君に奏でる愛の音 今日はなんだかやたらと周囲がソワソワしてるな、と明浦路司は思った。
(…何かあったっけ?)
思い返してみるも、特に何のイベントもない、シーズン入り間近の普通の平日としか言いようがなかった。
けれどもこうしてリンクにいつも通り出勤してみると、なんだか周囲の空気がふわふわ、ソワソワしているのだ。何が、と聞かれると言葉にしにくいが――とにかく何かが起こっているのはわかる。
瞳さんは出勤してきた司に「あらおはよう司くん!今日も天気が良いわね!」と言ってきたが、あいにく今日は曇りだ。洸平くんは普通だったが、なんだかバタバタして忙しそうだ。
「……?」
何かあったか聞きたいが、なんとなく聞きにくくてそうして今に至っている。
生徒たちの学校が終わる前にいつものように事務仕事に手を付けて、そういえば純さんにも今日は早く帰ってくるようにと言われていたな、と思う。
まあ早くと言っても貸切の時間によって終わる時間はバラバラなので、日毎に決まった時間というものはないのだけれど、つまり仕事が終わったらまっすぐ帰ってくるように、とのことなのだろう。
「帰って」と言われた通り、司は今、夜鷹純の家に「帰る」立場になっていた。純と司が付き合いはじめてもう少しで1年になる。付き合うまでも紆余曲折、悲喜こもごも、波乱万丈と呼べる色々があってーー最終的には純の「僕のこと好きだよね?聞こえた?答えて」と壁ドンならぬ脚ドンをされて、甘い台詞とは裏腹の絶対零度の声音で強くそう言われてしまい、司は震え上がりそうになりながら「はひぃ…」などと情けない声を出すことしかできなかった。美形が本気で怒るとあんなに怖いなんてはじめて知った。
それから言質を取ったとばかりにあれよという間に純の家に連れ込まれて、困惑しているうちにおいしく頂かれ、「えっ今何が」と思っているうちに何度も抱き潰され、そのうちなし崩しに週の半分以上を純の家で過ごすようになり、いつの間にか一緒に住むことになっていた。
ここまで半年もかかっていない。さすが夜鷹純、金メダリストはこんなことも手際がいいと司は思う。
とりあえずレッスン後に事務処理をしなくても良いようにと手早くそれらを終えると、丁度良く学生の生徒たちがリンクに来る時間になった。
「司先生〜!」
「いのりさん!こんにちは!」
今日もダッシュで学校からこちらに来たらしく、息を切らせながら元気よくいのりがやって来る。
「こんにちは!今すぐ支度してきますね!」
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ、転ばないように落ち着いて支度してね」
「ハイ!」
あまりにも勢いよく言ってくるいのりに、今日もいのりさんは元気だなあ、その元気の良さGOE5.0…っ!と感動した。
あっという間に着替えてきたいのりと、まだ一般開放中のリンクで個別レッスンを始める。
(…あれ?)
