夜叉の舞
清談会。
それは、五十年に一度行われる仙人達の大宴会である。
その名は、かつて仙人が集い世俗を離れた清らかで高尚な道理や道徳について談話したことに由来し、長い年月の経た今では璃月の全ての仙人仙家が一同に会する盛大な宴の場となっていた。
北は沈玉から南は青墟浦まで、仙と名のつくものなら誰もが参加する権利を持つ大々的な宴である。
主催は名のある仙人達が順番にすることになっており、今回清談会の主催者となったのは奥蔵山の主、留雲借風真君だ。
そして彼女は今とある問題に頭を悩ませていた。
「ふむ…」
奥蔵山の池のほとり。
「「うーむ…」」
理水、削月の二人も同じく石卓につき頭を抱えている。
「……」
少し離れた木の傍には魈も寄りかかっている。皆、留雲に半ば無理矢理呼び出された形だ。
「さて、どうしたものか」
「あの方は既に凡人に馴染んでおられる。本当にお呼びしてよいのだろうか?」
「当然だろう。帝君をお呼びしない清談会など前代未聞だぞ」
「しかし既に神の任を降ろされ、凡人としての生活を愉しまれているというのに、清談会にお越し頂くのはご迷惑ではなかろうか…」
「帝君は、あまり気にされないのでは無いか?」
「しかしだな」
清談会の開催にあたり、目下の議題は帝君をお呼びするかどうかだった。
無論皆、招待はしたいに決まっている。しかし神が自らの選択で凡人となった今、果たして仙人の集まりに呼んでよいものなのだろうか、万一それが神を降りるという彼の意図に反していては大事では、と判断を決めかねている現状だった。
いつまで経っても平行線を極めそうな議論に、黙って目を閉じていた魈がおもむろに口を開く。
「…我がお声掛けする」
「降魔大聖」
意外な言葉に皆が彼を見る。
「来るかどうか、決めるのは帝君だ。我らがここで論ずることではあるまい」
「しかり。降魔大聖の言う通りだな」
「確かに。正論だ」
「…返答はおって連絡する」
「ふむ、では宜しく頼むぞ」
留雲に頷くと、魈は瞬く間にその身体を風に消した。残り風が止み、いつもの三人だけが残される。
「ふむ、降魔大聖が声を掛けるなら、返事は決まったようなものだ。妾は宴席の準備をするとしよう」
「そうなのか?」
首を傾げた削月に、留雲は「にぶちんめ」と呆れて溜息をついた。
「あの降魔大聖直々のお誘いを帝君が断る訳無かろう?」
※
場所は変わり、璃月港。
その日客卿として一日の仕事を終え往生堂を出た鍾離は、街のはずれで思わぬ人物に声を掛けられた。
「鍾離様」
「魈。珍しいな、お前が璃月港まで来るとは」
突如現れた気配に、鍾離は振り返る。人の多いところを倦厭する魈が自ら璃月港に来るのは実に珍しい。生真面目な表情の彼は「少しお話したいことが」と申し出た。
ますますもって珍しい。
「どうしたんだ?」
「次の節句に、清談会が御座います」
鍾離は懐かしい響きに「ああ」と顔を綻ばせた。
「もうそんな時期か。ついこの間やったばかりのような気がしていたが、もう五十年経ったか」
「はい」
とはいえ、この五十年は余りにも多くのことがあった五十年だった。璃月から神が去り、群玉閣が落ち、魔神は復活した。留雲借風真君が璃月港に居を構え、それはまた鍾離もしかり。そこまで考え、鍾離は魈がわざわざ訪ねてきた理由に思い当たった。
「ああ、成る程。凡人となった俺の処遇に困窮しているのだな」
「そのようなことは決して…!ただ皆お誘いして良いものが決めかねている様子でして…」
「ははは、気を使わせるな」
魈は、少し躊躇ったのち、まるで心を決めたかのように真っ直ぐと鍾離を見上げた。
「鍾離様が凡人としての生活を大切になさっていることは承知ですが、…その、ご迷惑でなければ、お越し頂きたく」
「ほう」
意外な言葉に鍾離は軽く目を見張った。まさかこんなにもはっきり誘ってくるとは思っていなかった。今までの彼なら、現状を打ち明けたとてその判断は俺に委ねそうなものだが、しかし魈は来て欲しいと頼み込んできた。
