせない事実が。
燈矢は帝国の王族とは思えないほど、ホークスが有翼族であることを尊重してくれる。
マナーやしきたりなどは帝国の流儀に合わせることを求められるが、そこは郷に入らば郷に従え。厳しいダンスの訓練だって、投げ出さずに最後までやりきった不屈の精神を舐めないでもらいたい。
それに、半獣人の中でも同じ種族でなければ、風俗は異なるものだ。族長の娘である自分は、いずれ邑のために誰ぞと結婚するものだと理解していたし、人族だろうが、半獣人の他種族だろうが、そこで苦労することは織り込み済みで覚悟の上。だから、ホークスは、帝国式に従うことについては基本的に不満をこぼしたことはない。一つ言わせてもらうとすれば、自宅での食事の際は、切るも刺すも挟むも自由自在の万能カトラリーことお箸を使わせてほしいなぁ、ということくらいだ。
反面、発情期を筆頭に、有翼族である限り、個人の努力ではどうしようもないことに関しては、燈矢の方からホークスに歩み寄ってくれていた。人族の奴隷になった半獣人の中には、人族の服を着せるために、尻尾を切り落とされるものもいると聞く。身体的特徴に合わせ、背中の開いたデザインの寝間着を絹の生地で一から仕立ててもらえる半獣人なんて、古今東西で自分くらいしかいないんじゃないだろうか。
理解のある旦那に恵まれたおかげで、ホークスは窮屈な思いとも、不自由な思いとも無縁な日々を過ごせている。帝国に嫁ぐことが決まった際、ホークスの身を深く案じ、時に涙を流してくれた邑の皆には申し訳ないくらいの贅沢を満喫させてもらっていた。
だから、ホークスが番の磁波をすぐさまキャッチできるようになったときも、燈矢が何も言わないということは、全てを承知した上で容認してくれているのだと勝手に解釈していた。
そりゃ、ホークスだって、一方的に居場所を把握することに対して何とも思わなかった訳でない。
本来この能力は、番間で双方向に発揮されるものだ。自分が相手の現在地を特定できるように、相手もまた自分の所在地を割り出すことができる。そういう間柄になることを許し、そして許してもらえる者同士でなければ、番になってはならない。お相子だからこそ成り立つ信頼関係で、片方だけがもう片方のプライバシーに干渉できる関係なんて、遅かれ早かれ、破綻するに決まっている。
しかし、人族は磁覚を持っていないし、磁覚はオンオフを制御できるようなものではない。人族と有翼族が番えば、どうしたって非対称な関係性になってしまう。こればっかりは、そういう生態だからという理由に尽きる。努力や工夫でどうにかなるようなものではなかった。
だから。
だから、燈矢は、半獣人の発情期に付き合ってくれるように、この一方的な搾取についても、嫌がらずに受け入れてくれているのだと、そう思い込んでいた。
だから、かくれんぼでホークスがすぐに燈矢の元に駆けつけても、何も言わないのだと、自分の都合のいいように曲解していた。
でも違った。燈矢は何も知らなかっただけだ。知らないから、怒りも軽蔑も非難も抱きようがなかっただけだ。
ならば、もし、燈矢が事実を正しく認識したら、どうなるか。
ホークスは、磁覚がない世界というのを思い描くことができない。きっと、同じように、人族には磁覚がある世界を想像することができないはずだ。彼らからすれば、理解の外にある摩訶不思議で怪しい力を使って、自分の居場所を突き止められるわけで、迫はそれを恐ろしいと形容した。
「四六時中監視されてちゃ、妃殿下だって気が滅入るだろ!悪夢だ!」――――なるほど。人族に言わせれば、番への帰巣本能は監視に等しいという認識ならしい。
「いざという時は、いつも見張ってなきゃいけないくらい、信用がないのかって妃殿下に泣き落とししてもらおう」――――そうか。発情期は何が何でも番と過ごさねばならない有翼族としては番と離れ離れになった際、帰巣本能がある限り必ず再会できるという心の拠り所になるのだが、人族の目にはそういう風に映るのか。それはさぞ、気に障ることだろう。