いつも以上にいのりは元気が良い。元気がいいのになぜかソワソワと落ち着かない様子で、いつもよりレッスンに身が入っていないような気がする。
「いのりさん、今日なんだか落ち着かないね?」
「そそそそんなことないですッ!落ち、落ち着いてます!」
あまりに集中できないと怪我の元にもなるのでそう聞けば、ブンブンと大きく首をふって、どう聞いても落ち着いてない感じでそう答えられて、司は心配になった。
「いや…どう見てもなんだかソワソワしているような…何かあったら言ってね、集中できないと危ないから」
「は…はい!…そうですね」
司の声掛けに、一瞬動きを止めるとやっと自分の挙動に気がついたのか、いのりは大きく息を吸って吐いて深呼吸をする。それを数度繰り返すとようやく落ち着いたようだった。
「落ち着いた?」
「はい」
「じゃあ続き始めよっか」
「はい!」
そこからはいつも通りのレッスンになり、司は内心ホッとする。思春期に差し掛かったいのりは中々複雑で、出会って数年、ほぼ毎日会っている司でもたまに何を考えているのかわからないことがある。いつかのように急に泣き出して行方を眩ませるようなことはなくなったが、それでも不安定な期間を終えるまでは気が抜けないな、と思っている。
それから一般開放の時間が終わると、今日は製氷後すぐにクラブが押さえた貸切の時間になった。それも順調に終えて、これ以上のレッスンはないのでみんなを見送ることになる。
片付けをしながらお迎えにきた親御さんたちに生徒をきちんと引き渡して――それで今日の業務は終了だ。
頭の中で今日のいのりの練習内容と、明日の課題を考えていると身支度をしたいのりが更衣室から出てくる。
ちょっと緊張したような面持ちに(何か今日の練習であったのかな、それなら内容を聞かないと!)と司が瞬時に頭の中を切り替えていると、司の隣に瞳がやってきて、はい!という声と共にぱん、と両手を打った。
「は〜い皆さん!今日は司先生のお誕生日です〜!」
「えっ」
一瞬何を言われているのか分からなくて司は大きく目を瞬かせた。
「せーの!」
「「「司先生お誕生日おめでとー!」」」
そんな司ににこりと瞳が笑うと、続けてその場にいた生徒たち皆が司に向かって拍手と一緒にそう叫び、ハッピバースデイ…と歌を歌ってくれる。
「えっええ!あっあの、えっ」
ここに来て初めて司は今日が自分の誕生日だと思い出した。そういえば昨晩日付が変わったと同時に加護と羊から誕生日を祝うメールが届いていたのに、朝になったらそんなことはすっかり忘れていた。驚きすぎてあわあわとする司に、歌い終えるといのりが一歩前に出て満面の笑みを浮かべながらぱっと後ろ手に隠していた袋を司の目の前に掲げた。
「ハイ!これはクラブのみんなからのプレゼントです!」
「ああ、ありがとう!いのりさん、みんな…っ」
大変だ、ルクスのみんなが、いのりさんが眩しくてたまらない。
こんな風に誕生日を祝ってもらえたことが嬉しすぎて司はぼろぼろと涙をこぼした。
「司くんの誕生日、お祝いするの久しぶりね」
そんな司の肩にぽん、と手を置きながら瞳が言う。以前、ペアを組んでいた時にお祝いをしてもらったことがあったな、と思い出す。
「本当にありがとうございます…っ」
「ううん、司くん自分では言わないからお祝いし損ねることが多くてごめんなさいね、今回いのりちゃんが偶然司くんの誕生日を知ってお祝いしたい!って言ってくれたのよ」
「いのりさあん…!」
瞳の言葉にばっといのりの方を見ればにこにこしながらはい!と答えた。
「いつも先生私の誕生日にお祝いしてくれるのに、先生の誕生日聞いても『俺の誕生日なんて気にしなくていいよ』って言うので…だからちょっとだけサプライズしました〜!」
両腕をコムキ!ポーズで持ち上げながら言ういのりに司はもう涙が止まらない。
「ううう、う、いのりさんの優しさが大きすぎて先生倒れそうだよ」
