触れて、開いて、溶け合って しとしとと降る雨垂れの音で、目が覚めた。
「……雨、か」
ゆっくりと、瞼を開ける。不快感も気怠さもない、すっきりとした目覚めだった。天幕越しに見る外は、淡く白んでいるもののまだ少し薄暗い。格子戸も障子も閉め切っているせいか、はっきりとした時間は分からないが、まだ起きるには少し早そうだ。
隣で眠るカグヤを起こさぬよう、慎重に身体を起こす。水気を含んだ空気はしっとりとして、少し肌寒く感じた。幸い、寒がる様子もなく穏やかな寝息を立てている彼女の寝顔は安らかそのもので、安堵する。頬に掛かった髪を払い、布団を肩まで引き上げてやった。昨夜のうちに、夜着を纏わせておいて良かった。素肌のままでは、身体を冷やしていたかもしれない。
何となく二度寝をする気分にはなれず、下ろしていた髪を軽く纏めると、布団の上に座り胡座をかいた。立てた片膝に頬杖をつき、目を閉じて耳を澄ませる。
静かだ、と思う。時間帯のせいもあるのだろうが、聞こえるのは穏やかな雨音と、どこかで鳴いている蛙の声くらいだ。
春の里に時折訪れるこういった雨の日が、スバルは嫌いではなかった。春の雨は優しい。催花雨という言葉もあるが、この地に生きとし生ける全てを慈しみ、祝福しているようで――至らない自分を、赦してくれているようで。
どれくらいそうしていただろう。視界が明るくなってくる頃、傍らで人の身動いだ気配に、意識を引き戻された。
「……う、ん」
「……カグヤ?」
「す、ばる?」
「ごめん、起こした? まだ寝てて大丈夫だよ」
気遣うスバルの声に、カグヤはゆるゆると頭を振った。
「……おきます」
そうは言いながらも動きは緩慢で、褥に臥せたまま、顔だけをこちらに向けられる。しばらく視線を彷徨わせ、眠そうに瞬いていた瞳がスバルを捉え――ふっと綻んだ。
「ふふっ」
「え、何」
「だって、寝癖が」
くすくすと笑う声が、褥に響く。カグヤは起き上がり、いざり寄るようにしながらスバルの方へと手を伸ばした。指先が組紐を掠め、毛先を擽る。
「ここです。はねてる」
「ここ?」
「そうじゃなくて……って、あ」
ぴくりと指先が跳ねる。気付けば吐息が掛かるほどの距離に、カグヤの顔があった。慌てて身を引こうとする彼女の腰に、腕を回して引き寄せる。小さな悲鳴を上げスバルの膝に収まった彼女は、抵抗を見せたものの、力で敵うはずもなく。やがてしおしおと大人しくなると、途方に暮れたような表情でスバルを仰いだ。
「あの……」
「うん?」
「重くないですか?」
「全然」
「えぇ……」
にこりと笑って答えると、彼女はますます困り顔となった。落ち着かない様子で左右に視線を巡らせている顔を引き寄せ、後頭部へ手を添える。
「スバル」
「どうしたの」
「……その、ええと、これは」
「大丈夫。おはようには、まだ早いよ」
「ん、う」
触れて、開いて、溶け合って。雨の音が、遠くなる。話を断ち切るように多少強引に重ねたそれが、密か事へと発展するまでに、さほど時間は要さなかった。
最初こそ戸惑いを見せていたものの、カグヤは存外すんなりとスバルの口付けを受け入れた。次第に深くなるそれにも、逃げようとするどころか素直に応えてくれることに少し驚く。軽い児戯のようなものならまだしも、色を帯びたそれは、褥でも未だに恥じらうことがあるというのに。薄目でちらと彼女を見る。もしかして、昨夜の熱がまだ、肚の内で熾火のように燻っているのだろうか。スバルと同じように。まさか、そんな。
まだ息継ぎの拙い彼女が眉を顰め始めたのに気付いて、一度唇を解放する。唇を濡らしたまま、ほうと息を吐いたカグヤは、そのままスバルの肩に額を乗せ、顔を伏せた。弾む呼吸に、彼女の薄い肩が上下に揺れているのが分かる。髪の隙間から覗く首筋は、羞恥かそれとも別の理由からか、薄紅色に上気していた。