立ち回りは上手い方だ。空気を読むのも得意な方。その場に求められた回答を、そつなく用意することなんて、造作もない。「なぁ、妃殿下」と話を振られたホークスは、あくまでよもやま話だという前提のノリを白けさせることなく、「いやぁ、本当にそんなことになったら、やってられませんね!」と朗らかに笑ってみせた。
いったいどのタイミングで、意図的に、帰巣本能に関する情報を人族に対して伏せることにしたかと問われれば、この時を置いて他にない。この時、この瞬間、ホークスは確かに自らの意志で沈黙を選んだ。
ホークスにできるのは、コンパスと同じく南北東西の方位を探ることのみ。今まで図らずもずっとそのように勘違いされていたわけだが、何の差し支えもなかった。ならば、今後もそのスタンスを貫いたところで、上手くいくはず。
別に、嘘を吹き込んだわけではない。方角を把握できるのは紛れもない事実なのだから。
そして、無闇に怖がらせたり、不愉快な思いをさせてまで、自分達の間に齟齬があることをバカ正直に報告する必要もない。だって、磁覚は他者の目に見えるものではない。いくらホークスが悪用する気はないし、普段は意識的に使わないようにしていると主張しようが、それを証明する手立てはなく、人族は常にプライバシーを侵害されているかもしれないという不安を抱えることになる。折角築き上げた心地よい関係性に、余計な亀裂を生じさせてまで、磁覚に関する知識を訂正することに何の意味があるというのか。
帰巣本能のことを隠すなら、姿をくらませた燈矢の元に最短距離で駆けつけるのは自重すべきかとも思ったが、迫や仁の前で既に披露してしまっている。今更、燈矢探しの腕が鈍る方が、かえって違和感を抱かせるに違いない。どうやら単純に燈矢がいそうな場所を見つけるのが上達したという好都合な誤解を受けているようだし、下手に取り繕うのは止めておいた。その代わり、旦那探し以外の場面において、磁覚関連の情報の取り扱いはことさら注意深くするよう心がけた。
幸いなことに、帝国内で、有翼族の生態についてホークス以上に詳しいものは、資料だろうと人間だろうと存在しない。時たま、ホークスの身内が離宮を訪れるけれど、有翼族からすれば磁覚は人間であれば誰しも持っているという認識だ。改めて人族に説明するような状況に陥ることもあるまい。
ホークスが口を閉ざすだけ。それだけで、今のこの平穏が保たれる。なれば、何を迷うことがあるだろう。沈黙を守っていれば、誰かに怪しまれることすらないはずだ。そうして墓場まで持って行けば、万事解決――と、高を括っていた、のに。
「まさか、帝国中から、鳥の生態に関する論文をかき集めてさぁ帰巣本能に独学で辿り着くなんて!一体!誰が!予想できるお前、この道の大家にでもなるつもりなわけ⁉」
一晩かけて、色んな意味で余すことなく暴かれた鷹は、「鎌かけたにしたっちゃ、磁覚器官がなか癖に、なして帰巣本能ときびりつけられたと」と朝っぱらからけたたましいモーニングコールで燈矢を叩き起こした。何とも賑やかな後朝だ。ピロートークとは本来、色気のあるしめやかなものではなかっただろうか。
時刻は日の入り前。ランプの灯りが消えた寝室は薄暗い。使用人達ですら、まだベッドの中で微睡んでいるだろう。身体を揺すられても、耳元で騒がれても、燈矢はしばらくの間寝たふりを続けた。
が、しかし。タオルケットを奪うという強硬手段に出られると、流石に黙っていられない。とりあえず温もりを求めて手を伸ばしてみるものの、タオルケットも抱き枕もベッドの隅へと移動しており、虚しく空を切るだけだった。いくら昼の日差しが強くなり、侍女がホークスのドレスを夏仕様に衣替えしていたとはいえ、下着一枚ではまだ肌寒い季節。のっそりと上半身を起こし、安眠を妨げられたせいで鋭くなった目を和らげることなくそのまま向ける。
絶対零度と恐れられるアイスブルーの眼光を真正面から浴びれば、普通は委縮するはずなのだが、燈矢が嫁にもらった鷹は何事においても一筋縄ではいかせてくれない。正々堂々受けて立ってきた。睨み合うこと十秒。「返せ」と先に口を開いたのは燈矢で、間髪入れずにホークスは「説明が先」と返した。再び沈黙。譲歩の欠片もない、清々しいほどの平行線である。
