しょくじ「鬼というのはね、食べなくても生きていけるのだよ」
ステーキを切り分けながら、そんなことを告げるヴォックスに、ミスタは首を傾げてしまった。なんとまァ説得力の無い言葉であろうか。今この瞬間、目の前にいる男はいかにも美味い、と言い出しそうな表情でステーキを頬張っているというのに。噛む度に口内で溢れる肉汁を、ヒトであるミスタよりも楽しそうに味わって、飲み込む。その行為のどこに、今の話を持ち出すきっかけがあったのだろうか。
「でも、ヴォックスは今……ってか、ずっと前からご飯食べてるじゃん」
「そうさね。食べなくとも良い、というのは食べたくないという意味ではない」
「そりゃ分かるけど」
ヴォックスが何を言いたいのか、全くもって察することのできなかったミスタは、怪訝な表情を浮かべながら小さく切り分けたステーキを口の中に放り込んだ。
「俺はね、昔は食事というものを知らなかったのだよ」
「知らなかった?」
「そう。未だ生まれたての俺にとって、食事というものは不可解なものでしかなかったのだ。何故、そこに存在する命を刈り取ってまで生きようとするのか。食事という概念が存在しなかった俺にとっては、不思議で、不思議で仕方がなかった」
随分と昔のことだが、とヴォックスは懐かしいものでも見上げるようにしてミスタに見えないところを見つめる。ヴォックスの昔話を聞くのは楽しい。だって、自分の知らぬヴォックスのことを知れるから。ミスタよりも数百年長く生きているヴォックスのことを、ミスタは全く知らない。そりゃあ、今のヴォックスの好みを聞かれたら即答できる自信はあるけれど、昔のヴォックスがどのようであったか、どこで暮らしていたのか。なんて問われたら分からない、と答えるしかないのだ。ヴォックスはどうしてか昔のことをミスタに語りたがらない。本人曰く、黒歴史だからだ。なんて言うけれど、ヴォックスの奥深いところまで全てを知りたいミスタにとっては、気になってしょうがない。今のようにヴォックスが昔話をするのは、相当機嫌が良いか、酔っているか、だ。酒に強いヴォックスが溶けるほどに酔うことは少ない。片手で数えられるくらいだ。だからこそ、機嫌が良いのだろうが、どうして機嫌が良いのかまでは分からない。
「俺に、守る者が出来た頃のことだ。宴が開かれたのだ。一応頭領のような存在となった俺を祝う為のな」
ヒトは祝うことが好きよな。細かなことでも祝い事にする。そう呆れたように笑いながらも、嬉しそうに告げるヴォックスからは、その宴が今でも思い出せるほどに楽しかったことが伺える。ステーキに合うように用意されたワインをちびちび飲みながら、ミスタは嬉しそうなヴォックスを見て、口元を緩めて話を聞くのだ。
「国の者に勧められ、初めて食事を口にした。今よりもだいぶ薄味のものが多かったが、それまで何も口にせずに過ごしてきた俺にとっては、頬が蕩けてしまいそうな程の衝撃だった」
ヒトは、これ程にも美味いものを食っていたのか。
「その時の俺は、ヒトが食事を摂るのは娯楽の一種なのやもしれん、と考えたのだよ」
生きる為でもあるが、美味いものを口にして満足する為でもあるのだろう、と。大きく切り分けたステーキを口に入れ、咀嚼をする。しっかりと味の付いたソレに、満足そうに頷いてヴォックスは飲み込んでから再び言葉を紡いだ。
「だが、違ったのだな。食事をするのは、その為だけではなかったのだ」
「じゃあ、何だったの?」
「……お前は、どう思う?」
問うたことを問い返され、ミスタはうぅん、と唸る。食事の意味、だなんて今迄深く考えてきたことが無かったのだ。握るシルバーを見つめ、考える。食事は、楽しいものだ。楽しいけれども、それは一人の時では叶わないもので。一人でも食事は可能だが、楽しくはない。今、こうして言葉を交わしながら食事をするのが一等楽しいのだ。ソレが、ヴォックスの求める答えなり得るかは分からないが、ミスタはナイフを肉に刺し込みながら答えた。
