焦がしクッキーのレシピああ、また焦がしちゃった。大切な人へのクッキー作りは、どうしてかいつも上手くいかないのです――。
私の母は、忙しい人でした。仕事のために、国内外を飛び回る生活をしていたのです。
母に代わって、私を育てたのは祖母でした。祖母はいつもニコニコしていて、おやつにはよくお菓子を焼いてくれました。
あるとき、祖母は入院することになりました。買い物先で倒れたところを、その場にいた人たちに救急搬送されたのです。
母も、仕事を切り上げて家へ戻り、病院へやって来ました。
面会に行くと、祖母はベッドから顔を起こして、私に手を振りました。
「すぐに元気になるからね。一週間も入院すれば、前より元気になるくらいでしょうよ。でもねえ、あんたのことはどうしようねえ」
祖母は、心配そうに言いました。母は、またすぐに仕事へ戻らなければならない身だったのです。小さい私を、一人で家に置いておくわけにはいきません。祖母は本当に心配そうに、私の頭を撫でるのでした。
母は、気丈な人だったのだと思います。実の母親が倒れてもあんなに冷静で、その上、私の面倒を見てくれる人まですぐに見つけて来たのですから。
「ルナ・バーネット?」
そうよ、と母は答えながら、私の衣類や日用品を大きな旅行カバンに詰めました。
「ママのお友達なの。カフェをやってるのよ。優しくて綺麗な人。お行儀よくするのよ」
旅行カバンを持って、私は母とそのカフェを訪れました。出迎えてくれたのは、豊かな髪を後ろで一つにまとめ、上等な洋服にエプロンを掛けた女性でした。とても綺麗で、いい匂いがしました。私は、少しぼうっとなってしまいました。
「はじめまして。私、ルナ・バーネット。あなたのお名前は?」
私がもじもじと名前を答えると、彼女は花が咲いたように笑いました。
「おばあちゃんと同じ名前なの? いいわね」
おばあちゃん、という言葉を聞いた途端、私のぼうっとした気持ちはどこかへ吹き飛んでしまいました。涙が次から次へとこみ上げて来て、目の下にこぼれました。
「あらあら」
「泣かないの、人様の前で」
母にハンカチで顔を拭かれながら、私は泣きじゃくりました。
「おばあちゃん、大丈夫かな」
やっとの思いで口にしたのが、この言葉です。それを聞くと、ルナ・バーネットは、祖母と同じように頭を撫でてくれました。
「おばあちゃんはきっと、よくなるわ。病院でも元気だったんでしょう? そうだわ、毎日お見舞いに連れて行ってあげる。おばあちゃんもきっと、その方が早く元気になれるわよ」
いいかしら? と、ルナ・バーネットは母に尋ね、母は承諾したようでした。私をミネットに預け、母は出張先へ行くために空港へ向かいました。
その日から一週間、私はカフェ・ミネットで暮らすことになりました。私は、彼女をルナお姉さんと呼ぶようになりました。
「おはよう、よく眠れた?」
カフェ・ミネットでの朝は、美味しそうなカフェオレの匂いから始まります。バターを塗ったバゲットとジャムとカフェオレ、そしてフルーツ、これが毎朝の食事でした。
「美味しい? よかったわ」
ルナお姉さんがテーブルの向こうであまり嬉しそうに笑うので、私は家にいる時よりたくさん食べてしまったくらいでした。
朝食を食べ終えたら、学校へ向かいます。ルナお姉さんが待っていると思うと、いつもは退屈な授業も、少しもつまらなくありませんでした。
「こっちよ!」
ルナお姉さんは、車で私を学校へ迎えに来てくれました。車を颯爽と運転するルナお姉さんは、とてもかっこよく見えました。そのまま、少し離れたところにある総合病院へ向かうのです。そこは、祖母の入院先でした。
祖母は、病棟の出入り口が見える場所に座り、そこでいつも私とルナお姉さんを待っていました。
