さびしい恋のその先で番外編/いつかの未来【深夜のからあげ】【深夜のからあげ】
はぁ、と息を落として自室を出た。ペタペタと廊下を歩き、階段を降りていくと人感センサーが働いて廊下を照らした先、リピングの明かりが煌々とその先を導いてくれる。
「おう」
いつものなんともない全ての挨拶代わりになるそれを口にして、ソファにいた尾形はこちらを見上げた。
テレビは海外のニュース番組、しかも英語だ。この時間帯だと、だいたい尾形はこういうのを見ている。字幕で日本語は出ているが、こうして見ると英語の勉強だけでなく、外国の生の事情を知ることができると言っていた。なんだかんだで勉強熱心なんだよなあ。
「腹減った…」
ひとこと告げただけで、
「何が食いたい?」
と、希望を聞いてくれる。
「からあげ」
夜の十時前にするオーダーじゃない。キッチンもすっかりきれいに片付けられているし、晩御飯は八時にはちゃんと済ませた。
まあ別に、本当はからあげでなくてもいいのだけれど。
「ん、わかった」
尾形はさらっと言って腰を上げた。冷凍からあげでも買ってるのかな。チンしてくれるのだろう。さすがに俺もそのくらいできるけど、尾形はやってくれるんだよなぁ。それに甘えてしまう俺のことがどうやら嫌いではなさそう……なところも含め、尾形は今でも俺にべらぼうに甘い。もうお迎えも抱っこも必要ないからその代わり――でもないだろうけど、いつまでも幼い子供みたいに手厚くしてくれる。
リビングのソファから立ち上がり、キッチンに入る尾形についていく。と、冷凍室を開けて出したものにびっくりした。
「えっ、揚げんの?」
「待てんか?」
そこ?そこなの?
手にしているのはジップロックの袋。下味をつけて冷凍しているやつだ。いやこんな時間にからあげ揚げるの?自分で振っておいてなんだけど!
「待つ間、これでも食っとけ」
と、大ぶりのおにぎりが並んた大皿を渡された。代わりにって。六個もあるし。今日のご飯の残りを握ったらしい。明日の米の仕込みに邪魔だったからと。
でもこれ、多すぎるよな。いつもこんなに余ることなんてない。――もしかして。
「いただきます」
キッチンで尾形の横で立ったまま、大きく口をあけておにぎりを迎える。ん、と言って尾形はレンジの解凍ボタンを押す。座って食えとか言わない。この時ばかりは。
冷凍室に下味をつけた鶏肉を常備しているのは知っていた。けど、深夜に揚げようなんて。
「冷凍のからあげと思ってたのに」
「これも冷凍だがな」
「冷凍食品かなって」
「量が少ないだろ」
すぐなくなっちまう、と油の用意を始めた。なんとかっていう有名で高価な鍋。福引でとうちゃんが当てたそれは、うちでは出番がなさそうな小さなものだ。が、今はちょっとした揚げ物用になっている。なんでも熱効率がいいとかで、尾形が揚げ具合を気に入っているようだ。
ただ、これはひとつだけ欠点がある。重さだ。足に落としたら指を骨折すると聞いていたのに、尾形はつい先日鉄壁の笑顔を顔に貼り付けて、なにやら言い募っていたとうちゃんの足元に落とした。故意に。洗って拭いていた、赤い小鍋を。
――うおわぁ!おっまえ!!あっぶねぇなあ!!
