Moonlight 2021年8月20日土曜日。無線小屋でひとり、夕食後に始まる俺主催のミュージック・ナイトの準備をしていた。
長かったキャンプ生活も明後日で終わり。明日はファンデイ・サンデイの催しはあるが、実質お別れ会であると考えると今日のミュージック・ナイトが憂いなく盛り上がれる最後のイベントだった。
とはいえ、こんな山奥に音響機材や舞台設備が揃っているわけがない。また携帯もMr.Hによってとりあげられているため、過去のキャンパーたちが残していったCDやレコード類を使うか、自分たちの喉を震わせるくらいしか手段はなかった――まあ、俺にとってはこんなハンデあってないようなもの。だって俺は、天才仕掛人ディラン・レニヴィなんだから。
ロマンチックなムード。あるいは体を揺らすことだけに夢中になれるようプレイリストは綿密に練ってあるし、月曜日のアビーのアートクラスで子供達には楽器作りをしてもらい、ちょっとした演奏をみんなと一緒にする計画もしていた。
会場だってひと工夫。最初は焚き火場で演奏会、その後コテージへ移動してダンス&ダンス。しかもコテージの飾りつけはキャンプカウンセラーだけでやって、子供達にはサプライズにした。
教育的な内容をおさえつつ貴重な青春の一秒だって無駄にしない、完璧な筋書きと前もっての準備。ジェイコブ企画の素材そのまま脳筋スポーツデイとは違って、俺はインテリでファビュラスなんだ。
どうか素敵な夜になるように。Mr.Hから借りた丸裸のギターを抱えて立ち上がった時、ノックが聞こえた。自分以外でコテージに残っているのは誰だろう――「ディラン」。ライアンの声だ。てっきりみんなと一緒に焚き火場へ行っていると思っていたのに。
「どうしたの?忘れ物?」
開かれた扉の向こうでライアンは一番の親友であるイヤフォンを外し、飄々とした調子で佇んでいた。
「いや、君を待ってた」
目を丸くする。
「ふーん?俺を独り占めしたいんだったら最初から言ってよ」
鼻で笑われた。なんだよその態度、ムカつく。
「はいはい分かった、君はタイムキーパーの白ウサギ様だもんね」
「俺が白ウサギなら君は三月ウサギだ」
「楽しいお茶会は終わらない方が良いに決まってるでしょ!」
軽口を叩き、早速外へ出た。
無線小屋の軒先からシャンパンゴールドのナイアガラライトが流れ落ち、ロッジへ続く小道の草を立体電飾の鹿の群れが食んでいる。
そのまま4、5段のステップを下りれば、青や白や紫の電飾を纏う十棟の恒星で作られたアンドロメダ銀河が、ブナの大木にぶら下がる赤い星団を核にして渦巻いていた。
「ワオ…」
想像以上の仕上がりに感動して言葉が出てこない。皮肉じゃなくて、みんなには後できちんとお礼を言わないと。
「君も手伝ってくれたんだよね」
「まあな」
「お礼は俺からのキスでいいかい?」
「いや、結構だ」
「そりゃ残念」
広場の中心にあるブナの木を見上げつつ、一周して微笑んだ。
「ライアンは今夜、誰と踊るの?」
「うん?」
「ミュージック・ナイトだってば。ケイトリンとはどう?」
「え?」
「ジェイコブはエマと踊るし、ニックはアビーを誘うつもりだって」
「別に、俺は…」
「お似合いだと思うけどなあ。まさか慣れてないだなんて言わないでね?君のことだから、たくさん女の子と踊ってきたでしょ?」
にやにや。少し意地悪な笑顔を作る。
いつもキューピッド役を頼まれることが多いから、きっかけ作りは得意。ケイトリンからは頼まれたわけじゃないけど、諦めつくからそっちの方が良い。
いいなって気持ちが大きく燃え上がって取り返しのつかなくなる前に、消火活動をしておく。火元は常に確認、これ鉄則。
「ねえ、プロムはどんな子と行ったの?スーパーモデル?」
「…あのなあ」
「俺はジャスミン・トゥークスがタイプ。周りにいたら紹介して」
「じゃあ訊くが。君はどうだったんだ」
「俺ぇ?…そりゃ、いつだってスポットライトを浴びるDJだよ」
ブースどころか、本当の自分の定位置は舞台裏だってこと、君にだけは知られたくない。
ライアンをからかいながら橋を渡り、ハケット・ウッズの遊歩道を歩いていく。森はあと二日で満ちる月光に照らされているおかげで、思ったよりも明るかった。
