閑古の鷹の目闇夜の火矢 人文学研究棟を有する阿野戸キャンパスから、最寄り駅まで徒歩20分。
バスに乗れば、全ての信号に引っかかったとしても移動時間を半分以下にまで短縮できるが、大抵満員御礼のすし詰めな上、車酔いしやすい体質だ。おまけに母親譲りの容姿のせいで、ひっきりなしに科を作った声で話しかけられるときた。気分が優れない状態で見知らぬ女との会話を強要されるなんぞ、ただの苦行でしかない。傘が裏返るような強風が吹き荒れる悪天候のときだろうと、個人利用でも簡単に貸し切れるタクシー一択。バスの世話にだけはならないと心に固く誓っている。
そこからさらに、学割の文字が躍る立て看板の市街地に背を向け、山の方へと向かう電車に揺られること四駅分。各駅停車しか止まらない小さな駅の改札を潜ると、雨に濡れることがないよう手野商店街の年季の入ったアーケードが手厚く歓迎してくれる。入口の文字が剥げ落ちて「手予商店街」となっているのは、ご愛敬というやつだ。
昭和の香り立ち込めるレトロな店が軒を連ねる大通りから、更に二本ほど外れた路地へと足を踏み入れる。所々石畳が埋め込まれたコンクリート舗装の細い道は人通りがほとんどなく、立ち並ぶ民家の影が昼夜を問わず帳を下ろすせいか、全体的に薄暗い。余程の物好きでもなければ、冒険心を尻込みさせ、そそくさと大通りへ踵を返すだろう。
逢魔時に通れば人ならざる怪異と出くわしそうな雰囲気を醸し出す路地を15分ほど歩いて、ようやっと目的地に到着。
信楽焼の狸の代わりに、いかつい鷹の置物が鋭い眼光で睨みつけてくる一軒家―――暖簾も看板もないけれど、紛れもなく営業時間真っ只中の「鷹乃目堂」。ここが、人文学民俗学科研究室所属の院生、轟燈矢ご用達の骨董屋だった。
年代物の柳格子の引き戸は、いくら静かに開けようと気を配ったところで、カラカラと乾いた音を立てて客の訪れを知らせる。経年劣化もここまでくると、鶯張りの廊下同様、泥棒泣かせの立派な防犯システムとなるらしい。
鰻の寝床と呼ぶべき間取りの店内は、間口が狭い分、奥行きがある。足の踏み場に困るほど所狭しと並べられた壺、皿、掛け軸に絵画、そして宝石が象られたアクセサリー類や古書の間を縫うようにして奥へ奥へと進めば、案の定、カウンターにお目当てのブロンドを発見した。
毎度毎度、片道小一時間という、決して短くも容易くもない道のりを物ともせず、百夜通いさながら足繁く通い詰めているのだから、温かいお出迎えを期待しても罰は当たるまい。だというのに、ここの小生意気な店番ときたら、顔も上げずに何やら書き物をしたまま「まぁた、来たと?」と門番の置物にも負けず劣らずの可愛げがない接客をする。
常連客に何たる仕打ちと文句の一つや二つぶつけたくもなるが、他の客に対しては接客業のお手本のような愛想を振りまいていることを知っている。これはある種の特別扱いであり、平たく言うなら、燈矢相手であれば素の態度で接しても許される自信があるという甘えの裏返しだ。方言が出ているのが何よりの証拠。しかも本人は無自覚ときた。
「あんまり我が儘を言わん子でなぁ」と寂しそうに零す年老いた店主の嘆きと、「教育機関とは無縁の生活を送らせてしまったんで、年が近い子との交流がないんですよ。仲良くしてやってくださいね」と店主の息子ながら公安に勤め、店の跡を継ぐ気などさらさらない保護者からの頼みを思えば、大きな進歩と言える。ここは年上にして、三人の妹弟を持つ長男歴二十年越えの燈矢が譲歩するところなのだろう。
「いらっしゃいませ」の挨拶を寄越さなかった無礼は不問に付してやることにして、燈矢は「解体及び解読作業の進捗はどんなもんかと思ってな?」と駅前で買ってきた手土産の紙袋をカウンター越しでも見える高さまで持ち上げる。
そこでやっとこさ、書類に夢中だった蜂蜜色の瞳が燈矢の姿を映した───正確には燈矢の手に握られている紙袋の文字に釘付けになった。
