君のみぎがわ好きな子がいる。
初めは言葉が噛み合わなくて、申し訳なく思っていたけれど。身振り手振りで次第にコミュニケーションが取れるようになっていった。
優しくて。いつも笑顔で。
棘が任務から戻ると必ず、
「おかえり」と言ってくれる。
その言葉に、いつも安心感を覚えていた。
胸が温かくなる気がしていた。
体育が苦手だと言う唯に、休み時間や放課後、真希が稽古を付けているのを知っていた。唯が頼み込んだらしい。棘もパンダも時々憂太もそれに付き合う。
それ以外の日はいつも授業が終わると1人グラウンドで走っていた。そんな一生懸命な所を、つい目で追ってしまって。
目が合うと、適当に誤魔化してしまうけど。
彼女はいつも笑ってくれた。
今日も、唯はひとりでグラウンドにいた。
10周程走ってから、次第に速度を落として行く。立ち止まり呼吸を整える唯に、棘は後ろから声を掛けた。
「ツナマヨ」
いつもの悪戯のように、ペットボトルを唯の頬にピッタリとくっつけてみる。
冷たいと笑って彼女はそれを受け取った。
「ありがとう」
唯は言って棘を見る。
いつからだろう。
その笑顔が欲しいと、思ってしまったのは。
端の階段に座って唯は休憩をとる。棘も隣に座った。
学生は少ないのにやたらと広いグラウンド。
陽が傾きかけ、建物の影が伸びたその場所には、棘と唯の2人しかいなかった。
渡したスポーツ飲料に口を付ける彼女の隣で、棘も一緒に買ったお茶のペットボトルを空けた。一口飲んで、声を掛ける。
「ツナ」
棘は顔をそのままに、目線だけを唯に向けた。
ネッグウォーマーの下で口を開く。
けれどそれ以上の言葉が続かない。それ以上の言葉が、見つからなかった。
棘は目を伏せて、ペットボトルを見た。
不意に、唯が口を開いた。
「知ってたんだね。私が此処にいたの」
「しゃけ」
振り返って頷いた。
見に来て、何度も声を掛けようとしたけれど。
実際にこうして声を掛けたのは初めてだった。
棘は唯の顔を覗き込む。
彼女はそっと目を逸らした。
「ツナマヨ〜」
腕を伸ばして、唯の頭にぽんぽんっと軽く触れてみる。
いつも頑張っているのを、本当は棘だけではなくてみんなも知っていたから。
「そんな褒められる事でもないよ。週に何日か走ってるだけだし」
目を細めて笑う唯。
「なんか恥ずかしいから、みんなには内緒にしてたんだけど。棘くんにバレちゃった」
言われて目を瞬いた。
…バレていないつもりだったのか。
「ツナ」
「また今度。体術教えてね」
「しゃけしゃけ〜」
ピースして笑って見せた。
辺りは静かで。
風で擦れる葉の音がやたらと響く。
「ねぇ、棘くんは、その…」
唯は棘を見る事なく呟く。
何処か遠くを見ているようだった。
「好きな子とか付き合ってる子とか、いないの?」
言われたその言葉に、身体が震えた。
ぐっと奥歯を噛む。
他意はないのかもしれない。
否、他意がないからこそ。
それを、聞かれると言う意味に。
少なからず動揺してしまった。
心臓が、煩く鳴る。
苦しくて。
「………」
一瞬振り向いた唯と、動揺する棘の視線が絡まった。
あ、と小さく漏らす唯。
「…ごめん」
唯は小さく呟いて、その場に立ち上がった。
「ごめん、私。無神経な事、聞いちゃって…」
彼女の声が、震えていた。
直視する事が出来なくて棘は目を伏せる。
こんな姿を、見せたかった訳じゃない。
ただ君に、
好きだと伝えたかっただけなのに。
そんな当たり前の事も出来ない自分が、悔しくて。
言葉がひとつも見つからない。
高菜?
こんぶ?
ツナマヨ?
きっと伝わるけれど。
どれも、違う気がした。
拳をぎゅっと握る。食い込む爪が痛んだ。
「私、部屋に…、」
言う唯の言葉を無理矢理遮る。
「おかか」
…遮ってしまった。
意を決して棘は立ち上がる。
好き、を。
おにぎりの具に載せた事はなくて。
特別な言葉だから。
「いくら、明太子っ!」
自分を鼓舞して、階段を駆け降りる。
唯の手を掴んだ。
「ツナツナ」
「……?」
戸惑う唯の腕を軽く引っ張り、階段の下を指差した。
唯は素直にそれに従う。
その瞳は、やはり涙をいっぱいに浮かべていた。
きっと、彼女を泣かせてしまったのは、自分だ。
好きだと伝えたら、優しい君は困ってしまうだろうか。
階段を降りると、棘は唯の手を離して背を向ける。砂地の地面にしゃがみ込んだ。
人差し指で、ゆっくりと文字を書く。
通じなくてもいい。
伝われば。
ごめんなさいと言われたら、冗談だよって笑って返そう。
「棘くん?」
「…ツナマヨ」
座ったまま振り向いて唯を見た。
恥ずかしくて、ネッグウォーマーを握る。目元近くまでいっぱいに赤い顔を隠した。
少しだけ動いて、目線で地面を指す。
“ 唯 が 好 き ”
「………っ」
唯は真っ赤になって、顔を両手で覆った。
肩が震えている。その頬は、隠していても分かるくらいに濡れていた。
棘は大きく目を見開く。
そんなに困らせるつもりはなかったけれど。
「…こんぶ…?」
唯は何も言わずに、ただただ涙を拭っていた。
「ツナ…ッ、お、おかか?」
棘は慌てて立ち上がる。
思わず手を伸ばしたが、途中で止めた。
触れて良いのか、わからなくて。
困ったように唯を覗き込む。
「こんぶ?たかなっ」
ごめんと、謝る事しか出来なかった。
そんな棘に唯は首を振る。ふるふると何度も首を横に振った。
「…違う。違うの…。嬉、しくて…っ」
唯は袖で涙を拭った。
「私も、棘くんが、好き…」
か細い声で、でもハッキリと。
唯は棘を真っ直ぐに見た。
眉を顰めて。
棘も唯を見る。
時が止まったような感覚があった。
辺りの音の一切がなくなる。
「…しゃけ?」
小さく息を吐いて、唯を見た。
唯が頷く。
頬は濡れていたけれど、唯はいつものように優しく笑っていた。
棘が目深に被っていたネッグウォーマーをズラす。思わず笑みが溢れた。
少し迷ったけれど。
まだ涙を零す彼女が愛おしくて。
やっぱり可愛くて。
棘がゆっくりと腕を伸ばすと。
唯は笑った。
腕を背中に回してその小さな身体をぎゅっと包み込む。唯の頭が棘の胸に触れた。
その髪をするりと撫でる。柔らかな、唯の匂い。
す き 、
だと。小さく口元を動かせば。
唯は腕の中で微かに頷いた。
End***