僕に海は似合わない最初に出会ったのは浜辺だった。
まぁ浜辺って言っても、バーの中だったけれど。
のちに教官だと分かったおじさんを砂浜に放り出した後に、彼はそのままビールを掴んで店の裏手の方に出て行ったのを僕は目で追ったのを覚えている。
騒がしい店内から眺める店の外で、ビールを口に含みながら潮風に吹かれて金色の短く切り揃えて整えられた髪が少しだけ揺れる様子は、誰がどう見ても絵になっていたし、皆口を揃えてこう言うだろう。
「彼は海が似合うね」と。
本人がそれをどう受け取るかは僕には分からない。彼はパイロットだから。
もしかしたら「空が似合うね」と言われた方が断然嬉しいかも知れないが、それでも彼は僕なんかとは違って明るくて、本当に海が似合う男だった。
最初の出会いから2週間。
ビーチでアメフトをやった後に疲れた僕は、浜辺で海を見ながらビールを1人で煽っていた。
普段ビールなんて気分が乗らないと飲まないが、今日はなんだかそんな気分だった。
沈んでいく夕日を見ながら持ってきていた薄めのサングラス越しに目を細めて何をするでもなく、ただ海を見ていた。
しばらくそうしていると、日が落ちきった訳でもないのに目に入る視界が少し暗くなった。
誰かが僕の上に立っているらしい。
気配に気づいた僕は顔をグッと上げる。
そこにはサングラスに上半身を裸のままの格好で鍛え上げられた肉体を見せつける様に、彼が僕を見下ろす様にして立っていた。
「よぉ、アルコールは21歳以下禁止だぜ?あと公共の外で飲むのも。」
ニヤリとした笑顔を見せる彼を下から覗き込む様に僕は見上げる。夕日に照らされてやはり印象的な金髪がキラキラと光っている。
「僕は25歳だし、ここは私有地。」
そう僕が短く返事をすると「そうかよ」とこれまた短い返事をして、彼は許可もしていないのにどかりと僕の隣に座り込んだ。
チラリ、と目線だけで隣を見るとちゃっかり彼の手には結露した冷えたビールが2本も握られている。
なんだ、あんな事僕に言っておきながら最初から飲む気だったんじゃないか。
「ん」
一言、それだけで隣から腕が伸びると目の前にビールが差し出された。てっきり自分の為に2本持って来ていたのかと思っていた僕は、思わず目をパチクリとさせてしまった。
「えっ、と...その...」
「んだよ、1人で飲んでいたからお代わりいるかと思って持って来てやったのに」
もう一つの瓶を口に付けながら「いらねえの?」と眉を上げてビールを引っ込めようとした彼の手に重なる様に僕はいつの間にかそれを手に取っていた。
「ぁ、う、うん。いる...!」
「いるならそんな怖い顔すんなよ、ほら」
ははは、と笑いながら手を離されて渡されたビール瓶は本当に良く冷えていた様で、溢れる結露が直ぐに握り込んだ僕の手を濡らした。
僕は、海が似合う人と話すのはあんまり正直な所、得意ではない。
もちろん、仕事となればそれは別でコミュニケーションが命を左右する事は分かっているから絶対にしっかりと誰と組もうが話す事は
徹底しているけれど、こういう仕事でもない場で何を話せば良いのかは全く分からなかった。
両手に握り込んだビール瓶から結露が滴り、砂にポタポタと落ちる。まるで僕の緊張状態をそのまま表している様だ。
何を話そうか。
話題も出てこないのに目線を彼に向ける訳にもいかず、とりあえず何か話題を作ろうとして今日のフットボールの事でも話そうと思い、スッと息を吐いて「あの、今日のさ...」と僕が一言目を喋り出そうとしたその時、
「シーッ...」
と、彼の方から優しく静止をされた。
どうやら、喋るなという事らしい。
「しばらく、このままで」
それだけ彼は言うと、足を伸ばして浜辺にもたれかかる様なリラックスした姿勢に変える。それから何も言わずに海を見つめてビールを煽り始めた。
てっきり何か小言や今日の試合の嫌味でも言われるかと思っていた僕は、出しかけていた言葉をぜんぶ飲み込んで、隣の彼に目を向けた。
やはり、夕日が当たり綺麗に体や髪の毛に反射して輝いて見える様は悔しいほどに絵になっていた。
反対に僕はどうだろう。
サングラスもあんまり格好良過ぎるのを付けると恥ずかしいから、せめてものいつものグラスの色付きのもの。見せる様な上半身もないから、Tシャツを着込んでいる。
隣にいきなり来られた彼と比較すると余りにも僕は浜辺には不釣り合いな様に見えて、抱え込む様にして座っていた膝を更に抱えて丸まった僕は、少し湧き上がってきたその忸怩たる思いをビールと一緒に流し込んだ。
いつまでそうしていたのだろう。
本当に何も喋る事なくただ海を見つめていた。
日が沈みきって、太陽の光が海の下から出てくるように残りの光が空を照らす様になった頃、ビールを飲み干したらしい隣の彼は、「んん、っ」と声を漏らしてどさりと後ろに倒れ込んだ。
その動きに緊張の糸が解けた僕は、残りの少しぬるくなったビールを一気に飲み干した。
空いた瓶を隣に下ろすと「やるじゃん」と声がかけられる。
そこで僕はやっと潔く海を見ながら思っていた疑問を口にした。
「今更かも知れないけどさ...みんな、ハードデックにいるよ?僕なんかよりあっちに行くべきじゃない?」