食い意地がはっているこの男の大好物は鶏料理だが、大の甘党でもあるためスイーツ関連の情報にもアンテナを張り巡らせている。店名のロゴさえ見せれば、わざわざワッフル専門店だと説明せずとも中身を理解するに違いない。実際こちらが口を開く前に、「……レーズンバター味はある?」と今月の期間限定品をおねだりしてきた。
「いや?買ってきたのはピスタチオとキャラメルショコラ」
「お高か方のクリームワッフルやなか」
途端に喜色に彩られる蜂蜜色。どうやらお眼鏡に叶ったらしい。「ホットでいい?」と聞きながら、返事を待たずに、紙袋を大層大事そうに抱えていそいそと居住空間へ引っ込んでいった。疑問系を装いつつも、あれは、冷やす手間が面倒だからホットにするねという一方的な宣言にすぎない。こちらのリクエストなんて、最初から聞き入れる気がないのだ。
コーヒーはブラック、紅茶はストレート。ホットかアイスかはその日の気分で、さしたるこだわりは持っていない。燈矢の好みはとっくの昔に伝えてある。コーヒーにしろ、紅茶にしろ、良かれと思って砂糖とミルクを大量投入される大惨事は二度と起こらない、と信じたい。
大事な商品を扱う店内は、飲食厳禁だ。商談用の応接スペースも申し訳程度にはあるものの、燈矢は店の引き戸を施錠すると勝手知ったる足取りで、居住スペースに上がり込み、昔懐かしの卓袱台がある居間へと向かった。燈矢の独断で臨時休業にさせてもらったが、鷹乃目堂は今日も今日とて閑古鳥が絶好調に美しい歌声を奏でている。客足なんぞ、疎らどころか見る影もない。店の売り上げにさしたる影響はないだろう。
薄っぺらい座布団に腰を下ろしたタイミングで、「ブラックをご注文のお客様~」とコーヒーが届く。
手渡されるのは、淡い色彩と柔らかなタッチで描かれたシダの葉が茂るマグカップ───ノリタケのグランヴェールだ。今や生産が終了し、廃盤となった希少なシリーズ。そこにお湯に注ぐだけのインスタントコーヒーを入れるとは。何とも贅沢な使い方なこってと呆れたくもなるが、仮にも店主から店番を任されているほどの男が、この食器の価値を見抜けない筈がない。
つまるところ、これが意味するのは───。
「へぇ、回収できたんだ。おめでとう」
───贋作ということに他ならない。それも、贋作師夜鷹の作品であり、その正体は、誰あろう、燈矢の目の前にいる目良啓吾その人だ。
何でも、啓吾の父親は絵に描いたようなロクデナシだったらしく、自分の子供に模倣の才能があると分かるや否や、金の卵を生む雛鳥を監禁し、贋作造りを強制してきたのだとか。
善悪の区別がつく前から、犯罪の片棒を担がされてきた幼子は、ただ与えられた指示に従い、模造品を作り続けていただけで、父親が自分の作品を本物と詐称し、法外な値段で売り払っていたこと、そしてそれが世間では立派な犯罪行為に当たるのだと知ったのは、父親が捕まり、公安に保護されたときだった。
その後、目良善見に養子という形で引き取られた啓吾は、自分が世界にバラまいてしまった夜鷹コレクションと呼ばれている偽物を全て回収するべく、目良の実家の骨董屋にて日々邁進している。
「これ、何歳頃の作品?」
「あん時は日付なんて確認できる環境やなか。あ、でも、これ作ったとき、前歯の乳歯が抜けたのを覚えとぅ。絵の具が乾く前に血が落ちそうになって、焦ったもん」
啓吾の記憶が正しければ、小学校低学年で、これだけの完成度の贋作を手がけたことになる。そりゃ、父親も贋作造りの申し子だと手放しで喜んだに違いない。
コーヒーを冒涜していると勘違いされそうなほど色が薄くなっているカフェオレを啜りながら、啓吾はピスタチオ味のワッフルを頬張った。ちなみに、二種類の味を三個ずつ買ってきたわけだが、啓吾の手に掛かればその内訳は自分が二つ、世話になっている店主と目良にも二つずつとなり、燈矢の分は一切考慮されない。元より甘ったるいものは得意ではないので、分け前がなかろうと痛くも痒くもないけれど、一応礼儀として一言ことわるくらいはあっても良いんじゃないかとは思っている。
「うまか~」と心底美味しそうに食べる啓吾に「それで、進捗は?」と仕事の話を振れば、すぐさま幸せそうな表情は霧散して「折角のワッフルが不味くなる」と眉間に皺が刻まれた。「一人でやる分量じゃないんだよ」
