ホットケーキの日(1/25) ふわりと鼻をくすぐる甘い匂いに重たい瞼を上げる。
いつものように日付が変わってから帰ってきて、睡眠というにはおこがましいほどの短い休息で日頃の疲れが取れるはずもなく。時計を見れば朝の六時。頑張ればあと数分はまごつける時間。
だけども何だか良い匂いがするから。
疲労の残るまぶたを擦りながら自室を出る。素足の裏から廊下の冷たさがよじ登ってくるが、目的地はすぐそこだ。少し歩いた目の前のドアを開けると。
「しあわせのにおいがする……」
ぐんと強くなった、あまくてやさしい、そしてどこか懐かしい匂いに独歩の眠たげな目尻がふにゃりと下がる。
「おはよ、独歩ちん」
カーテン越しの窓の外はまだ薄暗いのに、まるでここだけ先に日の出が訪れたような、眩くて柔らかな金色が独歩を迎えた。
「おはよう……」
「おっはよーっす! ……んっひひ、ちょー眠そう。もしかして匂いにつられて起きてきたん?」
「ぅ……」
図星を突かれて気恥ずかしくなるが、一二三の楽しそうな表情を見て大人しくテーブルに着く。
「お目覚めどぽぽんは蜂蜜とメープルどっちがいい?」
キッチンカウンター越しの問いに独歩はしばし悩む。蜂蜜の濃厚な甘さも、メープルシロップの独特な風味も好きだ。フライパンを揺する音。ぽふん、ジジ、とかすかに聞こえる、フライパンの中のものが踊る音にちらりと目線を向けて「……蜂蜜がいいな」と答えた。
「りょーかい! ……ほい、焼き立てホットケーキいっちょ上がり~っと」
「わぁ……!」
カウンターに置かれた白い皿。そこにででんと二段積まれたきつね色。てっぺんにはじんわり溶け始めたバターと放射状に流れるとろりとした黄金色の蜂蜜。
オシャレな雑誌に載っているような、クリームが似合うふわふわしゅわしゅわなのでも、ベーコンや目玉焼きが似合う薄くてもちもちのでもない。小さい頃よくおやつに焼いてもらった、素朴で慣れ親しんだ姿のホットケーキだ。
「お先にどーぞ」
コーヒーを手渡しながら一二三が笑う。
「じゃあ、お言葉に甘えて……、いただきます」
既にセッティングされていたナイフとフォークを取って、いそいそと手を動かす。蜂蜜でしっとり潤う、記憶にある母のホットケーキよりも幾分ふっくらと厚みのあるそれにナイフがすうっと沈んでいく。一口大、よりも少し欲張り気味なサイズに切ってしまうのは独歩の昔からのクセだ。大きく口を開けてほかほかでふかふかの生地を咀嚼すれば、蜂蜜のこっくりした甘みとバターのほのかな塩味がじゅんわりと広がった。
「おいしぃ……。朝からこんな幸せでいいんだろうか……」
目尻を下げもきゅもきゅとリスのように頬を膨らませる独歩を見る一二三の表情は、まるでホットケーキにかけられた蜂蜜のように甘くとろけている。食べるのに夢中な独歩は、そんな一二三には全く気が付いていないけれど。
二段重ねのホットケーキをゆっくりと、けれどものの数分でぺろりと食べきって一二三の淹れたコーヒーを堪能する。適度な糖分とカフェインは独歩の脳を心地よく目覚めさせた。
「はあ、ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした~。皿、俺っちが片付けとくから置いといていーよ」
「すまん、助かる」
「どいたま〜! あ。これ弁当と早弁用のおにぎりな」
「早弁って。学生じゃあるまいし」
自分のホットケーキとランチバッグをテーブルに置いて席に着いた一二三に口を尖らせるが、一二三はあっけらかんと笑うばかり。
「だってホットケーキだけじゃ独歩ちんには足りねーっしょ」
「否定出来ないのが悔しい」
「ひひっ。メープルの方一口やるからさっさと着替えてきな」
「うわ、もうこんな時間……ぅむっ」
押し込まれたふわふわを思わず噛み締めると、じゅわ、とメープルシロップのさらりとした甘みが独歩の口いっぱいに広がった。途端にほころぶ表情に一二三がまた笑う。
――幸せな朝の始まり。ああ、今日も頑張れそうだ。
*
慌ただしく出ていった独歩を見送り、少し冷めたホットケーキを頬張りながら、一二三は思う。
――独歩は覚えているだろうか。
一二三が家から出られずにいた頃に、独歩が焼いてくれたホットケーキ。両面真っ黒なのに中はほんのり生焼けだったりボソボソだったり、お世辞にも美味しいとは言えないそれを誤魔化すように馬鹿みたいな量の蜂蜜をかけて。
……その甘さが、あたたかさが。何より、ほんの僅かに気遣いを潜ませた“いつも通り”をくれた独歩の優しさが。あの頃の一二三にとって、どれほどの救いであったのか。きっと独歩は知らないし、だからといってわざわざ伝える予定もない。
一二三だけの特別な“いつも通り”のレシピは、まだ宝箱にしまっておきたいのだ。
今日はホットケーキの日。一年でもっとも寒い時期に、心も体も温まってほしいという願いが込められた日。