鬱蒼とする樹冠にところどころ切り取られた満天の星を見上げ、進んでいく。億千の星を眺めているうちに、自分のあらゆる可能性について考えさせられる。壮大な宇宙の前には自分の悩みなどちっぽけなものだと、勇気づけられるこの瞬間がたまらなく好き。もし地球上の誰にも認められなくったって、宇宙のどこかには俺を受け入れてくれる場所がきっとあるはずだ。
スペースシャトルへ乗り込んだ思考を、暖色の炎が嘗めた。カンテラが目の前に差し出され、揺れていた。
「ほら、足元」
アンタはいつも危なっかしいんだから!――君って俺のママみたい。口煩いタイプは苦手なんだよねえ。肩をすくめて言い返した。
「ちゃんと前見て歩いてるんですけど?落ち着いてて余裕のある大人の男のエレガントな脚運びさ――うわっ!」
「ディラン!」
木の根っこに思いっきりつまづいた。コケるまではいかず、バタバタ二三歩前のめりに走り、何とか立て直す。ギターの弦が勝手に鳴り、見事なまでにオチもついた。
たちまち全身が熱くなる。恥ずかしさのあまり、彼の顔は見れなかった。
「かっ、カラダ鍛えた成果だね!」
「…木陰に座ってばかりじゃないか?」
「そっ、おっ、俺のことそんなに観察するくらい好きなワケ?」
呆れた調子で笑われる。頬の赤さを悟られないよう、君が前を歩いて、と背後に隠れた。
キャンプファイアーの炎光が目視できる距離にまで近づく頃には、恥ずかしい気持ちは落ち着いていた。その代わり、緊張が高まりつつあった。頭の中でコード進行を確認する俺へ、ライアンが話しかけてくる。
「なあ。一体何を弾くんだ?」
「えっとね、Top of the worldとFly me to the moon」
「へえ、良い選曲じゃないか」
「…それからDon’t stop me now」
「あっはは!嘘だろ?」
立ち止まってこちらを振り返った。なかなか拝めない満面の笑みを急に向けられて心臓が飛び跳ねる。慌てて弦を軽く触り、誤魔化した。
「I…I am a sex machine ready to reload like an atom bomb♪」
「く、アハハ、やめてくれ!」
「About to,oh oh oh oh oh explode~♪」
「ハケットさんに怒られるぞ」
「だってさ、クンバヤやれって言うんだよ?あんまりだよね!」
「クンバヤ?」
「そう。今夜は誰も、ハケットさんでさえも、俺を止めらんないんだから!」
ウィンクする。
――違う。これは本番にドキドキしてるだけ。頑張れよって、その励ましで有頂天になりそうだなんて、油断も隙もあったもんじゃない。
薪が勢いよく弾ける音が聞こえてきた。子供たちの、跳ねまわり叫び合う騒々しさ。大きく深呼吸してさらに踏み出す一歩の途中、黒い群れを捉えた。言い争い、なにやら揉み合っているようだった――「あっち行けよ、ホモ野郎!」。
直後、群れから小さな影が突き飛ばされた。
「おい!」
ライアンが駆け付ける。気づいた群れは蜘蛛の子を散らすように消え失せた。
「大丈夫か?」
彼は、小さな影の前に屈んで体を抱え起こした。優しく落ち着いた声色で話しかけながら、ゆっくり立ち上がらせる。土を払ってやり、泣いているらしい彼の肩へ手を添えた。
「ライアン?――ちょっと、どうしたの!」
茂みの向こうから、騒ぎを聞きつけたケイトリンがやって来た。ライアンはたった今起こったことを話し、その子の擦りむいた膝や掌を確認した彼女は、応急手当をするからと言って救急キットをロッジへ取りに走った。
ライアンは彼をケイトリンに任せた後、騒ぎを起こした子供たちと話をしにいった。ずっと突っ立っていただけの俺は、同じく様子を見に来たエマやアビーに声をかけられてようやく、金縛りが解けたのだった。
***
火の消えた焚き火場。結局、ミュージック・ナイトは予想外のハプニングで中止になってしまった。
子どもたちの諍いは、突発的なケンカではなかった。怪我をさせられた男の子は前々からいじめられていたらしく、俺含めキャンプカウンセラーはナイーブな事実の把握と、加害者・被害者の子供たちのケアに追われることになった。ハケットさんと一緒にいじめの状況と男の子の被害の程度を記録し、急遽、明日保護者含めて関わった子供たち全員の面談をする方針に決まった頃には、とうに22時を過ぎていた。