どうやら、手を焼いているらしい。燈矢の目論見通りに事が運んでいるようで何より。わざわざ七面倒臭そうな業務をこしらえた甲斐があるってもんだ。
早くもピスタチオを完食し、インターバルを挟むことなくキャラメルショコラへと伸びる手。恐らく食べようと思えば、クリームワッフル六個分くらい、ペロリと平らげるに違いない。その食欲を抑え込んでいるのは、偏に見上げた孝心によるものだ。何とも泣ける話である。その優しさのほんの一割でも、燈矢にお裾分けしてほしい。食べ足りないからと言って「……ダースで買ってきてくれても良かったのに」はないだろう。一体いくつ貪るつもりなんだか。これでどうしてニキビもできず、体重も増えず、腹は薄っぺらいままなのか、不思議でならない。体型維持に腐心する妹が知れば、きっと羨ましがるはずだ。
見ているだけでも胸焼けしそうな光景を目と鼻の先で繰り広げられると、脳もバグを起こすらしい。一欠片たりとも食べていないのに、喉奥が甘ったるいクリームをつっこまれたかの如く悲鳴を上げている。一度舌をリセットしなくては。燈矢は苦味を求めて、安い味のするコーヒーを含んだ。
最後の一口を名残惜しんでいるのか、常の大口を封印してワッフルをチビチビと啄む啓吾は「剥離の方は六割、解読は四割弱ってとこ」と観念したように呟いた。そして矢継ぎ早に「急ぎなら、今からでも人手がある研究室の方でやった方がいいって」と再考をしつこく添えてくる。
「院生は皆自分の課題で手一杯。他人の研究にまで手を貸す余裕はねぇよ」
「だったら、学生に実践を積ませるって名目で、授業の題材にするのは?」
「替えのきかねぇ貴重な資料をド素人に触らせてみろ。お釈迦にされるのがオチだ、却下」
「というか、燈矢の研究なんだし、俺に任せっぱにせず、少しくらい手伝ってくれんかな」
「俺は俺でやることがあんの。それとも、俺がそっちの作業をやる代わりに、店番放り出して大学図書館で参考文献読み漁って概要をまとめといてくれる?」
「なして俺がそこまで協力してあげないかんの」
「俺だって、そこまでのサービスは求めてねぇよ。大体、依頼料はそっちの言い値からびた一文たりともまけずに現金一括前払いで支払ったし、こうやって時々厚意の差し入れもしてる。加えて、納期も特に設けてない。こんなに気前がよくて融通の利く太客、他にいるか?」
「くっそ、開店休業の火の車やと思って足元見てきよる……!」
「こんだけ売上に貢献してやってんのに、まだ赤字なのかよ」
「お客様のおかげで昨年度もギリギリ黒字決算でした~!」
ただでさえ童顔だというのに、イーッと歯をむき出して威嚇する姿は、とても成人男性とは思えない。歳の離れた末っ子の弟といい勝負だ。これで「酒は呑め呑め呑むならば」と上機嫌に焼酎を煽るのだから、立派な年齢詐称だと思う。本人も貫禄の無い顔つきにはやや不満があるらしく、最近髭を生やそうかと検討しているようだが、あまり効果は得られないだろうなというのが第三者の客観的な見解だった。
さて、誤解のないように言っておくと、盛況とはかけ離れた店内で閑古鳥が幅を利かせているとはいえど、店の名前に入れるほど売りにしている鑑定士としての「目」は、疑いようもなく本物だ。何せ、世間では名家のくくりに名を連ねる燈矢の実家が、鑑定士を呼ぶとなれば真っ先にこの店の店主を名指しするくらいなのだから。
獲物を探す猛禽の鋭い眼差しの如く、どんな些細な点も見落とさない。そんな誇り高き信念が込められた「鷹乃目」の看板に偽りはなく、高く積まれた大金にも目をくらませることなく、公明正大な鑑定結果を下すと高い評判を受けている。テレビの取材や雑誌のインタビューなどは受け付けていないため、茶の間でこそ無名ではあるものの、知る人ぞ知る名鑑定士。それが鷹乃目堂店主、目良善観だった。
ただ、卓越した目利きが発揮されるのはあくまで真贋を見極めるときにのみ限るようで、骨董屋の舵を取る経営者としての先見の明は今ひとつだった。