あの魈が。人の、いや仙の集まりに積極的に関わろうとしているとは。
「…ご迷惑でしたでしょうか?」
鍾離の沈黙を困惑と捉えた魈は、ほんの僅か不安げに表情を曇らせた。その頭を撫でたい衝動を抑えつつ、安心させる様にしっかりと首を横に振る。
「いや。旧友に会えるのは何よりも喜ばしいことだ。誘ってくれるのならば有り難く受け取ろう」
他ならぬ魈の誘いだ。仙人同士の集まりにさえなかなか顔を出さなかった魈が、自ら誘いにくるとは。彼の変化は花の綻びの如く微かで緩やかだが、しかし確かにそこにある。彼が周囲との関わりを持とうとしていることは、鍾離にとっては本当に喜ばしいことだった。
※
月日は経ち、清談会当日。
会場である奥蔵山には、多くの仙人が集まっていた。露天の宴会場には留雲借風真君自慢の仕掛けの術による灯りがあちらこちらに浮かび上がり、海灯祭に勝るとも劣らない煌々とした美しさを誇っている。
入り口に現れた鍾離を出迎え、丁寧に頭を下げたのは甘雨だ。
「帝君。ようこそお越しくださいました。師匠の留雲借風真君に代わりご挨拶申し上げます」
「出迎え感謝する。今年の主催は留雲借風真君だったな」
「はい。師匠も帝君のお越しを楽しみにしておりました。ご案内致します」
清談会は既に挨拶の儀を終え、宴席は大いに盛り上がっているところだった。至る所に卓が並び、皆が酒や料理に舌鼓を打っている。
「帝君も挨拶の儀からお越しくだされば宜しかったのに、と師匠が申しておりました」
「いや、俺は既に昔のよしみで招待されたに過ぎない。挨拶の儀にまで俺がいては、皆もやりにくいだろう」
これまでの清談会は、主催率いる仙人勢が岩王帝君に挨拶をする儀から始まっていた。しかし鍾離は既に自身は神を降りた身、岩王帝君への挨拶はこれより不要と、敢えて挨拶の儀を欠席したのだった。
しかし皆が岩王帝君に挨拶をしたいのは明白なこと、鍾離が宴席の間を歩けば、すぐに人だかりが出来た。親しげに声を掛ける者も居れば、畏れ多そうに拝む者、その姿を一目見んと野次馬する者もいる。共通しているのは皆帝君を慕い敬っているということだ。鍾離はその一人一人に丁寧に対応した。お陰で数十歩の道のりに相当の時間が掛かってしまった。
「留雲借風真君、帝君がお見えです」
主催として細々とあちこちに指示を出していた真君が振り返り破顔する。
「帝君。此度のご来会御礼申し上げます」
「こうして清談会で見えるのは久方ぶりだな、留雲借風真君」
「ええ。仙人としてお会いするのは久方ぶりかと」
言葉に多少の含みがあるのは、閑雲と鍾離としては割と頻繁に食事を共にしているからだ。実はつい先日も万民堂で昼食をとったばかりである。
「五十年ぶりか。久しい顔も多かった」
「今日は璃月中の仙人が集まっております。帝君に一目お会いしたい者も多いでしょう」
「ああ、少し宴席を回ってこようと思うが良いだろうか」
「勿論です。妾も付き添いましょう。甘雨、ここはもうよい。あちらで皆と楽しんでくるといい」
「はい。では申鶴の元へ行って参ります。帝君、失礼致します」
「ああ、楽しんでくるといい」
甘雨の背中を見送る。
「留雲真君の手腕は流石だな。隅々まで気配りの行き届いた素晴らしい会だ。それに門弟達も実に良く動いている。良い弟子達を持ったな」
「ええ、妾の自慢の娘達です」
留雲借風真君を伴い、帝君は暫く宴席を回った。帝君と話したい者は多い。暫くは付き合っていた留雲借風真君だが、余りにも彼と話したいものが多過ぎてキリがなく、そのうち順番待ちが列をなし始めた。流石に呆れた彼女は、鍾離が岩王帝君だと認識しにくくなる術をかけ、ようやく彼は人並みに宴席を回ることが出来るようになった。
「賑やかだな。奥蔵山がこれ程までに賑やかなのはいつぶりか」
ひとしきり話を終えた鍾離は、実に満足げに腕を組んだ。
「そうですね。昔はよく、なには無くとも皆で集まり、食事だなんだと騒いでおりましたが」
