それはほんの出来心でそれはほんの出来心で。
こんこんっと叩かれた扉に向かった狗巻先輩は、しばらくして不服そうに部屋に戻り、鞄を無造作に探ったかと思うとファイルに入った数枚の書類を取り出した。
「…ツナ」
一言あって唯を見る。
昨日までの任務で溜まった課題をローテーブルに広げた唯は狗巻先輩を見上げだ。窮屈な制服はとうに脱ぎ捨てて、ネックウォーマーに白のTシャツ。
「職員室ですか?」
聞けばしゃけ、と返されて。唯は当然のように机にシャーペンを置く。
「じゃあ、私も一緒に…、」
「おかか」
唯のすぐ隣まで来た狗巻先輩は、書類が入ったファイルを唯の頭に置くように触れて、わざとらしく小さく叩いて見せた。
「明太子ー!」
反対側の手で指差したのはテーブルの上に広がる課題。苦手な数学に唯は苦笑いする。
狗巻先輩はしゃがんで座ったままの唯の目線に近付く。今度は大きな掌で、優しく唯の頭をくしゃくしゃっと掻き撫でて、悪戯に目を細めた。
「ツナマヨ」
待っててね、と一言を告げて。
あれからどの位が経ったのだろう。陽は沈みかけて、辺りは少しずつオレンジに染まる。
唯はとうに数学の課題も終えて、ノートを閉じていた。頑張ったね、といつもなら構ってくれる狗巻先輩はまだ隣に居ない。
寮と校舎はそんなに距離もない。無意味に窓を覗くが、そこから校舎は勿論見えなくて。唯はカーテンを閉めて電気を付けた。
もう何度も来て勝手の分かる狗巻先輩の部屋。
でも、ひとりぼっちの先輩の部屋は、家主が居ないだけで何だか妙に広く感じる。
何をする訳でもなく。
ただ向き合って座学の課題をしたり、終われば何となく夕飯まで2人で過ごす。
任務があったり夕練に出たり、実技の授業が押す事もあって、なかなか2人で過ごす時間も少なくて。
だからこそ、そんな“なんでもない時間”が好きなのに。
唯は教科書やノートを鞄に入れた。開いたお菓子の袋も片付けてローテーブルを空け、ベッドの縁に座り込んだ。
「狗巻先輩遅いなぁ…」
ぽつりと呟いてスマホを確認しても、メッセージはない。先輩が部屋を出て、もうすぐ1時間になる。鍵は渡されていないので、部屋を出る事も出来ない。
「いつ帰って来るんだろ」
小さく溜息を吐いて、そのままベッドに転がった。
陽が沈んで、もうすぐ今日が終わってしまう。
せっかく2人きりの時間だったのに。
特に用事があった訳でもないけれど。
何だか少し寂しくて。
寝転がったベッドから、ふわりと香る狗巻先輩の匂いに胸がぎゅっと痛くなるのを感じる。
ひとりで見上げた天井は意外に高くて。いつもここから見る景色には、狗巻先輩が必ず側にいるのに。
「…………」
ーー…何考えてるんだろう。
体制を変えて横向きに転がる唯の手が、何かに触れた。ヒヤリと冷たい硬い物。
乱雑に脱ぎ捨てられた狗巻先輩の制服の渦巻き模様のボタンだった。
唯は制服を手に身体を起こしてベッドに座る。
いつもどこに片付けてるんだろう。
見覚えがないから、クローゼットの中?
