バームクーヘンなんて大嫌い――折り重なった甘い味は幸せの押し付けだ。
「ピクさん、これどうしたんですか?」
「んー?」
時刻は午後三時を回っていた。大学から帰ってきた新はリビングのテーブルに置かれた見覚えのない箱を見つけ、ソファで寝転んでいるピクに聞いてみる。
解いたネクタイはソファの背もたれに、シャツの第三ボタンまで開けソファからはみ出た長い脚をピンと張り背伸びをするピク。
「ああそれ?引き出物。今日知り合いの結婚式だったんだ。たった一回仕事しただけなのに呼ばれちゃって、面倒臭いったら」
「お疲れ様です。お茶、飲みますか?」
「ありがと。じゃお願い」
極力人付き合いを避けたくてこの仕事を選んだのにたった一回仕事をした相手の結婚式に出席しなければいけないなんて溜まったもんじゃない。
そんな風にため息をつくピクを労う様に小さく笑い、新はケトルのスイッチを押した。
「引き出物、冷蔵庫にしまっておきますね。因みに引き出物って……」
「バームクーヘン」
「ですよね……」
持ち上げた箱は意外に重く、心底嫌そうな声でそう答えたピクの様子が重なり、新は苦い笑いを浮かべる。
バームクーヘン、それは結婚式の引き出物といえばという王道の焼き菓子である。
「ピクさん、バームクーヘン苦手ですもんね」
「うん、嫌い。口の水分全部持っていかれるしパッサパッサしてるし」
「ずっと気になってたんですけど、どうしてバームクーヘンは苦手なんですか?マフィンやマドレーヌは好きなのに」
「うーん、嫌いなものは嫌いなんだ。強いて言うなら……」
ピクは天井を指さし、ぐるぐると見えない縁を描く。何層も何層も重ね焼き上げるバームクーヘンの様に。
「幸せの押し売りみたいじゃない?」
薄い生地を何層も重ねて焼き上げる工程に"これから夫婦二人で年月を重ねていきます"という意味を含ませたバームクーヘン。
甘い甘い、何層に折り重なった幸せの押し売り。
人の幸せに対しそう思ってしまう自分は大層捻くれた大人だと嘲笑する。
「幸せの押し売り、ですか……?」
「大人って面倒臭いんだよ。新もその内分かるさ」
ピクの真意が分からないと言いたげな声色の大学生の甥に、叔父であるピクはそう言って静かに笑った。
「そうだ。それ、平君に持っていったらどうだい?」
「平に?」
「ああ、どうせ新一人じゃ食べきれないんだ。食べ盛りの受験生にお裾分けって」
同じマンションの上階に住んでる親戚の平はこの冬中学受験を控え日々勉学に励む受験生だ。
一時期成績が急降下してしまった平を危惧した親戚が同じマンションに住んで尚且つ歳の近い大学生の新が時折家庭教師をしており、それからも家族同然の付き合いが続いている。
成績が急降下してしまったのは新に近づく為の口実作りの作戦だったのは別の話であるが。
「大好きな新お兄さんが甘いお菓子を差し入れに来てくれるなんて、平君のやる気がまた上がっちゃうね」
「揶揄わないで下さいっ!」
「まぁ平君の場合、どっちが差し入れが分かったもんじゃないけれど」
「ピクさんっ!」
ピクに弄ばれた新の頬の染め具合を表す様に湧きだったケトルが笛を鳴らして沸騰の合図を鳴らす。
「変な事言わないで下さいっ……平は親戚の小学生ですよ」
「ふふ、どーだか……」
平は新に特別な好意を寄せているしそれを面と向かって新にも伝えている。だが当の新が君は子供だから、小学生だから、親戚なんだからとのらりくらりかわされているのが現状だ。
新は親戚のかわいい小学生と思っているが、平は新の事を恋愛的な意味で好きなのは大人のピクの目線から見て明白だった。
「お茶、どうぞ」
「ありがと」
ソファ前のローテーブルに白いカップを差し出す新の頬はまだほんのり赤い。本当にかわいい奴だなあとピクはおもちゃを前にした猫の様ににまりと笑う。
「賞味期限もあるし、持っていくなら早めが良いだろう。丁度平君も帰って来た頃じゃないかな」
「そうですね。では平の所に行ってきます。晩御飯までには帰って来ますね」
「そうだ、今日は外に食べに行こう。折角なら平君も」
「確か今日はお手伝いさんはこない日だと思うので平も誘ってみますね」
「うん、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
そう言って新はバームクーヘンの箱を持って再び部屋を出て行った。
玄関が閉じる音を聞き、ピクは再度ソファに身を投げ出す。
甥や甥に恋する小学生を間近で見れば見る程、自分がいかに捻くれた大人だと身に染みて感じる。
講釈を垂れ傷つく事を恐れる大人にとって、失う事を恐れない真っ直ぐな愛情は目に染みる程に眩しいのだ。
「若いって眩しい……」
そう呟いた自分の声が随分くたびれているなと乾いた嘲笑を浮かべる。
乾いた嘲笑。それは水分を奪われた咥内の様に虚しい。
――バームクーヘンは全てを奪う。咥内の水分も、隣にいたアイツも。
長い年月重ねて築いて来た相手から送られる新たな年輪を築くという証明の味なんて誰が美味しいと思えるものか。
小麦粉を溶いて薄く焼き続けたやけに粉っぽい焼き菓子はギトギトと刺々しい甘さで乾いた咥内を刺し乱す。
幸福の味なんて、苦い酒で流し込まなければ食べられたものではない。
明かりもつけない二十三時、暗闇で剥がしたバームクーヘン。
二十代の自分が味わった幸福の味をピクは今も尚忘れる事すら出来ないのだ。
「……」
もし今の新と同じ歳の頃に戻れたらなら、この虚しい思いを抱かない手立てはあったのだろうか。
否、何度繰り返してもこの虚しさは変わらずピクの心の片隅に留まり続けるだろう。
失う事を恐れ、けして特別にはならず、隣り合う二人の後ろで笑っているだけの都合の良い人間にしか自分は成れないのだ。
新が入れてくれたダージリンはとっくに冷めて、香りを失っている。
こうやって冷めて、香りを失って、全て無かった事に出来ればどれだけ幸せだっただろうか。
「……ほんと、面倒臭い大人になってしまったなぁ」
バームクーヘンは初恋の始まりと終わりの味。
そんな残酷な味を舌に乗せるのは、もう勘弁だと捻くれた大人は今日も忘れたフリをする。
長い時を築いて来た年輪は増え続ける。新たに刻まれる年輪の隣で。
――これは恋と呼ぶには少し遅過ぎた初恋の話。