「孫がお世話になって」
それが、祖母の決まり文句でした。それを聞いたルナお姉さんは、手を振って笑うのです。
「うちには子どもがいないから、毎日が新鮮で楽しいですよ。安心して、治療に専念なさってくださいね」
私は祖母に、ルナお姉さんの家で起きたことや、学校での出来事を毎日話しました。祖母は特に、ルナお姉さんの作る料理の話に興味をひかれたようでした。レシピを教えてちょうだい、と祖母が言うと、ルナお姉さんは次の日には紙に作り方を書いて持って来てくれるのでした。祖母はそのレシピを、眼鏡をかけて毎日読み込んでいました。
「元気になったら、うちでも作ってあげるよ」
祖母がそう言うのが嬉しくて、私は大きく頷くのでした。
夕方になると、またルナお姉さんの車に乗り、私たちはミネットに戻りました。ルナお姉さんがミネットにいない間は、彼女の弟がカフェを見ているという話でした。
ミネットに戻ってからは、美味しい賄い料理の夕食が待っていました。夕食を食べると私は宿題をして、お風呂へ入り、それからベッドに入って眠ります。
私の使う寝室は、お客様用に用意された、ホテルのように綺麗な寝室でした。大人扱いされているようで、私は嬉しくなりました。私は毎日そこで、ぐっすりと眠りました――三日目の夜までは。
四日目の朝、ミネット宛に絵葉書が届きました。裏面は砂漠の写真になっていて、表の面には宛先の他に短い文章が書かれていました。
『元気にしていますか。ルナお姉さんのお家は、楽しいでしょう。ママは、とても暑いところにいます。一週間したら戻ります』
ポストからそれを取り出した後、私はその場から動けなくなりました。
「どうかした?」
私は、驚いて振り返りました。ルナお姉さんが、不思議そうに私を見ていました。何でもない、と答えて、私は朝食の席につきました。
学校へも、その絵葉書を持って行きました。私はそれを、休み時間に取り出しては、じっと眺めるのでした。
「ママからお手紙、来たよ」
その日、祖母に、絵葉書を見せました。おや、と祖母は眼鏡をかけました。
「消印が出張の初日だね。出張先に着いてから、すぐ出したんだよ。気丈な子だけど、あんたのことはさぞかし心配でしょうね」
母が出張先から私に絵葉書を出すのは、いつものことでした。私は今までの絵葉書の束を、ミネットにも持って来ていました。
その日の夜、私はベッドの横に膝をついて座り、これまでに来た母の絵葉書を順番に、ベッドの上に並べました。
最後の絵葉書、その日の朝に来たものをベッドに置いた瞬間、涙が一粒こぼれました。二つ、三つ、四つと数えるうちに、私は声を上げて泣き出しました。
泣いていると、いつの間にかルナお姉さんが後ろに立っていました。
「ノックしたけど、返事がなかったから……。大丈夫? ……じゃ、なさそうね」
私は、すすり上げながらルナお姉さんに話しました。母が心配で、寂しくてたまらないこと。祖母のこともとても心配で、心細いこと。ルナお姉さんは、背中をさすりながら最後まで聞いてくれました。
「よく、今まで我慢したわね。えらいわ。あなたは強い子ね」
ルナお姉さんにそう言われて、私はますます涙が溢れました。
「そうだわ。クッキー、一緒に作りましょう」
ルナお姉さんは、ぽん、と手を打ち合わせて言いました。私が顔をあげると、ルナお姉さんはにっこりと笑いました。
「あなたのお母さんと、おばあちゃんに。お母さんには出張お疲れ様、おばあちゃんには退院おめでとう、って。ミネットにいる間にクッキー作れるようになったの? って、二人ともきっと驚くわ」
今度の休みの日ね、と私はルナお姉さんと指切りをして約束しました。いつの間にか、涙は止まっていました。