触れた黒の制服。片付けて置こうかと手にして見たけれど。小柄な狗巻先輩は唯とさほどの身長差はないはずなのに、やたらと重くて大きく感じた。
まじまじとその制服を見れば…、
それは、ほんの出来心で。
唯は着ていた自分の制服を脱いだ。今日は一応指定の長袖の白シャツを着ているから、実際に肌が触れる事はない。
…だからいいかな、なんて。
シャツの上から狗巻先輩の制服を羽織ってみると、体格の違いは見るに明らかだった。
小柄で、身長差もあまりないはずなのに。
「……何でだろ。全然、違う…」
オーダーメイドのその制服は、肩幅が唯のそれよりもかなり広く取られていて、ズレて形が整わない。
袖を通してみると、筋肉が少ない分唯にはやはりぶかぶかで、伸ばした腕は袖口から指先だけがちょこんと見えた。
ボタンは留めていないけれど、おそらく首回りも全く合わない。サイズを見るに、首の太さが全然違うように感じる。
その場に立ち上がって見ると、丈もやっぱり大きくて。
「狗巻先輩は、やっぱり大きいんだなぁ…」
指先しか見えない腕を持ち上げて、唯は胸の前で袖口を握った。身体中あちこち見た制服は間違いなく、唯とは違う男の人のそれだった。
いつもぎゅっと抱きしめてくれる先輩は、確かに力強くて唯よりも大きいーーそれを、知らない訳ではないけれど。
「…………」
思い出して顔が赤くなる。
ふわりと、また不意に狗巻先輩の香りがした。包み込まれるように抱き締められたその感覚と、少しだけ似ていたから。
ほんの少しだけ胸が躍って。鼓動がドキドキと煩くなった。
このまま出迎えたら、びっくりしてくれるだろうか。狗巻先輩は、何て言うだろう。…なんて、ちょっとだけはにかんで顔を上げれば。
ーーフッと、後ろで静かに笑う気配があった。
「…………っ?!」
目を丸くして狼狽し、恐る恐る振り返ると。声を殺して肩を揺らす見慣れた家主の顔があった。
「…狗巻…先輩……!」
手には持って出たものとは違う、別の分厚い書類が握られていて。
だから遅くなったのだろうといつもなら察するけれど、今はそんな事はもうどうでも良くて。
真っ赤になる顔に、心臓がどくどくと脈打っていた。
「ツナ?」
声もなく、ただただ真っ赤になってその場に固まる唯に、何してるのと悪戯に笑う狗巻先輩が近付く。
目を伏せて、するりと伸ばした白く長い腕は、唯の胸元にそっと触れた。外れたままの渦巻き模様のボタンを慣れた手付きでとめて行く。最後に、首元のホックとボタンを留めた、先輩の細く長い指先が唯の首筋に触れる。
「おかか」
狗巻先輩は目を細めて微かに笑う。触れた人差し指で、唯の首筋に爪を立てて静かになぞった。
「…………っ!!」
くすぐったく触れる甘い感覚にぎゅっと瞳を閉じると、その腕は唯の背に回り、身体を引き寄せる。少し屈んだ狗巻先輩はネックウォーマーのチャックをゆっくりと開いて、唯の耳元に唇を寄せた。微かに笑みを含む彼の吐息が耳にかかる。
そのまま唯の頬に柔らかく口付けて。背に回った手で自分の制服越しに唯の身体の線をなぞり、首元へと指先を動かしていく。
恥ずかしくて。顔を隠して俯きながら狗巻先輩のTシャツをぎゅっと握れば、先輩は唯の首元の襟から覗く隙間に指を2本滑り込ませた。
「ツナ?」
何してたの、と。首を傾げて愉し気に唯の顔を覗き込む。その指は、唯の首筋を小さく撫でる。びくっと身体が反応して、唯を見る真っ直ぐな紫色の瞳に、唯は視線を逸らして更に俯いた。
「…ぃ、狗巻先輩が、帰って来ないから…ですよ…!」
俯いたまま真っ赤になって頬を膨らませる。
「せっかく、久しぶりに…、2人で居られると思ったのに…っ」
恥ずかしさに今にも泣きそうに瞳を揺らす唯に。狗巻先輩は一瞬目を見開いて驚くように唯を見た。
「…こんぶ?」
柔らかく笑って唯の頭にその手を伸ばす。大きな掌が、唯の頭を優しくひと撫でした。
「ツナツナ」
呼び掛ける狗巻先輩に、唯は赤くなった顔を上げて応えると、
“ か わ い い ”
狗巻先輩の唇がゆっくりと動く。
狗巻先輩は紫の瞳を唯の顔に寄せた。ぶかぶかの袖から出た唯の指先を両手で掴み優しく、ぎゅうっと力を入れて唯を捕らえて。
「いくらツナ。明太子」
でも唯には少し大きいね、と小さく呟いて笑みをこぼす。そのまま近付く狗巻先輩の唇は、もう一度軽く唯の唇に触れた。
「ツナマヨ」
ただいま、と告げて。
自分でとめたばかりの渦巻き模様のボタンに片手で触れて。
End***