「先生が喜んでくれて良かったです!」
「うん、ありがとう!こんなに嬉しい誕生日になるなんて…いのりさん、瞳さん、みんなも本当にありがとう!」
「先生…!」
ついには蹲っておいおい泣き出した司に、周りの生徒から「せんせー泣きすぎ!」だの「先生良かったね〜」などと言われてしまったが、それすら嬉しくて、皆が帰るまで引かれるほど泣いてしまった。
**********
あのあと、なんとか泣き止んでみんなを送り出すと同時に、瞳から「ほら!今日の主役は早く帰って!」と追い立てられるようにリンクを後にした。
帰る直前にいつものように純に「これから帰ります」とだけスマホでメッセージを送ると駐車場に止めてあった車に乗り込む。これは純と一緒に住むようになって割とすぐに渡された車だった。
はい、と当たり前のようにキーを渡してくる純に慌ててそんなもの貰えません!と言えば「僕は普段乗らないし、車って定期的に動かさないとダメなんでしょ」と返され、押し切られてしまった。
これは借りているだけ、と言い聞かせて安全第一で運転しながら家路へと急ぐ。
そうしてマンションの地下にある駐車場に車を停めると、先程の出来事にふわふわした気持ちのままエレベーターで階上へと向かう。ほどなく到着し、扉をあけて少し歩いたところにある玄関ドアの鍵をあける。
扉を閉めて補助鍵をかけ、振り向いたところで音に気がついたのか珍しく純が迎えに出てきた。
「…おかえり」
「ただいま、戻りましたあ…」
「すごい顔だね」
「えっそんな変な顔してますか」
帰ったばかりで、まだ靴も脱いでいない司の頬に手を添えながら少しだけ眉間を寄せた顔でそう言ってくる純に、(やっぱり純さんカッコいいなあ)などと思ってしまう。
そのままそっと目尻を司のものよりも少し細い指が辿る。泣きすぎて腫れぼったくなったそこに、ひんやりした指の体温が心地良い。
「…泣き腫らした顔してる」
「…あ〜…嬉し泣きしすぎたからかもですね」
にへら、と笑いながらそう答える司に、純は「そう」とだけ返す。
「何があったか聞かないんですか?」
「聞かなくてもわかる。あのこど…いのりとかクラブの人間にでも祝われたんでしょ」
「純さん今日が俺の誕生日だって知ってました?」
祝われた、という言葉に司は純が今日が何の日かを知っていることに気がついた。というよりも今日だから早く帰ってこいと朝から言われていたのだと思う。
「知ってたよ」
「ええ〜すごい、俺、自分の誕生日なんてすっかり忘れてて…そしたらみんなでおめでとう!なんて言われて、いのりさんからは代表でプレゼントまでもらって…っ!」
先程までの出来事が脳内でプレイバックしてしまい、またうるうると涙が溢れてくる。
「ああほら、また泣き出した。いいから早く玄関から上がって」
純はこぼれ落ちそうになる涙を指で優しくぬぐうと、司の手を取って早く上がって、と促した。
「はいぃ…」
そんな純の優しさにうぐぅ、と更に涙を零しながら司はようやく靴を脱いで家に上がる。
「そういえばなんで今日は純さんわざわざ出迎えてくれたんですか?」
そのまま手を引かれて、リビングまでの短い距離を歩いている間に純にそう聞くとあっさりと「入ればわかるよ」と言われる。ガチャリとドアノブを押してリビングに入ると、すこし奥にあるダイニングテーブルが目に入った。
「………これ…」
そこには綺麗に盛り付けられた料理がいくつも並んでいて、更には明かりを灯されたキャンドルスタンドまで用意されている。
「君の誕生祝いのディナーだよ」
「あの、これはどなたが」
まるでレストランのようなロマンチックな状態に思わずそう聞けば「僕が作った」とこともなげに答えられて司は驚愕した。
「純さんが」
司の知る限り、純は料理なんて殆どしたことがない。バケツに低温調理器を差し込み、何の味気もないサラダチキンを作る姿を見たことがあったくらいだ。何せ司が夜鷹邸を初めて訪れたとき、そこにはレンジどころか冷蔵庫すらない状態だったのだから。