「懐かしい顔に何人も出会えた。招待してくれたこと、礼を言う」
「それならば降魔大聖に仰ってください」
「ああ、それなんだが…」
留雲と話していると、ふと鍾離の耳がある声を拾った。酒を片手に輪になって世間話に興じている仙人達だ。
「清談会は、催し物もそれぞれの仙家で持ち回るのが慣わしだ。はて、今年の催しはどの仙人だったか」
「本来なら今回は夜叉一族の番だろう」
「しかし夜叉らはもう…」
「何を言う、降魔大聖がいらっしゃるではないか」
「知らぬのか。降魔大聖はもう何百年と清談会に顔を出しておらん」
他ならぬ魈の噂話に、鍾離は思わず口を挟んだ。
「顔なら出していたぞ」
急に頭上か降ってきたその声の主に皆は血相を変えた。
「てっ、帝君?!」
皆が慌てて拱手する。背後には今回の清談会の主催である留雲借風真君まで居る。普段滅多にお目にかかれぬ帝君と高位の仙人に、彼らは平身低頭した。
「魈は宴席に出ないだけで挨拶の儀には欠かさず顔を出していた」
「そ、それは、それは、そうとは知らず…失礼を致しました」
帝君が降魔大聖に名を与え、特別目を掛けていたことは仙の間では周知の事実だ。それでなくとも夜叉は仙人の中でも特別だ。降魔大聖は更にその夜叉の中でも抜きん出た能力を有してきた護法夜叉唯一の生き残り。間違いなく帝君が絶対の信を置く仙の一人、その降魔大聖の噂をしていたことが後ろめたく、皆は血の気を失った。彼らの顔色を憐れんでか、留雲が助け舟を出す。
「帝君。降魔大聖は帝君と一部の仲間の前にしか姿を現しません。彼らが知らぬのも詮無いこと」
「ああ、確かにそうかもしれないな。すまない、驚かすつもりは無かったんだが」
「いえ…」
「滅相もございません」
「それに、今年の催しは順番通り夜叉一族である降魔大聖が取り行う予定です」
留雲がさらりと告げた言葉に、鍾離を含めたその場の全員が彼女を勢いよく見つめる。
「何?」
「!?」
「りゅ、留雲借風真君…今…なんと?」
震えながら仙の一人が聞く。
「催しものはしきたり通り、降魔大聖が執り行うと言ったのだ」
「それはまことか」
鍾離の問いに、さらりと留雲が頷く。
「ええ、彼が舞を舞います。伴奏は歌塵が」
「聞いていないぞ…?」
少なからずショックを受けた鍾離が愕然と留雲を見つめる。
「申しておりません故」
「な…」
「ましてや降魔大聖の性格では、自ら帝君に仰ることもないでしょう」
「降魔大聖が舞を…?!」
「こうしちゃおれん、すぐに場所取りをせねば!」
「これは絶対に見逃せんぞ!」
低位の仙達は帝君の御前ということも忘れて慌てて演舞台の方へと走り去っていった。残された鍾離は唖然として留雲を眺める。
「何故教えてくれなかったんだ」
「降魔大聖が告げぬのに、どうして妾の口から告げることが出来ましょう」
「魈の姿が見えないとは思っていたが…まさか」
しかし、成る程。これで納得がいく。魈が珍しく積極的に誘ってきたのはこの為か。
動揺している帝君を眺めて留雲借風真君はくすりと微笑んだ。
「彼は今舞台の準備中です。もうすぐ支度も整いましょう、こちらへどうぞ。勿論特等席を用意しております」
※
留雲借風真君の用意した特等席は、まさしく舞台の真正面だった。用意されていた椅子に有り難く着席する。舞台の前には既に多くの仙人達が催し物を見んと集まっていた。
ドン。
鍾離の到着を待っていたかのように、太鼓が鳴る。
仕掛けの灯りがフッと消え、辺りが暗くなった。薄闇の中、太鼓が鳴り響く。
ドン、ドン、ドドン。
催し物が始まる合図だ。皆の視線が演舞台へと注がれる。
皆が期待にざわめく中、ジャランと琴の音が響き渡った。
静粛に、と言わんばかりの音に皆が静まり返る。
ひと鳴りで空間を一瞬で飲み込んでみせる歌塵浪市真君の楽は流石としか言いようがない。彼女の姿は舞台上に見えない。恐らく天幕の中で演奏に専念しているのだろう。
