待ち続ける夢の話雪が降っていた。
昼でも白んでいる雲深不知処で、藍忘機は扉が開くのを待っていた。
外気は寒く、吐く息は白い。鼻の頭が赤く染まり、冷たく乾燥した空気が藍忘機を刺すように包み込み、瞳が潤んでいく。
手の甲にふわりと雪が降る。体温で溶けていくその結晶を眼差しながら、藍忘機はただ、求めるあの人が扉を開けてくれるのを待っていた。
叔父から「もう竜胆の離れには行かなくていい」と告げられたのは、今から半年は前だった。隣に立った兄が叔父の言葉を聞いて息を呑んだから、何かよくないことが起こっているのだけは分かった。
行かなくていい、待たなくていいと何度言われても、藍忘機はこうして扉の前に座って、母を待つ。
手が悴んで、血の色に染まっていく。足を折りたたんで座っているからか、指の感覚がなくなってきている。
冷たくて、冷たくて、息が苦しいのに、どうしてか頭だけは妙に冴えていた。
息を吐き出すと、視界が白く染まる。震える手をぎゅっと握りしめると、寒さから景色が滲んだ。
ぽつりと、手の甲に滴が落ちる。熱くなった目の縁に、必死に気がつかぬふりをして、藍忘機は奥歯を噛み締めた。
「何してるんだ、こんなところで」
突然、知らない男の声が聞こえた。
藍忘機は弾かれたように顔を上げて、今にもこぼれ落ちそうだった涙がこぼれないように、キッとその人を睨み付けた。
「寒いだろう。もう部屋の中に入ろう」
見たことがない人だ。背丈は低くないが、体の線が細い。雲深不知処では珍しく黒い衣を着ている。
藍忘機は男を観察して、それでも何も言葉を返さずにいると、男はひょいひょいと近くに寄ってきて、藍忘機の隣に屈み込んだ。
「藍の二の若様」
「……」
「ああ、もう。こんなに手も震えちゃって。お前は本当に強情なんだから」
初対面なのに、知ったような口を聞かないで欲しい。男が自分に手を伸ばすのを、藍忘機は信じられない気持ちで睨む。人に触れられるのは苦手だ。それでもなぜか彼の手を拒むことは出来なくて、藍忘機は微動だにせず黙り込んだ。
彼の手が藍忘機の拳に重なって、やさしく包み込まれる。
彼のその手が少し冷たくなっているのを感じて、藍忘機は思わず口を吐いた。
「あなたこそ、風邪を引く」
「俺?」
「早く、部屋の中に入るべきだ」
彼はきょとんと首を傾げて、藍忘機をまじまじと見返した。彼の見透かすような視線がどうにも居心地悪くて、藍忘機は唇を噛む。
「お前がここにいるなら、俺も一緒に待つよ」
「なぜ」
「一人じゃ寂しいだろ」
彼はそう微笑んで、藍忘機に近づいてきた。
「それにほら、二人で身体を寄せ合うと暖かい」
「……」
「ん? どうした? 後ろから抱きしめてやろうか?」
くすくすと笑いながら問われて、藍忘機はまた黙り込む。こんなに話しかけられるのは、母以外では初めてだった。彼の態度は、少し母に似ている。
藍忘機は俯いて、手の指先を握り込んだ。母のことを思い出すと、母に会いたいという気持ちが強くなる。
ツンと鼻が痛くなって息を止めた藍忘機を、魏無羨も今度は尋ねることなく抱きしめた。
自分より幾分も大きい体に抱きしめられて、頭を撫でられる。子供をあやすようにゆっくりと撫でられて、藍忘機は堪えきれなくなってぽろぽろと涙をこぼし始めた。
ヒッヒッと引き攣ったように息を吸い、肩口で泣き続ける小さな子供を、彼は何も言わずに抱きしめていた。
一盞茶ほどの時が過ぎただろうか。
泣き疲れて落ち着いてきた藍忘機は、ようやく自分を抱きしめている男のことを考えられるようになった。
彼の体は、もう随分と冷えているのが分かる。
何刻も待っている藍忘機の体温も下がり切っているのに、彼の体温はそれと同じくらい低かった。
「駄目だ」
深く考える間もなく、声が落ちた。
「何が駄目なんだ?」
藍忘機が唐突に声を出して、彼は少し驚いたようだった。
「風邪を引く」
「それはお前の方だろ。俺は大人なんだからそう簡単には……」
「駄目だ」
意固地になった藍忘機を見つめて、男は急にどうしたのかと顔を覗き込んだ。
「さっき言っただろ。お前が戻るまで、俺も戻らない」
「……」
「お前を、寒い場所に一人にはしておけないからな」
藍忘機は押し黙った。ぐぐぐと眉間に皺がよるのを指で揉み解されて、藍忘機はゆっくり口を開く。
「魏嬰」
自分で名を呼んだのに、その実、自分の方が驚いてしまった。
目の前にいる男も、藍忘機は名を呼んだことに驚いたらしい。目を見開いて固まっている。
だけど一度名を呼んでしまえば、全てが腑に落ちた。彼を強く拒めなかったのも、彼に触れられるのがいやではなかったのも。彼が風邪を引くのが何よりも耐えられなかったのも。全部。
藍忘機は魏無羨の首の後ろに短い腕を回して、自分から抱きついた。
「藍湛!?」と声を上げる魏無羨の首元に顔を埋めて、静かにささやく。
「魏嬰、ありがとう」
夢はそれまでだった。
藍忘機が静室で目を覚ました時、道侶は横で目を瞑っていた。
その安らかな顔を見つめていると、魏無羨の睫毛がふるふると震え始め、ぱっと目が開いた。
魏無羨はぱちぱちと瞬くと、緩慢に藍忘機を見遣る。
「お前、気づいたんだな」
「うん」
「夢の中の藍湛はあんなに小さかったから、流石に俺のことは分からないだろと思ってたのに。さすが俺の道侶様だ!」
魏無羨はガバッと飛び起きて、藍忘機に抱きついた。夢の中よりも逞しい腕が魏無羨を受け止めるのが嬉しそうに、魏無羨は頰を緩ませる。
藍忘機がただひたと魏無羨を見つめていると、魏無羨は小さく笑い声を上げた。
「なんでって顔してる。お前が魘されてたから、どんな夢を見てるのか気になったんだ」
「……危険だ」
「もし危険な夢なら、それこそお前一人にしておけないだろ」
魏無羨は藍忘機の体に手と足を巻きついて、ずいずいと擦り寄った。
「藍湛、一人は寂しいんだ」
向けられた瞳は、真剣な色味を帯びていた。夢の中でも聞いたその言葉に、藍忘機は何も言い返せずにこくんと頷く。
「……うん」
「だろ? でももうお前には俺がいる。俺にもお前がいる。だから一人で寂しいのはなしだ!」
魏無羨は藍忘機に詰め寄って、そう断言した。藍忘機は目元をわずかに緩ませて、もう一度首肯を返す。
魏無羨は、藍忘機の子供の頃の寂しさまで掬いにきてくれた。誰にも触れさせず、誰にも救えなかった寂しさを、こうしていとも簡単に。
藍忘機は魏無羨をきつく抱きしめ返すと、魏無羨は楽しそうに声を上げて笑った。
まだ朝早い静室の中には、二人のじゃれ合う細やかな声と香炉の香りだけが漂っていた。