こうして一緒に住むにあたり、まず買わせてもらったのが冷蔵庫だったほどなのに、ここに並んでいる料理の数々はどうだ。おいしそうで盛りつけも美しい。キッチンに視線を送ればきちんと後片付けもされている。まさに完璧だった。嫌いなもの=食べ物、なくらい食に興味のない純が一体いつ、どうやってこんな技能を身に着けたのだろう。
「料理ぐらい、レシピと実際作った動画さえあれば作れる……ねぇ、君は僕のことなんだと思ってるの?」
どうやら鷹の目と呼ばれる技能は料理にも有効らしい。それにしたってすごすぎる。純さんは魔法でも使えるのかな、なんて思ってしまう。スケート以外のジャンルに興味が向いていたのなら、その道でもきっと第一人者になれていたのだろう。また一つ夜鷹純の知らない一面を知った気がして司は嬉しくなった。
「スケートの神様で…食べ物に興味なんてなかったのに、最近は俺の作ったものなら食べてくれるようになって嬉し……くて、大事な俺の恋人、です」
途中脱線しかけたことに純が思い切り眉間に皺を寄せたのが見えて、司は慌てて修正する。
「いい子。恋人なんだからその人のために何かを作るのは変なこと?」
そんな司の様子に純がふ、と空気を緩めると小首をかしげてそう聞けば、司はぶんぶんと首を振って否定するしかなくなる。はっきり言って感動しているし、勿体無くて食べられない。真空パックしてうまいこと保管できやしないだろうかとすら思ってしまう。あと小首をかしげる純さん可愛い。写真取りたい。
「いっ………いいえ…!…っぐす、ありがとうございます」
さすがにそこまで言ったら引かれてしまうこと必須なので、どうにか気持ちを抑えて、お礼だけを搾り出した。
「ほら、早く荷物を置いて手を洗ってきて」
「う、う、してきますぅ…!」
ダッシュで洗面台に向かい、支度を変え、手を洗う。そうしながら、先ほどの食卓を思い出して口の端がだらしなく緩んでしまう。あの!あの夜鷹純が自分なんかのために料理をしてくれたのだ。楽しみ以外、ないだろう。
身支度を終えてダイニングに戻ると、食卓に腰を落ち着ける。
「――いただきます!」
「はい」
用意された皿に美しく並べられた純手製の料理は本当に美味しくて、司は目をきらきらと輝かせながら食事を進める。アルコールは用意されておらず、グラスには水が注がれていた。途中、「本当に美味しいです!純さんシェフになれますね!」だの「うわあ、このチキン皮までパリッパリソースも美味しいです、どうやって作ったんですか?」「デザートまで…えっもう本当に美味しさのGOE100億点くらいです!」などとあらんかぎりの言葉で褒めちぎった。本当にこれらを作るのが初めてだとは信じられない。食に興味がないはずなのに、どうしてこんなに美味しい味付けができるのだろう。そう聞けば「レシピの通りだよ」と言われたが、それにしても驚くほど美味しかった。夜鷹純手製のディナーを食べた人間は恐らく司が初めてではないかと思う。
ずっと感動しきりな司に対して、純は自分用にとほんの少しだけ盛られたそれを食べながら「そう、よかった」と淡々と答えていた。目元が緩んでいたので喜んでいるのだろうと思われる。司の電話のあとから最後の仕上げをしたのだろうそれらは温かく、自分のためにしてくれたことが嬉しくてたまらなかった。
にぎやかな食事のあと、後片付けを二人でしてからリビングに移動して並んで座り寛いでいると、純から薄くて四角く、綺麗にラッピングされた何かを手渡される。
「あとこれはプレゼント」
「これ以上にプレゼントが」
ディナーを準備してくれただけで最高すぎるプレゼントだったのに、他にもと思ってしまい思わず声を上げた。
「いらないなら捨てるけど」
「頂きます欲しいですありがとうございます!」