事態は収まったためひとまず解散し、今はもう深夜を回っていたが、俺は丸太のベンチにひとり腰かけていた。セプティマス湖の波が打ち寄せる音で、星々の瞬きで、真夏の夜風の涼しさで。ジクジク痛む心を癒したかったから。
――昔を思い出してしまって、眠れなかったのだ。
『ホモ野郎が混ざってると安心して着替えらんないよな』
『ヤベ、俺のケツも狙われてる?』
『そういう目で俺らの裸見てるに決まってんだろ、マジのセクハラ。カウンセラーにレイプされましたって相談して専用更衣室作ってもらおうぜ。トランスジェンダーの連中みたいにさ――なあ、ディラン?』
ドッ。嗤い声が湧き起こる更衣室。悪意のこもった無数の眼差し。広げかけたジャージをくしゃくしゃにして抱え、脚を縺れさせながら学校から逃げ出した。
俺。君に何か悪いことしたのかな。ただ、君のことがずっと好きだったって伝えただけだったのにな。応えて欲しい、なんて一言も言ってない。大好きでたまらない気持ちを、伝えたかっただけ。
「…だよね、ゲイってキモすぎだよねー」
自嘲と、涙が零れてくる。
周りの友達もクラスメイトもみんな、好きな人に好きだって伝えても、何も問題にならない。喜んでくれる人はたくさんいるし、むしろそれで結ばれてカップルにだってなれる。
でも、俺は違った。好きになること自体、許されていなかった。
『あっち行けよ、ホモ野郎!』
「大丈夫だって。近づかないよ、そう言ってるじゃん…」
膝を抱える。
いつまでも刺さって抜けないガラスの棘。些細な出来事でフラッシュバックして苦しめられる、弱い心に嫌気が差す。強くなりたい。平気になりたい。そう願って立ち向かっても、俺の心はおかしいくらい簡単に傷ついてしまう。
どうか息を殺して。偽り続けて。人を好きになることは、深く傷ついて、深く傷つけるだけなんだと膿んだ痛みで知っているのだから――。
「…ここにいたのか」
肩が震えた。
「探したぞ」
ライアン。
酷い顔など上げられるはずもなく、よりキツく体を丸め込んで自分の中に閉じこもる。
「な、なに?ルーム5の子供たちの監督なら、ニックに頼んだよ」
しゃくり上げないよう、一音一音慎重になって言葉を紡いだ。砂を踏む足音がして、すぐ隣に彼の気配を感じた。
「注意しに来たんじゃない」
「じゃあ、なに?」
少し間をあけ、静かに、心配だったからと言った。
「あー…平気だよ。中止になって落ち込んでるわけじゃない。イベントの準備が楽しかったから十分さ。それより、子供たちは大丈夫なの?」
「…あの子を囲んでみんなでロッジで寝ることになった。子供たちからの提案だ」
「そう…!良かった…。周りは味方ばっかりなんだって、安心できたかな…」
「嬉しそうにしてたぞ。こんなことにはなったが、子供たちの成長を見た気がしたよ」
安心した。あの子がみんなの優しさに守られてよく眠れているのなら。
「そうだね…悪いことばかりじゃないな。教えてくれてありがと」
「…ああ」
「でも、いじめのこと。気が付けなかったのは…悔しい」
指に力をこめる。二の腕に爪が食い込む。心に傷を負う前に、何とかしたかった。俺みたいに後々苦しまないとは限らないから。
「俺も、同じ気持ちだ」
「……そっか」
沈黙。ライアンが、なにか言おうとしている雰囲気を感じた。掠れた音が鼓膜に引っかかったと同時に、自分の方が先に言葉にした。
「…ライアン。もう君は寝なよ。ごめんね、探しに来させて」
「いや、…」
「俺もすぐロッジに行くから」
寄り添おうとしてくれた温もりを追い払う。
足音はわずかに留まった後、やがて森の向こうへ消えていった。
これ以上、こんな醜い姿なんか誰にも見られたくない。嫌なことを思い出したせいで頭も割れるほど痛い。ああは言ったけれど、テントがあるからここで一夜を明かしてしまおう。俺みたいなヤツには、誰かの優しさなんて必要ない。
膝に顔を埋めたまま暗闇へ独り沈んでいく。じっとり。嫌な汗を掻きつつ、夜風が何もかも運び去ってくれるのを、ひたすら待ち続けるだけだった。
不意に、柔らかい感触が腕に当たった。
「ディラン」
――え?
