おもちゃのピアノママはピアノが上手だね、と子どもたちに言われる度、思い出すのです。彼女とピアノを奏でたあの日々を――。
私が四つか五つの頃、母は私をピアノ教室に通わせるようになりました。暮らし向きは豊かでないながらも、教養を身につけさせたいという親心でしょう。
しかし、教室に通ってレッスンをしても、私はなかなか上達しませんでした。家で練習ができないのです。
裕福ではなかった私の家には、ピアノがありませんでした。家庭用の縦型のアップライトピアノも、コンセントにプラグを繋ぐ電子ピアノさえもなかったのです。
あったのは、祖母が曾祖母からもらったという、小さなおもちゃのピアノだけでした。形はグランドピアノをそのまま小さくしたようなもので、色は黒くてぴかぴかとしていました。細い鍵盤が二十と少しあり、子どもの小さい手なら何とか両手で弾けるという大きさでした。
見た目は可愛らしくて気に入っていました。しかし、そのおもちゃのピアノで練習するだけでは、だんだんと教室で習う曲についていけなくなりました。
ピアノの先生も、そのことを心配していました。先生は、レッスンのない時間帯に、ピアノを練習に使わせてくれるようになりました。しかし、それでも毎日というわけにはいきません。毎回同じところでつまずく私の演奏を聞きながら、先生は呟きました。
「あなたのおばあちゃんは、ピアニストだったんですってね。お家で練習できれば、さぞかし上手になるだろうに、もったいないわ」
私は、家に帰って母に尋ねました。
「おばあちゃんはピアニストだったのに、どうしてうちにはピアノが無いの?」
母は、頭を振りながら答えました。
「おばあちゃんが年を取ってからお金がなくてね、売ってしまったのよ」
昔は立派なピアノがあったのよ、と説明される度、どうして売ってしまったのだろう、ピアニストというのはお金持ちの職業ではないのか、と納得のいかない気持ちが強まるのでした。
私は、ピアノ教室を休みがちになりました。他の生徒がどんどん上達していくのを見ると、自分だけが置いてけぼりにされたような気持ちになったのです。
「何も、プロのピアニストになって欲しいわけじゃないからね。おばあちゃんだって、プロとは言ってもそんなに有名じゃなかったんだし。お金もかかるから、このまま辞めてしまってもいいんじゃないかしら」
母が、心配する父にこう説明しているのが聞こえました。
違うのに、と私は泣きたくなりました。本当は、ピアノが弾きたいのに。もっと上手になりたいのに。お家にピアノさえあれば。ピアノが弾きたい、ピアノが――。
ある休日のことでした。私は、母と一緒に昼食をとりに出かけました。
カフェ・ミネット、と書かれた看板には、黒猫の絵がついていました。花が飾られてあり、日当たりのよいテラス席がありました。内装も居心地がよく、私はそのカフェを気に入りました。
私と母はその日、店内の一角に座り、サンドイッチを注文して一緒に食べました。
注文を取ったのは、上品な洋服に身を包んだ綺麗な女の人でした。
「サンドイッチセット、二つ」
母が頼むと、その女の人は母に頷いてから、私の目の高さに屈み込みました。
「お飲み物は? ジュースか、ココアにしましょうか?」
優しい声で尋ねられ、私は少し恥ずかしくなりながら、小さな声で「オレンジジュース」と答えました。女の人は、にっこりと笑って頷きました。
母がコーヒーを頼むと、女の人は注文を確認してからその場を去りました。
豊かではない生活をしている身では、そこがカフェでも物珍しく、私はキョロキョロと店内を見回しました。「あんまりソワソワしないの」と母にたしなめられた、そのときでした。
「ママ、ピアノがある!」
私は、店の隅を指さして、思わず大きな声を出してしまいました。母が止めるのも聞かず、私はピアノの方へ駆けて行きました。
それは、家庭用のアップライトピアノでした。茶色の木目の風合いが目に優しく、店の雰囲気とも調和していました。ピアノの前には、横に長い、高さの調節できる黒い椅子が置いてありました。
私はそこへ腰掛けてピアノの蓋を開け、そのとき習っていた曲を弾き始めました。母は止めるのを諦めたのか、じっと横に立っていました。