受け取ったそれの包装紙をぐちゃぐちゃにしないように――記念にとっておくつもりなので――そっと開けると、そこには簡素なケースに入った無地のディスクがあった。何かの録画だろうか?もしかして純さんのこれまでのプログラムをまとめたものとかと期待する。
「…あの、これは…」
「君のためだけに滑ったプログラム動画だけど」
だって君、何より僕が滑ってる姿が好きなんでしょ、と何でもないことをように言う夜鷹に、まさかこんなプレゼントがあるなんて、と想像もしておらず一瞬言葉が出なかった。
「うあ、う、え、あっ」
「……大丈夫?」
何も言えなくなってしまった司に、夜鷹が心配そうに声をかける。
「はっはい!みっ…見ます!」
その言葉にはっとして、ぎゅう、と強く握り締めていたディスクケースを持ったまま力強く宣言すると、純は煩い、とばかりに眉を顰めた。
「声が大きい」
「すみません!」
慌てて声のトーンを落とすと、急いでプレイヤーにディスクをセットし、大型のテレビの電源を入れる。
メニュー画面が立ち上がり、1つしかないその動画のサムネールを選んで再生ボタンを押した。
そこは以前鴗鳥と純と司の3人で滑った邦和のリンクのようで、その中央に夜鷹が下を向いたポーズで佇んでいる。
いつもの黒い練習着ではなく、黒を基調にところどころ星空のようにきらめくストーンがつけられた、シンプルだけれども美しい衣装を着ていた。
軽やかな曲調のピアノが聞こえる。司はその曲に聞き覚えがあった。海の上で生涯を過ごしたピアニストの一生を描いた映画で、彼がある女性に恋したときに、その愛を奏でられた美しい曲。
音もなく滑り始めた純が、曲と同じく軽やかに、自由にリンクを駆け巡る。そうして一つ目のジャンプ――4回転サルコウ、難なく着氷。そのまま美しくスパイラルを描くと一瞬立ち止まる。そうして、こちらをふいに見た後、はっとしたような顔をして、それからまた静かにブレードが氷の上を辿る。
「……」
声もなく、魅入られるように画面の純を食い入るように司は見つめる。
甘やかに変わった曲調に合わせて、ゆったりと、陶然としたようにしなやかな体が動き、愛の喜びを訴えるかのように指先まで美しく踊る。
そこから盛り上がる曲調に合わせて、2度目のジャンプ。3回転アクセルと4回転トーループの連続ジャンプ…高難度のそれを難なく着氷し、そのままフライングキャメルスピン。殆ど成功した人がいなかったはずなのに、純が滑るとまるで当たり前だと感じさせる。その後もう一度足替えのシットスピンを挟んで、今度はステップシークエンスへ。まるでお手本のような足運びに加えて、愛を訴えるかのような全身の動きに、衣装につけられたストーンが星の瞬きのように煌めいて、そのあまりの美しさに司は人知れず涙を零す。
その途中、定位置に置かれたと思しきカメラに近づくと、切なく、そして熱のこもった視線をこちらに向けてこられて、まるで直接純に愛を囁かれているような気持ちになってしまう。
また静かになった音楽の中で彼の代名詞である4回転ルッツを軽々飛んで――着氷音がリンクに響く。レイバックからビールマンへ、柔らかさすら感じるスピンを回って、最後、静かに終わる曲に合わせて今度は司に向けて手を伸ばして――3分ほどの短い演技が終わった。
「……………………っ、ぐす…」
もうこらえきれない涙がいくつもいくつも溢れてくる。
競技では見たことのない、愛にあふれた純の演技を前に、もうどうしていいのかわからない。しかもその愛は自分に向けられているのだ。
「また泣いてるの」
そんな司を仕方のない子だな、と言わんばかりに腰に手を回し、純が自分の方へと引き寄せた。
「だっ…てこんなの、泣くしか…っ」
宥めるように司の目尻にキスを落としながら純が優しく囁く。
「君への愛、伝わった?」
それにこくこくと頷きながら、司ははあ、と息をついた。