「……カグヤ」
名を呼べば、ゆるりと面が上げられる。潤んだ瞳が、物言いたげにじいっとスバルを見つめた。普段の清純な姿からは想像もつかない、凄艶な様に思わず喉が鳴る。昼間には及ぶべくもないが、夜も明け仄々と明るくなってきている今なら、カグヤの色付く肌も表情もよく見える。乱れた袷から覗く、赤黒い執着の痕跡も。きっと、この調子だと彼女は気付いてはいないだろうが。
夫婦の契りを交わして、半年ほど。褥を共にした数は両手の指を優に超えたが、空は曇に覆われているといえど、こんなにも明るい中で彼女を抱くのは、おそらく初めてのことだった。だからだろうか。ふと、悪戯心が湧く。もっと、まだ自分も知らないような、新しい貌が見てみたいと。
「ねえ、カグヤ。手、出して」
顔を寄せ、耳元で囁く。先程までの行為の余韻か、どこかぽやぽやとしている彼女は、疑問を抱く様子もなく、素直にスバルの指示に従った。差し出されたふたつの手を掴み、スバルの耳へと当てさせる。
「スバル……?」
「離さないでね」
そう言えば、従順にこくりと頷く姿に苦笑が滲んだ。無防備な信頼が嬉しくもあり、心配でもあり。そんなにもオレを信じていいのだろうか。これから何をしようとしているのかも知らないくせに。
自分も同じように彼女の顔を両側から手で挟み、耳を塞ぐ。きょとんとした顔でスバルを見上げる彼女に薄く笑みを返して――予告無しにそのままその唇を奪った。抵抗する間も与えずに、口内に侵入し、戸惑う舌を絡め取る。
その瞬間、驚いたように目を見開く彼女を薄目で確認し、ほくそ笑んだ。
耳を塞ぎ、外の世界の音を遮断すれば、自分の音だけが鮮明に聞こえるようになる。たとえば、そう。口付けをすれば、ふたりが舌を絡め合う水音や、熱っぽい吐息はもちろん、自ら上げた甘ったるい声だって、全部。逃げることは許されない。眼前に突きつけられ、これでもかと思い知らされるのだ。自分たちは今“そういうこと”をしている、と。
馴染ませるように舌先を擦り、歯列をなぞり、上顎の硬い部分を擽る。逃げれば捕まえ、追われれば逆に絡め取って。その動きが大胆になるにつれ、響く水音の大きさは増していった。
ふとした悪戯心から始めた行為ではあったが、いざやってみるとその効果は絶大で、自分まで追い詰められているのだから笑えない。感じ入る自らの声と粘着質な音が脳を揺さぶり、頭蓋に響き、じりじりと理性を蝕んでいく。誰もいないふたりきりの空間、向かい合い、互いの耳を塞いで交わされるそれは、酷く倒錯的な行為だった。
不思議なものだと思う。どう考えたって本来の用途じゃない、粘膜を絡め擦り合わせるだけの行為が、こんなにも気持ち良いなんて。口付けに、限ったことではないけれど。
それはカグヤも同じことだったのかもしれない。無意識だったのか、それとも意図的なものだったのか。息継ぎの間、一瞬離れた唇を追いかけて、彼女はスバルの舌先を甘く噛んだ。まるで、物足りないとでもいうように。
「……っ、ははっ」
可笑しくもないのに、笑いが零れた。ああ。くらくらする。この音に、熱に、溺れそうだ。
「……悪い子」
「あ……まって、まっ……!」
カグヤにはそのつもりはなかったのかもしれないが、これは仕方ないだろう。キミのせいだよと脳内で身勝手な責任転嫁をしながら、静止の声ごと奪い取り、飲み下していく。いつしか滑り落ちていた彼女の両の手が、何度か力無くスバルの胸を叩いた。それでも、止まれない。
「――っ」