飛び上がって避けたとうちゃんに、尾形は表情ひとつ変えなかった。またなにかあったんだろうなぁと思いつつ、そんなふたりの様子をソファから見てた。そのL字型ソファの長い方で今、とうちゃんは天井を向いて爆睡している。虚しく流れるBBC放送。
「また喧嘩した?」
「してねぇ」
即答じゃん。
あーしてるなこれ、してるわ喧嘩。またかよ。頼むよとうちゃん。
「ふつつかな父がすみません」
「なんだそりゃ」
「だってハスキー犬みたいにデカくてイカツそうなのに、あんな能天気でさ」
今もあれ、どうみても大型犬じゃん。
そう言うと、ふふっと鼻で笑った。あ、よかった。これ深刻じゃないやつだ。
それから尾形は、いつものように俺が家庭科で作った破天荒な縫い目が推しのエプロンを身に着ける。まだそれ使うのと毎回言うが、気に入っているのかずっと使っている。いつもシンプルなものが好きで、かわいいものが好きなとうちゃんと揉めるのに、こればかりは気に入っているのだろうか。よくわからない英字プリントが。
冷蔵庫から出した卵を、解凍した鶏肉のはいったジップロックの中に割り入れて、さらに小麦粉を入れて揉み込み、かたくり粉にくぐらせる。適温になった油の中にそれを落とすと、シャワ~とまるで雨みたいな音がした。
油の中で泳ぐからあげ。ふたりでぼんやりそれを見つめて、なんとなく話をする。仕事いそがしい?とか、次の部活の試合の予定とか。週末はどう過ごすのか、明日の晩御飯に食べたいものはないかとか。
改まって話すのではない、この立ち話みたいな感じ。この時間がすごく好きで、たぶんそれは尾形にも知られている。だからこんな時間にご飯を作ってくれるんだ。尾形も ちょっとは好きな時間だったらいいけど、わかんない。
最近とにかく腹が減る。なんでか知らないけど食べても食べても腹が減るし、尾形が毎日伸びているんじゃないかと言うくらいのスピードで、身長は伸びているようだ。ただ体重が追いついてなくて、細すぎるのが悩みだ。だからウエイトを増やすためにも夜遅くにハイカロリーなものを食べる。でも増えないんだよなあ。とうちゃんみたいになれるといいなあ。がっしりしてて背が高くて。今でも筋肉すごいんだよなあ。身長はやっと尾形と並んでもそんなに変わらないというところまできたけれど、とうちゃんはなかなか高い壁だ。
「部活、無理してないか?」
「ん、んー……」
「足は」
「うーん、…良くはない、かな…」
二個目のおにぎりの中身は昆布だった。まだほのかに温かいおにぎりは美味しい。部屋にはからあげの匂いが漂い始めた。腹が減る。食ってるのに、腹が減ってくる。元気な腹の虫が騒ぎ出す。
歯切れ悪い俺に、見てもわからないのに尾形は菜箸片手に視線を下げる。
「どこだ?股関節か?ひざか?」
「そっちの成長痛はマシになった。ひざが……」
「サポーターしても変わらんか」
「まだ少しくらいはマシだけど、…テーピングのほうが俺は楽かなぁ」
「……」
無言のままちら、とシベリアンハスキーに視線を投げる尾形。そうなんだよなあ。とうちゃんに頼みたいこともあって降りて来たんだけどなあ。
「もう揚がる?」
そうこうしているうち、油のなかの塊はいい色合いになってきている。
「そろそろだな」
菜箸でつまみ上げ、尾形が慣れた手つきで網のついたバットに転がす。パチパチみたいな、なんだか弾ける音がしていて、あああもうこれは今!今が食い時じゃん!
「うんわ〜うまっそ~~~」
「待て、火傷する。ちょっとで良いから待て」
犬に言うみたいにステイをかけてくる。親子そろって、尾形の前で俺たちはもはや犬だ。犬で良い。犬でい良いから!早くそのからあげが食いたい!
