卒業まで呪術高専に来てからの3年間は、唯にとってあっと言う間の日々だった。目を閉じれば、入学したあの日が昨日のように思い出される。
いつからだろう。
こんな風に狗巻先輩に想いを寄せて、ふたりで過ごす時間が増えていったのは。
壁に掛かった狗巻先輩の制服を見上げた。
毎日着て学校や任務に出ていたのに、明日の卒業式を過ぎればもう二度と袖を通す意味を持たない黒の制服。
触れればひやりとした独特の布の感触。
校章の渦巻き柄のボタン。
見慣れた狗巻先輩の部屋は既に大半の雑貨は片付けられ、ダンボールが端に積み上げられている。部屋には備え付けの家具と必要な日用品が少し残るのみだった。
ひと足先に寮を出た乙骨先輩。狗巻先輩と真希さんは卒業式を待って、それぞれに高専から近い場所にアパートを借りた。パンダ先輩はパンダ故にやはり色々と問題があってこのまま寮に残る。
4月からは4人、正式に呪術師として働く事になっている。
狗巻先輩がここで過ごす時間も残り僅かだった。
…とは言え、呪霊が出るのに時間も場所も関係ない。待った無しで任務は舞い込んでくるので、毎年4年生は卒業式前後も変わらずに任務に着いていた。
それは唯たち後輩も、春休みとは名ばかりの日常が待っている。
それが私たちの日常。
きっといつかの終わりが来るまで変わる事のない毎日。
ほんの少し住む場所が変わるだけで、きっとこれからも狗巻先輩たちとは変わらず顔を合わせて、変わらず時に一緒に任務をこなしていく。
ただ、先輩が明日学校を卒業して、
寮から引っ越して行くだけ。
今日は狗巻先輩の学生生活最後の日だった。
お互いに任務もなく、唯は自ら名乗り出て狗巻先輩の荷造りを手伝っていた。
とは言え、元より備え付けの家具がある寮の部屋に、個人の荷物はそんなに多くはない。
はぁ、と小さくため息が漏れる。
唯は壁に掛かった制服の前でその部屋を振り返って眺めた。物が少なくなり、がらんとした部屋は何だか物悲しい。
ここで過ごすふたりの時間も、もう後僅かなんだと、現実を突き付けられているようで。
込み上げるものをぐっと飲み込む。
「ツナ」
後ろから声を掛けられて振り向けば、いつもと変わらない狗巻先輩。
私服のパーカーに黒のマスク。整った亜麻色の綺麗な髪が、暖かな風に小さく揺れていた。
ほとんど手伝う事もなく、少し窓やクローゼットを掃除しただけだったけれど。
狗巻先輩の手元には唯の好きな紅茶のペットボトルがあった。
「明太子」
お疲れさま、と渡されたペットボトルを受け取る。
「ありがとうございます」
「いくら」
蓋を回してお茶をひと口を運んだ。
ふと見た狗巻先輩の背後には、何もない空間。
「本当に…、卒業しちゃうんですね」
唯が部屋を見渡せば、狗巻先輩もその視線を追って部屋を見た。
「しゃけ」
頷いて、小さく呟いた彼の言葉に、深い意味は感じられない。静かな空間に、その言葉は吸い込まれていく。
ちらと見れば、紫の瞳ががらんとした部屋を見つめていた。4年間を過ごしたその部屋に、狗巻先輩は何を思っているんだろう。
おにぎりの言葉は、表情や仕草で意外と理解に難しくはなかった。足りない言葉は行動で示してくれたから。狗巻先輩の好きを疑った事はない。
先輩が、大好きだった。
「好き」だと、一緒に過ごした時間にたくさん伝えて来た。たくさんの「好き」ももらった。
離れたくない。
一緒に居たい。
別に任務があればまたすぐに会える。
スマホに連絡をすれば、狗巻先輩はきっと唯との時間を作ってくれる。
“作ってくれる”。
その単語が何だかやけに胸に引っ掛かってしまう。
ヤダな、とそう思ってしまうのは、唯のわがままだろうか。
唯はぎゅっと唇を噛んだ。
「狗巻先輩。明日の卒業式が終わったら、第二ボタンもらえませんか?」