普段は物腰が柔らかい聞き上手な老人なのだけれども、どうにも骨董品絡みになると妥協も譲歩もできぬ頑固な職人気質が顔を出してしまい、途端に客との折り合いがつかなくなる。そのせいで、折角の商談が白紙になることもしばしば。かつては店主の妻が客と主人の間を上手く取り持ってくれていたそうだが、息子が成人するかどうかの頃に重い病にかかり、草葉の陰へと旅立ったらしい。
息子の善見はというと、鑑定士としてはからっきし。その上、「接客は向いてないんで」と母親が担っていた店の運営の方も辞退した。自営業で生計を立てる両親の背中を見て育った結果、本人は倒産の心配がない手堅い仕事場、できれば営業職以外を希望し、見事公安職員の椅子をもぎ取ってきた訳である。
こうして、善観一人で店を切り盛りすることになり、ただでさえ少なかった一見の客足はすっかり遠のいた。最終的に残ったのは、燈矢の祖父や父のように、昔から懇意にしており、融通の利かない性格を承知の上でなお、店主の審美眼に惚れ込んでいるお偉方や資産家たち。そんな贔屓筋から時折舞い込んでくる大口の取引を請け負うことで、何とか細々と食い繋いできたらしい。
善観の代で店を畳むことになるだろう。そんな目良家の哀愁漂う覚悟を土台からひっくり返したのが、件の天才贋作師、鷹見啓吾だった。
夜鷹コレクションは、本物よりも本物らしいとすら言われるほどクオリティが高く、一端の鑑定士であってもそう簡単には見破れない。そんな中、善観だけは夜鷹が手がけた偽物を百発百中の命中率で見抜くことができた。
公安で働く息子から捜査の協力を頼まれ、一連の贋作事件の犯人検挙に一役買った善観は、正体不明の夜鷹が実は子供だったと知るなり、その類い希な才能に衝撃を受けたという。
贋作造りに欠かせないのは、本物そっくりに模倣する精巧な再現力。そして、それは緻密な観察眼と鋭利な洞察力があってこそ。
腕利きの贋作師は総じて優れた鑑識眼を有している。「それを誰からも教えを乞うことなく、独学で磨き上げたんですから、父が驚愕したのも無理はない」とは善見の言葉だった。
勿論、啓吾の贋作造りが開花したのは、本人の才能とそれに驕らず研鑽を続けた努力の賜物があってのことだろうが、本来なら受けていたはずの義務教育を全て犠牲にした産物でもある。公安に保護された当時の啓吾は、話すことはできるものの、読み書きは覚束ず、足し算や引き算といった基礎的な計算もままならない有り様だった。そもそも、出生届すら提出されておらず、戸籍上は存在しない命だったというのだから、「道理でいくら探っても、夜鷹の素性に繋がる情報が出てこなかったわけですよ」と善見は頭を抱えたそうな。
善観は啓吾を跡継ぎとして迎え入れ、長年培ってきた自身のノウハウを惜しみなく分け与えた。鑑定士に求められるのは、分野を問わない膨大な知識、その知識を実物の作品に照らし合わせ、応用する経験、それから真贋を見極める際、最後の決め手となる己の直感。
知識と経験は後付けでどうとでも取り繕えるが、直感だけは生まれ持った才能が物を言う。そして、啓吾にはそれに恵まれた。
かくして、目良家に引き取られた後、公安指導の下義務教育のカリキュラムを足早で修めるのと並行し、善観からのスパルタ修行を通じて鑑定士のイロハを正しく叩き直された啓吾は、18歳の頃には見習いという立場で店番を任せられるまでに成長した。
今だって、ぎっくり腰で入院している店主から留守を預かっているほどで、善観が言うには、啓吾の目利きは自分のそれとさほど変わらない域に到達しているそうだ。
けれども、古いつき合いの馴染み客からすれば、鷹乃目堂を贔屓にしていたのはあくまで善観に用があったからであって、何処の馬の骨とも知れぬ若造には見向きもしない。このままでは客足が完全に途絶えると危惧した啓吾は、従来の骨董品の販売、買取査定、鑑定書作成に加えて、贋造の経験を生かし、古美術品の修復も扱うようになった。
これによって新しい客層の獲得に成功。それまで止まれば倒産待ったなしの自転車操業だった慢性赤字経営を建て直し、今や、黒字化───辛うじてという注釈はつくものの───にだって成功しているのだから、経営者としての嗅覚にも秀でていたのだろう。店を傾かせるばかりの善観にとってはさぞ嬉しい誤算だったに違いない。