「これ、とうちゃんのやつだなぁ」
色見が濃いからあげ。下味の濃さが見える色だ。尾形が作った方は割と薄味で、こんなに醤油の色が濃くない。どっちも旨いけど、濃い味だとおにぎりが進む。米が入る。
休みの日に、とうちゃんと尾形の二人で買い出しに行って、なんだかんだと作りおきしている。毎日フルタイムで働く二人だが、尾形は割と定時に対して父ちゃんはバラバラだ。一週間が賄えるくらい完璧な量では決してないけれど、なにも作り置きしていないと、尾形にばかり負担がかかるとこっそりとうちゃんは言っていた。毎日俺の弁当もどっちかが作ってくれている。当番制っていうくらい硬いわけじゃないけど、ふたりで都合とか体調とかで決めているみたいだ。購買や食堂でもいいけど、正直弁当の方が俺は好きだし教室でみんなで食べたい。でも作るの大変だろうし食堂でもいいよと言うけど、ふたりが作ってくれるからそれはうれしい。晩御飯も、俺はずっと部活部活で結構遅かったりするけど、よほど繁忙期が重なりでもしない限り、どっちかが家に居て必ず迎えてくれる。
いつもきれいな家、おいしいごはん。俺が居る時は必ずと言っていいほど、ふたり、もしくはどちらかが必ずリビングに居る家だ。
「まだ熱いから」
「んんん~~~~~」
ああじれったい。思わずむずむずと体を揺らすと、とうとう尾形は吹き出した。お前はいつまでもかわらんなあと言うが、だって目の前においしそうなからあげがあるのに。その匂いで三個めのおにぎりに手が出そうだ。
「なにやってんのぉ………?」
のそのそと起き出したとうちゃんが、いつものように部屋着のTシャツの裾から腕をつっこみ、腹を掻きながらカウンターの向こうから覗いてきた。眼がしょぼしょぼしてる。同級生たちがイケメンだって言ってるとうちゃんはどこに行ったんだよ。
「そろそろいいぞ、ほら」
「ん、あ~~~~~~ん」
めいっぱい開けた口の中に、最初に揚がったからあげを入れてくれた。ふわち、ふわっ、とはふはふしながら少しづつ噛む。火傷しないけどアツアツの良い温度だ。かりかりの衣。しっかり味のついた肉。からあげを考えた人はマジ天才だ。あ~~~~うまい、めっちゃうまい!
「ふぉふぁふぁ、ふまい!(尾形、うまい!)」
「そりゃ揚げたてだからな」
さすが尾形、俺の言うことを理解してくれた。そんな俺たちを見て、とうちゃんがめげずに声を掛けてくる。
「いや無視すんなー」
「うるせえ、俺は一佐にからあげ揚げてんだよ」
今日の尾形は、とうちゃんの呼びかけには非常にクールだ。
「あ~~~~~」
それでも気にせずにとうちゃんは口を開ける。大きな口に頑丈そうな真っ白な歯。俺の歯はとうちゃんとそっくりだ。顔だけじゃなく。
それをじいっと見る尾形がどうすんのかと思ってたら、取り上げた揚げたてを置いて、ちょっと冷めたやつを箸でつまみとった。菜箸でカウンター越しのとうちゃんの開けた口……の横に、ぎゅうっと押し付けた。
「むわっ」
とうちゃんが焦った様子を見届けてから、ちゃんと口に転がし入れた。子供か。俺が言うのもなんだけど、尾形ってそういうことやるんだよな~~とうちゃんに。ちょっと構ってほしい犬、違うな……ちょっとちょっかいをかけては気ままにそっぽ向く猫みたいな感じ?
「なんれふぉんなころふんのー(なんでそんなことすんの)」
「揚げたてを入れなかっただけありがたいと思え」
「んもう、んーーあげたてうまいわぁ」
何年もずっとこういうことをやっているというかやられているのか?なとうちゃんは、なにも気にした様子はない。それはそれでいいけど、なんかこう、意味ちゃんとわかってんのかなあと思ったりしなくもない。いいんだけど。二人のことだし。仲良いなら。
「太るぞ」
「ランするもん、一佐と」
「寝てたくせに」
「起こしてよ」
「起こしにくいだろ」
ん?と瞬きするとうちゃんから視線を外し、油の中で気持ちよさそうに浮いているからあげを取り出して新たに投入する。あと何個できるのかな。そんな二人を見つつおにぎり片手に、先にあがっているからあげを指でつまんではぐっと一個丸々口に放り込む。濃い味に白米が合う。
「朝やってやれよ、テーピング」
「ほえ?なんかやった?」
「ちがう、膝。オスグット」
「あー、まだ痛いか……」
