「アイク、アイク」
ヴォックスの切ない声が静寂を破る。麗らかな春の陽気が差し込む午後には到底相応しくないその声に、答える者はいなかった。部屋にはヴォックスの深い呼吸音と、なにかを綴る万年筆の音だけが静かに響いている。
返答のないそれに痺れを切らしたのか、ヴォックスがもう一度声を上げた。
「アイク……」
「…はぁ、“Shush”、ヴォックス。僕がいいって言うまで反省する約束だったでしょ?」
「う…そう、だが…しかし……」
口を噤み俯いたヴォックスは「それにしても長すぎる」という言葉を必死に飲み込んだ。
ヴォックスとアイクはDomとSubとして、パートナー関係にある。
ヴォックス元来Domである。その圧倒的なDom性でどれだけの女性を鳴かせて、あるいは泣かせてきたか、ヴォックス自身にも分からない。しかしこの時代で、大切な仲間の一人であり恋い慕うアイクが同じくDomであると知り、ヴォックスはあっさりとそのDom性を手放すことにしたのだった。紆余曲折あってアイクと番になることができた今、それは英断だったと自負している。
しかし、今この瞬間、ヴォックスは初めてそのことを少し後悔していた。
「ねえ、ヴォックス。僕との約束を守らなかったのは誰?」
「っ…私、だ。私が悪かったさ、アイク…」
「うん、そうだね。じゃあちゃんと反省できるよね?」
「あぁ、勿論。反省しているよ、愛しいアイク…本当にすまない。だから…」
「もう一度言うよ、ヴォックス…“Corner”」
「っぁ、ぅ……」
コマンドを認識したヴォックスにずしりと見えない重圧がかかる。信頼するパートナーからのコマンドは時に重く、苦しい。ひゅ、と気道が締まるような感覚にヴォックスは意識的に深い呼吸を心掛けた。
そう、今まさにヴォックスは“お仕置き”の真っ最中なのであった。
事の発端は、ヴォックスによる失言だった。
ヴォックスとアイクがただのパートナーではなく、情欲を伴う恋人同士だということは周知の事実である。
アイク自身隠しておきたいわけではない(正確には隠し通せるわけがない)と思っていたので、そのことに関しては何も言わない。しかし、アイクはプレイ内容、主に夜の事情についてほかのメンバーに知られることを殊更に嫌った。
そう、ヴォックスとアイクは約束していた。プレイ内容は2人だけの秘密であると。ヴォックスもそれを良しとして、アイクの意思を尊重していた。
しかし昨晩、アルコールで酩酊した彼は一言、口を滑らせてしまったのだ。
2人きりの夜でのアイクは、それはもう愛らしい、と。
整然と並べられた書籍の背中を視線だけでなぞる。目が滑って内容は全く入ってこないが、そうして気を紛らわすことができるのは今のヴォックスにとって唯一の救いであった。
たった一言、されど一言。ヴォックスの失言を見逃さなかったアイクによって問い詰められ、“Corner”を命じられてから一時間。彼が望むならいくらでも、と二つ返事で背中を向けたヴォックスだったが、流石にここまで放置されるとは思っていなかった。彼の息吹が聞こえるくらい近くにいるにも関わらず、愛しい彼を視界に入れられないことが、こんなにも苦しい。床に直接触れた膝がじりじりと痛む。はやくその顔が見たい。手を取ってキスをして、あたたかい体温に包まれたい。
アイクのDom性にチューニングされたヴォックスのSub性は、一通りのプレイに人並み以上の耐性がある。アイクのすべてを受け入れるためのそれは、ヴォックスの愛の深さの現れだった。つまり今試されているのは、己自身の愛なのだ。そう自分に言い聞かせたヴォックスは、セーフワードを紡ぎかけた唇をきゅ、と噛んだ。アイクは優秀な己だけのDomだ。加減を間違えるはずがない。アイクが期待してくれているのだから、自分はそれに応えるまで。
それでもぎりぎりのところで保たれた理性は、ぐらぐらと揺れて瞳に膜を張った。かひゅ、と引き攣った呼吸音が響いたその時、背後でアイクが動く気配がした。
「ヴォックス、ヴォックス」
「っぁ、アイ、ク……」
「ヴォックス、反省した?」
慈愛の滲むその声に、つい耐えきれずに一筋の涙が頬を伝う。
「すまな、い…アイク。反省したよ。もう、同じ過ちは…っぅ、くりかえ、さないから…」
「うん。分かった。“Come”、ヴォックス」
待ち望んだコマンドに弾けるように反応する。振り返りざまに足がもつれて、咄嗟に床に手を突いた。そのまま這うようにしてアイクの側に寄ったヴォックスは、当たり前のようにKneelの姿勢をとって、アイクの膝にそっと顎を添えた。今のヴォックスには誰もが羨むTOPの気風も、視線が絡んだだけで気圧されてしまう佇まいもない。自分にしか見せない無防備なその姿にふわりと微笑んだアイクの暖かい手のひらが、そっと頭にのせられる。
「ふふ、いい子。」
慈しむように頭を撫でられて、ヴォックスは溢れる唾液をこくりと飲み込んだ。まだだ、まだ一番欲しいものを貰っていない。
「アイク、アイク……っ」
「まあ、そう焦らないで。ふふ…いい子いい子。たくさん我慢できて偉かったね…ヴォックス、“Good boy”」
「ぅあ、♡は、…ぁ……っ♡」
「僕のヴォックス…君は本当にいい子だよ。僕のためにこんなに頑張ってくれるなんて、嬉しいな」
「あぁ…っもちろん、君が望むなら…♡」
我慢の末に与えられた甘美なRewardを、ヴォックスは目を細め噛みしめるように享受した。身体の芯からじんわりと湧き出る幸福と熱に溶かされて、脳がふわふわの綿菓子になってしまったかのような錯覚に陥る。ヴォックスの身体から力が抜けて、くんにゃりとアイクの膝にもたれかかった。
「あぁ、ヴォックス…もうSub spaceに入っちゃったの?」
「ぁ、ぅ…あいく、あいく……♡」
「ふふ、可愛い。素直でとってもいい子。ね、おいで。いい子のヴォックスはたくさん甘やかしてあげないと」
いい子、の言葉にぴくりと反応したヴォックスの金色がとろりと溶ける。アイクは単純で可愛い恋人を味わうように、その唇にそっとキスを落とした。