「...いや、良いんだよ。実際のところ、俺さ、うるさ過ぎるのは嫌いでね」
思い返せばルースターのピアノで盛り上がる中、確かに彼はその中に居なかったし、その後も僕の視界の外のベランダで飲んでいた。
「みんな、俺をお喋りの鼻高野郎だと思ってる」
彼の顔を照らす夕日はもうとっくに沈んでいるが、残りの日が少しだけサングラスを反射して寝て空を見上げる彼の表情を読みとらせてくれた。
「でも、本当はひとりの時間をとりたいし、なんなら沈黙を共有できる様な人間が羨ましい。正直、うるさいのはジェットエンジンで聞き飽きてるし。」
夕暮れを終えた穏やかな海の音がそうさせるのか、彼の表情は、柔らかなものだった。
「だからさ、あっちの方からお前見てた時すげえなって思って。1人で海眺めて夕陽みてさ、かっこいいって思ったんだよ。」
そう言いながら役目を必要としなくなったサングラスを親指でくい、と頭の上に引き上げながら歯を見せて笑う彼は、僕の印象の中に全く無かったものだったので思わずどきり、と心臓が動いた。
「んーーーっ!今日はマジで疲れたな!」
話題を断ち切る様に彼はそのまま地面でぐぐっと背伸びをすると、背伸びを終えた手を僕の方に差し出してきた。
「えっ、な、何?」
思わず意図が掴めずに、僕は伸ばされた手を凝視する。
「起こしてくれ、日も暮れたしそろそろ行こうぜ」
「じ、自分で立ち上がれるだろ?!」
「立たせてくれよ、良いだろ?」
そう言いながら、な?と再度手を伸ばされると断る訳にも行かず、僕は彼の手を掴むと引き寄せる様にして力を込めた。
「おま、ちょっ!」
「は、っ?!うわっ!!」
慣れないせいか、存外力を込めすぎたらしい。そのまま寝ていた彼の身体がまるで引き寄せられる様にこちらに飛んできて、僕たちはバランスを崩してそのまま砂浜に再度倒れ込む事になってしまった。
頭突きや衝突が無かったのが唯一の救いだろうか。
寝転んだ背中だけでも砂まみれだった彼は、いよいよ上半身から突っ伏したせいで身体の両面に砂がびっしりついている。
まるで揚げられる前の魚だ。
「お、まえ...加減ってのあるだろ!」
「頼んだ君が悪くない?」
「海軍のエリートWSOっての完全に忘れてたよ」
小言を言いながら今度は何を言うでもなく、僕も自然と笑いながら手を伸ばし、お互いの力で体を起こし上げた。
立ち上がってみれば存外彼の身体は僕より細くて、何よりも身長が同じくらいだという事にはた、と気づいた。
「なに?そんなに俺の顔を見て。顔の変な場所に砂でもついてたか?」
そういって彼は手で自分の顔の頬を撫でる様に確かめるが、彼の顔に砂がついているわけでもない。
ただ僕があまりにも近寄り難いと思っていた彼は意外と僕と近い所にいるのかもしれないと思って、顔を改めてまじまじと見てしまっていただけだった。
「いや、砂はついてない。大丈夫。」
「そっか、どっちにしろシャワー浴びるし。まぁ今更大した問題じゃねえかな」
そういうと彼は、背中を向けてビーチから立ち去ろうとビールを持った手を上げて、僕にまたな、と軽く声を掛けた。
僕は何かそのまま彼を返すのはなんだか口惜しい気がして….
「は、ハングマン!」
僕は名前を呼んだ。
「なんだ?ボブ」
向けた背中を振り返って彼も潔く僕の名前を返す。
「君は、誰よりも海が似合ってると...僕、思ってて」
一体何を言っているんだろう。
頭の中でずっと考えていた日の当たるキラキラした彼が隣にいてくれたことに何故か感謝を伝えたかった。
「そんな君と...今日は海を見れてよかった。」
それを絞り出すのが精一杯だった。
あぁ、なんて言葉が返ってくるのだろうか、海が似合ってるなんて変な事を伝えて。
行き場を失った手を少しグッと握り込むと少し先のハングマンから声がかけられた。
「おい、ボブ!俺が言うのもなんだけどな、海を見るお前が1番、海が似合ってたぞ!」
じゃあな!と次こそ笑顔を見せたハングマンは踵を返すとそのままビーチを後にした。
返された言葉にしばらく呆然として、僕は暗くなったビーチでハングマンが消えていくのをその姿が見えなくなるまで追っていた。
海が似合うのは明らかにパイロットで、あんな性格で、人の中心にいて、それでいて自信たっぷりの笑顔を見せる君の様な人間だろ。
それを僕に...いつもの嫌味も無しに...。
忘れないようにそばに転がっている空になったビール瓶をゆっくりと持ち上げると、もう結露はなくなっていて、ツルツルの感触だけが手に重みとして乗っかった。
暗くなった砂浜を踏み締めると、食い込む砂の感触がやけに重く感じられた。
辺りを見渡せば先ほどまで少しだけ明るさが残っていたは暗闇に変わり、1番星が浮び始めている頃だった。
改めて浜辺を出て1人で宿舎に戻る道で再度海を振り返って僕は思わず、思っていた言葉が口に出た。
「やっぱり、僕に海は似合わないよ」
それでもどうしてだろうか。
海の音と彼の台詞ははいつまでも僕の耳から離れようとしなかったし、今日の夕方のひと時を思い返すと、自然と僕の口角は少し上を向いてしまうのだった。