「ほら、タオル。ボート小屋に取りに行ってた」
バスタオルを頭から包みこむみたいにして被せてくれる。そうして自分の隣に自然と、まるで当たり前のように座ったのが分かった。
「…傍にいて良いか」
俺は相当に焦り、苛々して、苦しくなった。何かに溺れてしまいそうだった。独りにしておいて。そう言おうとした――のに。
出てきたのは、大粒の熱い涙。
零れては生まれ、生まれては零れ落ちる。
次には全身が細かく震え出し、情けない声が漏れ、どんどんみっともなくなった。
「な、なんっ、ひっ…うぅ…」
彼からすれば、俺が一体なにに取り乱しているのか分かるはずはない。けれど問いかけることもせず、見放すこともなく、泣きじゃくる自分と一緒にいてくれた。
時にそっと、背中へ温かな手を当てて。
乱高下していた呼吸が鎮まった頃、涙がぴたりと止んだ。腫れぼったくて今にも剥がれ落ちそうな顔面をタオルで拭き、脚を下ろす。
「落ち着いたか?」
頷く。
「よし。それじゃあ、」
手を引かれた。
「ど、こいくの」
答えず、そのまま導かれる。タオルで隠したままの顔では、ろくに先が見えない。勝手に進んでいく元気のない足元だけを見つめる。
ほんの少しだけ強く、手を握られた感じがした。
たどり着いたのはボート小屋だった。古くてしなる床板を、ギシギシ踏みしめながら桟橋へ向かう。どこからかノイズの混じった話し声が聞こえ、程なくしてライアンが溜め息を吐いた。
「おい、全く…」
ボートが一葉、呑気に浮かんでいた。オールは支点に固定されたまま、クリートにさえ括りつけられておらず、船体が橋のたもとにくっついては離れたりしている。
ボート小屋はセーリングをするライアンの居城だ。おおよそのことは自由にさせてくれて許してもくれるのに、ボートの管理だけは目の色を変えて注意事項を並べ立てるのが常だった。
こりゃご立腹だぞ――彼はボートへ乗り込んだ。中にはラジオと脱ぎ捨てられたらしい衣服がある。そのおかげで犯人はたちまち明らかになった。ほぼ半裸の派手なヘソ出しトップスは、ジェイコブ以外にはありえない代物だった。
「明日、アイツを絞らないと」
「ラジオ放置の余罪でも取り調べて」
「だな」
証拠品を押収した彼は、乗り込んだまま俺へ手を差し伸べた。
「島を一周しよう。月が綺麗だ」
「え、でも…」
「来いよ」
俺の目の前へと、より指先を伸ばしてきた。どぎまぎしながら、しかし促されるままに手を取ってボートへ乗り込んでしまった。
オールが、水を掻く。燦燦と降り注ぐ月の輝きを溶かした湖面は、さながら白銀の鏡。船頭からゆったりと流れてできる滑らかな波紋が、オールに合わせてさらにのびやかになっていく。
やがて勢いづいた船は、白鳥の優雅さで渡り泳いだ。
夏の匂いを運び、湖畔の歌を奏でる君と僕の船。先客であるラジオDJは軽快で、NYの放送局から配信しているという。
『――それでは、リクエスト曲。アリアナ・グランデでMoonlight』。
The sun is setting
And you're right here by my side
And the movie's playing
But we won't be watching tonight
Every look, every touch
Makes me wanna give you my heart
I be crushin' on you, baby
Stay right where you are
気づいた時にはボート小屋の明かりは遥か彼方にあり、Mr.H力作のツリーハウスが見えるところにまで来ていた。
俺たちは、ひとことも話さなかった。互いの間にあるのは、風と、波と、オールの軋む音と、ラブソングと。そして。
(ドキドキ、してる…)
破裂しそうな心臓の音。
