深夜の電話深夜、いつもならぐっすり寝ている時刻に桐山不折は目を覚ました。尿意でもなく、夢見が悪かったわけでもない。ただ目を開けても辺りが暗かっただけだった。時間を確認しようと時計を見上げたところで、学習机の上にあるスマホがチカチカと光っているのが目に入る。寝る時に消音にしているので、光るばかりで音も震えもしていなかった。しばらく待っても点滅が消えないということはメールではないだろう。
「電話…?」
桐山の電話番号を知っている人間はごく僅かで、ほぼ全てがこの時刻には桐山が寝ていることを知っているはずだった。だとすると、それを差し置いても電話をしなくてはならないほどの緊急事態かもしれない。桐山はベッドから下りると、スマホを手に取った。
『伊能』
画面に表示されたのは、後輩の名前だった。伊能が自分に緊急で伝えたいことが予想できず、困惑したまま桐山は電話をとった。
「もしも…」
『桐山先輩?起きてたんですね。良かった…』
「伊能?何かあったのか?」
電話口の伊能は少し抑えた声で
『いま、時間大丈夫ですか?』
「あ、ああ…」
『実は道に迷ってしまったんです』
「それは大変だ」
道理で伊能が聞こえにくいわけだ。伊能の声と共にザワザワと草が風で擦れる音もするのが聞こえる。
「そもそもこんな時間に何をしているんだ?」
学習机に置かれた時計は深夜の2時を示している。
『ちょっと…行きたい場所があって…それで出発したは良いんですけど…道が分からなくなったんですよね』
伊能の姿を思い出す。一応男子高校生ではあるし、運動部所属の彼なら、仮に襲われそうになっても逃げ切ることは可能だろう。しかし、不意打ちや複数で囲まれたりバイクや車を使われたら…桐山の脳裏にいくつも悪い想像が浮かぶ。
「交番はないのか?」
『ありません』
「電話があるなら親御さんに電話すれば…」
『電話…あちこちに掛けたんですけどね』
ようやく繋がったのが桐山先輩だったんです、と言われますます困惑する。どういう仕組みかは分からないが、伊能は自分しか頼れないらしい。こういう時に小堀や広瀬…いや、伊能本人だって効果的な方策が思い浮かぶだろう。しかし心細さで思考もまとまらないに違いない。そんな中伊能は自分を頼ってくれたのだと桐山は胸が熱くなる。
「今は何が見える?」
『お墓が見えますね』
「墓地か…近くにお寺はないのか?」
『探してみます』
ザクザクと砂利を踏みしめる音がする。ゴォォという風の音で聞こえづらいが、どうやら足音は一つのようだ。足音と風以外は完全な沈黙となってしまう。桐山は普段から饒舌なタイプではないが、暗闇を歩いている伊能のために必死で話題を探そうと試みた。
「い、伊能?」
『はい』
「懐中電灯は持ってないか?」
『無いですね』
「え…と、行きたい場所には行けたのか?」
『いいえ。行く途中で迷ってしまったので』
「結局どこだったんだ?その…行きたいところというのは」
『あ』
不意に伊能が桐山を遮った。
「どうした?」
『お寺ではないですが、神社ですね』
「神社?」
『えーと入り口に名前が書いてあります』
読み上げた神社の名前に、桐山は聞き覚えがあった。
「伊能、その近くに道路がないか?」
『道路?』
「神社を左手に見て、数メートル行ったところだ」
またザクザクと足音がする。それは少ししてからピタリと止まると
『あります。T字路ですね』
「信号機の上に何書いてないか?」
『書いてますね。交差点の名前でしょうか…』
そうして読み上げた地名で、桐山は確信する。
「俺の家の近所だ!間違いない。確かにランニングのルートに神社があるはずだと思ったんだ」
『なるほど』
桐山は胸を撫で下ろした。物事を説明するのは不得手だし、道案内などその最たるものだが、自宅にさえ来てもらえば後は伊能を家に泊めて、電車で帰らせる事もできる。ランニングコースを逆に辿らせる道なら、どうにか説明も出来そうだった。
「そのT字路を左に曲がった坂を登って…」
桐山は考えながら説明を続けた。
『そこに何があるんです?』
「俺の家だ。今日は遅いから泊まればいい。明日は部活もないし、遅刻はしてしまうかもしれないがそこから一旦家に帰れば…」
『先輩の家…行っていいんですか?俺が?』
「もちろんだ!ぜひ来てくれ!」
親を起こすことにはなるだろうが、親も十五歳の後輩が道に迷っていたと知ったら快く泊めてはくれるだろう。懸念事項は寝具だが、桐山は床で寝ることも吝かではなかった。
『ありがとう…ございます』
風が強く吹いて、伊能の声がますます聞きづらい。
「大丈夫だ。遠慮するな」
『だから先輩は…』
目覚ましい時計の音で叩き起こされる。いつの間にか寝入ってしまったようだった。
「い、伊能!?」
なんということだろう。桐山の顔から血の気が引いた。せっかく頼ってくれた伊能を迎え入れることなくすっかり寝落ちてしまっていたとは。慌てて充電しっぱなしのスマホを見た。
「え?」
不思議なことに、伊能からの不在着信はおろか、昨夜の通話履歴そのものがない。桐山は頭に疑問符を浮かべたまま、登校することにした。
校門のところで伊能の姿を目撃した桐山はますます困惑する。伊能は相変わらず気だるそうな様子で歩いてはいたが、寝不足には見えなかった。
「伊能」
「桐山先輩、おはようございます」
「昨日は申し訳なかった」
「昨日?」
「あ、いや、昨日じゃないな。日付は変わっていたから今朝、か?あれから帰れたみたいで良かった」
伊能は眉間にしわを寄せて首を傾げる。
「今朝?帰れた?何のことです?」
「え、いや…昨日2時くらいに電話してきただろ」
「俺が?しませんよ」
「え?」
「だって先輩その時間は寝てるじゃないすか」
「昨日はたまたま目が覚めて…それでお前から電話が来てるのに気がついたんだ」
「俺は寝てましたよ。本当に俺だったんですか?」
「ああ。お前が道に迷って帰れないと…話しているうちに現在地が俺の家の近所と分かって…」
桐山は昨晩の経緯を説明した。その間伊能は黙って聞いていたが、最後にポツリと呟くように問いかけてきた。
「…先輩俺の家知ってますか?」
「知らないが…」
「少なくとも電車で30分くらいは離れてるはずですよ」
「え?」
「それを歩いて道に迷ったと気づくにはあまりに長距離じゃないですか?」
「それは…」
昨日の電話口の声を思い出そうとするが、ゴウゴウと鳴る風の音にかき消されてしまう。
「仕方ないな」
と伊能はため息とともに桐山の手を取った。歩き出すのは、学校とは真逆の方向。
「い、伊能?」
「お祓いできるところに心当たりがあります。今家で待ってるのがいるかもしれないので、すぐにそこに相談に行きましょう」
「ありがとう」
「イイですよ。俺もウチの部活も、先輩がおかしくなられたら困るので」
そうだ、と伊能はスマホを取り出した。
「こんな時のために、電話番号交換しておきましょうよ」