「風邪引いたらどうしてくれんだ」
「その時はちゃんと看病してあげる。ラタン婆ちゃんの薬はよく効くから、安心して。まぁ、すっごく苦いんだけどさ、慣れればどうってことないよ」
「慣れるほど飲まされるわけ?お前の中で、俺はどんだけ重い病を患う予定になってんだ?」
「えぇっと、軽い風邪だとして寝込むのは一日か二日でしょ。大人は毎食三錠、熱が引いた後ももう一日は服用しなきゃいけないから、ざっと二、三十?」
「覚えとけ。お前の郷で看病と呼んでるそれは、こっちじゃ追い討ちって言うんだよ」
燈矢から問答無用でタオルケットを取り上げておきながら、鷹はちゃっかりそれを羽織って暖を取っている。「なぁ、良心は痛まねぇの?」と情に訴えてみるも、けろりとした様子で「全然」と首を横に振る始末。有翼族の情操教育は一体どうなっているのやら。
初夜で「不能やなかと⁉なして⁉」とほざくようなムードクラッシャーに情緒を求めるだけ時間の無駄だ。仕方なく燈矢の方が折れることにして、「半獣人の資料は少ねぇが、鳥ならうちの国でも研究されてる。その論文を王立図書館から取り寄せて勉強した」と欠伸交じりに答えた。
肉や卵を目的に家畜として飼育されている家禽は、量産と食味のため。観賞用の愛玩鳥であれば、羽の長さや彩り、または美しい鳴き声のため。あるいは、鷹狩りや鵜飼いといった漁猟のパートナーとして仕立てるため。交配による品種改良や刷り込みを利用した訓練方法など、人族の社会において重要視される分野という偏りは否めないものの、食料の確保という重要課題と直結している鳥類の研究は国を挙げて行われることが多く、大陸で最も多くの人口を有する帝国も例外ではない。
新婚生活を送る中、有翼族が鳥と似た生態を持っていることがある、と身をもって経験した燈矢は、しばしば王立図書館から鳥類を扱った学術論文や観察記録を取り寄せた。帝国内で流通する全ての出版物には王立図書館への納入義務が発生するので、その品揃えは大陸一を誇る上、廃嫡されようと燈矢は王族だ。国の機密事項が記された禁帯出のものでもなければ、燈矢からの貸し出し依頼を突っぱねられるはずもない。王族特権で貸し出し冊数の上限は取り払われ、定期的に「延長希望」の手紙さえ出しておけば無期限に借りられるため、貸し出し期間についてもほぼ機能していないのが現状だ。
ホークスという名前のイメージに引っ張られ、猛禽類をテーマにした書物から着手したが、元々先行研究が少なかったこともあり、あらかた読み漁るのに半年もかからなかった。また、その頃には有翼族に現れる鳥類の特徴は猛禽類に限らないということも経験則から分かっていたので、それ以降、鳥のつく文献であれば幅広く渉猟することにした。そして、伝書鳩の訓練結果をまとめた報告書に行き当たり、帰巣本能という概念を発見したわけである。
後は、収集した既定の情報をあれこれ練り回し、仮説を立てるだけ。実に簡単な作業だ。疚しい手段を用いているわけでもなければ、隠し立てしたくなるような後ろめたい事情もない。燈矢はありのままの事実を述べた。
そんな燈矢の誠実な態度に、されど、ホークスは先の反応を示した。全くもって解せない。燈矢は自分が納得すればそれで満足する。他の誰かと知見を共有したいとは思わないし、寧ろ一人で独占したい派だ。まして、それが伴侶のこととなれば言うに及ばず。自分だけが知っているという優越感に浸りたいのが男心だろう。「どっからどう見ても、俺は学者タイプじゃねぇだろ」と訂正を求めれば、ホークスは「そういうことやないんよね」と頭を抱えた。
どうやら、断りなく磁覚で位置を特定されることに対する人族の世間一般的なリアクションへの理解度が急激に上がったらしい。「……これが、一方的に調べ上げられる感覚……確かに怖かぁ……」と身を守るように、ホークスは翼ごとタオルケットに包まった。羽に変な寝癖がついたらどうするつもりなのかと燈矢が眉根を寄せたのは一瞬で、すぐさま「燈矢、直して」と丸投げしてくるであろう未来が克明に見えた。この国の長子が専属トリマー扱いされている光景を貴族達が目の当たりにすれば十人中百人は目を疑うに違いない。