最後の高い音を弾いてから、鍵盤から指を放すと、店内から拍手の音が聞こえました。注文を取ってくれた女の人です。彼女は、カウンターにサンドイッチの乗ったトレイを置き、音を立てて盛大に拍手をしていました。釣られて、店内にいた他の客も拍手したほど大きな音でした。
女の人は、こちらへ近付いて来て言いました。
「ブルグミュラーね、素晴らしいわ! あなた、お名前は?」
もごもごと私は名前を答えました。
「ピアノを始めてどれくらいになるの? どこのピアノ教室?」
私は、やはりもごもごと答えました。
「あら、その教室ならこの近くよね?」
私が頷くと、女の人はにっこりと笑いました。
「それなら、また弾きに来てちょうだい。待ってるから」
私と母が元いた席へ戻ると、女の人はサンドイッチセットを運んで来てくれました。
「あんなに上手になってたのね」
母は、何かを考えているような面持ちで、私に言いました。
「ピアノ、続けたい?」
私は、強く頷きました。
「続けたい。上手になりたい。他の子は私より、もっと上手なんだよ。でも、あのおもちゃのピアノだけじゃ、練習できないの」
母は頬に手をやりながら、サンドイッチをかじっていました。
食べ終わった後、席で待っているように、と母から言われ、私はじっと座っていました。母は、カフェの女の人と何か話をしているようでした。
「ありがとう、ルナ」
母が、その女の人と手を握り合っているのが見えました。
母は私を女の人のところへ連れて来て、言いました。
「明日から、このカフェのピアノをいつでも弾きに来ていいって」
「本当?」
私は、胸が急にどきどきとし始めました。女の人に顔を向けると、彼女はやはりにっこりと笑って言いました。
「本当よ。ピアノも、弾いてくれる人がいれば喜ぶわ。学校が終わってからでも、休みの日でも、いつでも弾きに来てちょうだい」
私は嬉しくて、ぴょんぴょんと飛び跳ねてしまいました。母は、「ちゃんとお礼を言いなさい」と私の身体を女の人の方へ向けました。
「ありがとう、お姉さん!」
女の人は、私の頭を撫でました。
「あなたのママも、ピアノを弾いていたのよ。ママとはお友達なの。よく覚えてるわ」
また明日、と言って、その日は店を後にしました。
女の人の名前は、ルナ・バーネットといいました。私は、ルナお姉さんと呼ぶようになりました。
毎日、学校が終わると、私はカフェへ寄るようになりました。午後五時頃に母が迎えに来るまで、私は一生懸命にピアノを練習しました。学校がない日も、午後の数時間を同じように過ごしました。
「ツェルニーの百番が終わったの? すごいのね」
いつの間にか、私はピアノ教室の同年代の生徒たちと並ぶくらい、場合によっては彼らを上回るほど上達していました。
「ルナお姉さんが、ピアノを貸してくれたから」
私はルナお姉さんに褒められると、いつもそう答えました。本当に、ルナお姉さんのおかげだと思っていました。
私は、学校のことや家のことなども、ルナお姉さんに話すようになりました。
「まあ、ひいおばあちゃんの持ってたおもちゃのピアノ? それが今でもちゃんと動くの?」
おもちゃのピアノの話をすると、ルナお姉さんは目を丸くして言いました。
「うん、鍵盤は押せるし、ちゃんと音が出るよ」
「百年以上も前に作られたものなんじゃない? それを大事に持ってるだなんて、すごいことだわ」
そうかなあ、と私は、目の前の鍵盤を一つ押しました。ぽーん、と高い音が鳴りました。
「おもちゃのピアノより、本物のピアノを残して欲しかったな」
その日、練習していたのは、ブルグミュラーの「再会」でした。
「今は、ルナお姉さんのおかげでピアノが弾けるから、いいんだけど。おもちゃのピアノは、倉庫にしまっちゃった」
私がそう言うと、ルナお姉さんは少しだけ寂しそうに笑い、「そうなの」と言いました。
それから、数日経った日のことでした。その日は、学校はお休みでした。
「ママ、何してるの?」
倉庫の奥に向かって尋ねると、くぐもった声が聞こえました。
「片付けよ。いらないものは捨てようと思って。宿題は終わった?」
私はまだ学校の宿題を終えていなかったので、家の方へ戻ることにしました。くるりと背を向けた、そのときでした。
「あれ……? あの、おもちゃのピアノは?」
母の戸惑った声がして、私は慌てて再び倉庫を覗き込みました。
