さびしい恋のその先で番外編/いつもの金曜日「なんだこれは」
いつもの騒がしい昼食時の洋食屋で、なめらかな低音がするりと耳に滑り込んで来た。咎めるでもなく、ただ不思議そうに問うそれが少しばかり甘い気がするのは、やはりこういう関係になってからだ。
「え?…あーー」
視線の先を確かめると、尾形のいる左側の二の腕にぽつんと小さなシミがあった。明るめの茶色のそれは、ブルー地に細かなストライプが入ったシャツにうっすらとついている。この距離じゃないと見えないくらいの、小さな小さなものだ。
「カレーだなぁ」
「カレー?」
「朝、カレー食ってきたから。もしかして一佐のカレーが飛んだかな」
「朝からカレーを食ったのか…?」
信じられないものを見る目で尾形が重ねて問うのが可笑しい。まあお前は食わなそうだなぁと思いつつ、杉元は機嫌よく説明する。
「晩の残り、というか晩にカレーしたら、うちは翌朝もカレーだから」
一佐が大好きだから明日も食べたいと言うし、楽だから。その分も踏まえて、杉元家では多く作る。子供用のルウを使った甘口と中辛のカレーを。
子供用の甘口カレーはさすがに甘すぎて杉元にはキツかったし幼児に中辛は無理だから、こればかりはどちらかに合わせることができなかった結果だ。とはいえ工程は途中まで同じだから、最後にルウを入れる段階で鍋を分ける。そうすると二種類のカレーが出来上がるのだから、カレーとはなんともありがたい料理だ。
「入るのか、寝起きにカレー」
「えっ、そりゃカレーだし」
人によってはカレーは飲み物というし、食べやすさナンバーワンとは言わなくても、それに近いのではないだろうか。
そんな杉元の思考に、
「……まあ、お前たちらしくていいんじゃねえか…」
洗い物も少ねえだろうしと尾形は非常に尾形らしいことを言った。
「お前は食わねえの?朝にカレー」
「食ったことねえな」
「朝はあっさりしてそうだもんなぁ、お前」
そんな話をしているうちに、おまちどうさま!とカウンターの向こうから大皿が配膳された。今日のメニューはビーフシチューと名物のエビフライ。この季節にビーフシチューなんてと思うが、やはり暑いときに熱いものを食べる気にさせるのがここの味だ。いつも取り分けるのを知り尽くしているシェフが、一枚だけ深みのある小皿も一緒にくれた。前に「ライスに掛ければいい」と杉元がビーフシチューを取り分けるのに直接ご飯に掛けているのを見て以来、言わずとも提供してくれるようになった。
「ありがとうございます、あー、うっまそー!ほいよ」
杉元が取り分けるのを、尾形は何も言わずに見守る。雑でもなんでも、子供が好きにするのを見守るみたいなスタンスで。
「夜と朝にカレー食って、昼ビーフシチューで飽きんのか」
「えっ、全然?別物だし」
カレーとビーフシチューは見た目が似ているが、いやいや味とか全く違うじゃん。
「そいや名古屋に味噌煮込みカレーってのがあるらしくてさ」
昨日、晩御飯はカレーだと話すと、最近名古屋から来た人からそう聞いたと杉元は取り分けながら楽しそうに話した。
味噌を入れる文化は知っているが、カレーに味噌。どんな感じか想像がつかない。
「名古屋の子って話したことなかったけど、ちょっと発音違うの可愛くてさー」
「……ふうん」
「関西とも違うし、なんかイントネーションが違うから周りからどこから来たのかよく聞かれるらしくて、それ悪意ないけど気にしてるみたいなんだよなぁ」
今どきの若者たちはわかりやすい方言を使わなくなっても、それでもどうしても地域によって発音は違う。発音が違うだけで意外と耳に引っかかり、みんな過剰に反応してしまうものだ。
「カワイイのになぁ、方言」
「……」
しみじみ褒める杉元の横で、尾形の表情は特段変わらない。ただ静かに聞いている。
その変化にすぐ気づかないのが、やはり杉元という男だ。
「カワイイだろ、だって3歳でちょっと発音違うんだぜ。一佐もかわいいって言うんだけど、」
「……一佐?」
「え?うん」
そう、一佐。
息子の名前を不思議そうに言うから、なんだろうと杉元は首を傾げた。
「……名古屋からって…」
「家族で最近引っ越してきたって…え、なに?」
何を尾形が言わんとしているかわからなかった。
「子供の話か」
うん。
―ーあれ?そういえぱ、俺、主語なかったな。
かわいい子だったんだよ。というか、子供なんてみんなかわいいんだけど。いや、おとなにそんな、かわいいとか言わないし…
………え?
うん?もしかしてなんか話通じてない?
「あ、や。あの、同僚とか、じゃ、ないよ…」
「俺は何も言っとらん」
いや、そうだけど。なんだその打てば響く返事の速さは。
……あ、おまえ、なんか勘違いしてたな?
思えば、……口が急に重くなってた、よな……?あぁ、おとなの誰かのことを言ってると思ってたのか。
いや、それって…そ、それって……
「尾形さん、あの」
まさか。
まさか、あの、おがたさん?
「さっさと寄越せ」
「あ、…はい……」
問いかけなんかはスルーして、盛り分けた今日のランチを要求してくる。
都合が悪いことはそうやって知らん顔する。のは、だいたいどういう時かさすがに知れてきていた。杉元でも。さすがに、あの杉元でも。
「今日さ、泊まれるんだよね」
何と言っても今日は金曜だ。いろんな意味で楽しみな金曜なのだ。
健全な明るい声で問うが、「さあな」と尾形はぶっきらぼうにサラダに向いて返事する。
ほらー、ほらもうさぁ、お前さあ。
いっつも耳とか赤くなってんの、知らないのかなぁ。
マジでおまえ、そんな嫉妬なんてするやつなんだな。そうかー、なんだよ嫉妬なんかすんのかぁ。かわいいやつだなあ。
「なるべく早く帰るから」
言って、隣の膝にそれをちょんと当てる。ぴく、として、でも「んん」とかなんとか、食べてるからって不明瞭な喉声でごまかすから、「聞いてんの?」と周囲から見えないのを良いことに、カウンターテーブルの下で、スラックスの薄い生地に包まれた太腿に手をおいた。
びっく!と体ごと跳ねるみたいな勢いの驚きように、ちょっと胸がすく思いだ。
「聞いてんの、って」
するる、と内側に指を滑らせると、流石に慌てて手を掴まれた。
「やめ、おま、なにかんがえて」
「えー、無視するからじゃん」
楽しいなぁ、かわいいなぁと口元が緩むのを、止められないのは、なにも杉元のせいだけではないはずだ。
真意など知らないまま、仲がいいなぁと店主夫婦からにこやかに見守られていることをふたりが気づくまで、あと少し。
END