「色々突っ込みたいことはあるんだけどさ、とりあえず、人様に迷惑かけるのはアウトでしょ。私物化せずに、借りたものは返しんしゃい。他の人が借られん」
「研究者なら研究費使って、自分の書庫に必要な資料を一通り揃えてる。図書館なんて利用しねぇ。そもそも、『王立』と銘打ってんだ。王家の所有物を俺が好きに使うことの何が問題だって?」
「取り扱い厳重注意筆頭の管理を任されてる図書館側の負担も考えなよ」
「俺がその手の根回しを抜かると思ったか?心配せずとも、図書館にはちゃんと寄付金を寄越してる」
「そろそろ気遣いの方向を根本的に間違えてるって自覚を持ってくんないかな?金で解決すればいいってもんじゃないでしょ」
この様子だと、今日か明日にでも燈矢が図書館から借りた書物一式を屋敷中から発掘し、一括返却まで済ませそうな勢いだ。
大まかな内容は頭に入っているとはいえ、詳細を読み返したくなったとき、すぐさま確認できないのは困る。同じ本を何度も貸し借りしていては、向こうにとっても手間だろう。図書館から、定期的に貸し出し確認リストが送られてくることはあっても、督促状が同封された試しは一度もない。それが何よりの証拠だ。リストに押印して返送すれば、貸出期間中に資料に万が一のことがあったとしても、責任の所在は燈矢にあることを図書館側は主張できる。
加えて、使途について一切口出されず、公的に支給される運営費とは別に自由に使える「王族」からの寄付金というのは、図書館側にとって非常にありがたいものだ。
寄付金が威力を発揮するのは、例えば、自国では流通していない他国の希少本を購入する際。そういう場合はオークションを通じて入手することが殆どだが、帝国がそれを望んで寄付金を融通しているという体を取ってしまえば、たとえ図書館が提示した金額以上を支払えたとしても、実際に値を釣り上げて喧嘩を売るような馬鹿はこの大陸のどこにもいない。帝国の白蛇に睨まれるとどうなるか――それは先の戦争で嫌という程思い知らされているはずなので。燈矢の名前をちらつかせれば、オークションで必勝できる。こんな旨い儲け話、他にあるまい。ビブリオマニアが集う王立図書館にとって、その特権の対価が、さして需要のないマニアックな鳥類関連の論文の返却延滞であれば、喜んで受け入れるだろう。
蹴落としたい相手ならばともかく、今後とも末永く良好な関係を築いていきたいなら、決して相手に損をさせないように交渉すること。帝王学の一環で習った心得だ。一方的な負担を強いているつもりはなかったし、本当に迷惑だと思っているなら、図書館とて黙って泣き寝入りせず、燈矢の父に陳情の一つや二つ、叩きつけている。両者が納得しているなら問題はないはずだが、賄賂だの癒着だの横領だの、人族のお家芸に顔をしかめる気高い鷹にとって、見ていて気分のいいものではなかったのだろう。今後、燈矢が態度を改めない限り、小言は避けて通れなさそうだった。
燈矢からすれば、中身が手元にあれば十分なわけで、本そのものには用がない。重厚な装飾が施された革装本でないと嫌だなどという偏屈なこだわりはなく、そうなると複写サービスの利用を検討するのも一つの手だ。鳥類を取り扱った論文はそれなりの数に上るが、まぁ、こうして新たな仕事を作り、民の雇用の増加に貢献するのも為政者として大事な務め。司書達にはしばらくの間、写本作成に勤しんでもらうとしよう。
自分の軽率な正義感で、王立図書館の仕事量が大きく変わる羽目になったなんて微塵も思っていないホークスは、「今日は大掃除やね」と本日の予定を立てている。
「それで?」
「なんね?」
「お前の質問に答えてやったんだ。次、約束を守るのはそっちの番だろ?」