そして、絡み合う舌を強く吸った次の瞬間、スバルの膝の上で、嫋やかな肢体が一際大きく跳ねた。声にならない悲鳴を上げ、背をしならせながら全身を震わせる様に、言葉にならない何かが満たされていく。覆っていた両耳を解放し、制御を失ったカグヤの後頭部と背を支えながら、スバルはうっそりと笑った。
彼女の震えが落ち着くのを待って、唇を離す。濡れた音の後、もうどちらのものとも知れない唾液が糸を引き、ぷつりと切れた。赤く熟れた花唇を指で拭ってやると、気怠げに身動ぎをする気配を感じる。薄らと目を開けたカグヤは、スバルを見ると拗ねたように唇を尖らせた。
「……いじわる、です」
「お互い様じゃない?」
「え?」
「……何でもないよ。ふふ、ごめん」
「もう」
まだ整わず喘ぐような呼吸の中、瞬きをした彼女の双眸から、涙が一筋頬を伝う。まろい曲線を滑り落ちていくそれすら惜しく感じられて、軌跡に逆らうように舌を伸ばし舐め取った。擽ったそうに身を捩って逃れようとする彼女を追いかけて褥へ押し倒し、その上へ圧し掛かる。しどけなく開かれた膝の間に身体を差し入れれば、迎え入れるかのように脚の力が抜けたのが分かった。
「……解いて」
「……ん」
頭を差し出して促せば、カグヤは手を伸ばしてスバルの髪紐の端を引いた。緩く結いていただけの髪は、容易く解放され自由の身となる。そのまま床に放られた髪紐を横目に、彼女の手を捕え褥に縫い止めた。
はらり、ひらり。
組み敷いた彼女を取り囲むように一筋、また一筋と褥へ落ちていくスバルの髪が、彼女に影を落としていく。
――まるで、檻みたいだな。
ふとそんな考えが浮かんで、その浅ましさに苦笑した。悪い癖だ。カグヤはスバルとの将来を誓ってくれた。自分の幸せは、いつだってスバルの側にあるのだと言ってくれた。今度こそ離れることなく、一緒にいようと。
その舞のように軽やかで、自由な彼女を愛している。アズマの地を踏みしめ、自ら道を切り開き生きる美しい姿を、損ないたくないと思う。けれど、愛する人が神や多くの人に愛され求められるのを見ていれば、悋気を起こさないというのも難しく。
「スバル」
不意に、カグヤの右手が動きを止めたスバルの頬に触れた。そのまま輪郭を滑り、包み込むようにそっと掌が添えられる。その温もりに力が抜けほうと息を吐くと、彼女は真っ直ぐにスバルを見上げたまま、悪戯っぽい表情を浮かべて声を潜め、囁いた。
「こうしてると、世界に、私とスバルだけみたいですね」
独り占めしているみたい。スバルの腕の中、うっとりと瞳を細めた彼女があまりにも、無垢で、幸福そうで。
「……っ」
こみ上げる何かに、胸が詰まる。そうやっていつもキミは、オレをすくい上げて。
「……うん」
オレもだよ。答える声が、誤魔化しきれない熱に上擦った。確かな意思を持った手が、乱した彼女の夜着に侵入し、柔らかな肌に食い込んでいく。
「いい?」
その問いに答えはなかった。その代わりに彼女の内腿がすり、と間に挟んだスバルの腰を撫でる。それが、答えだった。
カグヤの腕がスバルの首裏に回るのと、スバルが彼女の腰紐を奪い去るのは、どちらが早かっただろう。優しい雨音の響く中、またひとつ、衣擦れの音とともにふたりの褥に大きな波が刻まれる。
「寝坊したら、どうしましょう?」
交わされる口付けの合間、熱と期待に揺れる瞳で、どこかちぐはぐな事を言う彼女が可笑しくて、堪らなく可愛い。
「……そうだな」
繋がれた手を握りながら、もう一度軽く唇を啄む。そのまま肌を伝い、彼女の首筋へと顔を埋めた。甘い肌の匂いに誘われるように吸い付き、ひとつ痕を残す。
「……その時は、一緒にモコロンに怒られようか」
半ば溶けた思考で導き出されたのは、答えにもならない答え。たまには、そんな日があったって、いいよ。もっとらしくそう言って笑った自分は、きっと。ひどく飢えた男の顔をしていた。