その夜は、寝付くまでルナお姉さんがそばにいてくれました。母が寝かしつけてくれた夜を思い出しながら、私は穏やかに眠りに落ちました。
それから休みの日がやって来るまで、私は学校に元気に通い、祖母のところへも笑顔でお見舞いに行きました。
「この子は、泣いてやしないでしょうかね。時々、ママがいないと寂しくて泣くんですよ。それでご迷惑をおかけしてたら、と思って」
祖母が心配そうに言うので、私は少し赤くなりました。ルナお姉さんは、いいえ、と手を振って笑うのでした。
いよいよやって来た休みの日、私は朝から張り切っていました。自分の使っている寝室の掃除などしてしまったくらいです。
「材料が揃ったわよ」
クッキーを作る段になって、「お店はいいの?」と尋ねると、ルナお姉さんは笑って、「午前中だけ、弟に任せるわ」と言いました。
クッキーの生地をこねて、伸ばして、型でくり抜いて、デコレーションをして、その作業を繰り返すこと数十回。あとはオーブンで焼くだけ、というところまで進みました。
「ひっくり返さないようにね」
天板にくり抜いたクッキー生地を並べ、私はオーブンにそうっと入れました。扉を閉めて、つまみをひねります。
「あら……何の匂いかしら?」
居間でテレビを見ながら焼き上がるのを待っていると、何やら焦げ臭い匂いがして来ました。ルナお姉さんは首をひねりながら台所へ向かい、私もその後をついて行きました。
「まあ、大変」
オーブンを見て驚きました。黒い煙が立っているのです。ルナお姉さんは、慌ててオーブンを止め、扉を開けました。
クッキーのいくつかが真っ黒に焦げ、またいくつかは端が茶色くなっていました。うまく焼けなかった、としょげそうになる私に、ルナお姉さんはクッキーをかじってみせました。
「あら、香ばしくて美味しいじゃない。これはこれで成功よ」
ほら、と端が少し茶色くなったクッキーを渡されました。食べてみると、甘くて少しだけほろ苦い、けれど優しい味がしました。
「このオーブン、古いから、時間のさじ加減が難しいのよね。でも、よくできたじゃない」
ルナお姉さんに言われると、本当に大成功したように思えて来て、私は少しだけ笑うことができました。
ミネットに私が来てから一週間が経ち、家へ帰る日がやって来ました。ちょうどその日は、母の仕事の終わりと、祖母の退院が重なった日でした。少し日焼けした母と、少し痩せた祖母が、ミネットへ私を迎えに来ました。
「ママとおばあちゃんに、プレゼントがあるのよね?」
ルナお姉さんに促され、私はビニール袋にリボンを付けた包みを二つ、取り出しました。
「え?」
「おやおや」
二人は、目を丸くしました。アイシングクッキーが数個ずつ、その袋には入っていました。母への包みには「お仕事お疲れ様」と書かれたカード、祖母への包みには「退院おめでとう」と書かれたカードが、それぞれ添えてありました。
「クッキーなんて作れるようになったの?」
「ルナお姉さんに教わったのかい?」
すごいねえ、と祖母は私の頭を撫で、母は笑っていました。ルナお姉さんも、ニコニコとその様子を見守ってくれました。
母と祖母が帰って来てくれてよかった、と思うと同時に、ルナお姉さんに改めてお礼がしたくなりました。
「今度は、私がルナお姉さんにクッキーを焼いてあげるね」
私はそう約束して、家へ戻りました。
家に帰ってから、休みの日がやって来ると、早速私はクッキー作りに取り掛かりました。母と、祖母と、ルナお姉さんに――。ですが、そう思って作ると、やはり焦がしてしまいました。
後年、私が大人になってパリを離れるまで、ルナお姉さんとの交流は続きました。
結婚して子どもをもった今でも、大切な人に焼くクッキーは、必ず焦がしてしまうのです。