そうは言っても、店は相変わらずお世辞にも繁盛しているとは言えない閑散っぷりだし、バイトを雇えるだけの余裕もない。おかげで、燈矢がこの店を訪れるには、あくまで客という身分でなくてはならず、毎回毎回何かしらの用向きを捻り出している。片道小一時間の道のりでは、ちょっと空き時間ができたから立ち寄ってみた、なんて便利な口実も通用しないので困ったものだ。
だからこそ、こうして次から次へと、時間と手間のかかりそうな依頼をせっせと持ち込んでいる訳で。進捗状況を確認しに来たというスタンスが通用しないと困る訳で。
善観の鑑定士としてのスキルはあくまで作品の本質を見抜くことに特化しており、それ以外の領分には及ばない。例えば、死蔵されていた掛け軸にいかに素晴らしい価値が宿っているのかを理解できても、見るも無惨な虫食い部分を補修する術は持たない、といった具合に。できることと言えば、精々、知り合いの美術品修復師に口利きするのが関の山。ただ指をくわえて、文字通り見ることしかできん歯痒さときたら、と悔しがる善観は、それ故に新しいサービスにも手を出そうとする弟子の背中を押したのだろう。
つまり、鷹乃目堂に鑑定以外の依頼───ストラディバリウス本来の音質を蘇らせるニス塗りから、浸水被害に遭った水損資料の脱酸処理に、ピッキング不可能と謳われる難攻不落のひょっとこ錠の鍵開け、果ては博物館の展示用レプリカ製作に至るまで、何でもござれ───を持ち込めば、それらは全て自動的に啓吾へと割り当てられる。
燈矢自身、流石にこれは無理だろうなとダメ元のつもりで持ちかけた商談ですら、「お前、俺のこと何でも屋と勘違いしてないうちはあくまで骨董屋だからね!そこん所忘れんでよ!」とピーチクパーチク喚き散らしつつ、しっかり仕事をこなしてしまうのだから、恐れ入る。記憶にある限り、啓吾ににべもなく断られた案件は一つとしてない。客を篩にかけていた店主とは大違いだ。
無論、いくら金払いがいいとはいえ、無理難題ばかりふっかけてくる横暴な客にも関わらず、燈矢がいまだブラックリストに名を書き込まれずに済んでいるのには、訳がある。
まず第一に、燈矢の実家が、店主からスムーズに引き継ぐことができた大口の取引先であること。
この若い鑑定士とのファーストコンタクトは、燈矢がまだ民俗学科ではなく法学部に籍を置いていた学部生の頃、祖父が亡くなった数年前に遡る。
遺品整理をするべく出張鑑定を頼んだ際、足腰を弱めた善観の代わりに派遣されたのが、自分より年下の啓吾だった。燈矢の父は、この時には既に自分の子供と同世代の若輩者との面識を持っていたそうだが、あくまで善観の助手として傍に付き従っていた印象しかなく、啓吾が一人で鑑定するところに立ち会ったことはなかったらしい。
この頃から、体力が急激に衰え始めた善観は、経験を積ませる修行にもなるからと遠出の出張に関しては、まず弟子を尖兵として送り出すようになったのだけれども、善観に依頼を持ち込む客の殆どはプライドの高い資産家達だ。そもそも、鑑定を依頼するというのは、自分の家の資産を把握される行為に等しい。口の堅さや信頼が物を言うこの界隈は、新参者に対する風当たりがとにかく強いようで、例え善観直筆の紹介状を携えたとしても、虚仮にされたと気分を害した客に、門前払いを食らうことも珍しくないのだとか。
呼びつけておきながら敷居を跨がせず、挙句、店に苦情の電話を入れる難儀なクレーマー共に揉まれに揉まれまくった若鳥は、小生意気にも名刺を渡しがてら先手を打ってきた。「俺だけじゃあ、頼りないかもしれませんが、今回はあくまで下見だけなのでご安心を。鑑定書作成にしろ買取にしろ、正式に金のやりとりが発生するとなったら、ちゃんと店主のチェックが入りますんで」懸河の弁。もしくは一瀉千里。余計な口を挟ませる気のない語り口は、出張費用を工面してまで二度足を踏まされるのはご免だという副音声が聞こえてくるようだった。