「ピアノ、ないの?」
確かに、おもちゃのピアノが置かれていたはずの場所には、何もありませんでした。
「ないわね。最近、使った?」
私は、首を振りました。
「どうしたのかしら。まさか、盗まれたんじゃないでしょうね……」
母が眉根を寄せて考え込むのを見ながら、私は泣きたくなりました。
気分が落ち込んだまま午後になり、ミネットにピアノを練習しに行く時間がやって来ました。私は、ピアノをもう一度探すよう母にお願いしてから、ミネットへ向かいました。
「こんにちは」
ルナお姉さんは、いつものように笑顔で出迎えてくれました。普段は私もあいさつを返すのですが、その日ばかりは、ルナお姉さんの顔を見るなり泣き出してしまいました。
「どうしたの、大丈夫? いいわ、気が済むまで泣きなさい」
ルナお姉さんはエプロンが濡れるのも構わず、私を抱きしめてくれました。
落ち着いてから事情を話すと、ルナお姉さんは真剣な目で聞いてくれました。
「本当に、ずっと使っていなかったのね? 最後に見たのはいつ?」
「初めてミネットに来た日」
私は思い出して答えました。ルナお姉さんは、腕組みをしてしばらく考えていました。そのうち、ぱっと腕を放すと、私に言いました。
「大丈夫。そのピアノは、必ずあなたのお家に戻って来るわ」
「どうして分かるの?」
「『怪盗』が、取り戻してくれるかもしれないじゃない」
私は、目をぱちぱちとしばたたきました。
「怪盗って、本当にいるの?」
「いるわよ。思い出の詰まったものを大切に持っている人のところには、必ずやって来るのよ」
なぜかは分かりませんでしたが、その言葉に慰められ、私はその日、いつも通りピアノの練習をすることができました。
次のレッスンの日、ピアノの先生は、私の上達振りを見て言いました。
「コンクールに出てみない?」
先生は、一枚のチラシを私に見せました。それはピアノコンクールの広報紙で、課題曲の曲名が書かれていました。私は課題曲の中から何曲かを選び、練習を始めました。
「コンクールに出ることになったの」
そう話すと、ルナお姉さんは嬉しそうに手を組み合わせました。
「すごいじゃない、頑張って。あなたならきっと、いい賞が取れるわ」
私は、そう言われただけで一番が取れるような気持ちにさえなりました。
コンクール当日、ルナお姉さんは、父と母と一緒に会場へ私の演奏を聞きに来てくれました。
結果は二位でした。一番ではなかったけれど、私は十分嬉しく思いました。何より、母や先生、そしてルナお姉さんが喜んでくれたのが最大のご褒美でした。
ルナお姉さんは、お祝いにミネットでパーティーを開いてくれました。私と、母と、ルナお姉さんの三人の小さなパーティーです。ルナお姉さんの手作りのお菓子はどれも美味しく、楽しい時間はあっと言う間に過ぎました。
家に帰ると、玄関に何か大きな包みが置いてあるのが見えました。不審に思った母は、「離れてなさい」と私を遠ざけました。
私は、少し遠くから母の手元を見つめていました。しかし、包みから出て来たものが何かが分かると、あっと息を呑みました。慌てて駆け寄り、母の横から手を伸ばしました。
「ママ、ピアノ……!」
それは、私が持っていたおもちゃのピアノでした。黒くてぴかぴかとした見た目や、小さい頃に貼ったシールをはがした痕など、そっくり同じものでした。
「何か入ってるわ」
母は、同封されていた封筒を開けました。
『これからも素敵な音色を響かせてください。ネージュ』
手紙には、綺麗な字でそう書かれていました。
「ネージュって、あの怪盗の……?」
母は呆然として言いました。私は飛び上がらんばかりに喜び、その夜は枕元にピアノを置いて眠りました。
「ピアノが見つかったの!」
私は次の日、早速ルナお姉さんにそのことを話しました。ルナお姉さんは、にっこりと笑うばかりでした。
しばらくした後、私はルナお姉さんのところには行かなくなりました。引っ越しが決まったのです。ほどなくして、本物のピアノも買ってもらうことになりました。
大人になった今では、おもちゃのピアノを弾くことはもう無くなりました。しかし、ルナお姉さんとの思い出が一番たくさん詰まっているのはこのピアノだと、不思議なことにそう思えてならないのです。