向き直り、少しだけ唯よりも目線の高い狗巻先輩を見上げる。
先輩は少しだけ考えて、壁に掛かった制服を見た。
「…おかか」
「…………?」
一瞬、断られた事に理解が追いつかなかった。
「…え?えぇと、、」
否勿論、彼女だから絶対もらえる物でもないけれど。
先輩はいつも優しいから、何となく「しゃけ」と返されると思っていた。
「…あ。もう誰かにあげる約束してますか?!」
真希さんか、パンダ先輩あたりだろうか…。
仲が良い先輩たちなら交換の約束もあり得る。でも、それはそれでちょっと悔しい。
けれど。
「おかか」
先輩は事もなさ気に首を振る。
「……違うんですか?」
「ツナ」
唯は小さく首を傾げた。
「…まぁ、うん。やっぱり、ダメですね」
4年間の思い出が詰まった制服だ。
簡単には渡せないと言う事だろうか。
高専の制服は普通の服とは違うと聞く。カスタムは色々可能だが、校章としてのボタンは必ず何処かに付けられていた。それなりに意味がある。
……のだろう。
と、いつも思うが実は唯もよく知らないし、実際制服は任務で破れたりする事も多々ある。
「…………」
ドラマなんかでよく見る第二ボタンに、ちょっと憧れていたのは事実だ。
もらえないから何かが変わるわけでもないけれど。
はぁ、とため息を吐く唯の頭に、狗巻先輩の掌がぽんっと乗った。
温かくて大きな掌。
「ツナー。いくら?」
そんなに欲しい?
言って狗巻先輩は唯を覗き込む。
その意図はあまりよくわからない。単純にまた、揶揄われているだけなのだろうか。
…よくわからない。
けれど、唯は俯き小さく頷いた。
「欲しいです」
そしてふいっと横を向く。
「…予約がなければ」
狗巻先輩はそんな唯にふわりと笑い掛ける。
ズボンのポケットに手を入れて、小さなそれを握り締めて取り出した。
「ツナマヨ!」
拳になった掌を唯の前でぱっと手を開くと、そこには折り畳まれた小さな紙切れが一枚。
「…………?」
戸惑う唯の腕をぎゅっと引っ張って、ひと回り小さな唯の掌に紙を乗せた。
「…お手紙ですか?今?」
訝しむ唯に、笑う狗巻先輩はこくりと頷いた。
唯はそれを素直に受け取り、折り畳まれた紙を開いていく。雑貨屋さんに売っている小さなメモ用紙のような便箋だった。
“ 1年待ってる ”
“ 唯が卒業したら
一緒に住まない? ”
チャリ、と鳴る音と共に唯の持った紙の上に鍵が乗せられた。おにぎりのキーホルダーが付いている。
「高菜」
それからもうひとつ、紙の上に同じ形の鍵を置くようにして唯の視界に入るように見せた。揺れたおにぎりのキーホルダーがふたつ並ぶ。
「これ…」
ーー鍵だ。
たぶん、狗巻先輩の家の鍵。
唯は顔を上げる。
「狗巻先ぱーー、
言葉にするよりも先に目に飛び込んだのは、思いがけずすぐ側にあった紫の瞳。
もう見慣れたはずの顔だった。唯は大きく目を見開く。
「ツナマヨ」
“ボタンより良いもの”
「高菜」
“あげる”
言った狗巻先輩の声が近い。
唯は声もなく頷いた。
黒のマスク紐がいつの間にか片耳だけになり、柔らかな唇に口元を塞がれる感覚。
ちゅ、と軽いリップ音が耳に響けば、何があったのかがすぐに理解出来た。
離れて行った狗巻先輩の顔が悪戯に笑って唯を見れば、頬が一気に熱くなる。
「狗巻、先輩…?」
「おかか」
先輩の人差し指が、唯の唇に触れる。
ほんの少しカサついた指先。
「おかか。高菜、ツナマヨ」
“もう明日から先輩じゃないけどね”
End***
ーー卒業式当日。
海外から戻った乙骨先輩以外の卒業生は、在校生から笑って花束を受け取っていた。人数は少ないが終始賑やかで笑顔の卒業式。
用意した花束を卒業生よりも泣きながら手渡した唯に。
笑って花束を受け取ってから、ぶちっと勢い良く糸の切れる音。
唯が狗巻先輩に貰ったのは制服の第一ボタンだった。