それでも、店主代理自身、すんなりと挨拶が済むとは思っていなかったのだろう。「そうか」とだけ返した父は、「では、早速応接室のものから鑑定を頼もう」と歩き出した。追い返されるに違いないと身構えていた琥珀の瞳は緩慢な動作で瞬きを数回繰り返した後、慌てて父の背中を追いかけ、「えぇっと、俺で良いんすか?」と疑問を投げかけた。触れれば噛みつくと言わんばかりの勢いはすっかりなりを潜めていた。
「仕事に関して並々ならぬ誇りを持つあの御仁が、『鷹乃目堂』の看板を背負わせて寄越したんだ。鑑定士としての腕は疑うまでもない」
父からすれば、ただ既知の事実を客観的に述べたに過ぎないという程度の認識だ。実力主義で人を評価するきらいのある人だから、深い意味なんてどこにもなかった。
しかし、事あるごとに店主と比べられては難癖をつけられ、所詮は腰巾着と見下されてきた若鳥にとって、一人前の鑑定士として仕事の話をしてもらえたことは、とてつもないほど大きな意味を持っていたのだろう。
零れんばかりに見開かれた琥珀色に、煌々と光彩が宿ったその光景を、燈矢は鮮明に覚えていた。人が恋に落ちる瞬間を初めて見た、という表現は度々耳にするが、他人の盲の目が開かれる場面に居合わせる方が、よっぽど稀有な体験なんじゃないだろうか。
それ以降、啓吾は燈矢の父親に懐いている。少しずつ自身の腕が認められ、店主ではなく啓吾に仕事を依頼する客が増えてこようが、最初のお客様というのはいつまで経っても特別枠ならしい。まるで雛鳥の刷り込みだ。そして、そんな大事なお得意様の第一子が燈矢で、無碍にあしらえば、その横暴な来客対応が父の耳へと届く直行便に早変わりというわけである。何ともやりにくい客だろうとも。
勿論、燈矢とて親の七光りに頼っているだけではない。啓吾にとって価値のある取引相手となれるよう、それなりに努力している。
それが第二の理由───燈矢の持ち込む依頼が、夜鷹コレクションの回収に一役買っているという事実だった。
「本物よりも本物らしい」がキャッチコピーの夜鷹コレクション。所有者の殆どはそれが贋作だとは微塵も疑っておらず、他のアンティークと同じように、茶箪笥やサイドボードの中へと大切に、厳重にしまい込まれている。つまり、滅多なことでは世に出回らないのである。店に持ち込まれてくるものが都合よく夜鷹コレクションだった、なんて奇跡はまず起こりない。
そうなると頼みの綱は出張鑑定だ。依頼主の家に上がり込みさえすれば、鑑定する品以外のアンティークもついでという形でさり気なく拝見することができ、夜鷹コレクションとの遭遇率がグッと上がる、のだけれど。
繰り返すが、この界隈では信頼が物を言う。ポッと出の新参者を自宅に招き、あまつさえ自分の資産を開けっぴろげに開示するなんて酔狂な真似をする人間はどこにもいない。善観の弟子という肩書を引っさげても、啓吾一人ではどうしたって警戒されてしまう。
ここで忘れてならないのが、啓吾の最終目標は夜鷹コレクションを見つけることではなく、回収することにあるという点だ。
いくら贋作を見抜ける審美眼を持っていようと、肝心の夜鷹コレクションとご対面する機会に恵まれず、ようやく見つけたと思っても今度は現在の所有者から譲ってもらうように交渉しなくてはいけない。しかも、鷹乃目堂の評判を落とさぬよう、自分が元贋作師で、その作品の作り手であるという事情は伏せた状態で、だ。相手からすると、頼んでもいないのに、いきなり自分のコレクションの一つを贋作だと主張してきた挙句、それを引き取りたいと申し出てくるわけである。怪しさしかない。何か裏があるのでは、犯罪に巻き込まれるのでは、と疑うのも道理だろう。何せ、資産家は詐欺師に狙われやすいので。
そんなこんなで、夜鷹コレクションの発見および回収作業は困難を極めていた。実際、燈矢が手伝い始めるまで、ろくに回収できていなかったと聞く。そして、八方塞がりで途方に暮れていた啓吾にとって、燈矢は喉から手が出るほど魅力的な協力者だった。