真っ暗だった演舞台の燈篭が、ぽ、ぽ、ぽ、ぽと順番についていく。
明るくなった円形の舞台。
その中央に、魈が佇んでいる。
彼は裸足だった。普段脛当てに仕舞われている紫色の袴の裾が風を受けてひらりと揺れている。肩甲は外され、代わりに両の腕に振り袖を付けていた。静まり返った演台に、チャラと魈の身に付ける飾りが鳴る微かな音が響く。
翡翠色に仄かに光る和璞鳶を手にしていた彼は、薄っすらと瞳を開くと、音もなくそれをゆるりと構えた。
琴が鳴る。
歌人が爪弾くのは、璃月の伝統的な楽だ。
心に染み渡る光の粒の様な音楽に合わせて、魈が動き出す。
最初の振りを一目見て、鍾離は、ああ、と感嘆した。
ああ、これは。
これは、夜叉の舞だ。
和璞鳶の切先が煌めき、美しく弧を描いた。
琴の音が大きくなり、曲と動きは徐々に速さを増していく。一族に代々伝わる夜叉の舞は、武の型から派生した勇壮で洗練された動きの振り付けが特徴だ。
一見緩やかで優美な槍舞だが、その動きは複雑かつ精緻であり、武に卓越した夜叉にしか舞うことが叶わない。
トンと地を蹴った魈が軽々と空を舞う。
満月を背に、衣の袖を翻した影はまさしく仙鳥だった。
毒を喰み、金の翼で魔を降す金翼鵬王。
舞の最中、魈の瞳が鍾離を捉える。閃光のような瞳は力強く、優美に舞とともにすぐに離れていった。鍾離は、その琥珀の瞳に全てを焼き付けんとばかりにひたとその姿を見つめ続けた。
いつしか琴が止み、舞の最後の一節が終えた。
魈が舞台に膝を付く。ふわりと揺れた魈の袖が止まるまで、皆はその舞台に釘付けだった。
※
「……」
時が止まったかのように静まり返る。
誰もが感嘆の吐息を漏らす。
魈が静かに立ち上がると、ようやく我に返ったように宴席からは割れんばかりの拍手喝采が巻き起こる。やんややんやの大賛辞を一切気にも止めず、魈は舞台を降りるとまっすぐに鍾離の元へと向かって来た。
「帝君」
彼は鍾離の前に膝をついた。
「清談会にお越し頂き感謝申し上げます。ご挨拶に上がらず申し訳ありません」
「魈」
すぐにその肩に手を添え、立ち上がらせる。
「見事な舞だった」
間近に鍾離を見上げた魈は首を振った。
「帝君にお見せするような技量でないことは重々承知しております。ですが…ご覧頂きありがとうございます」
「いや、美しかった。あれは夜叉の舞だな、もうお前にしか舞えぬだろう。まさかまた見れるとは」
「昔、伐難達が舞っていたものを思い出しながら舞いました」
「そうか…」
もう二度と見ることは叶わないと思っていた舞だった。魈が彼女らの舞を振りまでしっかりと覚えていたこと、それを舞おうと決めたこと。今は亡き彼らとの想い出が走馬灯のように呼び起こされる。願わくば、彼らに見せてやりたかった。伐難や応達が、目を輝かせる様が目に浮かぶ。弥怒は舞台衣装に腕を振るっただろう、浮舎は誇らしげに魈の頭を撫でるに違いない。
「ああ、…これは、言葉に尽くし難いな」
万感の想いが募り、鍾離が思わず口元を覆えば、隣にいた留雲は微笑んだ。
「帝君の言葉を奪うとは流石だな、降魔大聖」
「な、不敬なことを申すな」
「…留雲。頼みがある」
留雲はすぐに頷いた。
「言われずとも妾には分かっております。先程の盛り上がり様このままではまた大騒ぎとなりましょう。帝君、暫し彼の身柄をお預けしても宜しいでしょうか」
彼女は本当に気遣いが行き届いている。鍾離はその言葉に甘えて頷くと、魈の手を取った。
「…恩に着る。魈、少し歩かないか」
「…あ、は、はい」
※
魈の手を取り、宴席から遠く離れた水辺へと向かう。
喧騒は離れ、虫の音と水のせせらぎだけが聞こえる。麓から立ち上がる霧が宴席で火照った肌にひんやりと心地良かった。
「留雲には気を遣わせてしまったな」
「そうなのですか?」
「ああ、あの場でお前を連れ出すのは他の者に申し訳ないとは思ったが…少しの間お前を独り占めしたかった」
「そんな、申し訳ないなどということは…」