「は、い……俺、まさかこんな…自分の誕生日をこんなに祝われるなんて思ってもいなくて」
「うん」
「実家にいた頃は4人も兄弟がいたし、余裕がなかったのでそういうイベント事とか…祝う、とかもなくて」
司の実家には金銭的な余裕がなく、親も仕事で不在がちだったのもあり、誕生日を祝うということが殆どなく司もそれが当たり前だと思っていたので、誕生日が特別な日という感覚がなかった。
「……まあ、僕もそういうのはなかったかな」
「大人になってからは、尚更誕生日なんて言う必要もなかったから、そのうち自分でも忘れちゃうくらいになって…だから、俺の誕生日なんて別に祝う必要もないことかなって思ってて…加護さんの家にいたときは羊さんと2人でお祝いしてくれましたけど、やっぱりどこかでそんな気持ちが薄れなくて…でも、今日クラブのみんなやいのりさんがお祝いしてくれたのが思った以上に嬉しかったんです」
それでつい泣いてしまったと零す司の頬に、額にと純は何度もキスを落とす。
「僕の誕生日は盛大に祝ってくれたのに?」
「あなたの誕生日は国民の祝日にすべきですから…あなたが生まれてきてくれたから、俺はスケートに出会うことが出来たんです。だから、俺にとってあなたの誕生日は大切なものなんです」
純の方を振り向いてそういい募る司に、彼がふ、と息をついた。
「君の誕生日だって僕にとっては大事だよ…君が生まれてきたから僕と出会うことができた」
「……」
涙に濡れる頬に両手を添えてじっと目を合わせて、月のような金色の瞳が司の涙に潤む目を捕らえる。
「人を愛することを僕に教えたのは君だよ、司。そんな大切な人が生まれた日が僕にとってどれだけ大事なことか、それだけはわかって」
「……っ、じゅん、さ…っ」
真摯な純の言葉に――彼は口数が少ないけれど、その分その言葉には嘘がないことを司はよく知っている――唇を戦慄かせながらコクコクと頷いた。
「ねえ、愛してるよ司」
「おれ、も…おれも愛してます…純さん」
「…うん」
とめどなく溢れる熱い涙を零したままの司の唇に、純のそれがそっと重なる。司よりも冷たくてでも何よりも心地よい体温が唇を通して移ってくることがとても気持ちよかった。
*********
「…そういえば」
「?どうしました?」
しばらく何度も唇を重ねたあと、司が落ち着いた頃合を見計らったのか純がふと声をもらす。
「このあと実際に滑ってるところを見せようと思って、リンク貸し切ってるんだけど」
君、見たいでしょ?と言われて、それまでのうっとりとした空気を吹き飛ばすくらいに勢いよく起き上がると、こくこくと高速で頷き返す。
「本当ですか」
「疲れてるなら別に後日でもいいけど」
気遣うようにそう言われたが、司はもうそれどころではなくなった。
夜鷹純が!あの夜鷹純が俺のためだけに滑ってくれた新しいスケートを!映像越しでも最高だったあのスケートを生で見せてくれるなんて、そんな千載一遇のチャンスを逃すなんて絶対にできない。
「いっ、行きます!俺元気しかありません!今すぐ行きましょうほら!早く!」
「………っふ、」
慌てて立ち上がり、今何時なのかと壁掛けの時計を見て確認する司に純は薄く笑みをもらした。
「時間!時間何時から抑えてるんですか?まだ間に合いますか…」
「間に合うよ、じゃあ行こうか」
「――はい!」
すぐに出かける準備をします!と荷物を取りにいこうとする司の腕を掴むと、純がぐいっと引っ張る。
わっ!と声を上げて純の胸元に倒れこむ司を難なく受け止めると、その耳元で純がそっと囁く。
「それから――帰ってきたらベッドで沢山、甘やかしてあげるから」
「……っ」
「司が喜ぶこと、全部してあげる」
「…………は、はい…」
顔を真っ赤にして頷く司に、純はもう一度笑みをこぼしてぎゅっと司を深く抱き寄せると、口を開く。
「誕生日、おめでとう司」
Happy Birthday2025.9.4