まず、名家に生まれた人間ならではのコネと人脈。轟家と繋がりのある家柄であれば、夜鷹コレクションが眠っていてもおかしくない。
次に、轟家の長子からの紹介という切り札。これを掲げれば、大抵の人間は掌を返す。燈矢も出張鑑定に同行したときなんか、依頼主に「折角なんで、他のコレクションを見学させてもらっても?」とお伺いを立てたら、実にすんなりと「どうぞどうぞ」と蔵の中まで案内されたものだ。あの時の、「俺だけだったら、絶対こんなに快く見せてくれんかった」と憮然とした啓吾の顔といったら。傑作だった。
そして、幼い頃から得意だった交渉術。繰り返すが、お目当ての夜鷹コレクションを見つけてからが、正念場である。いかにして怪しまれずに、かつ穏便に依頼主から夜鷹コレクションを奪い返すか。
店主の善観が欲しがっているから恩を売るチャンスだ、これの買い取りに応じてもらえれば鑑定料を割り引く、何か手に入れたいブランドがあれば鷹乃目堂が仕入れた場合、真っ先に連絡を入れる、等々。バイトですらない燈矢には、鷹乃目堂の販売方法に関して何一つ決定権を持っていないが、代わりにどこそこの家が何を欲しているのかを風の噂で聞ける立場にいる。前情報に基づきながら交渉を重ね、相手の反応を見つつ、臨機応変に甘言で誑し込んでいく。鷹乃目堂の店員には事後承諾にはなるけれど、夜鷹コレクションの回収を最優先課題としているからか、最近はため息一つで見逃すようになった。
そんなわけで、燈矢の無茶振りに近い数々の依頼も、啓吾は門前払いすることなく、律義に引き受けてくれている。
今回燈矢が持ち込んだのは、下張り文書の解体及び解読作業。下張り文書とは、読んで字のごとく、襖や屏風の下張りに使われていた古文書のことだ。昔は和紙が貴重だったため、不要になった帳簿や手紙、図面といった紙を襖の下張りに再利用しており、現代では当時の庶民の生活を知る資料として重宝される。
轟家と古くから取引のある知人の家で、リフォームをした際、大量の和紙が襖の中から発見された―――そんな話を人伝に仕入れた燈矢は、早速その家に赴き、研究資料にしたいと申し出て、件の襖を引き取ることに成功、その足で鷹乃目堂に向かった。何を隠そう、下張り文書は、とんでもなく手間暇がかかる代物だからだ。
古文書とはいえ、あくまで紙としての役割は終えた反故紙扱い。襖の補強材として生まれ変わったそれらは再び読み返すことを意図されておらず、それはもう糊でしっかりと接着されている。そのため、下張り文書の解読とは、まず文書一枚一枚を破かないように丁寧に剥がすところから始まる。ミミズがのたくったようなと言われる崩し字と格闘するのはその後だ。そして燈矢はこれらの作業を丸ごと啓吾一人に丸投げした。
勿論、燈矢だって何もしていないわけではない。いくら鷹乃目堂を訪れるための口実作りだとしても、多少なりとも研究費を使ったからには、いつかはこの下張り文書をテーマにした論文を書き上げねばならない。そのため、文書が発見された街の市役所や大学の図書館に足繁く通っては、使えそうな古地図や郷土資料がないか、手当たり次第に探していた。まぁ、学会発表用の別の論文は既にしたためているため、こちらに関しては締切がないに等しいのだけれど。
何せ、鷹乃目堂に他の客からの仕事が飛び込んでくれば、燈矢の依頼は後回しにされるという条件付きで無茶なオーダーを通させてもらっている。締め切りが間近に差し迫っているものについては、自力で何とかするようにしていた。
そもそもだ。毎度毎度、善観ではなく啓吾へと確実に割り振られる依頼を絞り出しているこっちの身にもなってほしい。後回しにされるというのも、燈矢にとっては渡りに船。のんびりとやってもらった方がむしろありがたい。こちらが何のためにあえて納期を設けずにいると思っているのやら。
だというのに。
―――剥離の方は六割、解読は四割弱ってとこ。
こともあろうに、啓吾はそう言った。燈矢の予想をはるかに上回るスピードで作業が進んでいる。いくら仕事が早いとはいえ、あまりにも早すぎる。これは他の仕事が舞い込んでこず、下張り文書と向き合うくらいしか、やることがなかったに違いない。
