僕たちは模索ちゅう前編. 僕のキス論
整った横顔を惜し気もなく晒し読書に勤しむアルハイゼンの側で、僕は本棚の上段に手を伸ばす。背の箔に触れた指先は、すぐに目当ての資料が取り出しにくい状況にあることを悟った。
あれほど、ギチギチに詰めるなと言っているのに。読んだ本は山積みにするし、陽が差す窓辺にも平気で放置するし、片付けたかと思えばこうやって無理に本を押し込むし。紙の本を好んでいるというのに扱いが適当なところは、僕が初めての恋人らしいのに僕との初めてを少しも大切にしないところと同じ。
僕は、僕だけは丁寧に扱おう。両手を伸ばし、決して花切れに指をかけることなく古本に気遣っていると、ふいに視界が陰った。
「……ん?」
腕も下ろさぬまま振り返る僕の目の前には、突然のアルハイゼン。わっ、と声が出なかったのは多分、あまりの近さに空気も音もこの男に吸い取られてしまったからだ。
それほど変わらない高さで意味深に絡まる視線、そして逃げ道を断つアルハイゼンの右手。追い討ちをかけるように距離を詰めて来た交際相手に「来る……!」と接触の気配を察知し、身構えることは特段おかしなことではなかった。
「アル、ハイゼン……」
息を飲み、瞼をきゅっと閉じ、じっと待つこと数秒。あの柔らかな感触がくちびるを撫でることはなく、恐る恐ると薄目を開ければ直前まで存在しなかった本はアルハイゼンの右手に。
「き、君ねぇ!」
「何か?」
本を取りたかっただけ、なんて。
「なっ! ……なん、でもないよ」
紛らわしい行為をすぐにでも責めるつもりであった僕は、けれどもわかっていてやった可能性に思い至り押し黙った。
揶揄ったのだ、二度目のキスを期待した僕を。気まぐれに反応を楽しんで、ただそれだけ。
この男にはくちびるを触れ合わせたい欲がないのだから仕方ない。何たって、アルハイゼンから言わせればキスなど所詮『皮膚と皮膚が触れる行為』
つまりは抱きしめたり手を繋いだりする以前に、押し除けたり払い除けたりの接触と大差ないのである。
虚しいったら、この上ない。僕は温度差に心臓を締め付けられ、不服の顔を隠すように背を向けた。
「何だ、君が取りたかった本はいいのか」
「……いい」
「調べ物は終わりか」
「……ああ」
「俺がキスすると思ったのか?」
拗ねた声など丸わかりだっただろう。だからといって、次の一冊を手にした本の虫がわざわざ掘り返してくるとは、僕は少しも思っていなかった。早々に読書を再開し、アルハイゼンのタチの悪いお遊びは終了。僕は自室に逃亡し、敵のいないところで負け惜しみを吠える。いつかもしアルハイゼンの方がキスを望む素振りを見せれば、今度は僕が揶揄ってやるのだと淡い未来を想像し——。
それがどうだ、明け透けな問いは僕の頬にじわじわと熱を集めていく。違うと言ってもこの赤が自惚れを認める何よりの証拠で、そうだと答えても僕は羞恥心に殺される。アルハイゼンの悪戯は終わっていなかったのである。胸の内を暴かれる仕打ちに「最悪だ」と漏らそうとして、僕の言葉は含みのある声に掻き消された。
「君の許可を得ずに?」
「……きょ、許可? 許可って、そんな」
殊勝な気持ち、持ち合わせていないだろう。僕はそう、言い返してやった。けれども。
「どこの誰だったか。先日のキスで大騒ぎしたのは」
「それは! そうだけど……」
「きちんと下を見なかったのが悪い、だったか。そこら中に図面を散らかしていた君ではなく、よろめいた俺が悪いと」
そう。そして不意に唇を当ててしまったアルハイゼンが悪く、徹夜中のくたびれた僕にしたのがもっと悪い。さらには『すまない』の物言いが淡白なところが悪い、こっちは照れてるのにそっちは何の反応もないのも悪い、果ては「こんなのノーカンだ!」などと散々暴言を吐いた自身は棚に上げ「……唇同士の接触が何だ、所詮皮膚と皮膚が当たっているだけだ」発言を悪とした。