さっさと二度寝に戻らせろ。そのように圧をかけると、鷹はますます身を縮めた。どうやら、まだ抱き枕とタオルケットは燈矢の手元に戻ってこないらしい。いつになったら寝れるのやら。燈矢はこれ見よがしに欠伸を零した。
少しでも逃げる素振りを見せたなら、情け容赦なく鷹が獲物の方の鷹狩りを行うつもりだったが、ベッドから降りる気配は見受けられない。屋根上の籠城に比べれば、タオルケットの巣ごもりなど可愛いもの。さて、どのように攻略してやろうかと内心で舌なめずりをする。
片やホークスは、うろうろと琥珀色を彷徨わせた後、意を決したように「怒ってないって言ってたけどさ」と口を開いた。「嫌じゃないの?」
あまりにも曖昧な質問内容に、燈矢は間髪入れずに「何が?」と聞き返す。今し方、異文化摩擦による大きな齟齬が発覚したところだ。向こうの想定しているものと、こちらが予想しているものが果たして一致しているかどうか、はっきりさせておくに越したことはない。ホークスの方もそれは心得ているらしく、「俺に磁覚があることが」と先ほど省略した主語を声に出した。
「コンパス要らずな分、味方にいりゃ便利だし、敵に回せば厄介だとは思ったが、俺の個人的な意見を言うなら、嫌う理由が特にねぇってところか?」
「……方位が分かるだけじゃなくて、自分の居場所も一方的に把握されるんだよ?」
「お前に隠れて浮気してねぇことが証明されて何より」
茶化されたと思ったのか、ホークスはタオルケットの中から「そういうことやなか」と睨みつけてくる。燈矢の回答ではご不満なことだけは十二分に伝わってくるが、どこがどう気に食わないのかを教えてもらわないことには、手の打ちようがない。
両手を上げて降参の意を示しながら、「どういう答えが欲しいんだよ?」と策を弄さずに直球勝負を仕掛けると、ホークスは「だって、人族からすると、四六時中監視されてるみたいでいい気分はしないんでしょ?」と聞き返してきた。されど、こちらの答えなど分かりきっていると言わんばかりに、燈矢が口を挟む隙を与えず、「信用されてない感じがして不愉快だし、気が休まらなくて息が詰まるって仁さんも迫さんも言ってたもん。正直、有翼族の俺にはあんまりその感覚が分かんないんだけど、でも、帝国人にとっては嫌な気持ちになるものだっていうのは理解したつもりだよ。俺だって何も悪いことしてないのにずっと見張られてるとしたら、肩が凝るだろうしね」とペラペラ捲し立て始める。
元々お喋りな質ではあるものの、こうも早口かつ一方的に饒舌になるのは不安の表れだ。耳を傾けなければいけないと分かっていながら、相手の言葉――つまり本心と向き合うのを少しでも遅らせようとする最後の悪足掻き。こういうときは無理にこちらの話を聞かせようとするのではなく、ホークスの気が済むまで付き合うのが正解である。口がよく回るとはいえ、そのうちネタ切れを起こして静かになるのだから。
案の定、ホークスの語り口は少しずつペースダウンしていく。気は長い方ではないけれど、その先に労力に見合うだけのご褒美があると分かっていれば驚異的な根気強さを発揮できる燈矢は、急かさず、迫らず、さらに待った。
ホークスとて、子供じみた誤魔化し方で、いつまでも問題を先延ばしにできるとは思っていない。やがて観念したように、「それに、ほら。目には見えん能力やけん」と長い長い前振りに幕を下ろして、本題に入る。
「得体が知れんていうか、胡散臭っていうか…………要するに気持ち悪かやなかかと思うて」
帰巣本能のことを燈矢に隠すに至った背景。
燈矢がカマをかけた時、怯えた表情を見せた理由。
ホークスが何より恐れていた事態。
それらが全て一つの答えに収束していく。不気味だと思われないか、薄気味悪いと距離を置かれないか、厭わしいと眉を顰められるのではないか――――燈矢の予想通り、ホークスが帰巣本能について言わなかったのは、有翼族の禁忌や掟に触れるといった種族ぐるみの機密事項だからではなく、非常に個人的な事情によるもので、しかも、それは燈矢に嫌われたくないという思いから端を発していたのだ。