魈は躊躇いながらも首を振る。
「…良い舞だった」
「有難きお言葉です」
「勘違いであれば笑ってくれて構わないのだが」
魈の手を離し、鍾離は傍らの岩に腰を下ろす。
「あれは俺の為に舞ったのか?」
魈の顔を見上げる。
彼は大きな黄金の瞳を丸くした。
「何故…お分かりに」
「はは、なんとなくだ」
あの舞の最中、一瞬絡み合った瞳で直感した。この舞は俺に向けられている。あれはそういう瞳だった。自惚れでは無く確信だ。
魈は少し視線を巡らせた後、静かに口を開いた。
「…ここ最近、我は、俗世に近づき過ぎました」
あたりをホタルが飛び交っていた。小さな光がその頬を照らす。
魈は、言葉に反して呆れたように微かに微笑んでいた。きっとあの異邦の旅人とそのガイドのお節介を思い出しているのだろう。彼らは半ば無理矢理魈を巻き込み、外に連れ出してくれる。それは鍾離には出来ないことだ。彼らの与える変化は、鍾離が魈にしてあげたいと望んでいたことに他ならない。
「…帝君が神の座を降り、留雲も山を降りました。帝君の手を離れても自ら歩いてゆくこの国を見て、浮舎達の言う人の世が来たのだと、時代は変わりゆくものなのだと、我にも理解できました。…そうして、思ったのです。これまでの数千年、貴方は璃月の為にありました。これまで築き上げた積年の功績を思い…璃月を護り続けた貴方に、我も何か…報いたいと」
ふと、あの言葉を思い出す。
『君は君の責務を果たした。今はゆっくりと休むがいい』
「永きに渡るお務め、お疲れ様でございました」
魈はそう言って微笑んだ。
「……っ」
一国の柱として、気付けば長過ぎる時を過ごしてきた。感謝や畏敬は余りあるほどに受けてきた。しかし、こうして労いを受けるのは初めてのことだ。庇護の対象であった小鳥は、いつのまにか立派に羽ばたき、その翼で他者を慮ることすら覚えたようだ。
「…お前は充分に報いてくれている」
お前が降魔では無く、ただ舞を舞うことのできる世を遺すことができたのであれば、俺のこれまでの数千年も甲斐があったと、そう思うことも出来よう。今度こそ、言葉に詰まった鍾離は半ば衝動的に軽く魈の手を引き寄せた。
「少し、…胸を借りたい」
そのまま魈の胸にとんと額を当て顔を埋める。
「っ、!」
魈からは、夜露と、かすかな清心の香りがする。
魈は最初驚いたように身じろぎ硬直していたが、やがておずおずと鍾離の背中に手を添えた。そっと宥める様なその手の温もりが、魈の心音が、どうしようもないほどに愛おしい。どんな顔をしているだろうか、なんと情けない姿に呆れているだろうか。だが、今はどうしてもこうしていたかった。誰かの胸に顔を埋めるなど、下手したら初めてのかも知れない。細い腰に腕を回せば、心音がいくらか早まった。
ああ、溺れそうだ。薄い身体に身を預け、このまま時を止め、溶けてしまいたいとさえ。
「ありがとう、魈」
「いえ…」
蛍が舞った。
静かに抱き合う二人の周囲は、時の流れさえ穏やかに変えているかのようだった。
※
二人の去った宴席は、降魔大聖の見事な舞の話でもちきりだった。この様子では、きっとこの先数百年は語り継がれるに違いない。次回、催し物をする仙人はやりにくくて堪らぬことだろう。不憫なことだ。
留雲がそう考えていると、削月と理水が手を振り近寄ってきた。
「おーい、留雲借風真君」
「いやぁ、良い舞台だったな。降魔大聖はどこにおる?」
「あやつなら帝君と一緒じゃ」
「おお、そうか。先程の舞は実に見事だった。皆で挨拶にいかぬか」
呑気な削月の言葉に、留雲借風真君は呆れてまなじりを吊り上げた。
「にぶちんめ。邪魔するでない」
心優しいがそれ故機微に疎い老友の顔を見て思い出す。
「ああ、そういえば次の催し物は貴様の番だったな」
「えっ」
「ああ、確かに」
「あの降魔大聖の次とは…苦労するな」
「案ずるな。幸いまだ時間はたっぷりある」
凍りつく削月の肩を二人は笑いながらぽんと叩いた。
終