「コミュニケーション、とか? 二人黙ってご飯を食べても、こうして話しながら食べても、 お互いのこと知れるでしょ」
相手は、このような話を好むのだ。相手は、このようにナイフを扱うのだ。相手は。
無言から得られる情報も、言葉から得られる情報も多く存在する。相手のことを知るために食事をするのだ、と。ミスタのその答えに、満足のいったようにヴォックスは口元を緩める。小さくシルバーが皿を擦る音が響いて、暫くの間だけ沈黙が場を支配した。
「お前の答え通りだよ」
「え?」
「俺が言おうとしたことさ」
「ア、そうなの」
「そうさ。俺が百年近くかけて出した答えを、五十もいかぬお前にいとも容易く解かれるとはな」
「だって、オレは人間だから」
きっと、多くの人間を見てきたヴォックスよりも人間のこと知ってるよ。そう告げるミスタに、ヴォックスは敵わないなと呟きながら苦笑する。
「こうして、お前と食事をする度に、お前を知れたような気分になる。少しずつだがな」
「それじゃ、いつかヴォックスのこと全部分かる日が来るのかな」
「さてな。ヒトも、俺も成長する。情報というものは日々目まぐるしく増えていくものだ」
少し意地悪気に返したヴォックスに、ム、と頬を膨らませてワインを一気に流し込んだ。芳醇な香りがいっぱいに広がり、身体がじわじわと温まっていく。
「それに追いつくくらい、ヴォックスのこと知りたい」
「口説いてるのか?」
「口説いてるよ。そうでもしないと、教えてくれないでしょ」
「そんなことはないさ」
「あるから言ってんの」
押し問答が始まりそうな気配に、二人して笑う。かく言うヴォックスも、ミスタのことを全て知っているわけではない。互いが、互いを知らぬ空白の時間というものは必ずしも存在するもので、もう少し早く出会えていればな、なんて思うことは決して少ないことではない。
「ヴォックスってさ。一口が大きいよね」
「そうか? お前が小さいだけだろう」
確かに、ミスタの一口は小さい。ヴォックスが口に放り込む半分ほどの量を、真剣に咀嚼する様子は可愛らしい。
「早く食べちゃうと勿体ない気がして」
「勿体ない?」
とっくの昔に食べ終わっていたヴォックスは、グラスにとぽとぽとワインを注いでミスタの紡ぐ言葉に耳を傾ける。
「今のこの時間が幸せだから、出来るだけ噛み締めていたいの」
「おやま」
何ともまァ可愛らしい理由に、ヴォックスは嬉しそうに声を上げた。共に食事をする時間が幸せなのだと。食事をする甲斐も、共に食べる甲斐もあるものだ。
「ヴォックスは幸せ?」
「当たり前だろう。お前と共に在るだけで幸せさ」
「ア、そ」
自分で聞いたのはいいものの、恥ずかしかったのか少し素っ気ない返事をしてステーキを噛む。シルバーを皿の端に置き、ヴォックスは頬杖をついてじィとミスタがステーキを頬張るのを見つめる。その瞳のなんと甘いことか。ただでさえ蕩けてしまいそうな蜂蜜色の瞳を、愛おしそうに細めさせてミスタを見遣るその様子は、見ているだけで口の中が甘くなってしまいそうだ。蜂蜜に少しだけ熱を乗せながら見つめていると、ミスタも我慢の限界が来たのかぷい、と顔を背けた。
「なんでこっちばっか見るのさ」
「お前が可愛いから」
「格好いいがいい」
「お前は可愛いよ」
「バカ」
要望を叶えてくれないヴォックスに、照れ隠しの言葉を与えて最後の一口を頬張る。ヴォックス特製のソースが絡みついた肉は、少しだけ特別になってしまった夕食にぴったりであった。食事中にも飲んでいたが、きっと皿洗いや片付けが終わったらまた酒を飲むのだろう。ヴォックス秘蔵の酒が出てくることを期待して、ヴォックスの口から語られる昔話にも期待して、ミスタは皿をキッチンへと運んだのであった