ねこのこ 汗がじわりと滲むのをイサミは黒いキャップ帽を脱いで、額をハンカチで拭った。黒い髪からヒョコリと生えた黒い毛で覆われたねこの耳が二つ、うるさい蝉の鳴き声を拾う。
「イサミ、すまない!」
ガチャッと勢いよくドアが開いて、謝罪と共に上はティーシャツのまま下はスーツのスラックスを履いたスミスが淡いブルーのねこの耳の幼女を抱っこしてイサミを部屋に招き入れた。
小さなルルは未だに寝間着のままスミスにしがみつき、赤い瞳から大粒の涙をこぼして泣きじゃくっている。
「ガーガーピーッ!」
透き通るような水色の長い髪を振り乱し、イヤイヤする小さなルルを、イサミの力強い両手が無情にもスミスから引き剥がして自分の腕の中に抱き寄せた。
「大丈夫だ。ルル、おいで」
泣き止まないルルのベビーシッターとして幾度かこの親子の元を訪れているが、イサミの手腕はいつも鮮やかだ。「ノー!」とルルが拒絶を示すのは最初だけで、イサミの鍛えられた胸に柔らかなほっぺがついてしまえばルルは鼻をすすって泣き声を小さくする。
イサミは目配せして今のうちに支度を済ませろとスミスを急かした。
普段はルルを気遣って在宅ワークが多いスミスだが、ステイツの本社から人が視察に来れば呼び出されることが多い。他にも適任者がいるだろうと嘆きながらも、頼まれると断らないのがスミスの良いところであり悪いところでもある。
「イサミ、助かるよ」
「俺もよく兄貴相手にやったからな」
寂しがり屋なのはねこの子だからというわけではないだろうが、人一倍過敏に反応するため、大好きな家族が出かけてしまう時は今生の別れかと言うほど泣きじゃくった経験がイサミにもあった。
スミスは襟シャツに袖を通して、洗面所に駆け込む。金色の無精髭を剃り落とし、大きな口に歯ブラシを突っ込む。
「今日は特に機嫌が悪いんだ。スペルビアも一緒に行くことになったから」
珍しいこともあるものだ。スペルビアはスミスの所属するチームが設計した機体の一つで、ルル専用の育児ロボである。ルルと共にあることが彼の役割なのに、大人の都合で引き離されるとは。
「お前の会社って、見学できるのか?」
「んー、そうだな。一部は公開されてるよ、ブレイバーンとスペルビアの模型の展示もあるし。学生が社会科見学で見に来たりするけど、大したものはないぜ」
「一緒に行ってもいいか? 飽きたらルルを散歩にでも連れて行く」
「いいのか? イサミだって仕事あるだろ」
「いい。店はヒビキに任せてある」
「ありがとう、本当に助かるよ」
スミスの顔がぱあーっと綻ぶのを見て、イサミも満更ではなく微笑みを浮かべた。彼は腕の中の小さな温もりに顔を向け、優しく尋ねる。
「ルル、スミスの会社に一緒に行くか?」
「いくー!」
さっきまで大泣きしていたのが嘘みたいに、真っ赤な瞳をキラキラ輝かせてルルがバンザイしてみせる。イサミに連れられて寝室に向かい、着替えしようかと床に下ろせば一目散にお気に入りのヒーローのプリント柄のティーシャツを手に取った。
着替えを済ませた賢いルルを抱き上げたイサミが玄関に向かえば、ちょうど支度を終えたスミスが合流した。イサミはルルのラベンダーカラーの水筒を彼から受け取って肩にかける。
二つの大きなアタッシュケースには人形サイズのスペルビアとブレイバーンが入っているのだろう。二体にもなれば相当な重さだが、スミスはそれを感じさせずに持ち上げる。
いざ、出勤だ。
ねこの子なんて、実物を見たのはルルが初めてだった。そもそも親にもなったことがないスミスには子育てなんて右も左もわからない。
育児と仕事に追われて疲れ果てた先に、イサミが現れた。成人したねこの子。街角の花屋を営む青年は、スミスとルルの救世主となった。
「おっきいおじしゃまとぶれいばーん!」
「すごい……、俺より大きいな」
全長約ニメートルいったところか。普段足元を歩いている愛らしいフォルムからはかけ離れた、スーパーロボットらしい長身のスペルビアとブレイバーンが社内のロビーに並び立って出迎えてくれた。
ブレイバーンのハンサムフェイスに埋め込まれたエメラルドグリーンの瞳は真っ直ぐ入り口に向けられている。いつもの小さなボディーからは想像できない凛々しさである。
「プリティークールだろ? 俺としては九メートル欲しいところなんだよな。だからこれらはまだ小さい方だ」
「どんだけ大きいスーパーロボット造るつもりだ。要らないだろ」
「例えば隕石が降って来た場合、地球を防衛するには必要だぜ」
「……でもブレイバーンが、……お前が犠牲になるのは、嫌だ」
イサミはつい心配を漏らすが、スミスは軽快に笑う。
「大丈夫だ。ブレイバーンは硬くて頑丈だからな」
ブレイバーンはスミスの脳波で動くAIを搭載したロボットだ。いつもイサミを気にかけてくれる小さなお手伝いロボット。でも彼は軍事用に開発された特殊合金で造られた兵器でもある。
「ブレイバーンが九メートルになったらイサミのためのコックピットを造ってやるよ。一緒に宇宙に行こうぜ」
「なんだよそれ」
つい照れ臭くて笑ってしまうが、内心は嬉しいことを悟られまいとイサミはスミスから目を逸らしてルルを見下ろす。ブレイバーン――スミスが一緒なら、きっとどこに行くのも怖くはないだろう。
でもルルを置いてはどこにも行けないこともわかっている。今は子育てで手一杯の父親だ。