とうちゃんがからあげで片頬を膨らませ、むぐむぐしつつキッチンに入ってくる。屈み込んで膝に触り、このへん?と指を押し当てる。膝の皿の真下当たり。的確に突いてくるのがさすがとうちゃんだ。成長期にありがちな、しかも男子に多いってなんて不公平だと思うそれは、端的に言うと骨の急激な成長途中に激しいスポーツをするから起きる痛みらしい。普通にしているとほとんど忘れてるけど、部活をすると痛くなる。マジ勘弁してほしい。これについてだけは毎日ため息が出てしまう。
「………うん、そのへん」
「はー、靭帯んとこだよなぁ」
靭帯とかなあ、痛いもんなあ。靭帯を痛めた経験があるひとは、しみじみと共感してくれる。やりたいときはやって良いけど、痛いときは無理すんなよと毎回言う。
とうちゃんは相当本格的に柔道をやっていた過去があるし、効率的な柔軟とか突き指の処置とかスポーツに関するいろいろを教えてくれて、それがセンパイや顧問の先生より詳しくてうまくて、めちゃくちゃ驚いた。自主練したくてランニングするって言うと俺も行くって朝でも夜でも伴走してくれるし、三十超えてるのに余裕で楽しそうに走る。そんな親いないと周りに言われて知った。みんなそんなもんだと思ってたんだよな。柔道やっていた時にそこそこ怪我もしていたってことで、あっちが痛いこっちが痛いっていうだけでなんとなくどういう状況かわかるみたいで、それを緩和するためのマッサージとかも超うまい。手際もいいしいいテーピングなんかも良い力加減で巻いてくれるから楽になるし……だからできれば明日朝、して欲しかった。けど、最近なんだか忙しそうで、朝から頼みにくいなと思ってたんだ。断ったり嫌な顔されることが無いのは知ってるけど。それをやっぱり察してくれるのが、今からあげをあげてくれている人だ。
朝テーピングするわ、何時?と立ち上がって問いつつ、尾形の揚げたからあげをつまむ。
「朝練行くから出るの6時半」
答えるのは尾形。
「わかった、てかお前寝なきゃだろ」
睡眠は大事だぞ~~と多分風呂上がりに寝こけていたとうちゃんに言われ、これ食ったら寝ると答えた。だってこれで俺の予定は終えたし。腹を満たしてテーピングを頼んで。
「じゃあ、明日の弁当、俺しようか?」
「今週は俺がする予定だし、お前も6時半でいいだろう」
「ついでだし」
「俺は今仕事落ち着いているから平気だ。おまえはもう寝ろ」
「んん〜おにぎりも食う」
「あっ、こら、それ一佐の」
いやあそれはもともと、とうちゃんのごはんだったはずだ。うちでこんなにごはんが残るはずがない。と言うことは、尾形の怒ってる原因もその辺にあるのかな。
どれだ。今日は尾形が晩御飯を作ってくれて、とうちゃんは九時頃帰って来てた。これは仕方ない事情で晩御飯いらないと作った後で知ったのか、それすら伝えてなかったのか、食わないまま寝てしまってそれへのちょっとした嫌がらせというか意趣返しか。
「俺もういいよ、歯磨きして寝る」
つまりこれは、なんとかは犬も食わないというあれだ。俺はいない方がいいに決まっている。おにぎり三つとからあげ四つ食べれば、さすがに腹の虫も収まってきた。というかそこそこ広い家なのに、なんで一番狭いキッチンに三人集合しているんだろうな。
「尾形ごちそうさま、うまかった〜明日の朝も食べたい。あるよね?やった!じゃあ尾形、とうちゃん、お休み~~~」
まだからあげを揚げている尾形に礼を言ってあいさつすると、片手にからあげ、片手におにぎりを持ったとうちゃんが能天気に明るく返してくれる。
「おやすみぃ、腹冷やすなよ」
「へいへーい」
「エアコンの温度をバカみたいに下げるんじゃないぞ」
「あ~~~い」
しっかりくぎを刺す尾形にも返事を残し、からあげのにおいに包まれた部屋を出た。
翌朝も早朝からとうちゃんは完璧にテーピング捲いてくれるし、尾形は約束通り朝からからあげ出してくれるし、持たせてくれる弁当とは別で、朝練行ったら昼までに死ぬほど腹減るからってそれまでに食べるおにぎりをいつものように三個用意してくれていた。
「車に気をを付けてな」「膝痛かったら無理はすんなよ~」と口々に言う二人に見送られ、「はーい、いってきまーす」と出るいつもの朝。
弁当とテーピング。たぶん、俺ってかなり大事にされているよなあ。
杉元一佐は尾形百之助と出会って、十年が経った。最近ちょっと大人になった彼は、そんなことに気づき始めている。
END