半獣人が差別される大きな原因は、人族と似ていながら異なる要素が多いことにある。肌の色、宗教、身分、性別――人間というのは、群れたがる割に、自分との違いに対しては不寛容になりやすく、異なる存在を排除しようとする傾向が強い生き物だ。獣の特徴を体に宿す半獣人など格好の的。種として虐げられてきた経験があるだけに、ホークスは人族にはない能力を有しているという事実を重く受け止めているのだろう。
その直感は正しい。特定の人物だけであっても、居場所を常に把握できるなんて情報が貴族の間で出回れば、噂に尾ひれや背びれがついて、瞬く間に怪しげな秘術を使う異端者に仕立て上げられる。軽はずみな発言は控えるべきだという認識でいてもらった方が何かと好都合だろう。特にこの鷹は何かと楽観視するきらいがあるため、少し大げさに脅すくらいで丁度いい。「宗教裁判沙汰になったら面倒だし、帰巣本能については他言無用の方がいいだろうな」と一般論で釘を刺す。
けれども、ホークスが気にしているのは、有象無象の目にどう映るかではない。周りの反応など歯牙にもかけぬ鋼の精神の持ち主にとって、それしきのことは気に揉むような事ではないからだ。彼女が憂いているのは、ただ一つ、自分の伴侶の目に侮蔑の色が現れることだった。
で、あるならば。燈矢の忌憚ない意見もきちんと添えておくのが筋というもの。「まぁ、俺としてはないよりあった方がありがてぇけど」と言葉を続けた。
繰り返すが、燈矢個人にはホークスの帰巣本能を疎ましく思う理由がない。何故ならば。
「何があっても、必ず俺のところまでお前を連れてくる能力ってことだろ?」
キョトンと丸くなった眼が幾度か緩慢に瞬いた。そして、じわじわと琥珀が煌めき出す。
見る者を寄せ付けない黄金が撒き散らす冷たいきらびやかさとも違う、手の届かぬ高みに座す太陽が施す独り善がりな眩さととも違う、柔らかな温かみを宿すその輝きを、何よりそれを自分の腕の中で慈しむのを、燈矢は一等気に入っていた。
疑いよりも期待の色が濃くなっていく眼差しが「ほんなこつ……?」と尋ねてくる。まだまだ異種族の壁というものはぶ厚い。それでも、帝国では聞き慣れないその言葉が何を意味するのかを即座に翻訳できるくらいには歩み寄れているわけで。惚れた相手の理解が深まるきっかけを作るイベントだと思えば、異文化摩擦もそう悪いものではないと思える――起こる頻度は、ごく稀くらいでいいのだけれど。
「本当本当。あぁ、でもその能力を俺から逃げるために使うって言うなら、話は変わってくるかな」
「……参考程度に聞きたいんだけど、どんな感じに変わるの?」
「断腸の思いではあるが、風切羽と腱を切らせてもらう」
「急に血腥い話になったね?」
「お前が逃げなきゃ、俺も愛妻相手に物騒な手段は取らねぇよ」
「怖か〜」
白々しく恐怖を訴える声に、もう怯えの響きは含まれてない。普段の軽口の温度に戻っている。良くも悪くも、立ち直りが早く、切り替えも早い鷹のことだ。すっかり元通りになったのかと思いきや。
まだ微妙に視線が合わない。ついでに髪の中から見え隠れしている耳も赤い。これはほぼ間違いなく、項も同じように熟れているはずだ。背後でタオルケットがモゴモゴと動いているのは、持ち主の心の機微に率直な羽のせいといったところか。
今すぐこの場から立ち去りたいくらいには、照れや恥じらいが尾を引いているのだろう。しかし、同時に燈矢の傍を離れがたくも思っている。その結果が、この落ち着きのなさというわけだ。
ホークスの中で相反する二つの思いが拮抗しているというならば、燈矢は後者を後押しするまで。「ほらよ」と手を広げる。元々ホークスの質問に答えれば、タオルケットと抱き枕を返してもらう約束だったのだから、これ以上ない大義名分だろう。
ホークスは、ウロ、と視線を彷徨わせた後、覚悟を決めたのか、キュッと唇を固く結ぶと燈矢の胸に勢いよく飛び込んできた。
――――じゃあ、愛の力だ。
従者の言葉がふと脳裏に蘇る。
なるほど。少しばかり癪ではあるが、迫の仮説の方が正しかったらしい。
ホークスが脇目も振らず燈矢を迎えに来るのは、まぎれもなく愛の力だった。