ということは。
「この様子だと俺以外の来客予定は当分なさそうだな」
「いやいや、分からんでしょ。急に忙しくなるかもしれん」
「そのまま来週の予定空けとけよ」
「人の話を聞け。っていうか、これとは別件の依頼?お前さ、どんだけうちに持ち込んできたら気が済むの?」
「今回は持ち込みじゃねぇよ。お前が出向く方」
「出張依頼ってこと?」
「そ。持ち出し厳禁の秘仏ならしいから、出張修理サービスってことで一つ頼むぜ」
「うちが出張で引き受けてるのは鑑定と買い取りだけなんだけど」
「ああ、そうだったな。じゃあ、ついでに鑑定もよろしく」
「いや、だから、出張修理は引き受けてないんだってば。勝手に業務を増やすな。……ちなみになんだけど、秘仏ってことは個人宅じゃなかったりする?」
「うちが世話になってる檀那寺の住職の知り合いの僧侶からの依頼」
「それ、十中八九、空振るじゃん」
夜鷹コレクションの回収が見込めない話と分るや否や、啓吾は明らかにやる気をなくした。「仏像の修理なら仏師に頼みなよ」とつまらぬ正論を吐いてくる始末。
それでは全く意味がない。燈矢は「ついでに鑑定してほしいって言ったろ。仏師にそれは無理だ」と首を横に振った。
「鑑定するほど価値のある人なの?伝左甚五郎の作とか?」
「いや、生憎言い伝えも何も残ってねぇ名無しの権兵衛だ」
「それで作者を言い当てるのは流石に難しいんだけど」
「そう気負うなって。俺も正直なとこ、誰が作ったのかはどうでもいいと思ってるし」
「おい、うちに喧嘩売ってるなら高値で買ってやるけど?」
「俺が知りてぇのは、『それが一体何なのか』ってことだ。ただ、さっきも言った通り秘仏だからな。調査だけじゃ取材拒否されるんだよ。修理を行うって名目で、ようやく許可が下りた」
そしてその修理の担当者が啓吾であれば、燈矢もしれっとその場に同席できる。だから、何としても赤の他人に秘仏の修理を譲るわけにはいかないし、啓吾に引き受けてもらわねばならないのだ。
ここまでもったいつけられると、啓吾も興味が引かれてきたらしい。「……仏像なのは分かってるんでしょ?印相とか持仏から、大体検討がつくんじゃないの?」と質問してきた。
この鷹に片棒を担がせるまで、あともう少し。燈矢は「いいや?」と口角を上げた。
「その仏像、多面多臂の変化観音ってやつなんだろうが、十一面観音とも千手観音とも区別がつかねぇ変わり種って話でな、ついたあだ名は『髑髏盃観音』」
「髑髏『盃』?」
「頭の上には小さい十の髑髏がズラリと並んでる上、千本の手がもつ持仏も全部髑髏ときた。そして奇妙なことに、どの髑髏も頭頂部が凹んで、盃のようになってるんだとか」
そのような仏像は、古今東西確認されていない。唯一無二と言っても過言ではないだろう。しかも、その意匠は話を聞くだけでも非常に凝っていることが如実に伝わってくる。
燈矢としては、何故そのような仏像を作るに至ったのか、という疑問が先立つのだが、この鷹は違う。
琥珀色が、獲物を見つけたかの如く爛々と光り出す。
贋作師にせよ、修理師にせよ、やっていることはさして変わらない。オリジナルにいかに寄せて作るか―――それに心血を注ぐのだ。そして、本物と遜色のない完成度を誇るには、少なくとも作り手と同じ腕前を持っていなければならない。
そう、だから。この鷹が真っ先に食いつくのは、何故でも、どうしてでもない。
「ねぇ、その盃って木製?」
―――どうやって、作ったのか。
気になるのは、ただ、その一点のみ。
同じ人間が為した技ならば、自分にも再現できるはず。この鷹にはそういう傲慢なまでの自負がある。そして、この負けず嫌いこそが、燈矢の無理難題を全て引き受けている元凶だったりする。
食いつきは上々。あとは、この鷹の好奇心を最大限煽るだけ。
「さぁ?俺も数十年に一度のご開帳のときに遠目でチラッと見ただけだから、材質までは知らねぇよ。言うまでもなく、秘仏は写真ご法度。気になるなら実物を見るしかねぇなぁ?」
かくして、髑髏盃観音の謎に挑む二人旅が幕を開ける。