「俺だってあれほど責め立てられれば躊躇うさ。君と意思を確認し合えていなかったとはいえ、恋人同士の接触だったというのに」
「だ、だから僕は説明しただろう。僕には君と違って色々理想があったから……あのときは少しばかり言い過ぎて」
「その理想とやらを、君は教えてくれていないが?」
「…………言うもんか」
「はあ……聞かされないまま俺はその理想を当てろと。そしてまた不正解を選んで、不機嫌をぶつけられるわけか」
アルハイゼンはそっぽを向く僕の顎を掴むとあの日たまたま触れてしまった時と同じ無表情で顔を近づけた。
「ぼ、僕は! 求められて応えたい!」
「ほう。ならば条件は満たされている。是非君にしてもらいたい。さあ、どうぞ?」
「違う! 僕の言う理想は今みたいな太々しい態度で『さあ、君にできるか?』と待たれることじゃない! してほしい、でも自分からは言えない、とそわそわ僕を見上げている状況を指しているんだ」
「……まったく。そこに登場している相手は過去の俺ですらないらしい。つまりは恋人を選び直すところから始めたいと? 君は俺に対して不誠実なことを言っている自覚はあるか」
「僕は理想の一例を挙げたまでで」
「俺との理想で答えないあたり、君も十分デリカシーがない」
「うぐっ」
「……が」
ふわり、軽々と持ち上げられた体が頭一つ分浮き、僕はアルハイゼンを見下ろす形となる。
「俺は昔から君想いの後輩だからな」
ほら、先輩。目線に出会ったばかりの頃ほどの差が生まれ、アルハイゼンが僕を見上げる。これにはちょっとときめいた。なんだか結婚式でありそうなシチュエーションだ。けれども『求められてしたい』には男としてリードしたい気持ちが含まれているため、僕の矜持は悲鳴を上げる。
「こどもを抱えるようにさらりと持ち上げるな!」
「注文の多い男だ」
「君、僕の理想の意図が分かっていてやってるだろう。先輩の威厳をへし折るな」
「はあ。ではもう、お好きに」
どかりと椅子に腰を落ち着かせ、いつものように足を組むアルハイゼン。そうだな、僕が立っていて君が座っていれば見下ろせるし見上げることにもなるだろう。なるけれども。
「だから。せめてして欲しそうな空気を——」
尚も文句を垂れる僕を見つめると、アルハイゼンは組んだ足を戻した。そして右手を伸ばし、僕の指先に触れ。
「カーヴェ」
「……ぅぐ」
瞼を閉じた男は途端にあどけなくなった。寝ている時と同じ、僕だけがよく知った表情だ。昔からちっとも変わっていない。今は起きているから、これがこいつのキス待ち顔になるわけだが。
「…………」
「……うぅ」
怖気付いても、唸っても、アルハイゼンは痺れを切らして目を開けることはなかった。ずっと僕の手を取ったまま、待っている。決して逃げないよう退路は断って。
みっともなくごくりと喉を鳴らし、ようやくちゅっと小さな水音をひとつ鳴らす頃には当然僕の顔は茹でタコだった。もうずっと目を開けないで欲しい、僕を見ないで欲しい。ついでに口も開かず、余計なことも言わないで欲しい。もちろんどの望みも叶えてはくれない。
「君が理想に近づけないのは君自身の問題に他ならない。理想のシチュエーションは君が照れることを想定していないのでは? 格好良く、くちづけを贈る男には程遠い」
「うるさい、うるさい」
穴があった埋まりたい僕は穴がないためその場で小さくうずくまった。視界を閉ざし、両手は耳に。何も見えない聞こえない。
「……っふ」
さすればアルハイゼンが自身の唇を撫で微笑んでいようと、僕には預かり知らぬ珍事であった。