どうしよう。俺はカナヅチだし、逃げ出そうにも逃げ出せない。彼はただの親切心で、俺を励まそうとここに連れてきてくれただけなのに、二人の間にはなにかがあるんだって、そういう気にさせられてしまう。
完璧にアリアナ・グランデのせい。このシチュエーションも最高に良くない。気を紛らわせなきゃ。他のことを考えて。早く。
正面の彼と目が合えば最後、取り返しがつかなくなる気がして――さらにタオルで顔を隠し、小さくなった。「ディラン」。彼は不思議そうな声色で言った。
「どうして顔を隠すんだ」
「だって、」
「見ろよ。ここが一番綺麗に見えるんだ」
その言葉と同時に、軋んで揺れる船。
オールを掴んでいた彼の両の手が、タオルの端に触れるのが見えた。
まるで。
ウェディングヴェールを、持ち上げるかのように。
タオルの左右が、繊細な手つきで開かれた。
Cause I never knew, I never knew
You could hold moonlight in your hands
'Til the night I held you
You are my moonlight
Moonlight
Baby, I be fallin'
You are my moonlight
Moonlight
目の前でいっぱいに光るオニキスの星。その背中には大きく輝く銀の月を背負っている。
「ほら。な?――綺麗だ」
優しく微笑みかけられて。
吸い込まれて。
何も聞こえなくなって。
時間が止まった。
サマーキャンプの終わりまで、あと一日。
暗闇を照らす月の光が、俺にかけられた深い呪いを――あまりに美しい祝福へと変えた。
***
「ほら」
取り上げられた携帯を返される。
「電話番号、入れておいた」
その言葉で、掌に収まる携帯電話はたちまち一生涯の宝物になった。
「ほ、本当…?からかってないよね?」
やれやれ、といった表情で笑っている。
「退院祝いだ」
「へーえ?あっちでも、俺の声が聞けないと寂しいんでしょ?」
「…なんとでも言え」
そっぽを向くライアンの横顔が赤い。にやにや。頬が緩んで止まらなかった。
キャンプ最終日。一夜の人狼騒動のお蔭で、ハケット採石場のモットーである“死に至らぬ傷は成長の糧となる”精神を、文字通り命で以って経験した。俺はそこで左手を失った代わりに、はじめてで、きっと最後になる彼氏を手に入れた。
二度も、呪いから俺を救ってくれたライアン。
誰よりも、何よりも。彼のことが好きでたまらなかった。
「俺は寂しいんだけどな。君の顔見てお喋りできないの、寂しい」
「…会いに行くって」
「絶対浮気しないでね。特にアイパッチなんかに」
「するわけないだろ」
「じゃあ、その証拠にキスして。今すぐ」
「はあ?!…全く」
ぶつぶつ言いつつ、唇を重ねてくれる。
幸せ。大好き。自分の気持ちに素直になれることが、こんなにも素晴らしい。そして大好きな気持ちを大好きな人に受け止めてもらえることが、こんなにも嬉しい。
彼の指に自分の指を絡めて重ねたまま、囁いた。
「ライアン」
「なんだ」
「ママが来るまであと30分あるんだけど…」
「うん?」
「…えっち、してみる?――あいたっ」
か弱い俺の鼻の頭を、加減なしにぎゅっと摘まんだ。
「いたーい!なにすんだよ!」
「そっ、そういうのはちゃんと手順を踏んでからだ!」
「ちょっと、ライアン!」
「また電話する!」
病室の扉が閉められる。
素直になりすぎたかな?いや、素直っていうより欲望か。扉のすぐ向こうで悶々としているだろう彼の姿が容易に想像でき、また頬が緩んだ。
膝の上に置いていた携帯電話を大切に起動させ、電話帳の中身を見る。
Rのインデックス。確かにライアン・アルザーラーという名前と10桁のナンバーが新しく登録されていた。そして名前の横には括弧があり――(Your Boyfriend)。
瞬きして首を傾げ、ふふっと笑った。
「…君は俺の彼氏だよ」
液晶の上に落ちた喜びの雫が、あの日見たムーンライトのように輝いた。